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カテゴリー: 歴史

  • 西陣織物同業組合沿革史(3)

    西陣織物同業組合沿革史(3)

    二、組合存立中の機構の変遷

    本項こそは、組合沿革史の重点となるべき性質のものであるが、記述の便宜上、存立中の主なる事業及業績は第三章に、また存立中に於ける累年の西陣織物生産額・操業戸数・機台、並に組合の機構及情勢をその儘反映する累年の予算額、決算額等はすべて第五章の統計に、更にその略歴は第六章の年表に夫々譲り、また四十一年間に於ける組合制度の変遷に就ては、本章第一項創立当時の定款と、第四章第二項組合最終時に於ける定款とを対比してこれを推知さるべきを以て、玆には単に組合の地区、業種の変遷、事務所及び組長・副組長・評議員会正副議長・組合正副議長、並に理事又は事務長の進退のみを記述するに止める。

    地区 創立当時京都市一円と、愛宕郡内田中・上賀茂・大宮・白川・下鴨・鷹ヶ峰の六ヶ村(田中・白川・下鴨の一部は大正七年京都市に編入され、上賀茂・鷹ヶ峰及大宮の残部は昭和六年京都市に編入さる)葛野郡内大内・七条・朱雀野・花園・衣笠の五ヶ村(大内・七条・朱雀野・衣笠は大正七年、花園は昭和六年京都市に編入)を以て地区とした組合は、大正三年十一月に至つて愛宕郡野口村(大正七年京都市編入)を地区に加え、大正十一年四月には愛宕郡松ヶ崎村(昭和六年京都市編入)及葛野郡太秦村(同年京都市編入)に拡大し、次いで昭和六年四月伏見市外接続二十六町村の京都市編入に依り、昭和九年五月に至りこれら新市域全部を包含する所謂大京都市一円を以て組合の地区とし、明治二十五年に於ける西陣織物製造業組合当時の地区面積を等しくするの大区域となり、以て組合解散の昭和十三年三月に至つたのである。

    業種 創立当時の業種は、織物業・紋様業・撚絲業・筬業・綜絖業の五種で、明治三十三年十月紋鑿業者を加えたが、明治三十七年綜絖紋鑿業を除き、更に明治四十一年十一月撚絲業を削除し、爾後二十四年間業種の異動なかつたが、昭和六年八月買継業者を加え、昭和九年三月には織物業者中着尺織物業を削除して、解散当時は織物業(着尺業者を除く)紋様業・筬業及買継業の四業種であつた。

    事務所 事務所は創立とともに、上京区元誓願寺通黒門東入ル寺今町五十四番地に設置したが、織物消費税徴収事務を取扱ふに至り、著しく狭隘を告ぐるに至つた為め、明治四十年六月元誓願寺黒門東入ルに増築し、更に組合機構の整備と、各種事業の拡大とに伴ひ、大正二年三月、大正天皇御即位の大禮を記念として、組合事務所の移轉改築を、織物參考館建立の計劃に併行し、今出川大宮東入ル元伊佐町二百六十五番地五百五坪一合一勺の用地を買収、建築委員二十名を囑託して、同年四月より着工、十一月定礎式を擧行、大正三年十一月、織物館に先立つて事務所の竣工を見、ここに二十餘年を経過したが、組合機構のいよ/\擴大につれて漸次狭隘を感ずるに至つた爲め、昭和十年四月改築の議纏まり、同年六月より九ヶ月間に亘り、一時織物館を閉鎖して事務所に充て、其の間改築を完成、昭和十一年三月十一日竣工式を擧行した。 同建築の内容及工事概要を示せば次の如くである。

    項目内容
    敷地面積一、六八五、〇〇平方米
    建築面積建坪三六八・七五平方米、延坪一、二九〇・一八平方米。内譯(平方米)地階一二一・七六。一階三六八・七五。二階三四八・〇三。中二階六〇・三三。三階三四八・〇三。屋階五八・七三。他に附屬家四四・八八
    建築高正面塔屋扶壁上端(新地盤線より)一八・八〇米。屋階扶壁上端(地盤線より)一五・八〇米。
    室配置地階 煖房機關室・下足室・倉庫・安全庫・貯炭場。一階 玄關・同廣間・應接室・組長室・理事室・北事務室・南事務室・手洗所・金庫室。
    二階 階段廣間・談話室・議長室・評議員室・事務室・控室・手洗所・準備室。中二階 書庫。三階 階段廣間・議場・西控室・東控室。屋階 南豫備室・北豫備室・露臺
    様式構造近世式鐵筋コンクリート造

    役員

    創立より明治四十年前後にかけては、組合内部の結束も未だ充分といふの域に達せず、組長以下役員の進退は甚だ頻繁を極めたが、明治四十年代より、歴代役員の献身的努力と、一方には織物消費税の徴収に附隨する手数料の収入等により、組合財政漸く鞏固となり、各種の事業經營亦次第に順調を辿つた爲め、組合員の結束も、役員の地位も安定し、且つ人材相次で現はれ、本格的軌道に乗つて、中には組長在職十八年といふが如き記録を見るに至つた。 その役員機構は、創立当初正副組長各一名、評議員十四名であつたが、明治三十三年十二月以後副組長を二名とし、評議員を五名に減少して、新に監事三名を置いたが、大正六年三月組合法及同施行規則の改正に伴ひ、監事を廢止して、評議員五名を九名に増員、大正十一年三月以後、事務の繁劇により副組長二名を三名に、評議員九名を十一名に夫々増員したが、昭和九年着尺織物業者分離の結果、副組長一名、評議員二名を夫々減少して最終に至つた。尚此の間代議員、部役員等の選出方法及定員等に於て、數回の改廢が行はれた。組長以下主なる役員の異動は次の如くである。

    組長

    氏名就任年月退任年月
    人見勘助明治三一、一〇明治三三、二
    松室以忠明治三三、三 明治三四、八
    内藤小四郎明治三四、九明治三六、一
    人見勘助 明治三六、一明治三六、九
    鎌田清兵衛明治三六、一一明治四〇、三
    伊達虎一明治四〇、六明治四二、七
    池田有蔵明治四二、七昭和二、四
    大島佐兵衛昭和二、六昭和三、一二
    細井恒次郎昭和四、七 昭和六、一〇
    長谷川市三昭和六、一〇昭和一三、三

    副組長

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    松室以忠明治三一、一〇明治三二、三
    藤村岩次郎同 三三、一二同 三四、九伊達虎一明治三二、三明治三四、八
    氏名就任年月退任年月龜山利兵衞同 三四、八同 三四、八
    杉本乙吉同 三四、九同 三六、一時岡利七同 三四、九同 三六、一
    小林清三郎同 三五、一二同 三五、一二柏木正太郎同 三五、一二同 三五、一二
    稲田卯八同 三六、一同 三六、六山下槌之助同 三六、一同 三八、二
    鎌田清兵衛同 三六、七同 三六、一一山村彌太郎同 三六、一一同 三七、一二
    小林清三郎同 三七、一二同 三八、九西村卯三郎同 三八、二同 三八、八
    伊達虎一同 三八、九同 三九、一二鳥居榮太郎同 三八、一〇同 三九、一二
    田畑庄三郎同 三九、一二同 四〇、三井上力造同 三九、一二同 四〇、三
    田畑庄三郎同 四〇、六同 四一、一二安本宗七同 四〇、六同 四二、八
    家島源次郎同 四一、一二大正 一、一二池田有藏同 四二、一二同 四二、七
    服部徳三郎同 四二、七明治四三、一二小谷孫兵衞同 四三、一二大正 三、一二
    小野政次郎大正 一、一二大正 七、一二西村孫兵衞大正 三、一二同 四、一
    田畑庄三郎同 四、二同 五、一二大島佐兵衞同 七、一二同 九、一二
    山田九藏大正 七、一二大正 八、一二小野政次郎大正 九、二大正 九、一二
    野淵龜吉同 九、一二同 一五、一二大島佐兵衞同 一一、一二昭和 二、六
    梶田繁次郎同 一四、六昭和 五、一二山地卯三郎大正一五、一二同 六、一一
    長谷川杢治郎昭和 二、六同 五、一宅間佐助昭和 五、一同 九、一〇
    吉田寅之助同 五、一二同 八、三渡邊文七同 八、一二同 一一、一二
    岡村吉之助同 九、一〇同 一三、三山中治郎同 一一、一二同 一三、三

    理事(大正十四年七月までは事務長と稱す)

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    長尾時春明治三一、一二明治三四、八四方友吉明治三四、九明治三五、一二
    植田利七同 三六、一同 三八、九羽室龜太郎同 四〇、六同 四三、四
    田中盛憲同 四三、五大正一二、六山下又三郎大正一二、六昭和 三、二
    小西辨次郎昭和 三、二同 一三、三

    評議員会議長(大正六年以前は組長を以て議長に當てた)

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    時岡利七大正 六、四大正 七、二堀田傳七大正 七、二大正 七、四
    外池治三郎同 七、五同 九、六山地卯三郎同 九、六同 一三、一二
    長谷川杢治郎同 一三、一二同 一五、一二山中治郎同 一五、一二昭和 三、一二
    宅間佐助昭和 三、一二昭和 五、一吉田寅之助昭和 五、二同 五、一二
    加藤宗三郎同 五、一二同 一三、三

    評議員会副議長

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    堀田傳七大正 六、四大正 七、二藤井彦四郎大正 七、五大正 七、一二
    諏訪幸次郎同 七、一二同 一三、一二木村多四郎同 一三、一二同 一五、一二
    村田永治郎同 一五、一二昭和 三、一二小野内清三郎昭和 三、一二昭和 五、二
    山本恒三郎昭和 五、一二同 八、三山中治郎同 八、五同 八、一二
    家島敬造同 八、一二同 一一、一三栗田春吾同 一一、一二同 一三、三

    組合会議長(明治四十年まではその就退年月等に確實なる資料を缺く)

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    植田利七杉本乙吉
    岸本傳吉秋山行藏
    長谷川杢治郎明治四一、一二明治四二、二服部徳三郎明治四二、二明治四二、七
    加藤宗三郎同 四二、七大正 五、一池田篤三郎大正 五、一大正 五、一〇
    元川喜之助大正 五、一二同 七、六加藤宗三郎同 七、七同 七、一一
    竹田守彦同 七、一二同 七、一二加藤宗三郎同 七、一二昭和 五、一二
    岡村吉之助昭和 五、一二昭和 九、一〇太田益太郎昭和 九、一〇同 一一、一二
    家島敬造同 一一、一三同 一三、三

    組合会副議長(明治三十三年まではその就退年月等に確實なる資料を缺く)

    氏名就任年月退任年月氏名就任年月退任年月
    杉本乙吉
    松本武男
    加藤宗三郎明治三三、三明治四二、七山田九藏明治四二、七明治四三、一一
    元川喜之助同 四四、一大正 三、一吉田寅之助大正 三、一大正 三、一一
    久保長次郎大正 三、一二同 四、一元川喜之助同 四、一同 五、一
    竹田守彦同 五、一同 五、一〇林政次郎同 五、一二同 六、一
    富田喜三郎同 六、一同 七、一長谷川杢治郎同 七、二同 九、一一
    谷新七同 九、一二同 一一、一一河口鐵次郎同 一一、一二昭和 三、四
    美藤富吉昭和 三、一二昭和 五、一二太田益太郎昭和 五、一二同 八、一一
    西村清三郎同 八、一二同 一一、一一杉本三郎同 一一、一二同 一三、三
  • 西陣織物館記(明治八年~十年、西陣織物会所(1))

    西陣織物館記(明治八年~十年、西陣織物会所(1))

    第三章 西陣織物会所

    第一節 西陣織物会所設立原由

    京都府布令第二百三十号西陣織物会所設立命令

    明治十年九月八日、京都府布令第二百三十号を以て、織物会所設立と、其趣旨を布達した。

    第二百三十号

    当府下西陣織物之義、古来連綿シ名誉海内=冠タリ維新後益盛ンニ行ハレ随テ機数で又往年二倍数セシニ乗シ 一時ノ流行=甘シ眼前ノ小利二迷ヒ争テ粗悪ノ品ヲ濫製シミツキニ至テハ擬色綿糸入等ノ品ヲ以テ正品二相混 世人ヲ眩惑シ其為正品ノ名誉ヲ失貶セシメ終二物品モ不揃ニテ土地衰微=陥り今日の景況或へ糊ロヲ凌兼侯 輩不少嘆ク可キ事也依繳工及仲買商等衆議,上取締,為メ上京八区智恵光院一条上ル橋町二織物会所ヲ開設 シ品物ヲ検査シ濫製ノ悪弊ヲ一洗シ世人ノ信用ヲ保全センガ為メ製品ニ証紙貼用ノ方法ヲ設ヶ西陣織之名称ヲ 以テ織物販売スル諸織工及仲買共へへ一般免許鑑札ヲ下渡尚自今新営ノ者共ニ於テモ都テ西陣一同協議ノ件々 相共々確守侯樣厚豪保護度旨連名ヲ以テ願出侯ニ付聞届去ル七月十五日ョリ別紙規則書之通施行申付候条其旨 可相心得事

    但本文之通施行中付侯上へ来心十一月一日以後無証紙ノ品へ不正之品ト見微シ規則中第六条之通り可取計儀二付兼テ商家二買置侯品共十月三十一日限検査ヲ受証紙貼用可致事

    右之趣管内無洩相達者也

    明治十年九月八日

    京都府知事 槇村正直

    右布告の通り、西陣織物の粗製濫造を防止して、信用を回復する為、有名無実となっている西陣物産会社を廃して、西陣織物会所と称する組合の開設命令と共に、製品検査、証紙貼用、職工及仲買商の免許制度実施を申付 たものである。

    西陣織物会所開設命令布達の理由

    明治元、二年頃に於ける、西陣織物の前途に対する心配も、幸に杞憂とな つて、千年もの以前から拘束せられた、庶民の服装の覇絆が解放せられ、着装、色彩の自由を得ると共に、時代 の潮流による、婦女の外出交際面が広くなった事から、外出衣裳の需要が増加し、流行が生じた事により、生産及販売面が広くなり活況を呈し、殊に帯地、着尺御召、繻子の需要は、前途に大きな光明を生ずるに至つた。 製品の取引が旺盛になると、粗製濫造品が現れるのが西陣のみでなく、日本産業の宿弊と云われるが、当時の西陣には其れが特に劇しかったようである。

    例ば正刷物と称して縮緯を使用したり、製品に金属粉をなすり付けて、重量を加えたり、尺足らずの庇物混入、退色脱色する物、当初から使用に堪えぬ物さえあって、明治七、八年頃には、西陣織物取引には油断がならぬと、信用が失墜して来たので、優良品の製造に努力せる者は、頗る迷惑を感じ、仲買商は一律に仕入の警戒をすると共に、品質鑑別に苦心をせねばならない状態となった。尤も仲買商も段々で中には織屋に巧妙な粗製品の製造を注文する者も無いでもなかったが。其為西陣織物の生産と売行に顕著な悪影響が現れて来た。

    明治四年度より同九年迄の西陣織物生産及設備並に織物業者数表

    イ、統計表

    同9年同8年同7年同6年同5年明治4年年度
    生産数量
    6,876,969円6,894,767円7,468,637円7,257,650円7,334,046円7,486,839円生産金額
    7,592台6,922台7,839台7,753台7,853台7,839台設備織機台数
    4,661人3,164人4,812人4,763人4,764人4,812人織物業者数

    ロ、略説

    (一)本表中生産数量は、記録が無い、後年の本表は生産数量の単位を点として表わして居る、西陣は他産地と 黒り、多種多様の銘柄を生産する土地であるから、点数のみで表示しては事実に相違するものがある、例 ば結子織巾一尺七寸長サ三丈六尺も一点。骰子織巾二尺三寸長サ一丈四尺も一点。極端になると、一尺六 寸角手巾帛紗も一点。であるから、此時代は記録として数量を計上し得なかったものと思われる。

