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カテゴリー: 西陣

  • 戦前・戦後の西陣着尺組合の回顧記

    戦前・戦後の西陣着尺組合の回顧記

    戦時体制による業界の変化

    昭和十二年七月に日華事変が始まり、翌十三年四月に国家総動員法が施行されて非常時にそなえる政治経済新体制が全面的に整備された。とくに西陣の織物に深刻な影響をあたえたものは公定価格の設定、生糸の配給統制、奢侈品等の製造販売禁止(七・七禁令)、企業統合、繊維製品の配給消費統制(衣料品の切符制)、指定品の生産割当などの相つぐ強行であった。そして昭和十六年十二月八日大東亜戦争に突入してからは、西陣業界の機構改革や企業経営の合理化がただ一途戦争目的の達成のためにいよいよ急激苛烈に推進された。

    ところが一方、この間の西陣着尺の生産高を見ると、昭和十二年以後一年ごとに生産数量も価額も増加の一途をたどり、昭和十六年のごときは前年の七・七禁令実施の反動もあって一五六万四千点、三〇四〇万九千点という未曽有の最高生産をしめした。緊迫した時局とは全く反対の現象であったが、その後にこれを回顧すると、斜陽の没する前の夕焼けの明るさにすぎなかったのである。

    着尺工業組合の企業統合

    その当時、業界を統括していた組織は現在のそれと同名称の西陣着尺織物工業組合であつたが、昭和十六年一月の組合員は五一七名、ほかに賃機業者が一八二四名あつて、その設備織機は総数六六八四台(力織機六五二三台、手機一六一台)であつた。同年九月企業経営の合理化のために統合が強行され、織機三〇台以上を基準として企業統合して、組合員数六四名となり、翌十七年八月さらに織機一〇〇台以上に基準を引き上げて三八の統合体(工業小組合三二、株式会社五、有限会社一)に再編成した。その組織員は自営業者五二五名で、そのほか賃機業者一三一四名があり、自営と賃機両業者の設備織機は総数五七九七台(力織機五五四四台、手機二五三台)であった。

    企業整備で八割が廃業

    昭和十八年戦局が不利になるとともに、労働力と金属資材を軍需生産に転用することを目的として戦力増強企業整備がおこなわれ、第一次(六月三十日)、第二次(九月三十日)、第三次(十一月三十日)の三回合計して人員において八〇・ニバーセントの転廃業、設備織機において七三・七パーセントの廃棄供出が実行された。その結果、着尺業界の最終的を残存操業者は工業小組合一二(組織員一六七名)と株式会社一で、その設備旅後は一四四六台であつた(ほかに京都織物=五三台、鐘淵工業㈱=二八台の両指定特殊会社があつた)。

    御召よりも銘仙や蚊帳

    昭和十五年一月生糸配給統制規則が実施され、従来自由に買入れ使用した生糸は配給機関より一定数量の割当をうけ、それ以上使用できないことになつた。また十七年一月繊維製品配給消費統制規則(衣料品の切符制)が公布されて自由販売が規制され、生糸の割当が減少した。それまで年々増加した西陣着尺の生産も昭和十六年をピークとして次第に減少したが、十八年には前記のとおりその年度中の企業整備により操業者数は一九・八パーセント、織機数は二六・三パーセントに激減したために原糸の割当数量は大幅に削減され、その年間生産数量は八〇万点(前年の五五・三パーセント)に、価額も単価の騰貴にかかわらず一九七二万円(前年の五九・五パーセントにそれぞれ減少した。駒撚紋お召二九万六千反、縞お召一一万七千反、絣お召八万七千反、駒撚縞お召七万七千反、無地平お召六万九千反などが主な生産であつた。

    昭和十九年はさらに一段と生産が減少して前年の二〇パーセント以下となり、普通生産のお召類は激減して大部分がこれまで織ったことのない銘仙、夜具地、蚊帳などの指定生産品であつた。

    着尺工業組合ついに解散す

    業者の企業整備が一応完了した後、昭和十八年七月商工各部門の統制機構を改革して戦時産業体制を整備するために商工組合法が実施された。それによる統制組合は都道府県を地区とするものであるが、例外的に京都は丹後と西陣に二つの統制組合が認められることになつた。それにしても西陣着尺織物工業組合と西陣織物工業組合は一つの統制組合に統合しなければならない。複雑困難な曲折があつた後、京都府の熱心な斡旋、というよりも時局の重圧のために両組合の諒解が成立して昭和十九年六月二十六日西陣織物統制組合の設立総会が西陣織物館で開催された。この第一次の西陣着尺織物工業組合は、昭和八年二月十一日、それまで西陣産地の単一組織であつた西陣織物同業組合(明治三十一年十月-昭和十三年三月)の着尺部が分離独立したのであるが、それから満十一年五ヵ月を経て昭和十九年七月十九日に解散、再び西陣単一の統制組合に合流することとなつた。

    着尺工業組合の事務所等の売却

    着尺工業組合は昭和十一年三月、五辻通浄福寺西入ル京都市立第二工業学校の敷地二〇四〇坪を買収、鉄筋コンクリート三階建本館(延べ五三一坪)のほか整理、地入および乾燥の各工場その他延べ九九一坪の大建築を翌十二年九月に竣工。着尺業者の殿堂として西陣織物館と比較して勝るとも劣らぬ堂々たる壮観を誇ったものである。その解散一年前、昭和十八年六月から工場の一部を改造して企業整備により廃業した組合員(賃機業者および従業員を含む)の職業転換と戦力増強のために航空機用螺子の製作補導所を開設した。京都府の援助と寺内製作所の協力によるものであつた。同年十二月着尺廃業者の出資により西陣航空螺子製作所(資本金五〇万円、 全額払込み)を設立。寺内社長の下に着尺廃業者の梅垣保次、島田勝次郎、小沢広三郎氏らが重役として参加し、 補導所を拡充してこれを本工場とし着尺廃業者の休止工場を転用して分工場とする方針で進んだ。その後、工業組合の解散が決定した時、その土地、建物、什器および組合が設備した螺子製作機具など一切を二〇〇万円で螺子製作所に売却してその金額を組合資産に繰入れ、清算残額はすべて組合員に配当した(ただ御召地貼交ぜ六曲屏風一双、額面六点、御召現反六点を組合解散記念として昭和十九年八月一日統制組合に寄贈した。しかし、それは昭和二十七年三十一日西陣着尺織物協同組合(現在の工業組合の前身)の懇請が認められて統制組合清算人から無償交付され、着尺会館に保管されている)。ちなみにその後西陣航空螺子製作所は終戦により存在意義をうしなつて解散。土地、建物は昭染化学工業㈱(現在の昭栄工業㈱)に売却された。現在、その本社となつている。こうして戦前の着尺工業組合は戦争の波に呑まれてしまった。戦前と現在の二つの西陣着尺織物工業組合は戦中戦後六年余りの中断期間があり、その準拠する法律は異なるけれども名称も目的も同じであり、また自他ともに現在の組合が戦前のそれの後継者であることを認めている。

    戦争末期の着尺の生産

    統制組合に合流した着尺業者は、それ以前の統合体の十二工業小組合を商工組合にもとづいて改組再編成した九つの施設組合(その着尺業者の組織員一六六名)と大建㈱であつて御召着尺の生産は技術保存織物として極少の特別許可があるだけ、戦時生活必需品として指定生産される銘仙、夜具地、蚊帳を織つてわずかに着尺業者の命脈をつないでいた。手工技術の保存のためとして、矢代仁が上代紬御召着尺、糸織着尺、縮み上布、上代袴地の製織を、千切屋㈱が西陣着尺の製織を日本美術及び工芸統制協会の承認をえて生糸の割当をうけたが、西陣着尺の優秀な伝統を保存するためには余りにもすくないものだつた。丹後や長浜の縮緬や西陣でも帯地業者などはこの技術保存のためにもつと有利な生産を認められていることを聞いて木村精一氏らが当局にたいして大いに運動したところ、昭和二十年度から着尺の残存業者一般にもその生産許可がおこなわれることになつた。しかし、 それ以前に八月十五日の終戦となつて、実現を見ないでしまった。昭和十九、二十年、戦争が末期に近づくにしたがって業界の混乱は経験者でなければ想像もつかないほど甚だしいものであつた。防空頭巾を背におうた戦斗と国民の人々は必ず会議の冒頭に英霊に感謝し戦勝を祈る国民儀礼をおこない、軍官当局の戦意高揚と個人の狂信的あるいは自棄的ともいえる虚勢のために表面は強がつたものの、みんなの心身は衰弱しきつていた。いかめしい甲冑を着せられた半死の大病人のようなものだった。衣食は生きる最低限の乏しさであり、全国の大中都市は用ついで爆撃された。西陣は南部の一隅に盲爆をうけただけで直接の空襲をまぬがれ、まだ幸せだつた。 一面に焼土と化した応仁の乱の破壊は見られなかった。

