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カテゴリー: 歴史

  • 西陣織の来歴(西陣織物館記を読む)

    西陣織の来歴(西陣織物館記を読む)

    はじめに

    2年半前に「西陣555年記念事業」が行われたように、西陣には長い歴史があるが、そのうち過去を詳述した資料はまれである。

    織物の歴史はどこでも古い。衣食住の「衣」を司っている以上、編み物や不織布(フェルト)と比べて圧倒的に単純な織物の自足が促されるのは当然だ。西陣しかり、博多しかり、桐生しかり、八王子しかり、織物産地はどこでも上古からの歴史を主張できるのだ。

    今出川大宮東入の西陣織物館前、現京都市考古資料館前の西陣碑

    中でも西陣は官機の流れをくむ。官機とは官営の織物工場のことで、律令制の時代は大蔵省の織部司と称する専門工場があったのである。やがて律令制は崩壊し、貴族が直接、織手を抱えるようになった。室町時代には「大宮の絹」「大舎人の綾」と呼ばれるブランド産品が製造されていたらしい。

    応仁の乱に由来する「西陣」発生以前に、こうした一見由緒正しい歴史があるにもかかわらず、西陣が555周年などと控えめな数字を主張するのはなぜか。丁度いい明確な区切りが他にないこともあるが、応仁の乱で、技術に断絶が生まれているからである。今の西陣の技術の系譜をたどるとすれば、応仁の乱以降は直系だが、それ以前はいわば血のつながりはなくて、養子に入ったようなものだ。

    そして今の西陣の高度な技術は、江戸時代に培われたものだ。元禄時代、消費生活の奢侈化と衣料需要の増加に牽引されて、日本は未曽有の好景気に沸き、町人を中心とする元禄文化のもと、産地である西陣と販売を手掛ける室町はこの世の春を謳歌した。今でも西陣の全盛期は元禄時代と言われている。ここから西陣はまた浮沈交代を繰り返し、明治時代に至る。

    江戸時代、三井越後屋の売り場。「現金掛値なし」「店売り」が特徴。三井グループの源流

    さて、ざっと江戸時代までの西陣の歴史を追ったが、この後、明治時代以降の西陣の過去を知るのに、使える資料は多くない。そのうち最も読みやすく、読みごたえがあるのが「西陣織物館記」だ。西陣組合の先輩である前田達三氏が著したもので、今、西陣が明治時代の組合史を辿れるのは、この本のおかげである。

    せっかくなので公開する。前提知識が要るから、所々で僕の補足も入れることにする。なお著作権は切れているので、安心してほしい

    序日

    本記は西陣織物館の履歴書であり、生立ちの記である。夫れが、其の母体である、西陣織物産業人の組合団体を管理する人物の、器量の大小、才能の深浅、誠実心の厚薄、エゴイズムの強弱と、ほんのちょっぴりの仁侠心の存否が、組合の成敗浮沈を決し。引いて此の織物館の隆替興廃を醸成せしめた明治元年以降九十年の歴程を記述したものである。乍然、本記は小説でもなけれ ば、物語り伝説でもない。唯事務上の書類の内容を、綴合せたに過ぎないようなものであって。 謂おうなら、事実調査書であり、事件の陳述書であり又証拠書類でもある。

    本記を年代により三編に別け、財産目録を附録とした。

    第一編は、明治元年から、明治二十六年迄に、幾度も西陣織屋の本山が、建立しかかっては出来ず。建立せられたと思ったら、忽ち消失してしまった陣痛時代※1が過ぎて。明治二十七年、同二十八年の組合主悩者達が傑物揃いで、一般に信望があり、卒先範を示したから。西陣織屋一人残らず、最低十銭から、最高百円に至る迄快く寄附金を拠出して、黒門通元誓願寺角に、組合事務所(会館)を建設した迄の事績※2を記述し。其後は明治三十年迄の運営状況を略記した。

    • ※1 明治時代、「西陣物産会社」「西陣織物会所」「西陣織物業組合」といった組合組織のようなものができたが、いずれも長続きせず、消滅した。
    • ※2 この時代にできた「西陣織物製造業組合」のとき、黒門通元誓願寺東入に西陣織物館の前身ができた。(ちなみに今の組合の丸西マークは、この頃すでにあったらしい)
    西陣の組合が代々受け継いできて、現在は西陣織工業組合のマーク。明治28年にはすでにあったようだから、130年以上の歴史がある

    第二編は、明治三十一年以後、昭和十三年迄の西陣織物館全盛時の要項を、摘記したものである。

    其間大正四年七月、現存西陣織物館が建設せられる際は、組長及役員に俊英があり、姉なる事務長を抱えながら、西陣織物業界に多数の反対者があつた。※3其内文書に、会合に反対を唱えたのが、当時の西陣織屋の学歴─大部分中等学校程度ではあるが─のある者であつたから。昔から雷同性のある西陣の事とて、全般的に悪影響を与え。建築設計が萎縮して、ギャラリー程度のものとなり、芸術味が欠けてしまった。其れでさえ宏壮大廈無用の長物だと罵しつた。眼孔狭短見浅慮、が今に災を残して居る。其れにも拘わらず、西陣織物館が京都新名所として有名になったのは。之れが運営に人物を得て、熱意と誠実により、着々効果を上げたからである事を大略記述した。又昭和十年には附属事務所の改築を断行した。此度は賛成者のみで、一人の反対者も無かった代りに。其費用は組合剰余金等を以て賄い、一切経費の増徴をしない、条件を以てしたから。寄附金の募集も行わなかった。建築設計及規模に関して議論百出。其為組合組長の原案と全々異るものとなり。頗る使用効率の悪い建物が出来てしまった。去りながら鉄筋コンクリート三階建は、其れなりに、爾後の組合事業に大きな効果を与えたことを記し。西陣織物同業組合解散に至る迄を以て本編を結んだ。

    • ※3 「現存西陣織物館」とは、いま京都市考古資料館として活用されている、今出川通大宮東入にある建物。大正4年竣工。

    第三編は。昭和十三年西陣織物工業組合設立から統制経済の概略。及び戦時転廃業の様相、西陣織物産地の荒廃、続いて敗戦被占領下の類落による、西陣織物館の危機と、之が保全に対する編者の施策、及昭和二十五年西陣織物工業協同組合解散前後の様相を、若干記述して擱筆した。