    (二)生産金額は正確に近いと思ってよい、当時の単価を表したものは保存して居ないが、明治二十六年の相場表から推算すると、錦織、中二尺三寸長サ三丈物補檔或は女帯地用が、中品六円位。繻子織、中二尺三寸 長サ一丈四尺女帯地、一円五十銭位。であつた。

    此時代の生産金額は織屋の売値と統計表とに殆ど開きが無いから、僅少の生産金額の高低も、織屋の懐具 合に、深刻な影響を与え。明治八年九年の生産額減少に大狼敗したのであるが、明治十年には回復の徴候 が現れた。

    自設備台数は、手織機のみの数であつて、自前業者の設備は、平均台数三台。賃業者は資力薄く一台か稀に 二台も持つ者は、自前業者とならんとする勤勉家であった。

    高機と繻子機と二枚機とは、装置に格段の相違があり、従業者も高機は多人数を要す。

    回織物業者数は自前、賃業両者合算であるが、自前業者数を賃業者数の三分一と見れば、一六〇〇人となる (戸としても宜い)。

    明治八年の織物業者数の減少が、一七○○人となつて居るにも拘わらず、設備台数の減少率が少ないの は。高機は空引であるから、織機一台に付必ず、織手一人空引一人手伝一人以上を要する。之等の熟練者は徒弟、奉公人、家族同様の者も多く、手間取りでも好い技術者は手放したら補充が困難であるから、少々位の不景気では設備を廃止することは出来ない。又粗製濫造の弊害が生じたと云つても。高機織屋の信用は絶対不動であつて、寧ろ優秀品は争って引取られたと思われる。従って此表の織物業者の減少の主たるものは、賃業者か新規営業者であつて、経験の浅い、不良織屋であつたと謂える。

    第二節 西陣織物会所規則

    前節布告中に「別紙規則書之通施行申付候」とある。

    西陣織物会所規則(全文)

    一、西陣織物ヲ盛大二販売セント欲セバ旧来ノ弊風一洗シ品位精良ニシ無益ノ費ヲ省キ価ヲ廉ニシ広ク通 商ノ道ヲ開カン為メ職工並二仲買商業会協議,上西陣織物会社設立シ該物品ヲ検査シ精祖ヲ判別シテ証紙ヲ貼用シテ以テ向来製品ノ名誉挽回シ公益ヲ計ランヿヲ要シ肢会所ニ於テ施行スル条款左ノ如シ

    第壱条
    一織物並仲買商ニ於テ濫製ノ物品売買致ササル為メ会所ニ於テ検査ノ上織品ニハ悉ク証紙ヲ貼用シテ他ノ模擬贋製スルモノト判然識別セシムベシ但証紙ハ会所ニ於テ印刷スベシ

    第二条
    一製品ニ精粗アリ価二高下アルト雖モ唯適当ノ価ヲ以テ売却シ欺罔眩惑セサルヲ要ス故二正品へ正品綿緯ハ綿緯擬色ハ擬色タルノ証紙ヲ糊貼シ之ヲ発売スヘシ

    第三条
    一都テ織上タル品ハ何ニ不依先ツ製造人ノ住所姓名ヲ記シタル標紙糊貼シ実印ヲ以テ消印サスヘシ尤反物類ハ壱度帯地類ハ壱条毎ニ貼用シ弐反続ニハ弐葉ヲ貼用シ悉皆会所ヘ出サス可シ
    但標紙ノ恰好印影等ハ織物製造人ノ適宜タルヘシ

    第四条
    一会所二差出タル諸織物検査シタル上ハ左ノ図ノ如キ三色ノ証紙ヲ貼用シ正品擬色綿線ノ区別ヲ判然タラシム但此証紙ハ製造人姓名標紙ノ傍ニ湖貼シ且消印ス可シ(左ノ図証紙ハ本章第六節ニ掲出)

    第五条
    一会所ニ於テ証紙貼用ニッキ検査手数料トシテ証紙一葉金壱銭ノ割ヲ以テ収入ス可シ

    第六条
    一製品検査ヲ不受又ハ証紙ヲ貼用セスシテ織主ヨリ発売スル者アルニ於テハ違約金トシテ其売却金高ヲ売主ヨリ会所へ出サシムへシ又時宜ニ寄リ公裁ヲ仰クヿモアルベシ

    第七条
    一会所ノ証紙貼用セサル物品売買イタス者ヲ見聞セバ其趣会所へ報知スベシ会所ニ於テハ速ニコレヲ第六条就テ処分スベシ

    第八条
    一手数料ハ会所ニ於テ每月二十五日限り計算取立其金高十分ノ二ヲ会所ノ入費ニ側へ残ル八分へ織工引立資本金トシテ備置漸次盛大ナラシムルノ方法ヲ設クルニ備フ

    第九条
    一当会所役員分職

    総取締役壱人
    会所ヲ括シ証紙ノ製造会計其外庶務ヲ掌ル

    取締役八人
    会計へ出頭シ諸製品ヲ査調シ証紙発兌ヲ取扱ヒ濫造品製出セサルヲ注意シ且金銀ノ出納ヲ扱フ

    筆者二人
    此会所ニ関スル諸記録ヲ掌ル

    右役員ハ各其職務ニ対シ会所ニ於テ定メタル給料ヲ受収スヘシ
    但其給料へ現業着手ノ上判定スヘシ

    第拾条
    一会所役員ハ織工及ヒ仲買中ヨリ一同投票ヲ以テ取締役九名ヲ撰挙シ其同僚中ニ於テ投票ヲ以テ総取締一名ヲ撰任スヘシ

    第十一条
    一役員在職年限ハ総取締ハ一ヶ年取締ハ弐ヶ年ヲ以テ一期ト為スヘシ

    但衆望ニ由リテハ重年セシムルヿアルヘシ

    第十二条
    一役員撰挙ノ投票ハ会所ニ於テ取集メ封ノ儘勧業所ヘ差出シ府庁ノ稟議ヲ歴テ就職スヘシ

    第十三条
    一取締役以下ノ役員或ハ雇入人等ハ取締役衆議ヲ以テ之ヲ撰挙スヘシ

    第十四条
    一每年取締役撰挙集会二於テ其人員ノ半ヲ新任其順次旧員交代セシム可シ初年奉職セン人員ノ半ハ壱ヶ年間又ハ残員ハ弐ヶ年在職タルヘシ

    第十五条
    一織工及仲買共総集会ハ毎年一月十五日七月十五日正午十二時ヨリ午后六時迄会所ニ於テ之ヲ執行シ半ヶ年間ノ諸計算帳簿ノ出納ヲ示シ役員交代及ヒ諸般ノ事務ヲ論定スヘシ其他協議スへキ事件有之臨時集会ヲ開クヿアルヘシ右臨時集会ヲ開クニ当リテハ其期日時限及ヒ議事ノ大意ヲ記シテ十日已前二取締役ヨリ報知スヘシ

    第十六条
    一 御免許鑑札所持セスシテ西陣ノ織物ニ模擬販売スル者アル時ハ速ニ之ヲ府庁へ上申スヘシ

    右之通相定ムルト雖モ実地施行ノ上其利害得失ヲ審ニシ之ヲ増減加除スルヿアルヘシ尤モ織工並仲買協議ノ上府庁ニ上請スヘシ

    明治十年六月十五日

    西陣織物会所

    第三節 会所員と会所組織機構

    会所員 

    会所員とは後年の組合員であるが、京都府布令第二三〇号中に「西陣織ノ名称ヲ以テ織物販売スル諸織工及其仲買共へハ一般免許鑑札ヲ下渡」と命じて居て、此鑑札を下渡された者のみが、会所員たる資格を有する事になる。

    織工とは織物業者であつて、此鑑札を下渡された者は一、九六六人である、其外に鑑札を貰えない賃業者が二、 八四六人あつた訳で、之等の者は織物販売の資格が無かった。

    仲買商で右鑑札の下渡しを受けた者は二三一人であつて会所員である。

    織物業者たる会所員の組織機構

    イ、西陣織業八社

    西陣織物会所規則前文に「織工ト仲買商衆会協議ノ上西陣織物会所設立シ」とあつて此両者が西陣織物業は、八社を設けて分属せしめ。仲買商は五組を編成せしめた事は、規約中には無いが、会所の下部組織として、会所万般の要務を処理した事になつて居る。先ず本項は織業八社に付いて記する。

    西陣物産会社は、織工を十八社に分割所属せしめた為組織が複雑になり、各社相互間と織物業者の所属が重複して円満に仕事が行われなかったので今回は之れを八社に大別した。即ち

    紋織社。生紋社。羽二重社。繻子社。縮緬社。博多社。天驚被社。木綿社。 であって各社三名の肝煎を選任し、諸般の事務を斡旋せしめた。

    口、西陣織物業申合条約書 

    翌十一年九月、前項八社が、西陣織物業申合条約書を作成して、会所設立の目的に添うべきことを誓約し。此条約書を木版印刷、掛額として各戸に掲出せしめ。又各社は其集会所に、社名を専門品種織物を以て製作し、看板額を造って掲出した。

    西陣織物業申合条約書

    西陣織物業取締ノ為メ織物仲買商ト合併シ会所設立相成候上者社中各家二於テモ相互ニ実意ヲ以交際シ隔意ナカランガ為メ一同申合せ条約スルヿ左ノ如シ

    第一条
    一当社中之儀ハ織物製造ヲ業トナス故ニ社中一同精々良品ヲ製出シ物産ヲ盛大ニシ西陣一般ノ繁栄ヲ計ルベシ
    附リ一日ノ利ヲ得ンカ為粗悪濫製品又欠幅及短尺等決テ製出致スマシクヿ

    第二条
    一取締上ニ関係ノ事件ニ付会所取締役及肝煎皿等ヨリ注意之レアル儀一切違背致スマシクヿ

    第三条
    一売買上ニ付不当ノ損失相掛侯カ又ハ不人情ノ引合等致ス仁之レアルニ於テハ其旨社中へ廻達シ向後社中一同堅ク取引致スマシクヿ

    第四条
    一戸主タル者授業弟子へ織業研究致シ侯様精々注意致スへクヿ

    第五条
    一社中各家授業弟子年期ヲ定メ雇入ノ者期限中不埒ノ儀之アリ暇遣シ侯カ或へ自儘ニ退出致シ侯者之レアル節ハ迅速肝煎へ届ケ出ベシ

    第六条
    一肝煎役ニ於テへ前第五条ノ始末届出候へバ迅速社中一統へ廻達致スヘシ
    附リ社中各家ニ於テへ本条ノ趣肝煎ヨリ廻達之レアル上ハ其暇出シ侯者社中一統決テ雇入致スマシク且又廻達以前心附カズシテ雇入之レアルト雖モ右廻達之レフラバ速ニ暇出スベシ

    第七条
    一織工人雇入ノ儀御鑑札所持之レナキ者並二前雇入主ハ示談之レナク雇入侯儀決テ致スマジクヿ
    附り出機賃機ノ儀モ同様タルベシ

    第八条
    一織物営業致度者ハ社中ニテ保証人ヲ依頼シ連印ヲ以肝煎へ申出ベシ

    第九条
    一肝煎役二於テへ前第八条ノ趣頼出候へバ迅速社中へ廻達シ一同協議ノ上願書へ奥印シ会所へ差出スべシ

    第十条
    一社中集会ノ節肝煎ヨリ通知ノ時刻遅参致スマシクヿ
    但シ拠ナキ事故之レアラバ前以肝煎へ断書ヲ出スべシ若シ断ナク遅参侯へバ違約金トシテ弐拾五銭出金スへシ
    附り本文但シ書違約金ハ会所へ差出シ織工引立資本金ノ内へ収加スべシ

    第十一条
    一前条ノ確定ヲ堅守スヘクハ勿論若シ違背スル等ノヿアラバ協議ノ上違約金三円ヲ出サシメ社中除名スヘシ
    附リ違約金ハ前同断資本金ノ内へ収加スヘシ

    右之条々社中一統誓約如件

    明治十一年九月

    西陣織物八社

    • ※遅参(遅刻)についての罰則が異様に厳しいのは、昔の京都には「京都時間」と呼ばれる風習があって、京都人全般としてよく遅刻していたらしい。今はそんなこともないから、第二次大戦のあたりで風紀が改まったのだと思う。

    ハ、織業八社申合規則

    前項織物業申合条約書は、会所規則の織物業側細則の如きものであつて、斯様な申合せは、中々実行せられなかつたと見えて、明治十年以降生産数量が上昇し、織屋数が増加すると共に、織手の引 抜き争奪等の弊害が生じ、明治十三年七月織業八社申合規則を制定して、これが防止を協定した。

    織業八社申合規則

    西陣織業ヲ大別シテ五部トナシ第一ハ織品ノ地合及ビ模様柄色等ヲ勘考シ原糸ヲ買入レ之ヲ諸職工へ分配シ製造セシムル者或ハ一己ニテ製出スル者ヲ称シテ織元ト云フ
    其二ハ織元ヨリ原糸ヲ預り其注文に応シ之ヲ製造シ其織賃ヲ請フ者ヲ称シテ出機ト云フ
    其三ハ織元或ハ仲買ヨリ原糸ヲ受取り製造品ト交換シテ各代価ヲ計算シ其差額ヲ請フ者ヲ称シテ仕入機ト云フ
    其四ハ己ニ機械ヲ持タス織元へ通稼シテ其織質ヲ請フ者ヲ称シテ織工人ト云フ
    其五ハ幼少ヨリ年期ヲ定メ織元ノ家ニ入リ織業ヲ伝習スル者ヲ称シテ受業人ト云フ
    然ルニ此織業ニ於テ各種々ノ弊習アリト雖モ其一ニヲ挙テ謂ンニ仮令ハ織元ナル者他ノ織元ニ予テ雇入レ置ク織工人或ハ受業人ヲ其雇主又ハ教 授者へ一応ノ問答モナク密ニ吾家へ雇入レ他ノ業ヲ妨ケ一時ノ小利ヲ得ントスル者ナシト謂ハサルヲ得ス又出機或ハ仕入機ナル者甲ノ織元ヨリ原糸ヲ受取り之ヲ製造シテ乙ノ織元或ハ他ノ仲買へ売渡ス夫カ為メ甲ノ織元ニ於テ若干ノ損失ヲ醸ス等ノ儀ナキニ非ス又織工人ナル者予テ甲ノ織元ニ雇レ織質ヲ前借シ其織物成功セスシテ双乙ノ織元へ雇レ同ク織賃ヲ前借シ唯前借金ヲ以テ飲食ニ耽り織業ヲ惰ル等ノ者尠ナカラス夫ガ為メ織元ニ於テ損害ヲ醸シ本人ニ於テハ到底一家ヲ成スヿ能ハス又受業人ナル者予テ年期ヲ定メ織元ノ家ニ入り織業ヲ伝習シ年期未満中半途ニシテ種々ノ事故ヲ申立退身シテ他ノ織元へ雇レ唯目下ノ小利ヲ貪ラントスル者アリ夫カ為終身其業ニ熟達スルヿ能ハス終ニ精巧品ヲ製ス織工減スルニ至ラン平故ニ各其業ヲ督責シ品行ヲ正シクシテ織業ヲ磨キ織功伝習ヲ旨トシ熟達シテ後来ノ供益ヲ謀ランヿヲ勧誘センカ為メ織業八社申合規則ヲ設ク左ノ如シ