    後のヤミの時代

    国をあげて軍需生産に傾注していたのに、八月十五日を境界として軍需はびたりと中止した。一時かぎりの打ちきりではない、永久に軍需再開の見込みがない。軍艦も航空機も、大砲も火薬も全く必要がない。その代り当面の生活のためにも、将来の企業経営のためにも生活物資の生産がおこなわれなければならない。百八十度の方向転換とはこのことである。ところが、軍需を基調とした戦争経済体制は十年近い年月をかけて準備推進されてきた。突然の終戦の詔勅一つを号砲に、全国民がどつと一斉に民需生産への百八十度大転換にむかつて駆けだしたのである。混乱が起ったのは当然である。

    軍隊に召集され、軍需工場に働いた人々が西陣に帰ってきた。勝つまでは欲しがりませんと小さい子供たちまでが辛抱してきた衣食住その他の欲望が堰をきつて本能のままに爆発した。しかし、それを合理的に指導する行政が全く破綻しており、欲望を満たす物資が欠乏していた。この場合の行動を普通の尺度で計算してヤミとか違法とか責めるのはかえって不当である。西陣では大多数の人達がヤミ織機を組みたて、ヤミ糸を探しだして製織し、ヤミ商売をおこなった。

    西陣に痛かつた生糸の凍結命令

    終戦後間もなく、京都府商工課から(イ)西陣産業を復興して労務者十万余人の受入れ態勢を整えねばならぬ、(ロ)経済立国のためにも、戦勝国にたいする賠償のためにも西陣織物の生産を急に復興せよ。力織機を主として大増設を為すべし。京都府は如何なる援助でもする・・・との通知があつた。だが戦時中の権威をなくした統制組合にはそんな大事業をリードする実力はなかつたし、京都府の援助も被占領下の一地方庁の機能としてきわめて限られたものだった。残存業者も復帰業者も、だれもが占領軍は軍国を復興させる重工業は許さないという見通しを持ち、繊維などの平和産業に生きねばならぬと考えていたが、当面みな自分だけのためしか働かず、またそれ以上の余力もなかつた。加えて昭和二十年十二月三十一日商工・農林両省令が公布され、「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」にもとづき現在所有の生糸等数量報告とともにその現状保持の命令が告示された。生糸を所有する者は直ちに数量を報告し、その使用も売買も移動もしてはならないというのである。生糸の凍結命令であつた。生糸および組織物を輸出して食糧を輸入し、国民の餓死を救うために先ずその国内消費を規制することが必要で、これは正当な措置だったが絹を生命とする西陣にとっては首を絞められる苦痛であった。

    生糸の輸出増進に努力してみたが意外に不振で価格は下落した。やむなく一部は内需に消費せねばならなくなつた。二十一年七月輸出不適糸五万五千梱を国内放出し、また占領軍の経済科学局は手工織物業を育成するため手工業温存用として一千俵の生糸使用を許可した。西陣産地は第一回割当四一五七貫をうけた。全国割当の四割強を占め、終戦前の二十年度技術保存用割当数量の約六倍に相当した。着尺は手工業織物でないから織れないはずであるが木村精一氏らが御召の製造許可を熱心に懇請し、またエドガースやヘルチら米当局は輸出向として着尺の方にむしろ大きい関心を持つていたので御召や紬織が手工業織物と認められた。その生糸を購入できたのは二十二年一月であつた。ついで第二回の二十三年度分として三七〇一貫(全国の五割弱)の割当をうけ、四五一名(着尺は八〇名)が製織をおこなつた。実際に御召を織ることができたのは矢代仁と千切屋ぐらいのものだつたろうが、このために多数の人たちが織機を動かす口実をあたえられ、ヤミ製織がだんだん公然となつてきた。 また二十二年四月養蚕農家還元絹織物用として生糸一万二千俵が放出された。農賃織物といわれ、織機登録がなく、また原糸割当がない復帰業者の仕事として誠に有難いものだつた。

    復帰した転廃業者が西陣復興のリーダー

    行政秩序の混乱と原料資材の欠乏のために、正規の生産や配給にたよつているだけでは自分も家族も餓死するよりほかなかつた。そこから生れる本能的な生活意欲が西陣復興の原動力であり、織物に経験があつて最も意欲のたくましい復帰業者がそのリーダーであつた。遠近各地から中古織機やその部分品を買いあつめて設備し、手当り次第に着尺を織り帯を織った。なにか織物であれば、商売になつた。仲間がふえた。そのうち、これら復帰業者の間に新しい商工協同組合法により組合結成の気運がひろがつた。協同組合をつくり親組合の西陣織物工業協同組合(統制組合が新法により二十二年二月末協同組合に移行)に加入すれば形式だけでも合法的な織物業者になれる。経済警察や税務署の摘発を緩和することだけでも大いに有利だと考えた。西陣織物工業平和第一協同組合が米田駒太郎氏を理事長として結成されてから「西陣織物工業平和」を名乗る組合が続々と結成された。いずれも復帰業者を主軸とし百人以上の組合員を集めた。平和第四協同組合(岡本英一理事長)は着尺業者中心の組合であって、一時は六百数十名の組織員を包容したが、同業者の発言権を拡大するためにこれを適当員数の協同組合に分割して独立させ、それぞれ西陣織物工業協同組合に加入させた。このため親組合は組合員が増加し、 昭和二十二年末には戦時中からの残存業者の二十二協同組合(組織員九二七名)と単独組合員の十一会社のほかに新加入の二十二協同組合(組織員一五二八名)と単独の九会社で総数六十四組合員となつた。その後も新規加入者がふえ、二十三年三月には親組合の理事を二名増員させ、新加人組合側の米田駒太郎、山県武雄両理事長がこれに就任するほどの勢力となつた。

    なお織機登録については、力織機一〇七九台が二十二年十月まで新規登録を承認され、手織機一五、七二八台が二十二年末に登録復活してそれまで登録織機を持たなかった復帰業者も登録の配分をうけることができた。 こうして終戦後復帰した業者も、多数が完全に正規操業の資格を獲得し、西陣織物業の復興は昭和二十三年から正しい軌道にのって円滑に進行しはじめた。

    戦時体制の解除と平行して統制組合から協同組合へ

    以上に記述したように昭和二十年八月十五日正午の終戦によつて世の中は一変した。極言すると、午前中は軍国の一員として戦力増強のために働いた人たちは午後には全く自由な個人となつて自分自身の生きるためにのみ行動したのである。もちろん進駐してきた連合軍の行政は戦時体制の解消と平和国家の再建を目指して推進された。そこに、いわば新々体制の確立があつた。

    昭和二十一年十二月一日施工協同組合法が施行されて、二十二年二月末日で統制組合は解消し、施設組合はそれまでに新法による同組合に移行する手続きを完了することが必要となつた。これより先きに、統制組合は戦争協力の好ましからざる機構であるために廃止と同時にその財産は没収されるとの風評が伝わったので、西陣織物統制組合は財産保存のために組合員全員を以て西陣織物施設組合を設立(二十一年十月九日登記完了)し統制組合の全財産をこれに寄附譲渡したのである。そしてこの新施設組合も旧統制組合傘下の各施設組合同様の手続きで昭和二十二年二月二十八日(京都府認可)西陣織物工業協同組合に移行することができた。

    着尺業者たちも統制組合時代の施設組合を協合組合に変更して引き続き親組合たるこの新しい協同組合の組合員としてとどまった。そのほか廃業者や新規開業者などが続々と協同組合を新設してこの西陣織物工業協同組合に加入してきたこと、また彼らも新たに織機の登録をうけ正規の業者たる資格を獲得するに至ったことは前に記述した通りである。