    編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。最少限度之れだけの物の梗概を頭に入れて置かねば、諸官庁其他系統機関の諸会合に出席しても、口が利けないから、否応なしの勉強であつた。其上物価統制に基く公定価格の設定による、格付見本として、各級物業者が原価計算と共に提出した、全西陣織物の品種銘柄は、実物教育となつて。現時西陣織物の智織を、最大限にまでに、豊富ならしめると共に。西陣織物業者誰彼無しに逢うて、嫌でも其性格を知らねばならなかったが故に、織物業者も企及し得ざる普偏的な、西陣の土の匂いを身に付ける事が出来た。

    折も折、昭和十三年九月に、同工業組合理事会が、西陣織物館其他の財産を以て、公益財団法人設立の決議を為した際、列席して、織物館建設者達の真意を明確に把握することを得た。

    又、西陣織屋は昔から、時代と共に新陳代謝する。早よう謂えば、西陣の大機屋は三代と続かないとの諺がある。諸行無常は、あえて西陣織屋のみではない、他の産地も同様である。然るに、前線の負け戦さを挽回せんとする国策とやらで、西陣織屋は新陳共に軍工場に強制転業を命ぜられ。西陣地域杼校の音も、絶えだえとなつてしまった。誠に心細い事限りなかったが。織屋は亡びても、産地は亡びない。西陣織物産業は軈(やが)て復活し。往年の隆盛を見る時期の来ることを、確信した。そうなっても、西陣産地は中小企業工業者の集合地である事だけは、絶対に変らないから。是れが拠点、西陣織物館を失っては、早期復興は至難である。仮令(たとい)権道を用いても、 保全を計らねばならないと考え、之を実行したのであつた。

    一敗地に塗れて、山河国民総て虜囚となった。昔人は、「古来征食幾人か回る」と詠じたが、 西陣は終戦と共に旧業者がどつと帰来したり、新規の開業者で。一挙に戦前の倍数に昇る織物業者で溢れた。嬉ばしき現象ではあるが其処に数々のトラブルが発生した事を、本編に記述してある。

    昭和二十五年十一月十一日京都市会議長に、西陣織物館開館助成の請願をし、翌年二月十三日京都市会で之を採択し。高山京都市長からは、京都市の観光施設として同館の再開を希望し、経済局、観光局と協議の上実地踏査をして助成する旨の誠に好意ある通達を受けた。其以前三月二日、大林組から織物館全館の改装工事仕様書と同工事費見積額金三百六十六万六千七百三十円を提出し。万端の手筈良好に運び、経費調達方途も万全の策を施したに拘わらず。主脳者の頭の切り替えが出来ず、訳の判らぬ現象が生ずると共に。果ては法人格も無い同業会に、事務所と什器を占拠せしめ※4、清算を阻害し。明治初年からの西陣織物組合功労者、組長、理事長の肖像額全部を会議室鴨居から、引降し、之を破壊するの暴挙を為すに至らしめた。言語道断の不埒とは云え、西陣織物工業協同組合清算と織物館資産との微妙な関係から、事を荒立てるの不利を思うて、静観するより外はなかった。

    • ※4 今の西陣織工業組合の前身の一つ「西陣織物同業会」は、当初西陣織物館を事務所や展示等で使用したが、旧組合(西陣織物工業協同組合)理事等との意思疎通が十分でなかったため、大きな騒動を引き起こした。これについては過去ブログで少し言及がある。

    昭和三十二年六月に至り、西陣織物館及附属建物並諸財産に対する法律上の障害が除かれ。是等を建設した、功労者先輩の遺志を、達成し得るの時期に到達したことを認め、本記を編集するに至ったものである。

    編纂の当初の目次計画は、西陣織物館其他の資産中。特に織物参考品、古文書等は、詳細なる説明と、寄贈者の名及蒐集記録を掲げて、第四編とする積りであつたが、其れでは本記が浩瀚になり過ぎるので。昭和二十六年十一月一日既成の目録を其儘に、附録として掲げるに留めた。実は本記編纂の目的は此附録財産の保全にあつて前三編は其説明に過ぎないものである。 之等所蔵品の中には、天保以来の西陣織物史上、金銭に更え難い貴重な古文書がある。戦時被爆により編者が斃れたら、仮令焼夷を逸れても。一括の反故紙として廃棄せられることを憂いたが、幸に共に今日あるを得た。

    以上を本記編纂の序日とし。尚編纂の経緯若干を凡例に於て補述することにした。

    昭和三十四年十月二十五日

    於西陣織物館

    編者述

    (続きはこのページ

  • 学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    京都は学生の街と言われます。「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」との有名な句はそれについて読まれたものであり、京都を離れる学生の郷愁を表している、とされます。(ちょっと調べた感じ、このブログが端的に表現されていてよかったです)

    鴨川は京都の青春の象徴とされる。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47728320U9A720C1AA1P00/より引用

    学生と社会人について、京都でよく言われるとされ、実際に僕も言われたのは「京都では学生さん、社会人と呼び分けんねん。学生は『学生さん』でお客さんやけど、『社会人』は違って、『さん』がつかない」この文句である。

    これは京都の持つ多面性をよく表していると思います。他の都市と同様、京都も広く大きい。学生程度が把握しきれるほど浅い町ではないことはご承知置き頂きたいと思います。だから「京都は学生の街」との一面的な理解は捨てて、大人になって、出世してからまた来てもらえば、また違った側面をご覧いただけるでしょう。

    一都市として見る京都の姿は、さすがと息をのまざるを得ません。大人の京都の面白さについては、僕がブログで紹介しているような歴史を始めとして、美術・工芸・歴史・宗教・文学・建築・商業・工業等々と多岐にわたり、語りつくせるものでもないし、そもそも僕では力不足すぎることを承知の上で、あえて簡単に説明してみます。