    右が八社申合規則の前文であり趣旨である。先ず織元、仕入機、織工人、出機、受業人、の説明をして其弊害を挙げ、之を防止する為に規則を設けた、と説明してある。

    本文規則は第二十六款(条)によつて、織物規則、出機規則、仕入機規則、織工人規則、受業人規則に分類して、雇人の争奪を防止するに努めたものである。末尾には、次の如く各社連印し之を印刷して配布した。

    右定約ノ条款堅相守可申侯為後証社中一同連署候也

    明治十三年七月

    織業八社連印

    仲買商会所員機構

    イ、仲買商五組

    西陣織物仲買商を、大略地域別に五分して、仁組、義組、礼組、智組、信組を結成せしめ。各組に組頭三名を選任し、会所と連絡及要務の処理に当らしめた。 明治十一年九月、織物八社と同様に、京都府の指図によつて条約書を作成し、各組員に交附した。

    口、仲買商申合条約書

    西陣織物仲買商申合条約書

    西陣織物仲買商取締ノ為メ組合ヲ設ケ織物会所へ合併スル上ハ組内各家ニ於テで相互に実意ヲ以テ交際シ隔意ナカランカ為メ一同申合セ条約スルヿ左ノ如シ

    第一条

    一当組合ノ儀ハ西陣産出ノ織物ヲ売捌クヲ以業トナス故ニ組内一同精々良品ヲ取扱ヒ売買ヲ盛大ニシ西陣ノ繁栄ヲ計ルヘシ

    附リ一己ノ利ヲ得ンカ為メ粗悪濫製品ヲ取扱ヒ西陣 産物ノ声価ヲ失ヒ或ハ他ノ商買ヲ妨クルコナカレ

    第二条

    一 売買上二付不当ノ損分相懸ケ候カ又ハ不人情ノ引合等致ス仁之レアルニ於テハ其旨組内へ廻達シ向後組内一統堅ク取引致スマシクヿ

    第三条

    一取締上二関係ノ事件二付会所取締役及組頭ョリ注意之レアル儀一切違背致スマシクヿ

    第四条
    一組内各家ニ於テ手代トシテ年期ヲ定メ展入ノ者期限中二不埒ノ儀之アリ暇遣シ侯カ或者自儘二退出致シ候者之レアル節ハ迅速組頭へ届ケ出へシ

    第五条
    一組頭ニ於テへ前第四条ノ始末届出候へハ迅速組内一統へ廻達致スヘシ
    附リ組内各家ニ於テハ本条ノ趣組頭ヨリ廻達之レアル上ハ其暇出シ侯者組内一統決而雇入致スマジク且又廻達以前心附スシテ雇入之レアルト雖モ右廻達之レアラハ速ニ暇出スべシ

    第六条
    一当組内へ組合致度向ハ組内ニテ保証人壱名ヲ依頼シ連印ヲ以組頭へ申出へシ

    第七条
    一組頭二於テハ前第六条組合願出候へハ迅速組内へ廻達シ一同協議ノ上願書へ奥印シ会所へ差出スヘシ

    第八条
    一組内集会ノ節組頭ヨリ通知ノ時刻遅参致スマシクヿ
    但シ拠ナキ事故之レアラバ前以組頭へ断書ヲ出スへシ若断ナク遅参致候へハ違約金トシテ弐拾五銭出金スヘシ
    附リ本文但シ書違約金へ会所へ差出シ織工引立資本金ノ内へ収加スへシ

    第九条
    一前条ノ確定ヲ堅守スヘクハ勿論若シ違背スル等ノヿアラバ協議ノ上違約金五円ヲ出サシメ組合除名スヘシ
    附り違約金へ前同断資本金ノ内へ収加スヘシ

    右ノ条件組内一統誓約ス依テ此条約書弐部ヲ製シ組合一同署名調印シ壱部ハ会所壱部ハ組頭二止メ置其写書ヲ以テ各家ニ壱部ツツ蔵置候也

    明治十一年九月

    西陣織物仲買

    此条約書信組原本が西陣織物館に保存してある。

    仲買商五組人名書及其発行趣意と取引心得 

    明治十三年七月織業八社申合規則を作成した時。西陣織物会所は、西陣織物仲買五組人名書を印刷に付して、西陣織物業者に配布し、組外仲買業者との取引を禁止せしめた。 理由は、織物会所設立後三年に満たずして、仲買商の開廃業異動が頻繁であつて、特に新規業者の組外取引が急増した為、之を防止せんとする目的であつた。人名書左の通り

    去ル明治十年九月当府第二百参拾号御布達並西陣織物会所諸規則等ニテ織工引立ノ御主意ハ社中一同兼テ承知ノ儀ニ付無鑑札/商人へ取引可致筈ハ無之侯得共万一御鑑札ノ有無ヲ心得スシテ取引致侯テハ本規則第十六条ノ通府庁へ上申可致侯儀ニ付心得違無之樣今般仲買商組合ノ人名簿製シ社中各家へ壱部ヅツ附与致候間此人名ノ外無鑑札ノ商人へ決テ取引不致ハ勿論若密々取引致候者見聞候ハバ迅速会所へ通知可有之候也

    明治十三年七月

    西陣織物会所

    西陣織物仲買人名

    仁組

    上京第八組元妙蓮寺町 中孫三郎外百二十八名

    義組

    上京第十六組下石橋南半町 千田藤兵衛外七十二名

    礼組

    上京第廿四組冷泉町 矢代庄兵衛外三十一名

    智組

    上京第四組御射山町 中村半兵衛外六十二名

    信組

    下京第三組衣棚町 西村治兵衛外五十二名

    合計三百五十名

    右五組所属の仲買商は仁、義、礼組は概ね上仲買と呼ばれ、智信組所属の者は下仲買と称して居た。

    第四節 西陣織物会所の総会と役員選挙

    同総会の開催

    前掲会所規則第十五条により、織工及仲買共の総集会は毎年一月十五日と七月十五日、開催時間は正午から午後六時迄となっている。即昼間会所で開催することになる。

    総会とあれば会所員たる西陣織物業者約二千人、仲買業者三百五十人、之れを収容できる建物は当時無いから屋外集会より外はない、又当時の交通状態からして容易に定刻に集合せなかつたであろうから、総集会と云つても取締肝煎等の一部の人達が集会したに過ぎなかったと思われる。

    同会所役員選任 イ、役員に関する規定

    会所規則第九条から第十四条に規定してあって、我国最初の組合規則であるが、中々要領を得て居る、殊に取給一ヵ年毎半数改選規定の嚆矢をなしたものである。

    口、役員選挙権と選挙方法 

    役員の選挙権は織工及仲買中京都府から鑑札を下渡された者に限るのは当然である。

    選挙は単記無記名投票であつたかと思われるが、織屋の多くは自家取引先仲買商の主人の顔も知らない者がある。又織屋間でも願る視野の狭い時代に、如何なる選挙方法を執行したか記録も無く不明である。

    開票は会所規則第十二条により、投票面を封の儘、京都府勧業課に送って、開票して貰うのである。従って不適当と認められる者は、多数票を得ても任命して貰えない。

    ハ、会所役員京都府辞令 

    会所役員は京都府の辞令によって就任する。辞令の様式が改選の都度変つた。

    (一)明治十年六月二十八日付織物会所設立当初の辞令。

    織工引立掛 氏名

    西陣織物会所取締役兼務申付侯事

    京都府

    (二)明治十一年七月九日付取締役辞令

    氏名

    西陣織物会所取締役差許侯事

    京都府

    (三)明治十四年八月十日付取締役辞令

    氏名

    西陣織物会所取締役当選二付認可侯事

    京都府

    右辞令は明治二年仲買商及織物業者の有力者を、京都府が織工引立掛に任命し、京都府役人待遇であつたから、「兼務申付」とか「差許し候事」とか書いた。明治十四年の辞令は、当時段工引立掛は廃止して居たので「認可侯事」となった訳である。

    会所役員定数及任期並権限報酬 

    イ、役員定員及任期

    取締役の数は九名内一名を互通により総取締役とした。任期は二ヵ年、毎年選挙集会で半数を改選した。

    ロ、役員の職務権限

    織物会所規則第九条は簡潔数語を以て役の職分を定めてある。

    取締役は証紙発兌を取扱い濫造品製出せざるを注意するよう定められている。織屋問屋の旦那衆が、毎日出務する筈もなく、肝煎の協力、或は番頭の代理も、殆どの日数であったであろうから、自然と紀綱が素れたであろうと想像せられる。

    ハ、役員の報酬後物会所規則

    第九条第二項に「会所ニテ定メル給料を受取スベツ」とあつて役員は報酬を受けねばならん、古老橋本伝蔵翁は「役員に給料を与えぬと不勤するから今回は之れを支給する事にして月給総取締十五円取締八円であった」と話している。

    此金額は今の貨幣価値にしても多額では無い、当時の取締役達の自負心は之れを宛にしたとは思われず。

    第五節 役員及肝煎人名録

    役員人名録

    同人名録僥倖の発見と西陣組合記録の亡失理由

    西陣織物館には西陣織物会所が解消せられた年、即ち明治十五年迄の、取締役人名録一冊と八社肝煎人名、 仲買組頭人名錄一冊が、保存せられてある。

    明治元年より西陣組合の隆等九度。其間各組合の財産及記録は、次々に引継がれた筈になつている。然るに西陣織物同業組合初期以前の記録が亡失して居るのは、総じて西陣の組合は職員が長続きしない。殊に同業組合時代以後は、役員議員の選挙騒動により、組合職員が功労者であろうと、重要人物であろうと、硬骨忠実な者、謂わば組合事務に融通を利かさず、気に入らぬとなれば、非離攻撃して退職せしめるから、生字引の人物が無くなる、新任者は重要記録も古文書も、猫に小判で玉石を弁別せずして廃棄した。特に昭和十一年事務所改築に当り古土蔵を撤去するに当り、古記録全部を廃棄処分に付し売却した事実がある。其為貴重な女献は皆失われた。現に西陣織物館に所蔵せられるものは、大正三年九月以降、時の組長池田有藏及初代織物館長田畑庄太郎が蒐集したもの、及西陣組合事績の研究家福井九兵衛の寄贈による文書が主である。

    此人名録二冊は右所蔵品中には無かった。昭和三十年夏、西陣織物館記編纂の必要あることを思い、編者が編冊書類整理中戸棚の際、塵埃中から、奇蹟的に発見した。此様な文書が絶対に存在する場所では無く、三十余年勤続の職員に尋ねても、唯不可思議なりと答えるのみである。真に僥倖であつた。

    此様な次第から次項に全員名を掲げる。

    履歴・職名住所・区画氏名
    明治十年任
    明治十三年二月十日商業事故ニ依テ辞職

    但シ織工引立掛ハ従前之通
    総 取 締
    上京第十六区下石橋南半町
    千 田 宝 守
    同年 取締役御免引立掛是迄通同 区 仲之町小西治郎右衛門
    明治十二年七月十五日取締役御免
    織工引立掛是迄之通明治十四年十月四日依願引立辞職。
    上京第三区 真倉町谷 新 助
    明治十二年七月十五日取締役御免

    織工引立掛是迄之通
    同 第四区 硯屋町小川治郎兵衛
    明治十三年二月十日依願免職

    但シ引立掛是又依願免職
    同 第八区 北ノ御門町沖田嘉左衛門
    同年 取締役御免引立掛是迄之通同 第三区 姥ヶ寺ノ前町橋 本 伝 蔵
    明治十四年月 日病気ニ依リ引立掛差免同 第四区 北舟橋町金 田 忠 兵 衛
    同年 取締役御免引立掛是迄之通同 第八区 元妙蓮寺町中 孫 三 郎
    明治十四年八月五日病気ニ付引立掛差免同 同区 観世町北 村 勘 吉
    同年 眼疾ニ依テ辞職同 同区 五辻町石田庄右衛門
    明治十年十一月一日拝命
    同 十四年取締役御免
    同年 六月三日依願引立掛差免
    同 第四区 東西町佐々木藤兵衛
    明治十一年三月廿一日拝命引立掛従前之儘

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同 第六区 溝前町石 川 伝 兵 衛
    明治十二年十月廿三日実印改

    同年 同月同日拝命 引立掛従前之儘
    同 第三区 真倉町吉 田 甚 兵 衛
    同年 七月九日拝命

    同 十三年期限ニ付役義御免
    同 第七区 笹屋町三丁目湯 浅 源 兵 衛
    同日 拝命

    同 十三年十月十日依願免職
    同 第九区 革堂町樫 本 治 三 郎
    明治十一年七月九日拝命

    同 十二年二月商業事故ニ依テ辞職
    同 第四区 紋屋町鳥 居 喜 兵 衛
    同年 同日拝命

    同 十三年七月十三日期限ニ依テ役義御免
    下京第三区 御倉町西 村 源 助
    同年 同日拝命

    明治十二年一月廿日病気ニ依テ辞職
    上京第五区 柳図子町太 田 喜 三 郎
    同年 十月廿五日拝命

    同 十三年七月十三日期限ニ依テ役義御免
    同 第八区 北ノ御門町木 村 卯 兵 衛
    明治十二年一月廿七日拝命

    同年 十月廿八日辞職
    同 第七区 中之町渡 辺 伊 之 助
    同年 二月十五日拝命

    同 十三年七月十三日辞職 同月同日引立掛拝命
    上京区第三組真倉町飯 室 伊 兵 衛
    明治十二年七月十五日拝命

    同年 八月三十日辞職
    上京区第四組幸在町碓 井 嘉 兵 衛
    同日 拝命

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同区 第八組北猪熊町沢 田 嘉 七
    同 十二年九月二日拝命

    同 十三年九月二日辞職
    下京区第四組膝屋町喜多川 孫 兵 衛
    同 十二年十一月四日拝命

    同 十三年二月廿二日辞職
    上京区第廿四組道場町辻 井 長 兵 衛
    同 十三年二月廿八日拝命

    同年 七月三十日辞職

    同年 同日拝命

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同区 第八組桜井町曽 和 嘉 兵 衛
    明治十三年七月十三日再勤拝命

    明治十四年九月期限ニ付退役
    上京区第十六組下石橋南半町千 田 宝 守
    同年 同日拝命同区 第八組横大宮町樋 口 利 兵 衛
    同年 同日拝命同区 第三組真倉町飯 室 伊 兵 衛
    明治十四年六月三日引立掛拝命

    同 十四年八月五日取締役辞職

    同年 八月九日依願引立掛退役
    同区 第七組竪亀屋町村 上 平 七
    同年 同日拝命

    明治十四年四月七日辞職

    明治十三年七月十三日拝命

    同 年 十二月廿八日病気ニ付退役
    同区 第九組革堂町倉 辻 新 助
    同年 同日拝命

    同 十四年九月十八日戸長役ニ付辞職
    下京区第四組御射山町中 村 半 兵 衛
    同年 同日拝命

    同 十四年六月廿二日退役
    上京区第四組阿弥陀寺町碓 井 幸 七
    明治十三年十二月廿八日拝命

    同 十四年八月十三日不得止事故ニ付辞職
    同区 第八組石薬師町中 山 勇 次 郎
    明治十四年四月十六日拝命

    同年 五月六日病気ニ付退役
    同区 第六組烏丸町加 藤 安 次 郎
    同 年 六月二日拝命同区 第九組革堂西町西 村 友 義
    同 十五年一月廿四日病気ニ付退役同区 第八組観世町川 口 忠 七
    同年 七月就職同区 第廿四組冷泉町勝 見 儀 兵 衛
    同年 同月就職