    業界の発展と団結心の衰退

    業者が増加し設備が充実して、業界が発展するにしたがいそれに対応した組織改革とか新旧勢力の対立などと関連して業界内部に経済的あるいは感情的な種々のトラブルが生じる。いわんや、政治・経済・生活の全面において新々体制発展の途上にあつて基盤が動揺している時代であるから、些細な問題一つでも大きな波乱の原因となることが少なくなかつた。戦争のため長い間忍耐をかさねてきた人たちが予期しない敗戦をみ、いよいよ激しい生活苦になやまされて、やり場のない憤懣を自分の周囲に投げつけるのである。ワンマンの存在は許されない。みんなが互いに不満をぶつけあうばかりである。業界の団体行動が円滑に進まないのも当然であつた。昭和二十三年に激化するインフレを抑えるために経済再建九原則の強行がはじまつた。翌二十四年五、六月には生糸および絹製品の統制が撤廃されて統制あるために繁栄した一部の業者に致命的な打撃をあたえた。また同年八月シャウブ博士が税制改革とくに高率(従価四割)の織物消費税の減税と廃止を勧告してからは脱税が多くなり、先きゆきを予想して織物の値下がりがつづいた。繊維統制があつて原糸の割当をうけるために、織物消費税があつて納税手続きの便宜をうけるために業者は協同組合員であることが必要であつた。統制と消費税が廃止され、特権をなくした組合に組合経費を負担して加入している必要はない。同時に組合側は割当手数料や徴税事務交付金などの収入源をうしない、主として組合員にたいする分賦金に依存せればならない。組合の魅力はうすれ権威はなくなるのだ。もともと、ここ十年の間、戦時体制のなかで、組合は統制事業にだけ力をいれ、業界の自主的な共同事業を第二義的にみていたので組合員が協同精神の真価を忘れてしまったのも無理ではなかった。その折二十四年六月一日、中小企業等協同組合法が公布され、従来の協同組合は翌二十五年二月末日までに新法による事業協同組合に移行せればならなくなった。しかし西陣織物工業協同組合は実質的には協同組合の連合会であつたためにそのまま移行することができず、たとい形式だけ移行しても運営してゆくことが不可能だということが明らかになつた。基盤たる業界の複雑さと自由化を目的とする法令の改正の板ばさみにあつて、従来の西陣産地の組織機構は崩壊の危機に直面した。 

    混沌のなかから着尺組合の誕生

    昭和二十五年になつて西陣織物工業協同組合の解散時期が近ずいても、その後の新組織について適当な成案が得られなかった。かえって組合職員の整理や退職金問題にからむ役員と職員間の紛糾が悪化して、この重大な時期に組合事務が渋滞し、組合内部から自爆の危険が生じた。このため、なんら為すところなく二月二十八日の法定期限を経過して三月一日解散、清算にはいることになった。親組合はこうして行きづまつたが、傘下の各協同組合はそれぞれ新法にもとづいて事業協同組合の設立手続きを進め、五十組合を超えるにいたつた。また対外交渉のためにも西陣を代表する統一組織が必要であつた。この情勢に圧されて、組合連合会の設立がいそがれ、四月二十日設立同意者四十七組合が出席して西陣織物商工協同組合連合会の創立総会をひらいた。

    しかし、この連合会にたいする会員の熱意はきわめて冷淡なもので、創立後二ヵ月を経過した六月末にかいても出資払込みをなしたるものは三十七であつた。法の規定により事業協同組合の組合員は従業員百名以下の中小企業にかぎられたので、有力な大機屋は連合会に関係することができなかった。また会員たる各事業協同組合も組織員数の多少や生産実力の優劣など大幅の相違があり、その組織員の異動がはげしかつた。連合会は名称と形体に相当する内容が伴わず、業者自身がその団結に信頼をおかなかつた。

    他方、着尺業者は昭和十九年の統制組合以来、他種業者と合流して同一の傘下にあつたが、終戦後は前述の通り急に組合(いわゆる小組合)の数がふえ、その組合の組織員はさらに一層急速に増加した。各組合の理事長は同志相集まり、しばしば会合していたが、親組合の内紛、同業者の不満と動揺が大きくなるにつれて会合が頻繁になり、「着尺会」を結成して形体を整えることになった。やがて組合理事長だけにかぎらず、有志希望者の参加を認めて会合を重ね、種々の問題を協議しているうちに、次第に業界組織化の機運が濃厚になってきた。

    着尺組合の結成と着尺会館の獲得

    着尺会が基礎となった着尺業者の集まりが次第に大きくなるにつれて、会合の度ごとに着尺だけの単一綜合組合が必要だという考えが有力になつてきた。着尺会をはじめた小組合理事長たちや戦争中からの残存業者よりも復帰した新規業者の方が人数も多く意欲も盛んで、この主張をリードした。親組合は帯地業者が主軸で着尺、ビロード、金襴その他の寄合い世帯であり、協同組合から協同組合連合会に改組して以来、いよいよ内部の紛糾がはげしくなり弱体化の一途をたどつて、ほとんど有名無実の形骸にひとしい存在になつていた。この行づまりが団結かたかつた戦前の着尺工業組合の記憶をよみがえらせ、彼らを発奮させたのである。

    昭和二十五年七月二日、嵯峨の嵐峡館で会合。中小企業等協同組合法にもとづく西陣着尺織物協同組合の設立を決定し、実行委員を選任して創立準備をすすめることになつた。従来の各協同組合を解消、個々の業者が直接に組合員となつて単一組合を設立することを着尺業界全体に呼びかけた。九月四日、一三〇名の同意者をえて西陣織物館で創立総会をひらき、その後続々と加入者がふえて二二〇名となり十月十二日発会式を織物館でおこなつた。その時蜷川京都府知事から「ここまでは誰れでもやる。これからの運営がむつかしい。折詰総会だけの組合にならないで、協同組合本来の精神にもとづく立派な組合にみんなの協力で育ててもらいたい・・・・・・・」との激励があった。事務所は織物館に設置し、本館の二階、現在の談話室の西の六坪ばかりの小部屋を使ったが、その後、旧西陣織物工業協同組合清算人の好意で現在の土地並びに旧建物を入手、十二月二十九日これに移転して着尺会館と命名した。

    (本組合結成までの業界展望(西陣着尺織物工業組合、昭和45年)より転載。)

  • 前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    西陣織物館記を本ブログでは何度か紹介させていただいていますが、すでに掲載している部分に、少し気になる部分がありました。

    編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。

    筆者前職の関係から、西陣の風紀についてはよく知っているといいます。また別のページには、このような記述があります。

    長谷川組長が編者を西陣の組合へ就職するよう、再三勧めに来宅せられたので、編者は、此事を旧知の西陣通の新聞記者、川端堪然に話した処、「長谷市が何と謂をうと、西陣の組合では、如何程気張って功績を立ててやつても、其れが解る者は居ない。(略)君なぞ馬鹿々々しくて、続く筈が無い。あかんから止めとけ」と謂った。此事を長谷川組長に話した処、「今日の西陣組合は、京都商工会議所よりも、経済状態が安定して居って、(略)貴殿は唯私の代理として、無任所大臣で渉外に当り、西陣の内情に慣れて、次の時代に処して貰いたいと思うて居る」と答えた。其時に前記の見解を述べて此組合財産をも安全に守って呉れる人が必要であると付加えたのであるから、絶対に忘れようとしても忘れ得られないものである。

    前田氏が一般の人とは異なる立場にある人間なのは間違いないです。では前田氏はいったい何者でしょうか。

    前田氏の前職

    前述の引用に、このような文言がありました。

    編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから

    西陣周辺で働いているが、西陣機業に直接かかわってきたわけではないのでしょう。さらに新聞記者と旧知の仲にあり、長谷川市三氏とも縁があるとなると、一般の従業員でないのは間違いありません。

    この時点である程度どんな仕事をしていたか見当がつくような気もします。ありえそうなのは、京都府・京都市などの行政、新聞記者と旧知の仲にあるというから京都新聞などの新聞社、あとは金融機関あたりでしょうか。何にせよ、産業機構については素人と言っているのだから、西陣機業の中心──織屋、貸機、出機、糸屋、染屋、整経屋、機料品屋とか──にいなかったのは間違いないでしょう。

    人間のネットワークから探れることは多い

    前田氏の性格

    さらに考察の材料を求めて、さらに他の史料も見てみましょう。

    抑々も清算組合が事ここに至りましたのは、前田氏の性格が然らしめて言動文筆に現はれそれがため旧組合員初め西陣織物工業組合役員並に組合員の方々の感情を害し或は御迷惑をお掛けするに至ったものと観察するのであります。

    然し前田氏の是等の行動も西陣の将来のため、又組合財産を忠実に保護する熱意に外ならぬのでありますが、遺憾ながらその熱意の表現のしかたが気毒な性格のために誤ったにすぎないのであることを御憫察願いたいのであります。

    前田氏は組合を思い、忠実であればこそ石崎数太郎氏に関する件で永年間富士銀行西陣支店との間に独軍奮闘した結果中立売通智恵光院所在の巨額な土地が組合財産となったのであります。(略)(財団法人西陣織物館記、当時の従業員の陳情書より)

    従業員から慕われていた様子はここからうかがえます。(ちなみにこの中立売土地については、西陣織会館竣工の折に売却されています)

    前田氏の発言も見てみましょう。以下は前田氏が清算人を解任されたときの発言です。

    長年清算人をやりその前は理事であった。私は理事の間でも清算人になっても、その資格による報酬は一厘たりとももらっていない。また他の理事諸君は半期の賞与をもらったけれども私はそれももらっていない。また特別に役職手当も何も今日までもらっていない。つまり清算人であるけれども実は書記長であり、単なる一職員にしか過ぎない。ちっとも有難いものではなかった。