    1.歴史

    これは言うまでもありません。が、深入りするのに一番敷居が高いのがこれかもしれません。京都は1200年の歴史があるだけあって、歩くだけで楽しめる街でもあります。知識に対するリターンが一番大きくなる街といってもいいかもしれません。深い知識を入れようと思ったら、相応に骨が折れますが。

    基礎知識として入れておくといいのは、平安京の町割りです。これと、これの周辺知識を多少入れておくだけで、他の吸収率がずいぶん違うと思います。京都の歴史本は無限にありますから、あとは好きなものを読んで、好きなところを歩けばいいでしょう。これで京都を楽しみ放題です。

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    2.食事

    第二は食事です。京都は出汁が美味しいです。出汁以外も結構おいしいが(肉の調理とか)、結局のところ、京料理のおいしさの8割は出汁のおいしさです。

    お出汁の写真。https://odashi.co.jp/household-use-dashi/より引用

    京料理の本領は懐石といわれますし、もちろん値が張るだけあっておいしいです。懐石でおすすめの店を挙げるとすると、上七軒のおかもと紅梅庵とか、富小路六角下がるの要庵西富家西陣郵便局の裏の西陣魚新とかだろうか?特に要庵西富家は本当においしいと思います。懐石の相場は、安くて1万円程度、高くて8万とかだと思うが、その中で一人4万円程度なのは安いといえば安いと思います。隣のやま岸より安いですし。

    要庵西富家のホームページ。料理がおいしいのはもちろん、宿としても一流で素晴らしい

    なお、懐石は本当にピンキリです。例えば5,000円~6,000円くらいの懐石(?)は外れが多いので注意が必要です。あと海鮮は正直東京の方がおいしいです。

    3.工芸

    京都は工芸の都です。元禄時代に頂点を迎えた京都の工芸は、今でも日本の諸技芸の本場であって、いくらでもこだわりたい諸兄にはピッタリです。これは過去にも引用したけれども、

    京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり。(ケンぺル「日本誌」)

    なのです。

    西陣織にも多くの品種がある。最高級品だけあって当然意匠・風合いともに素晴らしいものが多いのだが、ピンキリでもある分相場が形成されづらく、買うのが難しい側面もある

    きものが好きな人なら室町・西陣を訪問したいと思う人もいると思いますが、きものを深掘りするのは結構難しいから、僕に連絡するか、他に探すかするといいと思う。
    ともかくどこかの小売店・問屋・メーカーの上客になるか、その道に就職するかのどちらかしかありません。これは呉服に限った話ではありませんが。

    焼き物ならいわゆる京焼ですが、焼物なら五条坂周辺の店がいいでしょう。小売店なら竹虎堂朝日堂あたりがおすすめかもしれません。陶磁器会館もいいです。それと、夏くらいにはメーカーが販売会をしていますから、このタイミングで買うのもいいでしょう。前は私もたまに買いに行っていました。

    (懇意にしている小売店の人にメーカーの販売会の話をしたら微妙な顔をされましたから、そういうことなのでしょう。メーカーと流通の関係は何処の業界も変わりませんね)

    陶磁器会館の写真。http://kyototoujikikaikan.or.jp/guide/access/より引用

    とにかくこの街は、一定程度までは来るもの拒まず・去る者追わずですが、仕事をするにあたっては、キッチリ腰を据えて取り組まなければなりません。舐めた仕事をしては駄目です。ツイッターでは「モラトリアムの具現化」などと面白い評価をされていますが、学生に限った話なのは言うまでもありません。

    おまけ

    さて、本ブログの主要な題材は西陣・西陣織、あるいは室町も含めた染織産業の歴史である。そして西陣の歴史で一番面白いのは、明治から昭和までの組合史だと思います。せっかくなので今回は、かつて西陣にあった広報誌「西陣織たより」第一号(昭和26年発行)に載っていた文章を掲載しておく。ここに出てくる「西陣織物同業会」とは現在の組合の直接の前身である。

    西陣織物館の写真

    西陣と金融

    第一銀行西陣支店 支店長 加藤光一

    わが西陣に機業界を代表し業者の總意を結集し、業界の進步發展の爲めに必要な事業を行う機關が存在しなかつたと云うことは、洵に不思議なことでありましたが、此の度西陣織物同業會が設立の準備を完了し、菊花薫る仲秋の佳日に新發足せられましたことは、真に御同慶に堪えないところであります。多くの困難を排除して此處まで事を運ばれた理事者各位の勇氣と御苦心に對し、またさしあたり經濟的な利益の期待出来ない同業會に卒先參加せられた會員各位の熱意に對し、深甚の敬意を表する次第であります。

    西陣は千年の歴史を有する我国最古の機業地であり、傳統の精巧な技術を有し、製品は帶地、着尺、金欄、ビロー ド、廣巾織物等多種多様に亙ること、生糸は元より人絹、 化纖、毛糸、麻糸、綿糸等あらゆる繊維が原料として使用せられていること、生產行程が極度に分業化せられ、此の分化された業種毎に多数の業者、多様の業態の存在すること等内地の機業地に比較し得るものがありません。

    由來產業と金融は車の兩輪の如きものでありまして、上記のような機業地としての特色は自ら金融の面に於ても幾多の特異な様相を呈することとなるわけであります。西陣の金融に関与している機関には、銀行、信用金庫、商工中金、無尽会社等本来の金融機関の他に生糸商、買継商(所謂上仲買)、室町筋の問屋(所謂下仲買)或は府市の直接又屋、糶市(せりいち)等迄時と場合によっては相当の役割を果しております。

    銀行について簡單に申しますと、西陣の中心、同業会の事務所のあります今出川大宮界隈に軒をつらねる銀行が八行九店舗、之に一信用金庫が加わって十店舗で土曜會と云う連絡機關をつくつて居ります。此の土曜会メンバーの銀行の預金は二二一二億、貸金は一七一八億位と推定せられるのでありまして貸出の約八割は機業とその関連産業に対するものであります。貸出よりも預金の方が多いようでありますが、西陣の機業に闘する限りでは貸出は預金を可なり上廻り所謂オーバー・ローンの形になつていることは明かであります。右の土曜會メンバーの銀行の他に廣く西陣地區には、銀行の店舗が一〇、信用金庫の店舗が四、無尽会社の営業所が数ヶ所ありまして之が直接間接に機業の金融にたづさわっているわけで、一機業地にかくの如く多種多数の金融機関の営業所を有しているところは何処にもありません。