    同年 八月九日病気ニ付退役
    同区 第三組新猪熊町吉 村 伊 之 助
    同年 同月就職同区 第六組三条殿町服 部 勘 兵 衛
    同年 同月就職

    同年 八月病気ニ付退役
    同区 第九組仲之町小西治郎右衛門
    明治十四年八月当撰

    同年 八月辞職
    同区 第三組姥ヶ寺之前町橋 本 伝 兵 衛
    同年 四月当撰

    同年 九月十八日病気ニ付退役
    同区 第九組革堂町橿 本 治 三 郎
    同年 八月当撰

    同年 九月十八日不得止事故有之ニ付辞職
    同区 第八組栄町大 西 佐 助
    同上 当撰

    同年 十月六日病気ニ付退役
    同区 第廿四組冷泉町矢 代 庄 兵 衛
    同上 当撰

    同年 九月十八日病気ニ付退役
    同区 第七組中之町渡 辺 伊 之 助
    同上 当撰

    同年 九月廃業ニ付差除ク
    同区 第七組元四丁目巽 佐 七
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気ニ付退役
    同区 第八組元北小路町伊 東 平 七
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気退役
    同区 第八組元伊佐町東 海 庄 左 衛 門
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気退役
    下京区第四組菱屋町日 下 部 半 太 郎

    右歴代五十人の取締役中、織屋は谷新助、小川治郎右衛門、石川伝兵衛、橋本伝造、湯浅源兵衛、鳥居喜兵衛、太田喜三郎、飯室伊兵衛、樋口利兵衛、碓井幸七、村上平七、橋本伝兵衛、巽佐七、吉村伊之助の十四名に過ぎない。其他は全員仲買商である。選挙であるのに十数倍の選挙権数を擁する織屋の当選者が四分の一の数であるから、理屈も筋も通らぬ世の中であつた。所詮取引改善と称えても空念仏に過ぎなかつた。 昭和二十四年ともなれば、右名簿の役員中同業を相続して居る者は商、工業者共寥々である。

    八社肝煎人名録 西陣織物会所八社肝煎の人達の中には、多くの西陣復興の大功労者がある。 肝煎は各三人が選任せられたのであるが、次に記する人名は、明治十年から同十四年七月迄に、肝煎に就任した人々を歴年順に記してある。故に各社筆頭の三人は、織物会所設立当初の肝煎であり、末筆の三人は会所解消最終の肝煎である。筆順は上段から横に読む。

    第五節 役員及肝煎人名録

    一、紋織社

    住所氏名
    上京第九區水落町宅間佐助
    同區第四區紋屋町鳥居喜兵衛
    同 同 大猪熊町久江長兵衛
    同 第一區下天神町羽田喜助
    同 第八區北猪熊町岡本喜兵衛
    同區第九組飛鳥井町原田伊三郎
    同區第三組西熊町武本清次郎
    同區第四組伊佐町加藤安兵衛
    同區同 同町洞本庄七
    同區第九組水落町宅間芳之助
    同區第四組東西町佐々木清七
    同區第八組桝屋町橋井幸七
    同區第六組烏丸町加藤庄次郎
    同區第七組笹屋三丁目木村忠兵衛

    二、生紋社

    住所氏名
    上京第八區南舟橋町喜多川平八
    同 第三區花車町小林伊助
    同 第二區長乗西町白井善七
    同 第二區上清蔵口町小野平七
    同 第三區真倉町大井幸八
    同 第二區竹園町坂田嘉助
    同 第七區西北小路町鈴木禎次郎
    同區第二組下清蔵口町佐藤卯兵衛
    同區第四組東石屋町柊 卯兵衛
    同區第二組上清蔵口町野々村常次郎
    同區第二組長乗西町天野伝造

    三、羽二重社

    住所氏名
    上京第十九區吉野町谷口伊兵衛
    同 第七區笹屋二丁目人見勘助
    同 第七區東上善寺町榎並治兵衛
    同 第八區横大宮町高野武助

    四、繻子社

    住所氏名
    上京第四區石屋町山本儀兵衛
    同 同 硯屋町小川茂兵衛
    同 第九區堀之上町佐々木半兵衛
    同 第四區幸在町碓井嘉兵衛
    同 第四組山名町木村忠兵衛
    同區第四組藤ノ木町岩崎福太郎
    同區第二組上清蔵口町小野宗次郎
    同區第三組戌亥町時岡宗兵衛
    同 第七組西亀屋町井上伊助
    同區第一組西千本町八木清兵衛

    五、縮緬社

    住所氏名
    上京第五區柳之図子町太田喜三郎
    同 第六區烏丸町加藤安次郎
    同 同 三条殿町川越藤助
    同 第七區笹屋二丁目林 和助
    同 第三區蛭子町武田弥兵衛
    同 同 真倉町飯室伊兵衛
    同區第七組元四丁目谷口弥助
    同區同 竪亀屋町村上平七

    六、博多社

    住所氏名
    上京第三區真倉町吉田甚兵衛
    同 第七區元中之町植田利七
    同 第八區北猪熊町沢田嘉七
    同 第十六區飛弾殿町大木長七郎
    同 第十五區加賀屋町岸 安兵衛
    同區第六組笹屋五丁目河野平五郎
    同區第四組西北小路町永嶋九郎兵衛
    同區第十五組加賀屋町岸 安兵衛(件)
    同區第八組桝屋町村田嘉七
    同區第六組笹屋四丁目三木嘉助
    同區第八組石薬師町林 久七

    七、天鵞絨社

    住所氏名
    上京第三區姥ヶ寺之前町吉川久左衛門
    同 第七區笹屋三丁目湯浅源兵衛
    同 第六區笹屋四丁目大西幸吉
    同 第七區元四丁目藤井長兵衛
    同 同 笹屋三丁目佐藤太七
    同區第三組蛭子町武田弥三郎
    同區第七組菱屋町藤林新助
    同區第廿一組堀松町金森常次郎

    八、木綿社

    住所氏名
    上京第六區溝前町石川伝兵衛
    同 第七區竪亀屋町鹿田常助
    同 同 今出川町菱田嘉兵衛
    同 第六區玉屋町西門忠兵衛
    同 同 烏丸町駒井清兵衛
    同 同 笹屋五丁目高山伊兵衛
    同 同 三条殿町服部勘兵衛
    同區第七組松屋町谷林善兵衛
    同區第三組姥ヶ北町大久保源助
    同區第六組笹屋五丁目川端太兵衛
    同區第十五組東西俵屋町盛田重太郎
    同區同 新桝屋町野口猪之助
    同區第六組笹屋五丁目近藤治兵衛
    同區第七組草堂町岸田嘉一郎
    同區第六組炭屋町川端太兵衛
    同區同 笹屋五丁目佐々木甚兵衛

    仲買組頭人名録には、仁、義、礼、智、信組の組頭を網羅してある。記載を省略する。

  • 西陣織物館記(明治三年~八年、西陣物産会社(3))

    西陣織物館記(明治三年~八年、西陣物産会社(3))

    第七節 会社の会所(事務所会館の草分け)

    会社会所設置願と設置場所の選定 組合事務所である会所が、三度場所を桿えた。又出張所を設置した事もあり。其都度京都府へ願書を出した。

    乍恐奉願上候口上書

    一、今般西陣物産会社取建之儀奉順上候処御聞済被成下侯ニ付商社取組請後 品入札売捌場所上京拾弐番組油小路一条上ル二町目越後屋武助持家借り受右 入札定日モ取極度依之諸国商人及其外望之人々者右会所へ集り買取呉樣仕度 此段何卒市中一円江御布告被成下候機御聞済被成下候へバ莫大之御仁植如何

    計ヵ難有仕合〻奉存候 以上

    明治二已年十一月

    西陣織職頭壱番より七番迄

    惣代

    京都御政府

    上京六番組木下突抜町 伏見屋新助

    同三番組突抜町 菊屋七右衛門

    同十一番組横大宮町 鱗形屋利兵衛

    同四番組今出川町 菊屋嘉兵衛

    同四番組中年寄 吉田治郎兵衛

    同五番組添年寄 武本治兵衛

    同十一番組五辻町 日和田屋新七

    右願書により京都府より「聞届候事」とあつて、油小路一条上ル所に事務所を構えた。

    油小路通は、豊臣秀吉が洛中洛外の境界御土堰を築造し、京都の都市計画を定めるに、油小路を中央に東は京極、西朱雀迄の条里を立てたから、油小路通は上は寺之内から下は十条迄、途中切断の箇所が無い、京都唯一の通りであつた。故に新参の丁稚でも、油小路へ出て猫車でも曳いて北向けば、寝呆けつつ歩いても西陣に行ける。最も交通便利な街道である。此通りに会所を設置したことは最も賢明であつた。然し織屋が技然と構えて仲買が頭を下げて、集つて来ると思つたのは、余りにも甘過ぎた考え方であつた。

    会所移転願と其理由

    乍恐以書付奉伺上候

    一、先般物産会社御許容被為皮下奉御蔭載物產之道日日広大二相成候二付而者当時之仮宅間逼ニ而如何様仕侯共捌方不都合ニ御座候ニ付今出川大宮西ニ入町二貸家七八軒計在之右借り受各社相分ヶ売捌方仕候は至極弁理宜敷候間近々転宅仕度何卒此段御聞届被為成下侯は如何計か難有仕合二奉存侯 以上

    明治三庚午正月

    京都御政府

    聞届候事

    西陣物産会社惣代

    鱗形屋治兵衛

    日和田屋 新七

    右願書中「仮宅間過二而如何様仕侯共捌方不都合」とあるは、三万両に近い織物が持込まれ、余り捌けなかつたとすれば、普通民家では狭隘を告げるのは当然である、と共に西陣産業の特殊性は、各級屋の専門製品が、多岐に別れ、夫々需要面が異り、自然販売先も変っているのに、会社一本集荷の際、各社毎に分担させてなかったように思われる。各社毎に集荷販売の自主権を持たしめねば、不平不満が生ずる。そうなると各社毎に部屋が入るから七八軒も借らねばならない。

    各社出張所を下京四条烏丸西に設置 

    明治三年四月「各社一体殊之外代呂物不捌二付此度四条烏丸西へ入町沢屋政七宅各社一体出張仕諸織物諸方登り客素人ニテモ附ヶ札ヲ以正路明白二現銀売捌仕度」と十七社と会社連名で京都府へ願出「聞届候事」とあつて出張所を設置した。之れは即観光客、当時御登りさん相手の、直売も考えたのであろうが、成績不良間もなく閉鎖した。

    会所再度の移転

    乍恐御伺奉申上口上書

    一、当会社義是迄上京第八区今出川通大宮西江入町仮宅罷在候処間逼不都合御座候二付今度同区五辻通大宮西入町江転宅仕度候間此段御伺奉申上候御聞済被為成下候へば難有仕合二奉存侯 以上

    明治五年壬申七月

    京都府御庁

    西陣織物総会社

    世話役

    武本治兵衛

    竹内作兵衛

    伊達弥兵衛

    永嶋九郎兵衛

    右移転の度毎に間逼が理由になつて、腑に落ちぬが、機別出銭により借入金三万両の内上納も少々は出来た。 会社経費も些少の融通が付き、折柄京都博覧会の開催等による西陣出品の受賞も多く、殊更、御買上品もあり、会社世話人も気を好くし、交際面も広くなり仕事も増加したと思われ、事務所の構えに対する必要性を覚るに至つたのであろうか。之れが西陣織物業者の会館の草分けと見てよい。

    第八節西陣物産会社の功績と功労者

    同社世話役の信望

    明治年間西陣界隈、此会社に対する批判は、必ずしも好評でなかった。理由は「金三万両の借入れが上納できず、遂に全織屋の機別出錢によつて、明治十年迄に、漸く三分一を納め、残額は借倒しとなつたのは、世話役の不仕陀羅によるもの」との非難からであつた。然し之れは後年歴史の真相を極めずして、組合機構を弄する者が論議の材料に使ったものであつて、寧ろ盾の半面を知らぬ者である。

    抑も三万両とあれば、当時莫大な金額であるから、たとえ、全西陣の結社でも、京都府は其れのみでは貸下げるものではなく、世話役の信望があつたからである。京都府は、此会社の世話役、肝煎共に西陣織屋としての筋目も良く、識見人格共にある人々を選抜し、其人達の社会的地位に対して貸下げたものである。新規の織屋が儲うけて売出した顔だけでは、百両も貸出さなかったであろう。当時四民平等に御一新と云われても、其様なものであつた。而して此三万両の貸下げがなかつたら、其後西陣機業が時世に適合した織物の研究により、立直った上に急激な発達を見る事を得なかつた。勿論此会社の取引改善は失敗に終つた。古組、天神講、今宮講、上下両仲買等百五十余軒の、強力な問屋資力と巧妙な商魂商策には、西陣織屋の敵する所でない事は、初から判つて居なければならない。寧ろ之れは京都府役人の権勢過信独善の責任にあると言ってよい。乍然此会社存続八年間に於ける西陣機業の興隆革新は、一つに京都府当局の指導誘抜によるものであり、同時に全社世話役の功績によるものでもある。以下事績を略記する。

    京都府初代知事長谷信篤の庇護

    長谷信篤は、明治元年四月京都府知事に任命せられた。旧堂上家、門地は新家外様と云う格。家禄も少なく、下位公卿であつたが、代々俊英が出て三位以上に昇って居た。此人も明治維新の王政復古に功績あり、壬生基修、東久世通禧などと比肩せられ、明治八年元老院議官。後に貴族院議員となつた。

    永代京都に培われた人であるから、京都を愛することが深いのも当然で、又京都人の気風を知悉したればこそ、皇后宮東行阻止運動をば平穏に治め得たのである。謂わば殆と西陣の地域内に育つたようなものであるから、幼少から織屋の生活も見て知つて居たし、西陣織屋の盛衰が、京都市経済界消長の鍵となることも、熟知して居たので、其窮状と救済策をよく理解して、三万両の大金を容易に貸与して呉れたものであろう。

    明治の改革に順応する京都府の行政、財政、教育、産業対策は、権大参事槇村正直によつて断行せられ、長谷知事は偶像に過ぎなかった、と謂う者もあるが、これは槇村親近者の偏見である。徳大寺、久我、西園寺等と共に明治帝の側近に奉仕して、宮中との縁故も厚く、時世の推移を明察し得る能力を有し、年齢五十歳、人格円熟、応揚な襟度を持して、槇村の履足を延ばし、駻馬を京都に馴れしめたのである。

    明治八年元老院に転ずる迄に、西陣が此人から受けた恩恵庇護は莫大である。物産会社が西陣の代表として面目を維持し得たことは、此人の御蔭によるものと断言してよい。然し今日迄も西陣の人々で此人の恩義を顕彰した人があった事を聞かない。

    二代目京都府知事植村正直の指導 

    明治の元勲木戸孝允の推鹸により、旧長州藩士槇村正直が京都府椒大参事に任ぜられたのが、明治二年七月である。

    木戸は、第二の故郷として最も愛する京都へ、自分の盟友槇村を置いた。公務の余暇には必ず土手町の別邸に住み、槇村は影の如く付添って、日常の世話に尽し、其れが又京都府政に大きな利益を得た。明治八年七月長谷知事の後任に、異例の昇進をして知事に任ぜられたのも木戸の庇護によつてである。明治十四年一月元老院議官に転ずる迄の長い在任中、自ら牛肉を喰い、牛乳を飲んで、角も生えねば、身体に毛も生えぬ事を市民に示した如き、天馬空を行く施政振りで、京都市を単なる文化財保有の旧都たる事を免れしめて、産業に、学芸に、活潑なる活動力を与え、我国六大都の一としての繁栄を保持し得ることができたのは、此人の恩恵によるものである。而て西陣産業を革命時の崩壊から救上げ、鞭撻指導し復活せしめて呉れた恩人である。