    逆にいろんな苦労を私が負うたので、最後の弁済であろうと、税金の督促であろうと私が受けてきた。私は当初からそうは考えていなかった。

    私は外部に対しては清算人としてその方が便利なときにはそうした。

    内部に対しては清算人としてよりも自分の我をはったわけではないが、しかし清算人の決議は守らねばならぬから守っていた。

    いままでもやめたかった。然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない。私が気にいらんことを言うておっても、 結局は自分のものになるわけではないのだから、またひとつは戦時中及び前の長谷川市三とかその輩下の遺言もあったりで、それに対して遵法せんならんものと思い遵法してきた。これが財産が一物も減らないといったところで、 我々が死んでしまえばしまいであるのと同じように、しょせん私たちは退職しなければならない職員である。だからやめろと言われればそれで結構であるが、私は希望して清算人になったのではなく、選挙されてなったのである。 だから清算人は裁判所の法規の規定によってなったのだから、裁判所にお出しになって裁判所が承諾すれば異議は申さない。

    この我を張らず、あくまで粛々と、信念をもって業務を遂行する姿をみると、行政の人間のような気がします。金融機関や新聞社にそういうタイプの人間はあまりいないような。

    西陣織物館記を読むに、前田氏はあくまで財産の保全を目的としていて、反面織屋の知的能力には全く期待していなかったようです。今はともかく昔の西陣は、大部分学歴がなかったことが知られており(小卒がほとんどで学歴に乏しく、娯楽についても、一時的快楽に逃れがちだったことは、京都二商の「西陣読本」にも記載がある)、その様子を見ている前田氏の判断は、正しい判断だったと思います。仮に前田氏が財産を保全していなかったら、西陣の財産は霧散し、現在の西陣織会館は影も形もなかったでしょう。

    現在の西陣織物館(京都市考古資料館)

    職員録にあたる

    さて、前田氏がかつて行政の人間だったと決め打ちすると、京都府の職員録を当たってみるのが筋です。京都府総合資料館に蔵書があるようですから、行って調べてみたら、以下の職員録に氏の名前がありました。

    七条警察署 警部 前田達三(大正12年職員録)

    監督課 嘱警部建築監督官補 前田達三(上京、荒神口、河原町西担当)
    (大正15年職員録)

    北野消防署 消防士 署長兼警部 前田達三(昭和2年~昭和5年職員録) 

    やはり前田氏は行政の人間でした

    昭和13年に組合就任ですから、その前年まですべて職員録を確認しましたが、氏の名前はありませんでした。当時の行政の異動の状況や制度についてはわかりませんが、京都府外に行ったか他の仕事に転職したかでしょう。単に無職だった可能性も、なくはないです。(長谷川氏が訪ねてくるくらいですから、その場合も何かしらの仕事はしていたと想像します)

    それにしても警察出身とは、盲点だったと感じざるを得ません。西陣を担当する京都府の部署といえば、商工部とか労働部(今は合併して、商工労働観光部になっている)だから、そのあたりかと思ったのですが。

    確かに前田氏の正義感の強さ、遵法意識、「西陣の風紀についてはよく知っていても」の文言、西陣人に対する(遵法意識の点での)不信……を勘案すると、なるほど確かに、すべてが伏線だったように思えます。

    京都府庁(https://www.pref.kyoto.jp/qhonkan/より)

    前田氏の年齢

    さて先ほど調べた職員録、大正12年から記載があったのも意外ですが、初出の時点で警部ということは、中級官吏の試験にパスしていたと推察できます。

    前田氏が何歳くらいか、わからないですが、大正12年で働いているなら確実に生まれは明治です。前田氏の書きぶりと、警部の役職から見るに、高校までは出ているでしょう。京都の地方中級官吏になっているあたり、間違いないと思います。

    前田氏が文献から消えるのが昭和47年あたりなことを踏まえると、明治36年あたりに生まれ、20歳くらいで高校卒業、官吏になり、35で西陣織物工業組合就任、69で清算人から除名と考えると、かなりありうる線に思えます。なおgoogle先生によると、戦前警察の中級官吏は、警部がスタートだったとのこと。

    まとめ

    つらつらと書き連ねてきましたが、ようやく前田氏がどんな人物か見えてきました

    • 前田氏は行政出身で、その中でも警察の出身である。
    • 昭和5年以降の足取りは不明だが、おそらくは西陣周辺にとどまっていた。
    • 高校卒業程度の学歴があり、西陣の財産保全について、織屋集団には任せておけないと考えていた。
    • 長谷川元組長の遺言等を守って、70歳近くまで西陣に生涯を捧げた。

    前田氏は今の組合の各種記録では、我欲で清算を邪魔して自分のものにしようとしているのだとか、散々な書かれ方をしています。が、このように種々調べてみると見え方も変わってきます。前田氏の各種行動は、織屋の見識に対する不信に端を発するもので、「然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない」と前田氏が言ったのも、完全に本心だと思います。

    私のこの記事を端緒に、前田氏の名誉が回復され、正当に評価されるようになると幸いです。

  • 学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    京都は学生の街と言われます。「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」との有名な句はそれについて読まれたものであり、京都を離れる学生の郷愁を表している、とされます。(ちょっと調べた感じ、このブログが端的に表現されていてよかったです)

    鴨川は京都の青春の象徴とされる。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47728320U9A720C1AA1P00/より引用

    学生と社会人について、京都でよく言われるとされ、実際に僕も言われたのは「京都では学生さん、社会人と呼び分けんねん。学生は『学生さん』でお客さんやけど、『社会人』は違って、『さん』がつかない」この文句である。

    これは京都の持つ多面性をよく表していると思います。他の都市と同様、京都も広く大きい。学生程度が把握しきれるほど浅い町ではないことはご承知置き頂きたいと思います。だから「京都は学生の街」との一面的な理解は捨てて、大人になって、出世してからまた来てもらえば、また違った側面をご覧いただけるでしょう。

    一都市として見る京都の姿は、さすがと息をのまざるを得ません。大人の京都の面白さについては、僕がブログで紹介しているような歴史を始めとして、美術・工芸・歴史・宗教・文学・建築・商業・工業等々と多岐にわたり、語りつくせるものでもないし、そもそも僕では力不足すぎることを承知の上で、あえて簡単に説明してみます。

    1.歴史

    これは言うまでもありません。が、深入りするのに一番敷居が高いのがこれかもしれません。京都は1200年の歴史があるだけあって、歩くだけで楽しめる街でもあります。知識に対するリターンが一番大きくなる街といってもいいかもしれません。深い知識を入れようと思ったら、相応に骨が折れますが。

    基礎知識として入れておくといいのは、平安京の町割りです。これと、これの周辺知識を多少入れておくだけで、他の吸収率がずいぶん違うと思います。京都の歴史本は無限にありますから、あとは好きなものを読んで、好きなところを歩けばいいでしょう。これで京都を楽しみ放題です。

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    2.食事

    第二は食事です。京都は出汁が美味しいです。出汁以外も結構おいしいが(肉の調理とか)、結局のところ、京料理のおいしさの8割は出汁のおいしさです。

    お出汁の写真。https://odashi.co.jp/household-use-dashi/より引用

    京料理の本領は懐石といわれますし、もちろん値が張るだけあっておいしいです。懐石でおすすめの店を挙げるとすると、上七軒のおかもと紅梅庵とか、富小路六角下がるの要庵西富家西陣郵便局の裏の西陣魚新とかだろうか?特に要庵西富家は本当においしいと思います。懐石の相場は、安くて1万円程度、高くて8万とかだと思うが、その中で一人4万円程度なのは安いといえば安いと思います。隣のやま岸より安いですし。

    要庵西富家のホームページ。料理がおいしいのはもちろん、宿としても一流で素晴らしい

    なお、懐石は本当にピンキリです。例えば5,000円~6,000円くらいの懐石(?)は外れが多いので注意が必要です。あと海鮮は正直東京の方がおいしいです。

    3.工芸

    京都は工芸の都です。元禄時代に頂点を迎えた京都の工芸は、今でも日本の諸技芸の本場であって、いくらでもこだわりたい諸兄にはピッタリです。これは過去にも引用したけれども、

    京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり。(ケンぺル「日本誌」)

    なのです。

    西陣織にも多くの品種がある。最高級品だけあって当然意匠・風合いともに素晴らしいものが多いのだが、ピンキリでもある分相場が形成されづらく、買うのが難しい側面もある

    きものが好きな人なら室町・西陣を訪問したいと思う人もいると思いますが、きものを深掘りするのは結構難しいから、僕に連絡するか、他に探すかするといいと思う。
    ともかくどこかの小売店・問屋・メーカーの上客になるか、その道に就職するかのどちらかしかありません。これは呉服に限った話ではありませんが。