    よく局外の人は西陣は古い、あらゆる面でもつと新しくならなければいけないと無責任に言つてのけますが、西陣は千年の風雪に耐えて今日の形態にたどりついたものであり、今日の西陣は一見複雑怪奇で、舊套依然たるものがあるようにみえますが、また新興の機業地に見られない強靭な底力があって、今迄幾度か西陣の危機を叫ばれながら立派にそれを乗り切つて生き抜いて来、今日内地の機業地の中にあって尤も健全なものに数えられているのには、それ相当の理由がなければなりません。元より新しい時代の威覺をとり入れ、現状を改善して行く工夫努力を怠ってはなりませんが、それかと言つて傳統を忘れ一塁に革命的な改革を行うことは、角を矯めて牛を殺す愚に均しいのではないでしようか。西陣の機業と金融は車の兩輪の如くどちらが進みすぎても遅れすぎてもいけない。同じ速度で着實に前進することこそ西陣を健全に發展に向わせる原動力と信じるのであります。

    (太字部分のみ新字に直した)

  • 西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して(京都市長 高山義三)

    本日ここに着尺組合を除く他の西陣織物業者がうって一丸とする西陣織物同業会が結束せられましたことに対しまして私は心から喜びの言葉を述べる次第であります。私は余りこの織物のことは知らぬのであります。

    もともと育ちが弁護士でありまして、ぼちぼちこれから勉強しようと思っているのでありますが、夕べ私は太秦のお祭りに行きました。そうして牛の出るのを待っていた間にお茶が出ましてそこでお茶を飲んでいた時に隣にいたおじいさんが盛んに京都の事を罵倒している、私はそれを横で知らん顔をしてそれとはなく聞いていたのでありますが、なかなかの辛辣な批判をしておったのですがその中にこういうことを言っていた。京都の金持ちは皆人を泣かして金持ちになっているのだ、中京の金持ちはみな織物屋を泣かしているのだというのです。彼等の財産はなんびきぶびきで作っているのだ。なんびきぶびきというのは皆さん一寸おわかりにならぬと思います。

    実は私もよくわからなかった、併しよく聞いてみるとなんびきとは皆さんの製品に難を色々とつけてやっていく、ぶびきとは一応ついている値段を見てからどんどん安くたたいて何歩か引いて買う、つまり難くせをつけて何歩かたたいて引いて貰ってから買うというのです。私は織屋自体が団結しておれば決してこのようなことは起らないのではないかと思います、ばらばらになってつまらぬ事でお互が競争し始めるから其処にすきが出来る。そのすきに突きこまれるのであります。

    私は労働者の場合でも同じことが言えるのではないかと思うのでありますが、労力を売ろうとすると資本家はこれをたたいて買おうとする。そうするとうまくいかない。それで組合を作って運営していくと正当な利益が相互に生まれうまく行く、其の意味に於きまして私は組合が出来るのが遅かったのではないかと思います。

    大体まあ京都という所は、私もまあ京都人でありますが、どうもこの協同的な仕事をするのはむずかしい所ではないかと思います。甲が右向くと乙が左向く、会合を開いてみても其の時はだまっている。賛成なんだなと思っていると後から反対なんだと言い出す。なかなか一つの事を纏めてこれを行うということはむずかしい。併しそれにも拘らず西陣同業会が誕生し着尺組合と相提携して一つの西陣業界の力とな る組合が出来たということはまことに結構な喜ばしいことだと思います。

    西陣には伝統がある。長年続いてまいりました輝しい伝統がある。併しこの伝統というものはプラスする時とマイナスする場合がある、つまり親しい人がこれをやって来たのだから我々はこれを失しなわないように伝統を守って行けば好いのだ。という場合には伝統は明きらかにマイナスしたものを与えている。現状維持、現状から一步も出ないということは明きらかにマイナスであります。

    私はアメリカへ行きましてつくづく感じましたことは、これはもう帰国致しましてからしばしば皆さんに機会ある毎に申し上げているのですが、アメリカは午前十時の国である、 今アメリカの国は午前十時だということを言っております。アメリカは資本主義が行き詰ってもうこれ以上繁栄していけないのではないかという人がありますが、私はそうではないと思います。いやアメリカは依然として午前十時の国であるということを言って来たのですが。

    (一方で)西陣には伝統がある、この伝統は一つのプラスになる。併し伝統によってこれを再検討することなく又反省して改善し常に一步一歩進んで行くという努力をしなければ、西陣業界は発展して行かぬと思います。アメリカでもたえずこれで好いのか改善すべきところはないかと創意工夫を怠ることなく歩ゆんで行っております。反省し改善して行くところに進歩あり。どうか伝統をいかすところに西陣の発展する途があるのではないかと思います。甚だ簡単ではございますが一言申し上げまして本日の祝辞と致します。

  • 京の商都「室町」─花の都と呉服商

    京の商都「室町」─花の都と呉服商

    江戸時代から昭和前期にかけて、京都の製造業の中心は西陣を中心とする染織工業でした。枢軸たるにはそれに応じた需要と供給が必要です。作ったものはどこかで売りさばかなくてはいけません。

    京都において、西陣で生産した繊維製品は、室町商人と呼ばれる商人集団により流通に乗り、全国に販売されてきました。今回は、京都の商業を長年にわたり支えてきた室町商人の足跡を見ます。

    室町商人のおこりと祇園祭

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    平安時代のはじめ、商業の中心は西市・東市と呼ばれる官営の卸売市場でした。律令制が崩れ、平安京が衰微するにつれて、両市場に代わって三条町・四条町・七条町が、次いで町尻通・室町通が商業の中心となります。この町尻通・室町通が、現在の新町通・室町通です。

    室町時代に入り律令制が解体されても、京都には依然として荘園領主が住み、全国に末寺を持つ自社の本山が置かれました。貢租により全国から流れこむ富と、律令制時代から受け継がれてきた高度な技術、公貴族をはじめとする荘園領主たちの高級な需要がそろった京都では、前代に引き続き、全国の商品流通の中心地になりました。