    西陣物産会社、京都第一回博覧会へ協力 

    明治五年四月十七日より六月三日迄京都博覧会が開催せられた。会主三井八郎右衛門、小野善助、熊谷直孝の大財閥から、大年寄、御用達、物産引立御用掛、と京都財界有力者挙げて参加、長谷京都府知事、槇村大参事以下官員が、京都の浮沈を賭しての大事業であつた。

    会場は西本願寺、建仁寺、智恩院を充てた。

    京都府は布告を発して一般に出品を勧誘し、又政府に要請して外国人の観覧を求めた。出品種目は、京都古来の物産を始とし、全国各地の名産。甲冑刀剣、所謂骨薰品迄二千四百八十五点を陳列し、其内には英、仏、独各国の物も出品せられた。

    西陣物産会社は、世話役、肝煎が総勢協力、織屋業者を勧誘して、智恩院会場に陳列した。

    同年六月二日明治天皇が、地行巡幸の途次、博覧会場に臨幸せられ、西陣織物の新発明品に付て、特に御下問あり、光栄に感激した。

    御買上品は、西陣織物と陶器のみであつて、西陣織物は次の通りである。

    新発明、両面繻子二丈八尺、価二十二両

    織元 繻子社 小谷孫兵衛

    同、長毛底金級一丈一尺五寸、価拾壱両

    織元 物産会社 竹内作兵衛

    同、両面天鵞絨衿巻一筋、価三両

    織元 三上孫市 武内治兵衛 喜多川平八 中西長右衛門

    陶器は、茶碗、平皿数点に過ぎず、此御買上によつて、西陣織屋一同無上の栄誉なりとして感奮すると共に、気風を一新した。

    会期中、英、米、仏、普国人の入場者は、七百七十名であつて当時京都では大異変である。

    是れに対しては政府派遣訳官十五名が出張通弁に当った。

    観覧の外国人は、西陣織物の精巧に驚嘆した後、産地工場を見るに及んで、原始的生産と非能率労働に、胆をつぶした事も明かである。此年代はフランスにジャガード紋織機が発明せられて既に七十年を経、其後の進歩改良により、同時に生産機械化による、産業革命が達成せられ、高能率時代の黎明期にある欧米人から見れば、憐れな後進国の正体を暴露したものであった。従って京都府役人にも、物産会社世話役にも、機械化の必要を説いた事と思われる。其れがやがて、西陣織屋の外国留学となつたものである。

    佐倉常七等の渡仏

    事の起りは、前記博覧会期中、物産会社世話役惣代竹内作兵衛が、フランス共他の先進国には、空引の要らぬ織機があるそうな。京都府の御斡旋により、輸入して貰えぬものか、と願出たのが序りであつた。

    京都府は、智恩院内仏語学校教師、レオン・ジュリーに相談した処、ジュリーは洋式機械を輸入したからとて、直に運転できるものではない。渡仏してよく研究し、技術を習得せねば駄目であると云われ、之を聞いた長谷知事は諾いて、竹内に貴様行けと命じた。

    竹内は自分老齢其任に堪えず代人を差遣わしますと、別家の佐倉常七(天保六年一月七日生当年二十八歳)を推薦し、独りでは心元ないから、同家級工井上伊兵衛を同伴せしめる事にした。

    洋行の旅費、学習費、諸機械購入費、 を京都府から支出する事に決定した。

    此事を聞いた、上京区三十一組(後の中京区銅駝学区) 河原町通二条下ル一三船入町吉田忠七が、熱心に同行を懇請した。此人は学識もあり、機械に関する研究もして居たので、物産会社世話役及十八社肝煎連署で、此者の諸費用は、帰国後会社機別出銭の内から京都府に、返却するとの条件で願出、三人同行が許された。

    明治五年十一月十三日物產会社関係者より次の銭別が三人に贈られた。

    一金十二円 博多社、一金十円廿五錢 金欄社、一金七円五十銭模様社、一金六円 繻子社、一金三円八十七銭五厘 夏衣社、一金三円七十五銭 縮緬社 一金三円 天鵞絨社、一金三円 古帯端袴社、一金二円五十錢真古帯社、一金二円木綿社、一金二円精好社、一金二円 紗織社、一金一円十五錢真田社、一金壱円 練絹社、一金壱円五十鈴 画絹社、一金三円五十銭羽二重社、一金壱円繻子社

    一扇子百本、一団扇百本、一キセル百本、一織物チョキ三枚、取締中洋行の三名は明治五年十一月十七日神戸港出帆、香港経由無事仏国リオン着、勉学等の記録は省略する。

    明治六年十二月二十八日佐倉常七と井上伊兵衛が、ジャガード紋織機其他の洋式機械を購入帰国し。専ら機械の研究に努力し最も嘱望せられた、吉田忠七は、明治七年三月二十日帰国乘船が、故国目前伊豆沖に来り難波沈没し、乗船者九十四名中値に三人が救助せられたのみで他は不明、吉田は惜しくも其研究資材と共に沈んで帰らなかった。 

    伊達弥助、早川忠七、填国万国博覧会政府派遣大隈総裁一行に随行

    西紀一八七三年(明治六年) 墺国維納市で、万国大博覧会が開催せられるので。東洋の大日本帝国の、美術工芸物産を陳列して、国威を海外に輝かすことに決定せられた。名古屋城の金鯱を天主閣から降して、持って行つたのも此時である。

    政府は同博覧会に参加派遣使として参議大隈重信を総裁に任じ、独壞人顧問六名、副総裁外随行員四十九名、全国各府県物産製造関係技術者及商人合計二十九名を同行せしめ、同年一月二十八日出発せしめた。

    京都府からは織物工伊達弥助、早川忠七と陶工舟山六郎が派遣せられた。伊達弥助は井筒屋四世であつて、西陣物産会社設立以来の世話役惣代である。

    之等墺国派遣団一行の年齢は大隈総裁は別として、副総裁佐野常民五二 歳、其他の随員四十歳代が八名、悉く三十歳以下の青年が多く十二歳の少年もあった。其内京都の早川忠七が二十四歳、伊達弥助のみが高齢六十歳であつた。

    伊達は初めの万国博覧会出品物を、物産会社に撰沢仰付けられ、会社を代表して手代早川を同伴東上出張中洋行を命ぜられたものである。前項佐倉等の貧乏啞旅行と異り、日本政府の費用により、通訳其他万般漏なき準備の下に渡欧したのであるから、最高の待遇を受け、顔る便利を得た洋行であつた。故に随行員の多くは此機会を利用して、欧羅巴各国を視察研究した。伊達・早川両名も仏蘭西其他各国を廻り、染織技術を視察して、織機其外千二百余点の器械器具を購入し、帰国したのが明治八年初春であつた。

    第二回京都博覧会以後各回協力

    第二回博覧会は、明治六年三月十六日より同六月十日迄明治天皇が、京都産業振興の御思召で、京都御所を会場とする事を許され、旧内待所、御花御殿、対之屋、御馬場、仙洞御所を使用したので、此会期の入場者数内国人、四十万六千人。外国人、六百三十四人。明治、大正、昭和年代、敗戦迄の京都の同種会中最大の入場者であつた。

    西陣物産会社は御花御殿に陳列所が割当られ、高機(空引)を設備して製織実演を行った。世話役、肝煎が毎日出務して来観者に説明する等各般の斡旋尽力した。

    同第三回は明治七年四月一日より同六月八日迄京都御所に開催。西陣織物は前年同様御花御殿に陳列した。

     此年は特に佐倉常七がフランスより持帰った洋式織機を蒸気力により運転公開して、観覧者を驚かせたと謂う。

    同第四回は明治八年三月一日より百日間開催。同五回は、明治九年三月十五日より是れも百日間、何れも京都御所及大宮御所を会場として開催し、西陣物産会社は毎回織物製織を実演公開した。陳列場には常に世話役肝煎出張尽力したが、第五回は三上復一、中西昌作、喜多川平八等が、品評方に推挙せられ、西陣織物の褒賞受領は、数に於ても抜群であつて、西陣授業の時代に適応した進歩が認められた。

    同第六回は、明治十年三月十日より、会期百五日間開催した。此博覧会協賛は物産会社としては最後であった。

    同年一月二十五日孝明天皇十年祭に付、皇陵参拝の為久々で京都御所に行幸啓あり。同年二月十五日西郷隆盛西南戦争の勃発により、明治天皇のみ引続いて京都御所に御駐輩になつたので、博覧会場は、仙洞御所、大宮御所のみを拝借使用した。同六月十日会場天覧を得、西陣織物は益好評を拍し多くの褒賞を授けられた。

    京都府洋式機械織工場への協力 

    佐倉常七、井上伊兵衛が仏国から購入した機械類は、上京区五辻通大宮西入ル物産会社事務所へ荷着し、世話役肝煎等が、右両人指導の下に開梱して、組立準備に尽力したのが、明治七年 一月であつた。元々之等の機械は、京都府の経費を以て購入したものであるから、京都府勧業場は、河原町二条下ル一ノ舟入町旧角倉屋敷跡に、織工場を建築し、同年五月には諸機械の据付を終り、六月から右両人を教師と して運転公開し一般の指導を開始した。両名に対する給料の支給願は印刷の都合上前頁に掲げた。

    織物伝習所を物産会社役員で世話する事

    明治八年一月京都府は、洋式機械運転技術を全国に普及し、織布の機械化を計る為、京都府勧業場から全国各地に対し、伝習生を募集した。各府県から多くの派遣申込があつて、 習学せしめることとなつたので、物産会社の世話役肝煎等に、伝習所の世話及見廻役を命じたが、其費用は物産会社負担であつたから、左の敵願書を差出した。

    奉願上口上書

    当物産会社之儀去る明治已己十一月物産保全広隆ノ為メ会社取結奉願上候処御許容被為成下其上私共始メ七十八人之者共へ諸世話心配可蒙侯様御書下ヶ頂載仕追々御趣意柄二基会社創法ヨリ六箇年三ヶ月ニ至り社続之為メ乍未熟諸世話致来候処追々同職業盛大二相成其上当今元角倉御用邸ニ於テ織工御場御取設二相成洋来之機 械運動旅為成危機職業御引立之段奉恐入侯依之右織工御場為見廻り総会社世話役順番ヲ立テ日動可致旨御書下ヶ頂載仕難有奉承伏候依テ迅速御請可差上之処何分五人之者愚昧之面々故

    六ヶ年以上で勤役罷在候処何等之所 詮モ無之不法則二打過際限で無之ト奉献息恐縮致候不興之私共自今退役仕度旨ヲ以後役人選之儀ヲ各社肝煎中ヘ及頼談候処早速集会相設評議仕候処何分於元社日費之手当無之候故各社重立侯者ョリ割賦ヲ以テ積立出金相 成候様申聞ヶ候得共今般機別出金之儀相満候迄へ聊カタリ共出金不致旨申立候ニ付差当而当感仕候放期限之後 へ追テ奉申上候間法則取極候迄之処何卒有機別御上納金之内別紙金高之通日費為手当月々御貸下ヶ被成下度為 然之上者各社肝煎俱々一層相励御用之廉々並織工御場見廻り等二至迄無懈怠相勤元社再興方法相談侯上者日費 償方そ相立自ラ日費金御返納を出来候様集議一決仕候上へ後役更二人選ヲ以テ奉伺御採用之上へ私共二毛先役 ト相唱精々世話可仕候間何卒前頭之日費金月々拝借之儀且者私共退役之儀右両様トを奉願上侯間出格御仁恤を以テ右之段御聞届被成下候ハバ難有仕合二奉存侯

    明治八年二月

    西陣物産会社世話役

    竹内作兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    中西長右衛門

    武本治兵衛

    会社

    前書之通相違無之候間於私共で俱々奉願上候

    明治八年二月

    十八社肝煎総代

    吉川久右衛門
    吉田甚兵衛
    平野卯八
    松田庄八

    荒木武兵衛

    宅間佐助

    山田甚助

    京都府知事 長谷信篤殿

    日費金壱ヶ月分計算書

    一金五円 筆紙墨從焚灯油其他共

    一金三円五拾銭 宿料並二町入費共

    一金拾五円

    筆生一人、会社留守一人

    用使二人雇賃

    総計高金弐拾三円五拾銭

    右之通御座候

    右願書に対して京都府は、願の通り機別出錢上納金との相殺を承認すると共に、世話役には暫く留任を求めた。

    此伝習所の成績は良好であつて、此所に学んだ者達によつて全国の織物生産地が、洋式化し急激な発達を為した。又、同年二月二日明治天皇が、伝習所に行幸せられ、佐倉、井上等の操作する、洋式機械を御覧になった。

    会社の終末 

    明治八年頃となつて、西陣物産会社内部結束が弛緩し、各織屋単独個人の活動が、旺盛になつて、会社は時々に名を利用するに過ぎなくなつた。当時の役員には会社の基本財産を蓄積するなどの智識はなかつた。当初三万両もの金が這入ったのであるから、会所建物等を買い、或は建築すれば会社の活躍に便利であり、上納金の成績も良好であつたと思われるが、要するに未だ其処迄の考えは出なかったものと見える。

  • 西陣織物館記(明治二年~三年、西陣物産会社(2))

    西陣織物館記(明治二年~三年、西陣物産会社(2))

    第五節 西陣困窮に対する匡救の方策と其の成敗

    京都府より借受金三万両と共同仕入支払

    西陣窮境打開の方策は、此際滞貨を一掃して、将来の需要に向く新製品に着手せしめることが、焦眉の急である。と共に、此機会に、仲買問屋の搾取から脱し、公正なる取引制度を、確立しようとする考えが起ったのも、時勢の赴く所であつた。其れが即ち、前記会社の仕様書となつて、実行せんとしたものである。

    右仕法書に基いて集荷するとなると、小額の資金では事足らないから、矢張りお上に、まとまつた金の貸出しを、願上げるより外に分別は出ない。

    京都府は、右申請の趣を聞届けても、責任を負う者が無くてはならない。因て全西陣織物業者の、公認と云うより公設団体を創設せしめ、勧業資金の内から、大枚三万両を貸出して呉れたのである。

    此三万両貸付け方法は、諸説に分れ、二万両と一万両の二度とか、或は一万五千両ずつ二度とか、伝えられるが、其間にも、別口八千両の借入があり、其外にも、時々泣訴してお助けを願い、寛大に聞届けられたようである。尤も別口分は、総て正直に完済した事になつている。

    此三万両を以て、後記入札売捌所兼会社事務所を設置して、共同販売事業を行なった。而て此事業による収入を以て、借入金三万両を返済する計画であつた。

    京都府の御命令により、会社の組織が確定して、会社が一本で集荷し、一手入札販売することに、御許しがあつたので、製品は漏なく、会社へ持込むよう触れた。待ちに待った織屋は、先を争って代物を運んだであろう。 中には永く土蔵で埃に埋れた品に、陽の目を拝ました物もあるのは人情である。

    一手販売取引改善の成果

    会社の一本集荷が現金取引である限り、製品の持込成績は極めて良好である。次 に一手販売となって、入札により旧弊潸実を排し、明朗な取引の理想が顕現したかと云うと、そううまくは問屋は卸さなかつた。 

    持込品に対しては、夫々優算払をしたと思われるが。扱て此価格の査定方法を如何にしたか、文献記録が無い。借入金三万両は、またたく間に、残らず織屋に支払われた。

    文献には、当時未だ織屋の自覚が足らなかつたから、失敗を招いた。と記されてある。之れは余程ひいき目に見たのであつて、実は成功する筈のない、空想に近いものであった。仲買商間の談合、或は不買同盟、特別関係にある仲買商と織屋の抜け取引、は防止できない。会社には、殆ど売れぬ代呂物のみ持込まれ、会社は滞貨の山を抱える。会社の責任者たる世話役は、狼敗して、下京へ出張所を出したり、京都御政府に、市中御布告を願ったり、諸国商人及素人売りの駒札を、諸所に建てたり、四苦八苦の販売宣伝をした。其間にも世話方惣代が、泉州堺、摂津大阪へ売捌きに出張した。其又出たちが振っていたと云われる。京都府から御許しのあつた帯刀二木、羽織袴、手代、番頭に荷物を持たせて行つた。当人は士分を以て得意満面でも、買う方では阿呆らしくて尻込みする。大名相手に慣れた坂堺の豪商には歯が立たず、徒らに後の世語りとなつた。