    焼き物ならいわゆる京焼ですが、焼物なら五条坂周辺の店がいいでしょう。小売店なら竹虎堂朝日堂あたりがおすすめかもしれません。陶磁器会館もいいです。それと、夏くらいにはメーカーが販売会をしていますから、このタイミングで買うのもいいでしょう。前は私もたまに買いに行っていました。

    (懇意にしている小売店の人にメーカーの販売会の話をしたら微妙な顔をされましたから、そういうことなのでしょう。メーカーと流通の関係は何処の業界も変わりませんね)

    陶磁器会館の写真。http://kyototoujikikaikan.or.jp/guide/access/より引用

    とにかくこの街は、一定程度までは来るもの拒まず・去る者追わずですが、仕事をするにあたっては、キッチリ腰を据えて取り組まなければなりません。舐めた仕事をしては駄目です。ツイッターでは「モラトリアムの具現化」などと面白い評価をされていますが、学生に限った話なのは言うまでもありません。

    おまけ

    さて、本ブログの主要な題材は西陣・西陣織、あるいは室町も含めた染織産業の歴史である。そして西陣の歴史で一番面白いのは、明治から昭和までの組合史だと思います。せっかくなので今回は、かつて西陣にあった広報誌「西陣織たより」第一号(昭和26年発行)に載っていた文章を掲載しておく。ここに出てくる「西陣織物同業会」とは現在の組合の直接の前身である。

    西陣織物館の写真

    西陣と金融

    第一銀行西陣支店 支店長 加藤光一

    わが西陣に機業界を代表し業者の總意を結集し、業界の進步發展の爲めに必要な事業を行う機關が存在しなかつたと云うことは、洵に不思議なことでありましたが、此の度西陣織物同業會が設立の準備を完了し、菊花薫る仲秋の佳日に新發足せられましたことは、真に御同慶に堪えないところであります。多くの困難を排除して此處まで事を運ばれた理事者各位の勇氣と御苦心に對し、またさしあたり經濟的な利益の期待出来ない同業會に卒先參加せられた會員各位の熱意に對し、深甚の敬意を表する次第であります。

    西陣は千年の歴史を有する我国最古の機業地であり、傳統の精巧な技術を有し、製品は帶地、着尺、金欄、ビロー ド、廣巾織物等多種多様に亙ること、生糸は元より人絹、 化纖、毛糸、麻糸、綿糸等あらゆる繊維が原料として使用せられていること、生產行程が極度に分業化せられ、此の分化された業種毎に多数の業者、多様の業態の存在すること等内地の機業地に比較し得るものがありません。

    由來產業と金融は車の兩輪の如きものでありまして、上記のような機業地としての特色は自ら金融の面に於ても幾多の特異な様相を呈することとなるわけであります。西陣の金融に関与している機関には、銀行、信用金庫、商工中金、無尽会社等本来の金融機関の他に生糸商、買継商(所謂上仲買)、室町筋の問屋(所謂下仲買)或は府市の直接又屋、糶市(せりいち)等迄時と場合によっては相当の役割を果しております。

    銀行について簡單に申しますと、西陣の中心、同業会の事務所のあります今出川大宮界隈に軒をつらねる銀行が八行九店舗、之に一信用金庫が加わって十店舗で土曜會と云う連絡機關をつくつて居ります。此の土曜会メンバーの銀行の預金は二二一二億、貸金は一七一八億位と推定せられるのでありまして貸出の約八割は機業とその関連産業に対するものであります。貸出よりも預金の方が多いようでありますが、西陣の機業に闘する限りでは貸出は預金を可なり上廻り所謂オーバー・ローンの形になつていることは明かであります。右の土曜會メンバーの銀行の他に廣く西陣地區には、銀行の店舗が一〇、信用金庫の店舗が四、無尽会社の営業所が数ヶ所ありまして之が直接間接に機業の金融にたづさわっているわけで、一機業地にかくの如く多種多数の金融機関の営業所を有しているところは何処にもありません。

    よく局外の人は西陣は古い、あらゆる面でもつと新しくならなければいけないと無責任に言つてのけますが、西陣は千年の風雪に耐えて今日の形態にたどりついたものであり、今日の西陣は一見複雑怪奇で、舊套依然たるものがあるようにみえますが、また新興の機業地に見られない強靭な底力があって、今迄幾度か西陣の危機を叫ばれながら立派にそれを乗り切つて生き抜いて来、今日内地の機業地の中にあって尤も健全なものに数えられているのには、それ相当の理由がなければなりません。元より新しい時代の威覺をとり入れ、現状を改善して行く工夫努力を怠ってはなりませんが、それかと言つて傳統を忘れ一塁に革命的な改革を行うことは、角を矯めて牛を殺す愚に均しいのではないでしようか。西陣の機業と金融は車の兩輪の如くどちらが進みすぎても遅れすぎてもいけない。同じ速度で着實に前進することこそ西陣を健全に發展に向わせる原動力と信じるのであります。

    (太字部分のみ新字に直した)

  • 西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して(京都市長 高山義三)

    本日ここに着尺組合を除く他の西陣織物業者がうって一丸とする西陣織物同業会が結束せられましたことに対しまして私は心から喜びの言葉を述べる次第であります。私は余りこの織物のことは知らぬのであります。

    もともと育ちが弁護士でありまして、ぼちぼちこれから勉強しようと思っているのでありますが、夕べ私は太秦のお祭りに行きました。そうして牛の出るのを待っていた間にお茶が出ましてそこでお茶を飲んでいた時に隣にいたおじいさんが盛んに京都の事を罵倒している、私はそれを横で知らん顔をしてそれとはなく聞いていたのでありますが、なかなかの辛辣な批判をしておったのですがその中にこういうことを言っていた。京都の金持ちは皆人を泣かして金持ちになっているのだ、中京の金持ちはみな織物屋を泣かしているのだというのです。彼等の財産はなんびきぶびきで作っているのだ。なんびきぶびきというのは皆さん一寸おわかりにならぬと思います。

    実は私もよくわからなかった、併しよく聞いてみるとなんびきとは皆さんの製品に難を色々とつけてやっていく、ぶびきとは一応ついている値段を見てからどんどん安くたたいて何歩か引いて買う、つまり難くせをつけて何歩かたたいて引いて貰ってから買うというのです。私は織屋自体が団結しておれば決してこのようなことは起らないのではないかと思います、ばらばらになってつまらぬ事でお互が競争し始めるから其処にすきが出来る。そのすきに突きこまれるのであります。

    私は労働者の場合でも同じことが言えるのではないかと思うのでありますが、労力を売ろうとすると資本家はこれをたたいて買おうとする。そうするとうまくいかない。それで組合を作って運営していくと正当な利益が相互に生まれうまく行く、其の意味に於きまして私は組合が出来るのが遅かったのではないかと思います。

    大体まあ京都という所は、私もまあ京都人でありますが、どうもこの協同的な仕事をするのはむずかしい所ではないかと思います。甲が右向くと乙が左向く、会合を開いてみても其の時はだまっている。賛成なんだなと思っていると後から反対なんだと言い出す。なかなか一つの事を纏めてこれを行うということはむずかしい。併しそれにも拘らず西陣同業会が誕生し着尺組合と相提携して一つの西陣業界の力とな る組合が出来たということはまことに結構な喜ばしいことだと思います。

    西陣には伝統がある。長年続いてまいりました輝しい伝統がある。併しこの伝統というものはプラスする時とマイナスする場合がある、つまり親しい人がこれをやって来たのだから我々はこれを失しなわないように伝統を守って行けば好いのだ。という場合には伝統は明きらかにマイナスしたものを与えている。現状維持、現状から一步も出ないということは明きらかにマイナスであります。

    私はアメリカへ行きましてつくづく感じましたことは、これはもう帰国致しましてからしばしば皆さんに機会ある毎に申し上げているのですが、アメリカは午前十時の国である、 今アメリカの国は午前十時だということを言っております。アメリカは資本主義が行き詰ってもうこれ以上繁栄していけないのではないかという人がありますが、私はそうではないと思います。いやアメリカは依然として午前十時の国であるということを言って来たのですが。

    (一方で)西陣には伝統がある、この伝統は一つのプラスになる。併し伝統によってこれを再検討することなく又反省して改善し常に一步一歩進んで行くという努力をしなければ、西陣業界は発展して行かぬと思います。アメリカでもたえずこれで好いのか改善すべきところはないかと創意工夫を怠ることなく歩ゆんで行っております。反省し改善して行くところに進歩あり。どうか伝統をいかすところに西陣の発展する途があるのではないかと思います。甚だ簡単ではございますが一言申し上げまして本日の祝辞と致します。