    鎌倉時代より、独立専門の手工業者および商人は、朝廷・貴族・社寺を本所と仰ぎ、その特許を得て、「座」を結び、その保護下に営業を行いました。とくに経済力にすぐれた祇園社に属する諸座が、主に三条・四条周辺にかたまっていたので、当時の繁華街の中核は、それらと室町の交差点にあたる室町三条・室町四条等でした。

    この時代の室町の富を示すものの第一が、現在も毎年盛夏に行われている「祇園祭」です。現在の山鉾は全部で34基ですが、応仁の乱前までは48基あり、それぞれの街が山鉾を出していました。その範囲も、現在は蛸薬師通~松原通、油小路通~東洞院通ですが、当時は万里小路(現柳馬場通)~大宮小路(現大宮通)、二条通~五条通(現松原通)に広がっていました。

    現在の祇園祭山鉾の一覧。https://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/komagataより引用。
    なお、大宮小路は堀川通よりもっと西

    今でも山鉾所在地は室町通・新町通に集中しています。この分布からも、往時の室町商人の繁栄の影をうかがい知ることができます。

    室町の荒廃と繁栄

    応仁の乱の様子。『真如堂縁起絵巻』掃部助久国筆

    京都の過半を灰燼に帰した「応仁の乱」では、経済交通の関門が軍事上の要衝となって封鎖され、一般の経済活動に支障を来したのみならず、町域も大きな損害を被りました。市中での自由な売買は一向に叶わず、祇園祭も当然中断し、室町の繁栄は終わりかと思われました。

    しかし応仁の乱によって自衛の大切さを学んだ町人諸兄は、共同して町組を作り、その町組はさらに連合して惣町を作りました。そして応仁の乱後における京都の町は既に鎌倉時代より大まかに分かれていた上京・下京の二つに分かれて結集し、上京惣・下京惣の大きな自治組織を作りました。

    応仁の乱後、約30年の歳月をかけて、祇園祭の山鉾が復興したのは、新町・室町を中心とする山鉾町の復興の速さを物語っています。一方でこの時に復興した範囲は、現在と同じく、三条以北・東洞院以東・油小路以西は廃されています。新町・室町に富が集中していたのは、この範囲からも窺い知れるでしょう。

    近世になって、幕府が江戸に去り、政治の中心は京都から江戸に移りました。この時代になると、町人の繁栄はより明らかになっていきます。江戸時代の京都の文化について、足立政男立命館大元教授はこのように述べています。

    近世になって、幕府が江戸に去った後の京都は(中略)京都を代表するものは、武士でもなく、公家でもなく、また僧侶でもなく、それは町人であった。その町人を中心とする京都の文化は接木の文化であり、伝統の文化であるといわれているように、一千年にわたる伝統に培われた公家文化の影響を受けて、雅やかな貴族的風格をそなえた町人文化であった。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    京都を代表する文化の担い手が町人であったのは、町人のもつ圧倒的な経済力を背景にするところが大きいといえます。政治の中心から離れて財政基盤が脆弱になった公家も、幕府の政策によって富が抑えられている武家も、京都の文化の担い手として主導権を握れませんでした。

    『洛中洛外図屏風』右隻。手前が室町通

    町人のこの地位は、扱った商品の質とブランド力も要因でした。この時代から、「京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり」と言われるようになり(ケンプエル)、織物・染物・刺繍・陶磁器等の工芸都市として、あるいは学問・宗教・芸術等の都として、日本における総本山的な地位を占めるようになりました。

    そしてこの商人たちを代表するのが、京呉服織物問屋商人であり、その同業者が集まって同業者街を形成していた室町通でした。室町通が最も富裕であった時代こそが、次に紹介する元禄時代です。

    元禄の室町

    『燕子花図屏風』尾形光琳筆。尾形光琳は元禄時代の代表的絵師

    17世紀の後半になって、今でも西陣では全盛期として語り継がれる元禄の時代(1688~1703)、華麗絢爛を競う時代背景を反映して、京都は伝統工芸の黄金時代を迎えました。特に染織工業においては、幕府・諸大名・各寺院が大いにこれを賞美し、それぞれ京都の呉服師を召し抱え、西陣と京染でなければ着用しないほどになりました。

    それに応じて町人の潜在的勢力もまた増大し、士農工商として身分的制約を受けていた町人は、その勢力を表現するためにまた京呉服を珍重して、西陣・室町を中心とする京都の染織工業界は、未曽有の活気を呈しました。

    この結果、「かつての京都のように、政治・経済・文化を集中し、独占した首都ではなくなったが、服飾・器物はみな優美、染織業の名声と信用は日本第一となり、染織呉服における京都の地位は牢固として抜くべからざるものとなった」のです。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    「現金掛値なし」をうたい、京都・東京で豪富を誇った三井越後屋

    こうして致富商人となった室町商人は、次第に呉服だけでなく金融業も営むようになりました。そうした室町商人の最も代表的な人々が、千治・千總・千吉を始めとする千切屋一門であり、松坂より京都に上り、現在も財閥として名をはせる三井組、三井とともに幕末に京都の三大金融機関の役割を果たした島田組、小野組などです。

    さて、染織産業の全盛期であった元禄時代を越え、室町は再び受難の時代を迎えるのです。

    (つづく)

    (なお、本稿は京都織物卸商業組合編、足立政男著「室町の歴史と室町商人」を参考にした)

  • 西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣物産会社消滅とその後の京都府辞令

    前回はこちら

    古来より西陣は織物の産地であるといい、あたかも一般製造業とは種別が異なるものであるように見えるといえども。一歩引いてみれば、その実態は一般製造業と大して変わりません。

    明治前半まで活躍した紋織用織機「空引機」を使用している様子。西陣呼称500年記念事業で復元され、555年記念事業で再び使われるようになった

    伝統工芸品として有名な西陣織の産地・西陣は、糸や染料、織法等々と、コスト意識の高い他産地とは一線を画す製造技法を持ってはいます。しかし結局は製造原価があり、卸値(下代)があり、その先の小売価格(上代)があります。西陣に限らず、商売に長けた販売業者が売る側より立場が強くなるのは、世の常であるといえます。