    斯様な有様であつたから、遂には一本集荷も、一手販売も、休止するより他なく、後仕末に、世話方役員は苦労を続けたが、個々の織屋自体は現金が這入つて、経営費が回り、蘇生の思いであつた。何と云つても、三万両の大金は西陣より外へは出て居ないのである。これにより新製品の考案研究の余裕も生じ、次々に優秀織物が生産せられ、西陣全体に活気を呈するようになり、立直ることが出来たのであると編者は断定する。西陣の今日あるは、此三万両の御影であり、又之れにより此物産会社が各種の大きな仕事に協力することを得て後記する偉大な功績を挙げ得たのである。

    • ※結果として失敗したとはいえ、これが西陣組合による販売・宣伝の取組の先駆けである。

    第六節 京都府より借入金三万両返納経緯

    同借入金返済延期歎願と京都府の指図

    前節の通り借入金は、織物を持込んだ者に払渡し、代品物は一向に不捌けで、売得金が無いから、返済上納の目算が立たず、延期を嘆願するより外はなかつた。

    乍恐以書付率願上侯

    一 、従先般東洞院六角下ル物産引立所江旧冬従御政府奉拝借侯御金参万両御廻シニ相成故於同所借用被申付右者

    旧冬西陣織屋共必至困窮之折柄事実奉言上候処格別之御仁恕を以種々御手お被為尽御金御貸下被為成下右御蔭奉載二而旧冬必至之困苦を相遁候然ル処何分代呂物不捌ニ付種々損失利損等出来仕其上此頃に至り一般之不景 気二而不捌弥增相成不融通二而一統心痛仕候已後屹度尽力仕規則相立追々代呂物売捌来ル七月晦日限元利上納可仕候右ニ付何とも恐多御願事二御座候得共当分之所月壱歩之利足二而貸下ヶ候様同所江御沙汰被為成下候樣

    只管奉願上侯此段何卒格別之御仁恤を以右之通御聞届被為成下候ハバ莫大之御仁恕如何計數難有仕合ニ奉存侯

    以上

    明治三午年四月

    西陣物産会社

    世話役惣代
    日和田屋新七
    井筒屋弥助
    蔦屋善兵衛
    丹波屋長右衛門
    同 利右衛門

    御政府

    右願書に対し、京都府より願書の上欄付箋に、次の通り指図があつた。

    本書東洞院物產引立所より改而借用するニ不及其儘当府より其引立所へ貸渡候都合二而可然候条申出之通返上日限無相違相納可申候事

    但返上日限無相違相納候上ハ其節利足等之儀も尚精々詮儀之都合も可有之候事。

    此奉願書に「旧冬物産引立所へ御回し」とあるが旧冬とは十二月であつて、物産引立所の出来たのは明治三年一月即ち春である。所が此物産会社が貸下げを受けた金は、京都府勧業方直接取扱いであつて、借入金は、商法司と称した日本銀行の前身の如きものから交付せられた。然るに、此願書も全々嘘と思えぬから、三万両の貸下げの内残金一万円或一万五千両があつて其れは物産引立所から回わされたものと思える。扱て此物産引立所の内容が此願書の狙い所であつたと思われるのは、京都府は、明治三年一月京都市の産業崩壊の危機を防止すると共に旧弊刷新を企て、之を指導する目的を以て、東洞院通六角下ル所に之れを設置し、京都市内の豪商十数名を京都府御用掛物産引立世話役に任命し、主として勧業資金の貸付と、経営の指導をして、商工業者の企業の立直しに、助力せしめることにした。何しろ民間人の寄せ集めと、大まかな旦那衆のみであるから、貸出しが放漫で、好意的偏頗な処置に流れ易く、借り方も顔が利けば気楽に融通して呉れて、督促も呑気であつたから、何かと窮窟な京都府の取扱金より、此引立会所から借りた方がよい。さすれば、返済上納延期も話が解りよく、一つ一つ恐れ入らなくて済むと考え、西陣物産会社も早い話が借金の肩代りを願ったものであるが、京都府は余計な手数を踏まなくてもよい。七月末日に返済出来るなら、相違なく持って来いと命令したので、藪をつついて蛇を出した。

    借入金返済延期願い再度―京都府の不承知

    前項の三万両七月末日返済額は、当初から実行不可能であつて、 一時逃れの手段であつたから、泣訴哀願、期日を同年十月末日迄、延期して貰ったものの、之れとても、返済上納金を調達し得る目算が、立たなかったから、次の願書を提出した。

    乍恐奉願上候口上書

    一、先般物産会社御許容被為成下職業情実盛大之為め御金三万両御拝借奉願上侯処格別之御仁植を以御 貸下被為成下御蔭奉載ニテ必至之困苦を相通難有奉 恐縮侯然る処有御金当十月御返納可奉仕等之処一般 之不景気二而不捌ヶ弥增不融通ニ付実以心痛仕侯間已後尽力仕法則相立代呂物売捌キ専一二可仕侯間何 卒格別之御憐愍を以来ル十二月廿九日迄御猶予被為成下候段御歎願奉申上侯間御聞届ヶ被為成下候ハバ莫大之御慈悲ト如何計難有仕合二奉存候 以上

    明治三庚午年十月廿九日

    西陣物産会社世話役

    沢田新七

    武本治兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    広瀬利右衛門

    中西長右衛門

    京都府御政府

    此願書の署名は、明治三年九月十九日、庶民の氏を称するを許す、との布告により、旧来の何屋何兵衛の、屋号を姓氏に替えることになつたから、斯様に変った。

    右口上書に対する京都府の意見は、「難聞届侯事」として願書に付箋返却せられた。

    再三の延期願に立腹した京都府役人が、遂に強硬な態度を示した。然しながら物産会社は京都府が聞届け下さらぬからと云つても、無い袖は振り様が無いので、又長文の歎願書を差出した。

    借入金返済延期御憐愍御聞届け歎願

    一、願書

    奉歡願候口上書

    一、当職之面々商業非法ニ募罷居候処既ニ昨己年一般之不景気二付商先ヲ失と中秋之頃ニ至テ休職ニモ可及候様成行其上中宮様御発興被為在侯テ相歎己が怠ヲモ忘却致当職続小前之者共モ携御騰ヶ間敷儀奉惜候段言語同断之至卜奉恐縮侯処其後当職内之者共区々御愁訴奉言上候処逐一御利解被為遊候其上元仲ヶ間之肝煎之者共御召出二相成職業向之形勢悉ク御尋之上会社一途二組立可申様御許容被為成下夫而己莫大之御金拝借奉願上候処格別之御に慎ヲ以テ御貸下ヶ被為成下體有本感伏会社法則申合ヲ以テ物産興隆成立,主トシ去ル十一月廿六日 初会社致一同持合セシ品々尚小前三至迄集会仕候処商人家中追々二集リ現金人札等致以之外繁昌之法ヲ設ヶ切 何二職業盛大相成候へバ弊習去り勉励精業可仕様、前条御愁訴奉言上侯者共速二必至ノ窮態ヲ助リ御恩沢 之程如何計難有率感載侯就テへ追々二御金御拝借奉顧上侯処都合三万両御貨下ヶ被為成下雞有奉恐縮侯尚亦当 社基本トシテ身元相応之積立金ヲ持寄出産之品追々買入致潤沢=仕入凡代金高拾万両余之品々閒置当地四条 並東京大阪右ヶ所商業出張所を御許容被為皮下益々盛大二相成世話役之面々共奉拝悦候処其以来济会社二於テ モ御趣意柄精実貫徹仕自ラ物価一般二下落仕元品莫大之安直相成当時社中之有代呂物夫々買入之節ノ直合= 引競べ明白二勘定相立侯得共当時平均二直段ニテ急速=売払候時へ多分之損失二立至り且又一般ノ人気ニそ物 り候哉ト当十七社の肝煎役之者共深心痛仕自然之損失卜乍中御拝借之御金御返納並御利足御上納等二不都合二 成行候得者第一奉対御上樣重々離相済奉恐入候御儀ニ付今般世話役一同決談之上各社更二一洗仕法則相改別紙之仕法相立テ御貸下ヶ金御返納方へ一ヶ年二三千両宛月賦ヲ以御上納奉中上度侯且亦御利是之儀へ御元金皆 上納後二吃度相納可申段一同莫大之奉豪御恩沢愈物産広隆基愚昧之面々投身命尽力可仕候実=以右厚ヶ間敷儀 奉言上侯テへ昨年已来必至之窮羅御救助被為成下御趣意ヲ忘却等で可仕様下被思召侯下奉心痛候得共実二 以会社従御許容一ヶ年ノ間世話役面々抽丹精御書下ヶ之御趣意基諸世話致居候得共自然之形勢二成行候段變重 ニモ御記申可奉言上侯間何卒御憐愍ヲ以テ願之通御聞届ヶ被為成下候へバ広大之御慈悲,如何計難有仕合可奉存侯以上

    明治三庚午閏十月

    物産世話役

    惣代

    沢田新七

    武本治兵衛

    竹之内 作兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    中西長右衛門

    京都御政府

    願書文言の説明

    前項願書の内容は泣訴の一言に尽きる。其内「中宮様御発輿被為在候テ相歎己が怠ヲモ忘却」云々に付ては、若干の説明を加える要があると思う。

    明治元年十二月十八日一条忠香の三女美子寿栄君御入内、即日立后被仰出、次で中宮の称を廃して皇后宮と称し奉る事になった。願書中の中宮様は西陣永年の呼び慣わしを其儘に使用したものである。

    明治二年三月七日明治天皇、京都を発し、東京に遷られるや、諸官省悉く東京に移ったから、京都は津浪の引いた後の如く、寂寥たる感があつた。次で皇后宮が同年十月五日御発輿、東京へ向われる旨発表せられた。

    内静的と見られた京都市民が、俄然騒ぎ出し、「天子様の御東行は時世の移変り是非もないが、中宮様は永久に京都に住ませられたい」と、市内諸所に行啓反対の貼紙をする、九月二十四日には数千人が行啓反対或は中止嘆願の旗幟を押立てて、寺町通を北へ石薬師門から京都御所朔平門から常御殿の皇后宮御住まいの方へ押寄せ、東京行啓中止の直訴を企てた。

    ――――後年のデモンストレイション示威運動も京都が先端であろうか――京都府は狼敗して、兵部省の兵隊を繰り出して群集を阻止し、追い払ったと伝えられる。

    此時皇宮堂上衆悉く東遷した為、大影響を被つて居る西陣織屋も、黙って居られないと、禁裏様とは深い縁由もあり地の利も近く、毎日数百名が湖平門前広場から東猿ヶ辻辺り迄坐り込んだ。(座り込戦術は西陣の発明であり、これが又第一号であつたかも知れない)又多勢が、御所の周囲をぐるぐる回って、千度詣りの祈禱をする。当時の有様をば、何とかして、西京に留まらせ給うみちはなきかと、嘆き訴え申せしこそ道理なれ。と書いたものがあるが、ことわり所ではない新婚夫婦に、百数十里別居生活を要求するなぞ、無茶な話であるが、之れを又自慢にして右願書に書いた。

    長谷京都府知事は、群衆心理からの事故発生、例ば御門前で割腹するなぞ、男子の本懐と思うていた時代故、 非常に心配して、京都市内の有力者を総動員し市民の説得と慰撫に努めた。結果は事なく東京へ御出発あらせられたものの、此様な京都市民の不満を緩和する為にも役立つからと、政府は勧業資金十五万両を、京都府に交付して呉れたのである。(明治五年十二月明治天皇が京都市へ下賜せられた十万両とは別である)是れに付ては、 西陣織屋の熱意と苦境の有様が、上聞にも達した事も、有力な原因である。其れを思えば、京都府がそう喧ましく謂わんでも、暫く待つてもらいたいと、皇室を担ぎ出して頼んだと見られる。

    又暫く待つて貰っても、所詮は借りた金であるから、払わぬとは調えず、色々と泣き事を並べても、要は金が集つていないのみでなく、調達の思案が付かぬので、此際延期願の筋を通す為、年賦毎月払いの計画を申出た。 而て願文中に「別紙の仕法相立」とあるが、仕法書は未だ発見せない。実際には何等実行して居ないのであるから、発見せなくてもよい訳である。

    又「当十七社の肝煎役ノ者共」とあるは、会社設立当初の十八社の内練絹、精好、絵絹が合併して三品社と称し、別に天驚該社から、綿天社が分離して、十七社となった。

    京都府の問責上納命令 

    明治三年十月借入金三万両上納延期教願書は、仕法書迄付けて、支払方法を陳弁した に拘わらず、其後少しも実行する気配もないので、翌四年夏、京都府から、西陣物産会社に対し、上納申度書が発せられた。

    西陣物産会社世話役

    同 各社肝煎

    同 各社中

    去己己之冬両度に貸下侯金三万両返上方之義段々及遅引候右は西陣之儀者御国内之織物之最上外国迄を致貴誉侯物産二付方今之世態益勉強可為致ため若干之金高茂貸下候事二候処兎角返金怠惰に相流れ去頃巳来催促之節ニ近来織物不人気又た各社相続難義申立斯三ヶ年之今日至迄不納二罷過候条以之外之次第二有之最前他二無之 格別二救遺侯仁恕之所置をも忘却さしめ候心得世話役之者は不及申各社一同不束至極憐助之途も無之候就而は 皆金三万両一時上納可申渡之処突然大金取揃方彼此離たるへくに付猶分段々評議を以三ヶ度済ニ成遺候条難有相心得各社之者へも篤と申渡銘々尽力之上当七月十三日同晦日八月廿九日都合三ヶ度二割合セ壱度壱万両宛無 相違勧業場へ返納可致候就而は此往各社ニ於て屹度見込有之事柄二而融通方差湊候節へ仕法書を以て願出候はゞ時々僉議之上引立可遺候事

    辛未

    京都府

    右の如く至極尤もな、文切形の借金免れも、よい加減にして置けと、謂つた愉快な而も名文の上納申渡書が降って、会社一同一言も無い。特に各社の者を対象にして居るので、全織屋に対して責任を負わしめたことになる。とは言え、僅か半月余りの間に、壱万両は愚か千両の調達も、会社のみでは不可能であるから、必然各社が各個人の織屋を対象として苦面の方法を協議の結果、遂に機別出銭となった。

    機別出銭と上納額機別出銭とは、織屋戸別に設備機台数により、分担金を出すのであつて、

    一、広巾織機壱台二付月廿五銭

    二、逼幅織機壱台二付月十二銭五厘

    三、木綿織機は其半額

    と定めて、毎月各社の肝煎が集金して会社に納め、会社は京都府へ之を上納することにした。此負担は時代の物価から見て相当重いものである。

    機別出銭はお上の御命令との触込みに、止むなく承知はしたものの、社により不腹不満があつた。

    元来元金三万両の支途は、製品持込者に、概算払したのであつて、其為会社に損失が生じたとすれば、当然製品持込者が責任を負担せねばならぬのに、西陣全般に機別出銭せしめる事は、甚不公平であると考えられ、予定通りの出銭が得られなかったものの、明治十年三月迄には金七千九百参拾六円を、支払上納し、残金は二万二千〇六十四円と、明治四年七月盆の入費に困窮した、小前織屋救済の為に、京都府から別途に借入れた金弐千円が未払となり、合計金弐万四千六十四門七錢三厘八毛が、次の西陣織物会所に引続がれた。