  • 西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣物産会社消滅とその後の京都府辞令

    前回はこちら

    古来より西陣は織物の産地であるといい、あたかも一般製造業とは種別が異なるものであるように見えるといえども。一歩引いてみれば、その実態は一般製造業と大して変わりません。

    明治前半まで活躍した紋織用織機「空引機」を使用している様子。西陣呼称500年記念事業で復元され、555年記念事業で再び使われるようになった

    伝統工芸品として有名な西陣織の産地・西陣は、糸や染料、織法等々と、コスト意識の高い他産地とは一線を画す製造技法を持ってはいます。しかし結局は製造原価があり、卸値(下代)があり、その先の小売価格(上代)があります。西陣に限らず、商売に長けた販売業者が売る側より立場が強くなるのは、世の常であるといえます。

    西陣物産会社が自然消滅して数年後、明治10年に、京都府から辞令が下りました。

    当府下西陣織物之義は、古来連綿し名誉海内に冠たり、維新後益盛んに行われ、随って機数も又往年に倍数せしに乗し、 一時の流行に甘んじ眼前の小利に迷い争って、粗悪の品を濫製し甚しきに至っては、擬色綿糸入等の品を以て正品に相混ぜ、世人を眩惑し、其為め正品の名誉を失貶せしめ、終に物品も不揃にて土地衰微に陥り、今日の景況或は糊口を凌ぎかね候う輩少からず、嘆く可き事也。依て織工及仲買商等、衆議の上取締の為め上京八区智恵光院一条上ル橋町に織物会所開設し品物を検査し濫製の悪弊を一洗し、世人の信用を保全せんが為め製品に証紙貼用の方法を設け、西陣織の名称を以て織物販売する諸織工及仲買共へは一般免許鑑札を下渡す。(中略)
    但し本文の通り施行申付け侯上は、来る十一月一日以後無証紙の品は不正の品と見做し、規則中第六条の通り取り計らうべき儀に付き、兼て商家に買置き候品共、十月三十一日限り検査を受け証紙を貼用致すべき事
    明治十年九月八日 京都府知事 槇村正直

    すなわち西陣物産会社に代わる、西陣織物会所の設立辞令です。要約すると、
    ・粗製乱造が問題になり、商売に影響が出ている
    ・西陣織の信用を回復するため、西陣織物会所を設立すべし
    ・西陣織物会所は、織屋・仲買商ともに、製品検査・証紙貼用を徹底させるべし
    ・職工及び仲買商は免許制を取る

    ことが言い渡されました。

    明治の初めごろは明治維新・東京奠都で西陣が衰退するのではないかと思われていたのが、明治10年ごろにはすっかり杞憂となりました。むしろ庶民の服装が自由になったこと、女性の外出・交際の場面が広がったことから、豪華な織物を織り出す西陣織物の需要は増し、特に帯地・着尺御召※1・繻子※2で活況を呈しました。

    その好況を受け、数千軒を数える西陣織屋の中には、正絹と称して綿を使用したり、退色が激しい擬色錦糸を使用したりと、粗悪品を製造する所が現れてきました。西陣織物会所設立の辞令が下ったのは、こうした背景があるといえます。

    ※1 「西陣お召」で有名な、強く撚りをかけて丈夫さを増した横糸「御召緯(おめしぬき)」を使用した高級きもの用生地。11代将軍徳川家斉が好んだことからこの名前がある。現在は「西陣きもの会」が商標を実質管理している。
    ※2 スーツやパーティードレスの裏地などによく使われる、さらさらとした生地。サテンとも呼ばれる。光沢が華やかさや高級感を演出する。平織・綾織(斜文織)と並ぶ三原組織の一つ。

    西陣織物会所の組織機構と仲買商

    前回の西陣物産会社で、織屋を専門ごとに18社に分けたことが業務の複雑化を招いたとの反省がありました。そのため今回設立された織物会所では、8社にまとめられることとなりました。※1

    西陣織物の品質改善が開設の眼目であったため、良品を仕入れて販売するのが生業の仲買商も、織物会所の設立にかかわることとなりました。仲買商は地域別に5組に分けられ、それぞれ仁組・義組・礼組・智組・信組と名付けられました。※2

    こうした組み分けに従い、役員は選挙で選ばれ、京都府勧業課によって開票・任命を受ける仕組みであったようです。役員は取締役と呼ばれました。

    仲買商よりも織屋の方が断然多く、したがって票数も織屋の方が断然多いにもかかわらず、歴代取締役のうち、4分の3は仲買商となる結果になりました。これは従前より、織屋より仲買商の方が商慣行上、立場が強かったことに加え、資力に勝れる仲買商が、言ってみれば金に物を言わせて、当選を勝ち取ったのではないかと推測されます。
    後の時代の西陣織物業組合、織物製造業組合、織物同業組合等々の組長選挙でも、買収・賄賂何でもありの伝統があったようです。

    織物会所で設けられた織屋の8社(8部会)には、西陣物産会社同様、それぞれ3名の肝煎(役員)が置かれました。その中には、佐々木清七、喜多川平八、人見勘助など、のちにも名前を残している人も見えます。

    なお組合事務所は、上京区智恵光院通一条上ル橘町に置かれました。この場所は西陣最大の席貸し料理店で、広く見事な庭園を備えた木造二階建ての建物だったようですが、経営困難に陥り、この会所に借り入れられたものであった、と記録にあります。専用の組合事務所を持ったのはこの時が初めてで、この建物こそが西陣織物館の先祖といえます。

    現在、この場所は公園になっています。ネットがあって野球等の球技ができ、結構広いので、小学生の憩いの場として大いに活用されています。

    現在の織物会所事務所跡。橘公園

    ※1 紋織社、生紋社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社
    ※2 仁・義・礼は上仲買、智・信は下仲買の者がまとめられました。上仲買とは産地の近くで織元から買い付け、下仲買に流す業者で、下仲買はおおむね上仲買から買い付け、全国に流す業者です。なお初代筆頭の名前を見ると、礼組に矢代仁の矢代庄兵衛が、信組に千治の西村治兵衛が見えます。

    さて、織物会所がどのような組織かはわかりました。では中心となる証紙事業とは、どのようなものだったのでしょうか?

    証紙事業の始まりと西陣織物の信用回復

    当時使用された証紙。西陣織物館記より

    織物会所の設立理由は、粗製乱造を問題視した京都府からの厳命であったので、粗悪品と正品を見分けて分別するのが組合事業の中心だったと言って差し支えないでしょう。分別した結果を示すのが証紙であり、この証紙事業は、細かい部分は変わりつつも、現在の西陣織工業組合にも引き継がれています。

    織物会所で行われた証紙事業は、西陣織屋すべてが製品検査を受け、正品・錦緯・擬色に3分し、製造元の名前を記した証紙を貼用するものでした。密告の義務があり、製造元たる西陣織屋・販売者たる仲買商の両方に責任があり、違反者は売却金額全額を京都府が没収するとのことで、当初の実績は上々、1枚1銭と定めた証紙の売上は1万198円31銭に達しました。

    この証紙事業は大いに成果を上げました。生産品の正否を鑑別し、その結果を組合員の名前まで付して明示したのは日本で西陣が初めてであり、これは全国の産業組合に範を示す看板事業となりました。

    原反検査が行われるとあって、粗製乱造を行っていた織屋は粗悪品の製造を差し控えるようになり、信用は徐々に回復しました。検査に買主である仲買商も関わったことも大きく、実際に買主が見て証紙を発行しているため、需要も自然と活発化してきました。

    加えてこの時代の西陣織物の活況には、西南戦争に伴うインフレと、それを見越した仲買商の注文増加があったこともありました。ともかく信用を回復した西陣は、一時活況を呈しました。

    とはいえ、お上から言い渡された命令が長続きしないのが西陣です。時間がたつにつれ、物産会社同様、有名無実化していきます。

    証紙事業と織物会所の自然消滅

    松方大蔵卿

    しかしながら、この証紙事業の意義はなかなか理解されなかったようです。西陣織物館記にある、初代取締も務めた橋本伝蔵氏の言によると、「槇村知事様ご立腹非常にて、金を返さねば織屋商売成すこと相成らずとまで仰せられ種々とご心配の上、西陣織物会所と改称せられ1枚1銭の証紙の収入をもって消却の道を立てられ……」と当時理解されていたようです。

    つまりは西陣物産会社時代、なし崩し的に払わなくなった借金を返済させるため、機別出銭に代わる徴収方法として、証紙事業を命じたと考えられていました。

    実際、証紙事業で定められていた罰則は、ほとんど有名無実化しました。西陣で産出される織物は数が多すぎて、すべての原反検査をやり続けるのは現実的に難しかったのです。違約金を徴収するにも徴収の方法がなく、密告が行われたとて、京都府の警察権は江戸時代ほどではないのも大きな理由でした。