    西陣物産会社が自然消滅して数年後、明治10年に、京都府から辞令が下りました。

    当府下西陣織物之義は、古来連綿し名誉海内に冠たり、維新後益盛んに行われ、随って機数も又往年に倍数せしに乗し、 一時の流行に甘んじ眼前の小利に迷い争って、粗悪の品を濫製し甚しきに至っては、擬色綿糸入等の品を以て正品に相混ぜ、世人を眩惑し、其為め正品の名誉を失貶せしめ、終に物品も不揃にて土地衰微に陥り、今日の景況或は糊口を凌ぎかね候う輩少からず、嘆く可き事也。依て織工及仲買商等、衆議の上取締の為め上京八区智恵光院一条上ル橋町に織物会所開設し品物を検査し濫製の悪弊を一洗し、世人の信用を保全せんが為め製品に証紙貼用の方法を設け、西陣織の名称を以て織物販売する諸織工及仲買共へは一般免許鑑札を下渡す。(中略)
    但し本文の通り施行申付け侯上は、来る十一月一日以後無証紙の品は不正の品と見做し、規則中第六条の通り取り計らうべき儀に付き、兼て商家に買置き候品共、十月三十一日限り検査を受け証紙を貼用致すべき事
    明治十年九月八日 京都府知事 槇村正直

    すなわち西陣物産会社に代わる、西陣織物会所の設立辞令です。要約すると、
    ・粗製乱造が問題になり、商売に影響が出ている
    ・西陣織の信用を回復するため、西陣織物会所を設立すべし
    ・西陣織物会所は、織屋・仲買商ともに、製品検査・証紙貼用を徹底させるべし
    ・職工及び仲買商は免許制を取る

    ことが言い渡されました。

    明治の初めごろは明治維新・東京奠都で西陣が衰退するのではないかと思われていたのが、明治10年ごろにはすっかり杞憂となりました。むしろ庶民の服装が自由になったこと、女性の外出・交際の場面が広がったことから、豪華な織物を織り出す西陣織物の需要は増し、特に帯地・着尺御召※1・繻子※2で活況を呈しました。

    その好況を受け、数千軒を数える西陣織屋の中には、正絹と称して綿を使用したり、退色が激しい擬色錦糸を使用したりと、粗悪品を製造する所が現れてきました。西陣織物会所設立の辞令が下ったのは、こうした背景があるといえます。

    ※1 「西陣お召」で有名な、強く撚りをかけて丈夫さを増した横糸「御召緯(おめしぬき)」を使用した高級きもの用生地。11代将軍徳川家斉が好んだことからこの名前がある。現在は「西陣きもの会」が商標を実質管理している。
    ※2 スーツやパーティードレスの裏地などによく使われる、さらさらとした生地。サテンとも呼ばれる。光沢が華やかさや高級感を演出する。平織・綾織(斜文織)と並ぶ三原組織の一つ。

    西陣織物会所の組織機構と仲買商

    前回の西陣物産会社で、織屋を専門ごとに18社に分けたことが業務の複雑化を招いたとの反省がありました。そのため今回設立された織物会所では、8社にまとめられることとなりました。※1

    西陣織物の品質改善が開設の眼目であったため、良品を仕入れて販売するのが生業の仲買商も、織物会所の設立にかかわることとなりました。仲買商は地域別に5組に分けられ、それぞれ仁組・義組・礼組・智組・信組と名付けられました。※2

    こうした組み分けに従い、役員は選挙で選ばれ、京都府勧業課によって開票・任命を受ける仕組みであったようです。役員は取締役と呼ばれました。

    仲買商よりも織屋の方が断然多く、したがって票数も織屋の方が断然多いにもかかわらず、歴代取締役のうち、4分の3は仲買商となる結果になりました。これは従前より、織屋より仲買商の方が商慣行上、立場が強かったことに加え、資力に勝れる仲買商が、言ってみれば金に物を言わせて、当選を勝ち取ったのではないかと推測されます。
    後の時代の西陣織物業組合、織物製造業組合、織物同業組合等々の組長選挙でも、買収・賄賂何でもありの伝統があったようです。

    織物会所で設けられた織屋の8社(8部会)には、西陣物産会社同様、それぞれ3名の肝煎(役員)が置かれました。その中には、佐々木清七、喜多川平八、人見勘助など、のちにも名前を残している人も見えます。

    なお組合事務所は、上京区智恵光院通一条上ル橘町に置かれました。この場所は西陣最大の席貸し料理店で、広く見事な庭園を備えた木造二階建ての建物だったようですが、経営困難に陥り、この会所に借り入れられたものであった、と記録にあります。専用の組合事務所を持ったのはこの時が初めてで、この建物こそが西陣織物館の先祖といえます。

    現在、この場所は公園になっています。ネットがあって野球等の球技ができ、結構広いので、小学生の憩いの場として大いに活用されています。

    現在の織物会所事務所跡。橘公園

    ※1 紋織社、生紋社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社
    ※2 仁・義・礼は上仲買、智・信は下仲買の者がまとめられました。上仲買とは産地の近くで織元から買い付け、下仲買に流す業者で、下仲買はおおむね上仲買から買い付け、全国に流す業者です。なお初代筆頭の名前を見ると、礼組に矢代仁の矢代庄兵衛が、信組に千治の西村治兵衛が見えます。

    さて、織物会所がどのような組織かはわかりました。では中心となる証紙事業とは、どのようなものだったのでしょうか?