  • 西陣織物同業組合沿革史(2)

    西陣織物同業組合沿革史(2)

    第二章 西陣織物同業組合の創立と存立中の機構の變遷

    一、組合の創立

    明治三十年四月を以て重要輸出品同業組合法は發布された。既に明治初年以来幾度かの試練を経て、多年に亙る弊習を矯正して斯業の向上發展を圖り、機業報國の誠を致さんには同業者の一致團結以外何等の効果を擧ぐるの途全くなきことを知悉してゐた西陣は、府當局の慈恵を直ちに受入れ、當時の有力機業者並に紋様・撚絲・筬、綜絖業者三十名を發起人として、同法の附則第十九條 「輸出に屬せざる物品と雖も同業者に於て必要と認むる時は本法を準用し得」 といふ規定に従ひ、三十一年三月發起認可を申請し、翌四月時の府知事内海忠勝氏より發起人たることを認可せられ、且つその熱心なる助成を受けて直ちに準備に着手し、三十一年十月農商務大臣大石正巳氏より組合の設置、同定款、並に役員の就任を認可せられ、茲に昭和十三年に至る四十一年間、全国最大級の同業組合として君臨し、且つ地方産業振興の第一線に立った西陣織物同業組合は高らかに産聲をあげ、長期建設の第一歩を踏み出したのである。 いま組合の産婆役たる發起人、並に當時の組合機構を知るべき地區・業種・業者・産額並に組合最初の定款等を、残された認可申請書によって示せば次の如くである。

    發起人

    人見勘助・植田利七・榎並治兵衞・山下槌之助・河井長藏・龜山利兵衞・佐々木清七・中野新治郎・吉田甚兵衞・殿垣芳兵衞・松室以忠・今西平兵衞・小林伊之助・内藤小四郎・池田有藏・吉川博篤・松井盛太郎・箕浦藤之助・堀吉兵衞・瀧口庄次郎・吉村平兵衞・佐々木宗七・北岡茂八・澤本喜太郎・武田信彌・井上嘉兵衞・加藤松之助・有山駒吉・藤森駒吉・竹田泰道

    地區

    京都市一圓 愛宕郡内田中村・上賀茂村・大宮村・白川村・下鴨村・鹿ヶ峰村 葛野郡内大内村・七條村・朱雀野村・花園村・衣笠村

    種類

    織物業・紋様業・撚絲業・筬業・綜絖業

    業者並に産額

    織物業 四千四百九十一戸、一千五百四拾四萬壹千九圓參拾七錢
    紋様業 五十三戸、參萬壹千六百貳圓
    撚絲業 五百三十三戸、貳拾貳萬九千五圓拾錢
    筬業 三十八戸、參萬貳千圓
    綜絖業 四十九戸、六萬五千圓 合計 五千百六十四戸、壹千五百七拾九萬八千七百拾六圓四拾七錢

    定款

    第一章 總則

    第一條 本組合ハ重要輸出品同業組合法ニ據リ左ノ地區内ニ於ケル織物業者紋様業者撚絲業者筬業者綜絖業者ヲ以テ組織ス
    京都市 一圓
    愛宕郡ノ内 田中村 下鴨村 白川村 大宮村 上賀茂村 鹿ヶ峰村 葛野郡ノ内 大内村 七條村 衣笠村 朱雀野村 花園村

    第二條 本組合ハ西陣織物同業組合ト稱シ事務所ヲ京都市上京區元誓願寺通黑門東入ル寺今町五十四番地ニ設置ス
    但シ都合ニ依リ便宜ノ地ニ支部又ハ出張所ヲ設クルコトアルヘシ

    第三條 本組合ハ組合員協同一致シ営業上ノ弊害ヲ矯正シ斯業ノ發達ヲ謀リ信用ヲ保持スルヲ目的トス

    第四條 本組合ハ目的ヲ同ウスル他ノ組合ト氣脈ヲ通シ又ハ協同シテ聯合會ヲ設クルコトアル可シ

    第五條 本組合ハ組合ノ營造物及ヒ常設臨時ノ委員ニ關シ又ハ組合ノ事務ニ付キ此定款ニ定ムルモノ、外特ニ必要アルトキハ組合會ノ議決ヲ以テ別ニ條規ヲ設クルコトアル可シ

    第六條 本組合及ヒ役員ノ用フル印章ハ左ノ如シ

    第二章 組合員ノ權利義務

    第七條 組合員ハ組合ニ於テ左ノ權利ヲ享有ス 但シ定款其他ノ條規又ハ決議ニ據リ例外ノ定メアルトキハ此限ニアラス

    一、組合員ノミニテ組織セル團體ノ名ヲ以テ組合ト同様ノ目的ノ爲メニ組合ノ建造物ヲ使用スルコト
    二、役員又ハ議員ニ選舉セラレ及ヒ其選舉ヲ爲スコト 但シ組合經費ノ負擔ヲ減免セラレタルトキハ其期間中選舉權ヲ行フコトヲ得ス
    三、組合員相互ノ間ニ生シタル營業上ノ争議ニ關シ組合ノ仲裁判断ヲ求ムルコト
    四、組合ノ事業ニ參與スルコト
    五、營業上ノ權利ヲ侵害セラレ爲メニ組合ノ毀譽利害ニ重大ナル影響ヲ及ホス場合ニ於テ組合ノ事業トシテ權利回復ノ方法ヲ求ムルコト
    六、組合事務ノ進行會計上ノ疑惑組合財産ノ保管方法ニ付キ組合ニ對シ説明ヲ求ムルコト
    七、組合ノ解散ノ場合ニ於テハ其ノ財團ノ分配ヲ受クルルコト

    第八條 組合員ハ左ノ義務ヲ負フ

    一、組合ノ負擔ヲ分任スルコト
    二、組合ノ名譽職ヲ擔任スルコト
    三、組合ノ定款其他ノ條規及決議ヲ遵守スルコト
    四、組長ノ招喚ニ應スルコト

    第九條 本組合ニ加入シタル各種會社ハ代表人ヲ定メ組合ニ對スル責務ニ任セシムヘシ

    第十條 組合員ハ役員及ヒ委員又ハ組長ノ命ヲ受ケタル職員ニ於テ營業場ノ臨檢ヲ爲ストキハ正當ノ事由ナクシテ之レヲ拒ムコトヲ得ス

    第三章 役員

    第十一條 本組合ノ役員ハ左ノ如シ

    組長 一人
    副組長 一人
    評議員 十四人

    第十二條 役員ノ選舉ハ部會ニ於テ組長副組長ノ候補者各三名評議員ノ候補者三十六名ヲ推薦シ組合會ニ於テ其候補者ニ付キ定數ノ役員ヲ選舉ス 役員ノ當選ハ組合會出席議員ノ過半數ノ投票ヲ得ルヲ要ス過半數ノ得票者役員ノ定數ニ満タサルトキハ其不足員ニ付キ更ニ投票ヲ行ヒ向ホ過半數ノ得票者ナキトキハ投票ノ多數ニ依リ之レヲ決ス

    第十三條 役員ノ任期ハ滿二ヶ年トス 但シ滿期再選スルヲ妨ケス

    第十四條 役員ハ左ノ理由アルニアラサレハ任期中辭職スルコトヲ得ス

    一、疾病ニ罹リ其職ニ堪ヘサルモノ
    二、年齢滿六十歳以上ノモノ
    三、二年間役員トナリ爾後二ヶ年ヲ經サルモノ
    四、前ニ掲クルモノノ外組合會ニ於テ正當ノ理由アリト認ムルモノ

    前項各號ニ揭クル理由ナクシテ其職ヲ辭シタルモノハ組合會ノ決議ヲ以テ四年内役員及ヒ議員トナルノ權ヲ停止シ且ツ同期間内其負擔スヘキ經費ノ三分ノ一ヲ增加スルコトアルヘシ

    第十五條 役員ノ定數ニ缺員ヲ生シタルトキハ直チニ補缺選舉ヲ行フ
    但シ補缺選舉ニ當選シタルモノハ前任者ノ殘任期ヲ補充スルモノトス

    第十六條 役員ハ本組合ノ地區内ニ現住セル滿二十五年以上ノ男子ニシテ地區内ニ不動産ヲ所有シ重要輸出同業組合法施行細則第九條ニ抵觸セサルモノタルヲ要ス 組合ニ於テ違約處分ヲ受ケ確定後一ヶ年ヲ経過セサルモノハ役員トナルコトヲ得ス

    第十七條 組長ハ組合ノ事務ヲ總理ス 組長ハ必要ニ際シ評議員會ノ諮詢ヲ經テ常設又ハ臨時ノ委員ヲ置クコトヲ得

    第十八條 副組長ハ組長ヲ補佐シ組長事故アルトキハ代理ス

    第十九條 評議員ハ組合ノ業務ニ參與シ評議員會ヲ開キ左ノ事項ヲ評決ス

    一、組合會ニ付スヘキ議案
    二、豫算外支出ヲ要スル事件
    三、組合會ヲ開クノ遑ナキ緊急事件
    四、業務施行ニ必要ナル細則ノ制定
    五、前ニ揭クルモノノ外組長ニ於テ必要ト認メタル事項

    組長副組長ハ評議員會ニ列シ組長ハ議長ノ職務ヲ行フ

    第四章 監事

    ​第二十條 本組合ハ監事三名ヲ置キ專ラ組合ノ財産及ヒ會計監査ノ責ニ任ス

    第二十一條 監事ハ其職務上ニ付キテハ獨立シテ事ヲ行ヒ組合ト役員ト利害相反スル事項ニ關シテハ組合ヲ代表ス

    第二十二條 監事ハ何時ニテモ組合財産及ヒ會計ニ關スル帳簿ヲ檢閲シ現金出納ノ情況ヲ調査スルコトヲ得

    第二十三條 監事ハ主務役員ニ對シ組合ノ財産及ヒ會計ニ關スル事項ニ付キ詳細ナル説明ヲ求ムルコトヲ得。監事ハ組長ニ對シ業務成績ノ報告ヲ求ムルコトヲ得。監事ハ何時ニテモ組合會ニ於テ發言スルコトヲ得

    第二十四條 監事ハ組合ノ財産又ハ會計上危險アルコトヲ認知シ防衛ノ方法ヲ講スル爲メニ組長ニ對シ組合會ノ緊急招集ヲ求ムルモ容レラレサルトキニ於テ自ラ組合會ヲ招集スルコトヲ得

    第二十五條 監事ハ部長會ニ於テ候補者九名ヲ推薦シ組合會ニ於テ選定ス

    第二十六條 第十二條第二項及ヒ第十三條乃至第十六條ノ規程ハ監事ニモ準用ス

    ​第五章 各部

    ​第二十七條 組合員ハ其營業ノ種類ニ據リ左ノ各部ニ分屬ス

    ​第一部:繻珍・綴子・類ノ織物業者
    第二部:錦・金襴・厚板・明珍・蓬萊織・類ノ織物業者
    ​第三部:繻子・綾・羽二重・斜子・紹・紗・縮緬・一樂・畫絹・絖・沙綾・練・平練・類ノ織物業者
    第四部:繻子類ノ織物業者
    第五部:博多類ノ織物業者
    第六部:天鵞絨ノ織物業者
    第七部:御召縮緬及ヒ絹着尺類ノ織物業者
    第八部:木綿着尺類ノ織物業者
    第九部:木綿帯地類ノ織物業者
    第十部:ネル類ノ織物業者
    第十一部:動力ヲ用フル織物業者
    第十二部:紋様業者綜絖
    第十三部:撚絲業者
    第十四部:動力ヲ用フル撚絲業者
    第十五部:筬業者
    第十六部:綜絖業者

    ​組合員ニシテ數種ノ營業ヲ兼ヌルモノハ其主タル營業ノ部ニ屬ス

    ​第二十八條 各部ニ部長一名ヲ置ク

    第二十九條 各部ハ其部ノ利害ニ關スル事項ヲ審議スル爲メ部會ヲ設クヘシ

    第三十條 各部ハ其部ノ規約ヲ設ケ組長ノ認可ヲ經テ實行スヘシ

    第三十一條 部長及ヒ部會ニ關スル事項ハ其部ノ規約ヲ以テ之レヲ定ムヘシ

    第三十二條 部長ハ定款ノ定ムル所ニ據リ又ハ組長ニ於テ必要ト認ムルトキハ部長會ヲ開ク部長會ハ組長之レヲ招集ス

    第三十三條 部長ハ組長ノ委任アリタルトキハ其部ニ於テ組長ノ職務ノ一部ヲ行フ

    第三十四條 部會ハ其部ノ意見ヲ代表シ組合會ニ建議ヲ爲スコトヲ得
    部會ハ組長ノ諮問アリタルトキハ審議答申スヘシ
    各部ニ於テ費用ヲ要スルトキハ毎年十月迄ニ其費用並ニ徴收方法ヲ定メ組長ニ申出ツヘシ

    ​第六章 会議

    ​第三十五條 本組合ハ組合ノ重要ノ事項ヲ審議スル爲メ組合會ヲ設ク
    組合會ハ組合員ヲ代表スル議員ヲ以テ組織ス
    組合會議員ハ四十名ヲ以テ定員トシ其二十四名ハ一般組合員ヨリ選舉シ十六名ハ各部長ヲ以テ之レニ充ツ

    第三十六條 組合會ノ議長副議長ハ毎年初期ノ開會ニ際シ其ノ会議ニ於テ之レヲ定ム

    第三十七條 組合會議員ノ任期ハ滿二ヶ年トシ部長ニシテ議員タルモノハ其部長ノ任期ニ據ル
    組合會議員ハ滿期再選スルコトヲ妨ケス

    第三十八條 左ニ揭クルモノハ組合會議員タルコトヲ得ス
    一、未丁年者及ヒ女子
    二、組合ニ於テ違約處分ヲ受ケ確定後一ヶ年ヲ經過セサルモノ
    三、重要輸出品同業組合法施行細則第八條ノ各號ニ該當スルモノ

    第三十九條 役員ハ議員ヲ兼ヌルコトヲ得ス
    議員ノ任期中役員ニ當選シタルトキハ當然議員ノ資格消滅ス

    第四十條 組合會議員ノ資格ニ關スル當否ハ組合會自ラ之レヲ決定ス

    第四十一條 左ニ揭クル事項ハ組合會ノ決議ヲ經ヘキモノトス
    一、組合經費ノ收支豫算並ニ賦課徴収方法
    二、経費収支決算ノ認定
    三、定款ノ變更及ヒ特別規則の制定変更
    四、官庁ノ諮問ニ対スル答申
    五、組合所有不動産ノ処分
    六、基本財産ノ処分
    七、予算ヲ以テ定モノノ外新ニ義務ノ負担ヲ為シ及ヒ権利ノ放棄ヲ為スコト
    八、前ニ掲ゲルモノノ外組合員全般ノ利害ニ関スル事項

    第四十二條 組合會ハ役員ノ業務執行上ニ關シ監督ノ權ヲ有ス

    第四十三條 組合會ハ組長之レヲ招集ス
    招集通告ハ少クモ開會三日前ニ之レヲ爲スヘシ

    第四十四條 組合會ハ現在議員過半數ノ出席ナキトキハ議決ヲ爲スコトヲ得ス
    但シ同一議事ニ付キ招集通告ヲ再度ノ招集通告ヲ為シタルトキハ此限リニアラス再度ノ招集ヲ為ストキ又ハ緊急ノ場合ニ於ケル招集通告ハ前条ノ期間ヲ存要セス
    組合會議員ハ必要ト認ムル場合ニ於テ十名以上ノ同意アリタルトキハ緊急事件トシテ組長ニ対シ招集ノ請求ヲナスコトヲ得