    そのため、西南戦争によるインフレが終わり松方デフレが到来したことも手伝って、明治14年ごろには証紙貼用が行われなくなり、検査にも出されなくなりました。証紙事業以外に収入がない織物会所は屋台骨となる事業を失い、取締役を務める意義を感じなくなった仲買商諸兄は、病気と称して退任し、織物会所はその機能を停止せざるを得なくなったのです。

    (つづく)

  • 西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物1000年の歴史といえど、現在の組合組織ができたのはそう昔のことではありません。

    現在、西陣を代表する業界団体は西陣織工業組合(1973~)ですが、西陣では明治以降、業界団体がいくつか現れ、そして消えていきました。

    明治維新により、日本社会は前代未聞の変化を見ることとなった

    明治維新と西陣、室町

    江戸時代の西陣では、朝廷や幕府、諸大名といった大口の注文を請ける「御寮織物司」を頂点として、高級な紋織物を織りだす「高機八組」があり、そのほか「西機」と呼ばれる大衆織物部があるなど、ヒエラルキーが形成されていました。

    しかるに明治時代に入ると、四民平等や営業の自由の論議が盛んとなり、近世日本で支配的だった徒弟制度や人権無視の仲ヶ間団体は、急速に破壊に向かいました。徒弟制度によって生産体制を維持してきた西陣の大店も大きな打撃を受け、さらに東京奠都と明治維新、政府の欧化政策で、公家や有力諸侯の需要が消失し、西陣は大きな打撃を受けました。

    ※.有職織物など。明治政府はフォーマル着を洋装と指定した

    江戸時代の組合組織ともいえる「仲ヶ間」の制度は、営業の自由を制限し、新規参入のハードルとなるものでした。いくら明治維新といえど、旧商人がすべて営業をやめてしまっては京都の経済は立ち行かなくなるでしょう。
    そこで京都府は「鑑札」なる営業の許可証を制定・公布することで、旧商人に寄り添う姿勢を見せることにしました。そのときの文献が残っています。

    今般御大政御一新に付き、総て旧弊御廃止に相成り、商法御会所御取建仲ヶ間へ夫々御鑑札御下けに相成る。壱番組織屋仲ヶ間並びに壱番組仲買より御鑑札を下し置かれたのはありがたきにより、この商法速かに相立候故、新たに双方立合実意を以て熱談致し候。而して確定の上、今より壱番屋方に而織出し候品は、従来共御仲ヶ間中に限り売渡し来たる候儀に付き、猶又相改め、壱番組諸織物限り以来決して他に売致さまじく候。仍ち而不相変其御仲ヶ間へ売渡侯間、已後不実成取引等無之樣、西陣壱番組織屋小前之者に至る迄引き立て…(西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札 明治元年)

    これまでの商慣行を続行できると喜びの声を上げていることが読み取れます。同様の議定書が仲買側にも残っています。生産者と流通業者が手を取り合ってこの難局を打破しようとの空気が伝わってきます。

    東京奠都による京都荒廃に対する危機感は、行政も共有していました。これが、後述する西陣物産会社の設立に繋がります。

    西陣物産会社の設立

    明治二年、京都府知事の長谷信篤は、西陣織物産業を保護奨励するため、有力者を招致して、織物業者の新団体を結成させました。当時、京都府の大参事に就任した槇村正直は、維新政府の中心人物である木戸孝允を動かして、産業基立金10万両を天皇の御下付金として受け取り、京都の産業育成につぎ込もうとしていました。

    この一部を西陣に振り分けるにあたり、封建時代の遺物である仲ヶ間制度を廃止し、新産業組織による団体を結成し、それを基盤として、西陣産業の育成と全西陣統合体に貸付金の責任を持たせようとしたのです。

    槇村正直の掛け軸。「業は勤(はげむ)により精(くわし)く嬉(たのしむ)により荒む」

    「西陣織物館記」の編者前田達三は、京都府が西陣物産会社設立を命じたことについて、旧来の西陣織屋仲ヶ間の構成員は、明治維新により平等になったため、この際西陣織屋のヒエラルキーも解消し、全く新しい出発点に立脚した組合組織を結成しなければならないと考えたからであろう、と分析しています。

    古来より品種が多様な西陣織物は、各専門によって織屋の利害関係も変わります。そこで専門別に18の社に分け、西陣物産会社は各社を統括する役目を負いました。各社にはそれぞれ自主性を持たせましたが、実質的には西陣物産会社の下働きが主であったようです。現在は廃止されましたが、最近まで西陣の組合にあった部会制と近い制度と思われます。

    ※.模様社、金欄社、紗織社、博多社、繻子社、夏衣社、真古帯社、綸子社、縮緬社、羽二重社、古帯社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社、精好社、絵絹社、練絹社の18社。数年後に精好社、絵絹社、練絹社は合併して三品社に、天鵞絨社から絹天社が独立して17社となった。

    西陣物産会社の役員は、18各社から選挙で3名、肝煎として選ばれた人の中から、京都府が適当と思うものを任命しました。なお、各社から選挙で選ばれた18×3=72名は公任役人の資格となり、会社役員は世話役、その主任者は世話役惣代と呼ばれました。世話役惣代も京都府が任命しました。

    京都府が西陣物産会社へ3万両貸付

    さて、明治維新による政情不安、生活の欧化による需要の大幅な変化、かつてのお得意様であった各藩の指導層、朝廷の公卿といった上流階級が、その存続基盤をそろって脅かされたことにより、高級織物産地である西陣は需要先を失い、深刻な経済不安に陥りました。

    当時の西陣織屋は資力に乏しいものが多く、製品の滞留はそのまま倒産につながる状況です。売れ残りを安売りする者も出て、結果的に相場が崩れることにもなりました。

    この状況を見た京都府は、西陣に3万両を貸し付け、機業振興に使わせるようにしました。問屋による買いたたきを問題視していた物産会社は、取引改善を目的として、この3万両で織屋の滞留品を買い取り、代わりに適正価格で販売することとしました。

    仲買商が取引で重要な役割を果たしている時代にもかかわらず、組合が仲買商の真似事をしたことで、仲買商がそろって不買運動を行う結果になりました。結局、商人でない織屋が売りさばかなくてはいけなくなり、結局ほとんど売れ残って3万両の借金が西陣にできました。

    京都府からの借入金を西陣に流したことにより、西陣の織屋資力に余裕ができた側面もあるでしょう。ただし、幕末の貨幣価値から言って(だいたい1両=3000円くらいと言われています)、3万両のお金は広い西陣には少なすぎ、特に大きな効果を挙げられたとは思えません。

    また、京都府からの度重なる督促に、物産会社は仕方なく機別出銭を行い、西陣全体からお金を集めることになり、返済の目途を付けましたが、西陣の組合員からは不満をためることとなりました。

    ※.各社の機台数によってお金を集める仕組み。誤解を恐れずに言えば、固定資産税や法人税に近い

    西陣のジャカード導入と博覧会

    西陣物産会社にはもちろん大きな功績もありました。最も大きなものはジャカードの導入で、次に漸次回復してきた西陣の生産能力を、博覧会への協力により世間にアピールしたことです。いくつか挙げましょう。

    第1回京都博覧会の写真。西本願寺

    ・第1回京都博覧会
    明治5年、長谷京都府知事や槇村大参事を中心に、京都の官民を挙げて大々的に行った博覧会。会場は西本願寺、建仁寺、知恩院。京都古来の物産をはじめ、全国各地の名産、骨董品等2,485点を出品。明治天皇のご臨幸もあり、皇室の御買上品は西陣織物と陶器のみでした。この事実は西陣の自信となり、気風も一新されたようです。一方でこのとき、西陣機業の後進性に気づかされ、欧式の織機具であるジャカード導入のきっかけとなったことに注意が必要です。

    ・オーストリア万国博覧会
    ウィーンでの万国博覧会に参加。日本の国威を諸外国に見せつけるために明治政府が行った事業で、日本の美術工芸物産を陳列。西陣から派遣された4世伊達弥助・早川忠七は、日本からの他の随行員同様、欧州各国を視察研究し、織機そのほか1200余点の機械器具を購入しました。

    ・第2回以降の京都博覧会
    明治6年からも、西陣物産会社は京都博覧会に協力。第3回は当時フランスから持ち帰ったジャカード織機を運転公開し、第4回以降も物産会社が製織実演を行いました。第5回は三上復一、中西昌作、喜多川平八らが品評方(審査員)に推挙されました。西陣織物の褒章受領も抜群で、西陣機業の発展が認められた博覧会です。

    ・京都府洋式機械工場(織殿)への協力
    京都府の事業により、欧州の先進的技術を会得した西陣は、京都府の設置した織物伝習所に協力することになりました。伝習所に派遣する物産会社の世話役等の経費は物産会社持ちであったため、京都府に嘆願書を出して、この経費は前述の借金を相殺することで賄うこととしました。