    証紙事業の始まりと西陣織物の信用回復

    当時使用された証紙。西陣織物館記より

    織物会所の設立理由は、粗製乱造を問題視した京都府からの厳命であったので、粗悪品と正品を見分けて分別するのが組合事業の中心だったと言って差し支えないでしょう。分別した結果を示すのが証紙であり、この証紙事業は、細かい部分は変わりつつも、現在の西陣織工業組合にも引き継がれています。

    織物会所で行われた証紙事業は、西陣織屋すべてが製品検査を受け、正品・錦緯・擬色に3分し、製造元の名前を記した証紙を貼用するものでした。密告の義務があり、製造元たる西陣織屋・販売者たる仲買商の両方に責任があり、違反者は売却金額全額を京都府が没収するとのことで、当初の実績は上々、1枚1銭と定めた証紙の売上は1万198円31銭に達しました。

    この証紙事業は大いに成果を上げました。生産品の正否を鑑別し、その結果を組合員の名前まで付して明示したのは日本で西陣が初めてであり、これは全国の産業組合に範を示す看板事業となりました。

    原反検査が行われるとあって、粗製乱造を行っていた織屋は粗悪品の製造を差し控えるようになり、信用は徐々に回復しました。検査に買主である仲買商も関わったことも大きく、実際に買主が見て証紙を発行しているため、需要も自然と活発化してきました。

    加えてこの時代の西陣織物の活況には、西南戦争に伴うインフレと、それを見越した仲買商の注文増加があったこともありました。ともかく信用を回復した西陣は、一時活況を呈しました。

    とはいえ、お上から言い渡された命令が長続きしないのが西陣です。時間がたつにつれ、物産会社同様、有名無実化していきます。

    証紙事業と織物会所の自然消滅

    松方大蔵卿

    しかしながら、この証紙事業の意義はなかなか理解されなかったようです。西陣織物館記にある、初代取締も務めた橋本伝蔵氏の言によると、「槇村知事様ご立腹非常にて、金を返さねば織屋商売成すこと相成らずとまで仰せられ種々とご心配の上、西陣織物会所と改称せられ1枚1銭の証紙の収入をもって消却の道を立てられ……」と当時理解されていたようです。

    つまりは西陣物産会社時代、なし崩し的に払わなくなった借金を返済させるため、機別出銭に代わる徴収方法として、証紙事業を命じたと考えられていました。

    実際、証紙事業で定められていた罰則は、ほとんど有名無実化しました。西陣で産出される織物は数が多すぎて、すべての原反検査をやり続けるのは現実的に難しかったのです。違約金を徴収するにも徴収の方法がなく、密告が行われたとて、京都府の警察権は江戸時代ほどではないのも大きな理由でした。

    そのため、西南戦争によるインフレが終わり松方デフレが到来したことも手伝って、明治14年ごろには証紙貼用が行われなくなり、検査にも出されなくなりました。証紙事業以外に収入がない織物会所は屋台骨となる事業を失い、取締役を務める意義を感じなくなった仲買商諸兄は、病気と称して退任し、織物会所はその機能を停止せざるを得なくなったのです。

    (つづく)

  • 西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物1000年の歴史といえど、現在の組合組織ができたのはそう昔のことではありません。

    現在、西陣を代表する業界団体は西陣織工業組合(1973~)ですが、西陣では明治以降、業界団体がいくつか現れ、そして消えていきました。

    明治維新により、日本社会は前代未聞の変化を見ることとなった

    明治維新と西陣、室町

    江戸時代の西陣では、朝廷や幕府、諸大名といった大口の注文を請ける「御寮織物司」を頂点として、高級な紋織物を織りだす「高機八組」があり、そのほか「西機」と呼ばれる大衆織物部があるなど、ヒエラルキーが形成されていました。

    しかるに明治時代に入ると、四民平等や営業の自由の論議が盛んとなり、近世日本で支配的だった徒弟制度や人権無視の仲ヶ間団体は、急速に破壊に向かいました。徒弟制度によって生産体制を維持してきた西陣の大店も大きな打撃を受け、さらに東京奠都と明治維新、政府の欧化政策で、公家や有力諸侯の需要が消失し、西陣は大きな打撃を受けました。

    ※.有職織物など。明治政府はフォーマル着を洋装と指定した

    江戸時代の組合組織ともいえる「仲ヶ間」の制度は、営業の自由を制限し、新規参入のハードルとなるものでした。いくら明治維新といえど、旧商人がすべて営業をやめてしまっては京都の経済は立ち行かなくなるでしょう。
    そこで京都府は「鑑札」なる営業の許可証を制定・公布することで、旧商人に寄り添う姿勢を見せることにしました。そのときの文献が残っています。

    今般御大政御一新に付き、総て旧弊御廃止に相成り、商法御会所御取建仲ヶ間へ夫々御鑑札御下けに相成る。壱番組織屋仲ヶ間並びに壱番組仲買より御鑑札を下し置かれたのはありがたきにより、この商法速かに相立候故、新たに双方立合実意を以て熱談致し候。而して確定の上、今より壱番屋方に而織出し候品は、従来共御仲ヶ間中に限り売渡し来たる候儀に付き、猶又相改め、壱番組諸織物限り以来決して他に売致さまじく候。仍ち而不相変其御仲ヶ間へ売渡侯間、已後不実成取引等無之樣、西陣壱番組織屋小前之者に至る迄引き立て…(西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札 明治元年)

    これまでの商慣行を続行できると喜びの声を上げていることが読み取れます。同様の議定書が仲買側にも残っています。生産者と流通業者が手を取り合ってこの難局を打破しようとの空気が伝わってきます。

    東京奠都による京都荒廃に対する危機感は、行政も共有していました。これが、後述する西陣物産会社の設立に繋がります。

    西陣物産会社の設立

    明治二年、京都府知事の長谷信篤は、西陣織物産業を保護奨励するため、有力者を招致して、織物業者の新団体を結成させました。当時、京都府の大参事に就任した槇村正直は、維新政府の中心人物である木戸孝允を動かして、産業基立金10万両を天皇の御下付金として受け取り、京都の産業育成につぎ込もうとしていました。

    この一部を西陣に振り分けるにあたり、封建時代の遺物である仲ヶ間制度を廃止し、新産業組織による団体を結成し、それを基盤として、西陣産業の育成と全西陣統合体に貸付金の責任を持たせようとしたのです。

    槇村正直の掛け軸。「業は勤(はげむ)により精(くわし)く嬉(たのしむ)により荒む」

    「西陣織物館記」の編者前田達三は、京都府が西陣物産会社設立を命じたことについて、旧来の西陣織屋仲ヶ間の構成員は、明治維新により平等になったため、この際西陣織屋のヒエラルキーも解消し、全く新しい出発点に立脚した組合組織を結成しなければならないと考えたからであろう、と分析しています。