    このように功績もあげた西陣物産会社ですが、次第に存在意義は薄れていきます。

    西陣物産会社の自然消滅

    以上見てきたように、明治維新の動乱で大打撃を受けた西陣は、物産会社の設立や3万両の貸付、ジャカード導入など、京都府の資金面・制度面での援助により、無事に立ち直りを見せました。

    しかしながら西陣物産会社は、もともと一致団結して不景気を乗り切る目的で設立されたものだったので、織屋各社がそれぞれ単独で行動できる以上、だんだんと有名無実化していきます。

    明治8年ごろになって、庶民の服装が自由となり、さらに女性の活動範囲が広がったことで西陣織物の需要も活発化し、織屋各社の活動が旺盛になってきました。それに伴って西陣物産会社の役割も小さくなっていき、組合員各社は時々名前を利用するのみとなります。

    とはいえ業界団体たる組合は、西陣機業家全体を対象にするとき必要になります。行政からの命令もそうです。次に組合組織が新たに設立されるのも、京都府令が下った時でした。

    (つづく)

    以上、前田達三編「西陣織物館記」北村哲郎「技術と製品の歴史」ほかを参考にした。

  • で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    前回は西陣産地の原材料等についてお話しました。本記事では西陣織の魅力について、「手間がかかっている」以外の魅力を書くこととします。

    なお、今週金曜~日曜(2025-2-14~16)は東京・銀座の時事通信ホールにて、「染と織の展覧会」なる西陣・友禅・丹後の合同展示販売会があります。

    西陣織会館に展示されている空引機

    3.機械がすごい

    織機を使っている以上、どこの産地も同じものが織れるのだろうと思われるかもしれません。ある意味では間違いありませんが、西陣は紋織の産地として、糸を上げ下げする装置が他と異なります。

    経糸を上げ下げする装置は綜絖と呼ばれます。西陣では、地組織を織る組織・模様を織る組織の二つで、綜絖が分かれています。このために、同じ織物の中に異なる風合いの組織が共存できるのです。

    西陣の織屋さん「田中伝」の商品棚(西陣織工業組合 西陣織屋紹介「田中伝」より)

    4.自由度がすごい

    西陣でもっとも上等な織機は人間の手であると言われています。機械では都度設定が必要なところ、人間は臨機応変な対応が可能で、創意工夫を発揮する余地があるからです。

    力織機であっても、織りながら都度織機を止めて、絵緯(柄を出すための色糸)や箔を挿入するやり方もあります。箔のような繊細な素材でなければ、機械を止めずにそのまま織ることもできます。表に何色の糸を出すかで柄が決まるからです。

    しかしながら、すべて機械で織ると、柄にならない部分にも糸が使われ、必要以上に製品が重くなってしまいます。これを避けるために特殊な織り方をして、必要な部分だけ糸を通し、他の部分はカットすることもあります。これはすべて機械任せではできません。西陣織の工芸要素と言えるでしょう。

    京都府の工芸のページ。染織・諸工芸・食品・その他と項目が立てられており、染織分野がいかに大きな地位を占めているかが分かります

    西陣織に限らず京都の工芸というのは、概して多品種少量生産が特徴とされています。
    ここまで見てきたのは素材と織法ですが、これらもより分解すれば、
    ・図案(どのような柄の織物を作るか)
    ・素材(箔か、絹か、麻か、木綿か、絹でも紬糸にするか、等々……)
    ・撚り方(糸を組み合わせて撚り合わせ、素材として使えるようにすること。いわゆる紡績)
    ・染め方
    ・織り方

    と、いわゆる「変数」は無数にあることがわかります。この変数の多さこそが、多品種・少量生産の理由です。

    これについては、江戸時代の機業家である井関政因も、著書「天狗筆記」にて、

    織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき(…)たわいも無そうさなものじゃというは、糸は糸屋にまかし織は織手にまかし、紋はもん屋にまかし色は染物やにまかし、紋付る事は空引にまかし、みなそれぞれなんと無そうさなものじゃ。

    予織物之道つきしより今年三十八年ヶ間、是にてよろしきと安心致さぬ訳は、元来蚕は天作なり、糸は人作なり、是絹の元也。其糸に其国の水土有、寒暖有、年々都而順気不同有(年によって同じでないものがある)。其年の寒暖依、而糸の生不生有、固く和く有、艶ありまた艶なく、是を考る染草、紅に出生の白上品下品 紫根其外何れも草類天作のものにて、今年は明年不同有、織人に織物々の得手あり不得手あり、紋に模様にさまざまの好有て、工匠も及ばぬ縫合如何。過急の御用に手廻しの次第あり、御装束類色目差別格別に有右等々事、口説述がたし。其時其品を以て勘弁尽ル事なし(天狗筆記 下巻より)

    と述べています。同じものは一つとしてできない西陣織の性格は、江戸時代より変わっていません。

    西陣は昔より上流階級の需要を満たし続けてきたのは、注文に合わせて、不可能でさえなければどのような織物でも実現してきたからであるといえます。「西陣に織れない織物はない」と昔から言われていたのは、この自由度の裏返しであるといえます。

    高機の図。高機とは空引機のことで、明治中期まで使われたよく使われた織機。人間が上に上がり、手で経糸を上げ下げして絵模様を織り出す

    5.歴史がすごい

    西陣呼称500年の記事を出しましたが、京都の伝統産業の1として、西陣織は当然、歴史もすごいです。ちなみに、昭和中期より以後、伝統産業の業界でリーダーシップをとってきたのは西陣です。

    詳しいことはまた追々まとめましょう。一言でいえば、西陣は日本繊維産業の大宗であり、日本のほぼ全ての紋織産地の起源に関わっているのです。

    西陣の北西、丹後のホームページを見てみましょう。

    丹後は1300年以上前から絹織物の産地であった歴史をもちます。
     江戸時代に京都西陣で「お召ちりめん」が誕生した後、丹後の織物は「田舎絹」と呼ばれ、売れ行きが低迷。農業の凶作と重なり、人々の生活は極めて困窮しました。その危機を乗り越えようと京都西陣に赴き、ちりめん織りの技術を持ち帰った数名の先人たちがいました。帰郷後、 独特の「シボ(生地の凹凸)」を持ったちりめんの生産に成功し、これが丹後ちりめんの始まりとなったのです。彼らはその技術を人々に惜しみなく教え、 瞬く間に丹後一円に広まりました。

    西陣産地としては迷惑千万であったでしょうが(実際、この時代の西陣は技術流出に悩んでいたようです。丹後の類似事例として、西陣の紋織技術は群馬・桐生に対して流出しました)、とにかく、西陣は紋織産地として第一の歴史を誇ります。

    「西陣」ブランドの創めを挙げるなら、朝廷・大蔵省付の官製織物工場、織部司が最初になるでしょう。西陣は初めから、宮廷貴族の需要を満たすために始まりました

    平安時代の終わりになると経済的に立ち行かなくなり、周りの貴族お抱えの職人になった方が実入りがいいという状況になっていきました。こうして、官営であった機業地は民営となっていきます。

    鎌倉幕府が成立し、貴族が政権から離れても、なお武士を顧客としました。貴族・武士・豪商などといった上流階級を相手に、よりよいものを高く受注し収める構造は、明治まで続きます。ちなみに「西陣織」の名前が付いたのは応仁の乱の後ですが、それより前は「大宮の絹」「大舎人の綾」などと呼ばれ、この時点でも一種のブランドであったことが分かっています。

    かくして西陣は最高級の織物を生産する産地となっていきます。衣・食・住の「衣」を占める繊維産業であり、「京の着倒れ」と呼ばれる絢爛豪華な織物の数々。需要に応じて産地が大きくなるのは当然であり、江戸時代の長い平和の中で西陣の織屋も増えました。前出の井関政因が「織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき…」と言ったように、極めればとことん極められる分野である織物なので、生産の工程は年を経るごとにどんどん細分化し、同時に各々が技を極める土壌ができていきます。最高級品のさらに良いものを求めてきた歴史的経緯は、ある意味で長い実績の証明であるのみならず、その実績を継続する土台となっているといえるでしょう。

    「布だぜ!」と言いたくなる気持ち、正直わかります。でもその布に、こだわりのお洒落を詰め込みたくないですか?「外見は内面の一番外側」といいます。身に着けるものにこだわろうと考えると、なるほど、多品種少量生産の西陣が役に立てる場面は多くなってくるでしょう。

    東京・銀座・時事通信ホールで開催する「染と織の展覧会」、当日入場・前売り券入場ともに可能なので、ご予定が合えばぜひ、行ってみてはいかがでしょうか!