    古来より品種が多様な西陣織物は、各専門によって織屋の利害関係も変わります。そこで専門別に18の社に分け、西陣物産会社は各社を統括する役目を負いました。各社にはそれぞれ自主性を持たせましたが、実質的には西陣物産会社の下働きが主であったようです。現在は廃止されましたが、最近まで西陣の組合にあった部会制と近い制度と思われます。

    ※.模様社、金欄社、紗織社、博多社、繻子社、夏衣社、真古帯社、綸子社、縮緬社、羽二重社、古帯社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社、精好社、絵絹社、練絹社の18社。数年後に精好社、絵絹社、練絹社は合併して三品社に、天鵞絨社から絹天社が独立して17社となった。

    西陣物産会社の役員は、18各社から選挙で3名、肝煎として選ばれた人の中から、京都府が適当と思うものを任命しました。なお、各社から選挙で選ばれた18×3=72名は公任役人の資格となり、会社役員は世話役、その主任者は世話役惣代と呼ばれました。世話役惣代も京都府が任命しました。

    京都府が西陣物産会社へ3万両貸付

    さて、明治維新による政情不安、生活の欧化による需要の大幅な変化、かつてのお得意様であった各藩の指導層、朝廷の公卿といった上流階級が、その存続基盤をそろって脅かされたことにより、高級織物産地である西陣は需要先を失い、深刻な経済不安に陥りました。

    当時の西陣織屋は資力に乏しいものが多く、製品の滞留はそのまま倒産につながる状況です。売れ残りを安売りする者も出て、結果的に相場が崩れることにもなりました。

    この状況を見た京都府は、西陣に3万両を貸し付け、機業振興に使わせるようにしました。問屋による買いたたきを問題視していた物産会社は、取引改善を目的として、この3万両で織屋の滞留品を買い取り、代わりに適正価格で販売することとしました。

    仲買商が取引で重要な役割を果たしている時代にもかかわらず、組合が仲買商の真似事をしたことで、仲買商がそろって不買運動を行う結果になりました。結局、商人でない織屋が売りさばかなくてはいけなくなり、結局ほとんど売れ残って3万両の借金が西陣にできました。

    京都府からの借入金を西陣に流したことにより、西陣の織屋資力に余裕ができた側面もあるでしょう。ただし、幕末の貨幣価値から言って(だいたい1両=3000円くらいと言われています)、3万両のお金は広い西陣には少なすぎ、特に大きな効果を挙げられたとは思えません。

    また、京都府からの度重なる督促に、物産会社は仕方なく機別出銭を行い、西陣全体からお金を集めることになり、返済の目途を付けましたが、西陣の組合員からは不満をためることとなりました。

    ※.各社の機台数によってお金を集める仕組み。誤解を恐れずに言えば、固定資産税や法人税に近い

    西陣のジャカード導入と博覧会

    西陣物産会社にはもちろん大きな功績もありました。最も大きなものはジャカードの導入で、次に漸次回復してきた西陣の生産能力を、博覧会への協力により世間にアピールしたことです。いくつか挙げましょう。

    第1回京都博覧会の写真。西本願寺

    ・第1回京都博覧会
    明治5年、長谷京都府知事や槇村大参事を中心に、京都の官民を挙げて大々的に行った博覧会。会場は西本願寺、建仁寺、知恩院。京都古来の物産をはじめ、全国各地の名産、骨董品等2,485点を出品。明治天皇のご臨幸もあり、皇室の御買上品は西陣織物と陶器のみでした。この事実は西陣の自信となり、気風も一新されたようです。一方でこのとき、西陣機業の後進性に気づかされ、欧式の織機具であるジャカード導入のきっかけとなったことに注意が必要です。

    ・オーストリア万国博覧会
    ウィーンでの万国博覧会に参加。日本の国威を諸外国に見せつけるために明治政府が行った事業で、日本の美術工芸物産を陳列。西陣から派遣された4世伊達弥助・早川忠七は、日本からの他の随行員同様、欧州各国を視察研究し、織機そのほか1200余点の機械器具を購入しました。

    ・第2回以降の京都博覧会
    明治6年からも、西陣物産会社は京都博覧会に協力。第3回は当時フランスから持ち帰ったジャカード織機を運転公開し、第4回以降も物産会社が製織実演を行いました。第5回は三上復一、中西昌作、喜多川平八らが品評方(審査員)に推挙されました。西陣織物の褒章受領も抜群で、西陣機業の発展が認められた博覧会です。

    ・京都府洋式機械工場(織殿)への協力
    京都府の事業により、欧州の先進的技術を会得した西陣は、京都府の設置した織物伝習所に協力することになりました。伝習所に派遣する物産会社の世話役等の経費は物産会社持ちであったため、京都府に嘆願書を出して、この経費は前述の借金を相殺することで賄うこととしました。

    このように功績もあげた西陣物産会社ですが、次第に存在意義は薄れていきます。

    西陣物産会社の自然消滅

    以上見てきたように、明治維新の動乱で大打撃を受けた西陣は、物産会社の設立や3万両の貸付、ジャカード導入など、京都府の資金面・制度面での援助により、無事に立ち直りを見せました。

    しかしながら西陣物産会社は、もともと一致団結して不景気を乗り切る目的で設立されたものだったので、織屋各社がそれぞれ単独で行動できる以上、だんだんと有名無実化していきます。

    明治8年ごろになって、庶民の服装が自由となり、さらに女性の活動範囲が広がったことで西陣織物の需要も活発化し、織屋各社の活動が旺盛になってきました。それに伴って西陣物産会社の役割も小さくなっていき、組合員各社は時々名前を利用するのみとなります。

    とはいえ業界団体たる組合は、西陣機業家全体を対象にするとき必要になります。行政からの命令もそうです。次に組合組織が新たに設立されるのも、京都府令が下った時でした。

    (つづく)

    以上、前田達三編「西陣織物館記」北村哲郎「技術と製品の歴史」ほかを参考にした。