    第四十五條 組合會ノ決議ハ可否ノ多數ニ據リ之レヲ定ム
    定款ノ變更ニ關スル議決ハ出席議員過半數ノ同意ヲ要ス

    第四十六條 組合會議員ノ定數ニ缺員ヲ生スルモ現員三十名ニ降ルマテ補缺ヲ爲スコトヲ要セス
    但シ組長ニ於テ補欠ヲ必要トスルトキ此限リニアラス
    補欠選挙ニ当選シタル議員ハ前任者ノ残任期ヲ補充スルモノトス

    第四十七條 第十四條ノ規程ハ組合會議員ニモ準用ス

    第四十八條 組合會議員故ナク招集ニ応セサルトキハ會議の議決を以て金壹圓以下の過怠金を科するコトアルヘシ

    第四十九條 組合會ハ之レヲ公開ス
    但シ議長ノ意見又ハ會議ノ議決ヲ以テ傍聽ヲ禁スルコトアルヘシ

    第五十條 組合會ハ議事録ヲ製シ其議決及ヒ選舉ノ顚末並ニ出席議員ノ氏名ヲ記錄シ議長及ヒ議員二名以上之レニ署名スヘシ
    組合會ハ議長ノ名ヲ以テ其議決ヲ組長ニ報告シ同時ニ議事録ヲ送付スヘシ

    第五十一條 議員ハ組合會開會中何時ニテモ議場ニ於テ發言ヲ爲スノ權ヲ有ス

    第五十二條 議事ニ關スル細則ハ組合會自ラ之レヲ定ム

    ​第七章 会計

    ​第五十三條 本組合ノ會計年度ハ暦年ニ從ヒ毎年十月ヲ以テ翌年度ノ經費收支豫算ヲ議定ス其経費科目ハ左ノ如シ

    大科目 小科目
    一、議員選舉費  
    二、会議費 一、會議費
    二、印刷費
    三、事務所費 一、印刷費
    二、公告費
    三、筆紙墨印肉費
    四、郵便電信電話費
    五、茶油薪炭費
    六、租税公費
    四、勧業費 一、博覽會共進會出品獎勵費
    二、商工實況調査費
    三、統計調査費
    四、實業團體交際費
    五、褒賞費
    五、備附品費 一、器具費
    二、書籍費
    三、新聞雑誌費
    六、給與費一、報酬費
    二、雇員給料
    三、旅費滞在費
    四、賞與及給與費
    七、家屋費 一、建築費
    二、修繕費
    三、借地費
    八、雜費 一、接待費
    二、人夫雇賃及乘車費
    三、雜費
    九、各部費 第一部〜第十六部費用
    十、豫備費  
    十一、準備積立金  
    十二、基本積立金 

    第五十四條 豫備費準備積立金ハ左ノ標準ニヨリ毎年其金額ヲ定ム

    豫備費 經費大科目第一乃至第九ノ豫算總額ノ百分ノ五以内
    準備積立金 同上百分ノ五以内
    基本積立金 同上百分ノ二

    第五十五條 豫備費ハ豫算ニ超過セル費用ヲ要スルトキ評議員會ノ評決ヲ經テ支出ス

    第五十六條 準備積立金ハ第五十三條ノ各科目以外ニ費用ヲ要スルトキ組合會ノ決議ヲ經テ支出ス
    但シ緊急ノ場合ニ依リ組合會ヲ招集スルノ遑ナキトキハ評議員會ノ評決ヲ經テ支出シ次期ノ組合会ニ提出シテ承諾ヲ求ムルモノトス

    第五十七條 基本積立金ハ組合會ノ決議ヲ以テ確實ナル方法ヲ設ケ之レヲ保管ス

    第五十八條 組合経費ニ剰餘金アリタルトキハ翌年度ノ雜收入ト爲シ不足ヲ生シタルトキハ組合會ニ於テ其補充ノ方法ヲ議定ス

    第五十九條 經費ノ賦課徴收方法ハ毎年之レヲ定ム

    第六十條 経費豫算ハ其ノ認可ヲ受ケタルトキ決算ハ農商務大臣へ報告スルト同時ニ組合員ニ公告ス

    第八章 事務規程

    第六十一條 本組合ハ常務ヲ處辯スル爲メ左ノ職員ヲ置ク
    理事長 一人
    理事 二人
    書記 若干人

    第六十二條 理事長ハ評議員會ノ諮詢ヲ經テ組長之レヲ任免ス理事及ヒ書記ハ理事長ノ申告ニ依リ組長之レヲ任免ス

    第六十三條 理事長ハ組長ノ旨ヲ承ケ理事及ヒ書記ヲ監督指揮シ庶務ヲ整理ス

    第六十四條 理事ハ庶務ヲ掌理ス

    第六十五條 書記ハ庶務ニ從事ス

    第六十六條 理事長以下ノ俸給ハ評議員會ノ諮詢ヲ經テ組長之レヲ定ム

    第六十七條 組長ハ評議員會ノ諮詢ヲ經テ理事長以下ノ職員ニ年功加俸ヲ給スル事ヲ得

    第九章 組合員ノ加入脱退

    第六十八條 本組合ノ地區内ニ於テ第一條ノ營業ヲ爲サントスルモノハ事務所へ加入手數料金拾銭ヲ納付ス可シ
    前項ノ届出アリタルトキハ事務所ニ於テ定款其他ノ條規ヲ示シ組合員名簿ニ捺印セシメ證票ヲ付與ス

    第六十九條 地區内ニ分工場ヲ有スル組合員ハ別ニ工場證票ヲ受クヘシ新ニ分工場ヲ設置シタルトキハ七日以内ニ證票ヲ受クヘシ
    分工場ニ管理者ヲ置クトキハ其宿所氏名ヲ事務所へ届出ツヘシ

    第七十條 事務所ニ於テ組合員ニ付與スル證票ノ雛形左ノ如シ

    第七十一條 組合員ハ前條ノ證票ヲ門戸ニ掲出スヘシ

    第七十二條 證票ヲ破毀シ又ハ紛失シタルトキハ事務所ニ請求シテ再渡ヲ受ケ營業主變更若クハ改名ヲナシタルトキ書換ヲ請求スヘシ

    第七十三條 證票ヲ破毀シ又ハ紛失シ再渡ヲ受クルトキハ事務所へ手數料金五錢ヲ納付スヘシ

    第七十四條 組合員轉居又ハ營業主變更改名等ノ異動アリタルトキハ十日以内ニ事務所へ届出ツヘシ
    廢業又ハ地區外へ轉居ヲ爲シタルニ依リ組合ヲ脱退スルトキハ直チニ事務所へ届出テ證票ヲ返納スヘシ若シ怠ルトキハ證票ヲ返納スルマデ組合ニ對スル責務ヲ免カルルコトヲ得ス

    第十章 賃織及ヒ職工徒弟ニ關スル規程

    第七十五條 自己ノ工場ニ於テ他人ヨリ原料及ヒ器械若クハ原料ノミノ寄託ヲ受ケ賃金ヲ得テ織物製造ヲ爲スモノヲ賃織ト稱ス
    組合員ノ工場ニ就キ賃金ヲ得テ傭役セラルルモノヲ職工ト稱ス
    組合員ノ營業場ニ於テ業務ノ傳習ヲ受クルモノヲ徒弟ト稱ス

    第七十六條 組合員ニシテ職工徒弟ヲ使傭又ハ解雇爲シタルトキハ七日以内ニ事務所へ届出ツヘシ

    第七十七條 組合員ニ於テ賃織契約職工雇傭契約徒弟習業契約ヲ爲シタルトキハ組合ノ保障登録ヲ受クルコトヲ得
    保障登録ヲ受クルモノハ毎件手數料金拾銭ヲ納付スヘシ
    事務所ニ於テ保障登録ヲ爲シタルトキハ證明書ヲ付與ス

    第七十八條 組合員ハ組合ニ加入セサルモノト賃織契約ヲ爲シ又ハ組合ニ加入セサルモノニ撚絲ヲ爲サシムルコトヲ得ス

    第七十九條 同時ニ又ハ相前後シテ二人以上ノ寄托ヲ受ケ賃織ヲ爲サントスルトキハ寄託者總テノ承諾ヲ經タルコトヲ證明スルニアラサレハ保障登録ヲ受クルコトヲ得ス
    但シ寄托者ニ於テ故ナク承諾ヲ與ヘサルトキハ此限ニアラス

    第八十條 組合員ハ何等ノ名義ヲ用フルモ他ニ保障登録ヲ受ケタル契約ノ存在スル職工徒弟ヲ恣ニ使役スルコトヲ得ス

    第八十一條 賃織ヲ爲スモノ契約期間中ニ寄托者ニ對シ不法ノ行爲ヲ以テ損害ヲ蒙ラシメタルニ依リ其寄托者ノ申請アリタルトキハ組長ハ其事実ヲ調査シ組合ニ於テ賃織寄托ヲ禁止スルノ宣言ヲ爲スコトアルヘシ
    前項ノ宣言ハ一月以上一年以下ノ範囲内ニ於テ期限ヲ定メ之レヲ爲ス

    第八十二條 賃織寄托ノ禁止ヲ宣言セラレタルモノハ七日以内ニ異議ノ申立ヲ爲スコトヲ得

    第八十三條 職工又ハ徒弟カ契約期間中ニ恣ニ業務ヲ休止シ且ツ濫リニ傭主又ハ使用者ノ家ヲ去リ若クハ不法ノ行爲ヲ以テ傭主又ハ使用者ニ損害ヲ蒙ラシメタルニ依リ其傭主又ハ使用者ノ申請アリタルトキハ組長ハ其事実ヲ調査シ組合ニ於テ雇傭禁止ノ宣言ヲ爲スコトアルヘシ
    雇傭禁止ノ宣言ハ組長カ取消ノ告示ヲ爲スマテ其效ヲ有ス

    第八十四條 賃織ヲ爲スモノ契約期間中ニ其寄托者カ原料ノ供給ヲ停止シ又ハ故ナク寄托器械ヲ回収シ相当ノ給與ヲ爲サシテ一週間以上業務ヲ休廢セシメ若クハ不法ノ行爲ヲ以テ損害ヲ蒙ラシメタルトキハ其賃織受托者ノ申請ニ依リ組長ハ評議員會ノ審理ニ附シ其決定ヲ以テ本件契約ノ保障登録ヲ鎖除スルコトアルヘシ

    第八十五條 契約期間中ノ職工徒弟其傭主使用者ノ虐待ヲ受ケ又ハ職工ニ在ッテ一週間以上業務ヲ休廢セラレ賃金ヲ得ルノ途ヲ失ヒ徒弟ニ在ッテ業務ノ傳習ヲ受クル能ハス且ツ常例ノ給養ヲ廢サレタルトキハ其職工又ハ徒弟若クハ其親族ノ申請ニ依リ組長ハ評議員會ノ審理ニ附シ其決定ヲ以テ本件契約ノ保障登録ヲ鎖除スルコトアルヘシ

    第八十六條 第八十三條ノ規程ニ據リ異議ノ申立アリタルトキハ組長ハ之レヲ評議員會ニ諮リ其當否ヲ決定ス
    前項ノ決定及ヒ第八十六條第八十七條ノ決定ニ対シ不服ヲ申立ツルコトヲ得ス

    第八十七條 保障登録ヲ受ケタルモノニアラサレハ第八十二條第八十四條ノ申請ヲ爲スコトヲ得ス

    第八十八條 證票ヲ所持セサル職工ハ組合員ニ於テ傭役スルコトヲ得ス

    第十一章 違約處分

    第八十九條 左ニ掲クルモノハ金拾銭以上金壹圓以下ノ過怠金ヲ科ス
    一、事由ヲ示サスシテ役員又ハ委員若クハ組長ノ命ヲ受ケタル職員ノ營業場臨檢ヲ拒ミタルモノ
    二、分工場ヲ設置シ其證票ヲ受ケサルモノ
    三、證票ヲ破毀紛失シ更ニ付與ヲ申請セス並ニ營業主變更又ハ改名ヲ爲シテ證票ノ書換ヲ申請セサルモノ
    四、職工徒弟ヲ使傭シ期間内ニ届出ヲ爲ササルモノ

    第九十條 左ニ掲クルモノハ金五拾銭以上金五圓以下ノ過怠金ヲ科ス
    一、賃織契約保障登録期間中ニ其寄托者ノ承諾ヲ經スシテ職工又ハ徒弟トナリ他人ノ業務ニ従事スルモノ
    二、住所氏名年齢又ハ其一部ヲ偽リ職工雇傭契約徒弟習業契約ノ保障登録ヲ受ケタル組合員

    第九十一條 左ニ掲クルモノハ金貳圓以上金貳百圓以下ノ過怠金ヲ科ス
    一、禁止ノ宣言セラレタルモノニ賃織ヲ爲サシムルモノ
    二、禁止ノ宣言セラレタル職工又ハ徒弟ヲ使用スルモノ
    三、詐偽ノ手段ヲ以テ證票ヲ得タル職工ノ情ヲ知リテ使役スルモノ
    四、詐偽ノ申立ヲ爲シ保障登録ヲ受ケタル職工ヲ傭役シ又ハ徒弟ヲ使用スルモノ
    五、保障登録ヲ受ケタル賃織契約存在中ノモノニ対シ其寄托者ノ承諾ヲ経スシテ恣ニ賃織ヲ爲サシムルモノ又ハ他ニ保障登録ヲ受ケタル契約ノ存在スル職工徒弟ヲ恣ニ使役スルモノ
    六、組合ニ加入セサルモノニ撚絲ヲ爲サシメタルモノ
    七、組合會ニ於テ決議セル條規ニ違背シタルモノ

    第九十二條 違約處分ハ評議員會ノ評決ヲ経テ組長之レヲ行フ違約處分ハ理由ヲ明記シタル書面ヲ以テ本人ニ通告ス此通告ヲ受ケタルトキハ七日以内ニ其過怠金ヲ事務所へ完納スヘキモノトス

    第九十三條 違約處分ニ不服アルモノハ通告ヲ受ケタル日ヨリ三日以内ニ其申立ヲ爲スヘシ不服ノ申立ヲ爲ストキハ其過怠金ニ同シキ金額ヲ事務所へ供託スヘキモノトス

    第九十四條 不服ノ申立ニ対シ前ノ處分カ正當ナリト決定セラレタルトキハ其供託金ヲ以テ直ニ過怠金ニ充ツ

    第九十五條 不服ノ申立ニ対シ前ノ處分カ不當ナリト決定セラレタルトキハ其供託金ヲ返還スヘキモノトス

    第九十六條 第九十一條第一及ヒ第五ニ該當スルモノハ其相手ノ被害者ノ申告ニ依リ處分ス

    第九十七條 行爲カ終リシ後三ヶ月ヲ経過シテ組合ニ發覚シタルモノハ其違約處分ヲ免ル

    第十二章 解散

    第九十八條 組合會ニ於テ組合ヲ解散スルノ決議ヲ爲シタルトキハ組長ハ更ニ組合員ノ總會ヲ開キ其出席者三分ノ二以上ノ同意ヲ以テ之レヲ決ス

    第九十九條 組合ノ解散ヲ命セラレタルトキ又ハ組合ヲ解散スルニ決シタルトキハ組合會ニ於テ精算人五名ヲ選定シ解散ニ關スル一切ノ事ヲ處理セシム
    解散ノ場合ニ於ケル組合ノ財産處分ハ組合會ノ決議ニ據ル

    附 則

    第百條 組長ノ宣言及ヒ組合ヨリ一般ニ發スル告知其他ノ報告ハ組合會ノ決議シタル一定ノ方式ニ依ル

    第百一條 此定款ノ規定ニ從ヒ組合員ヨリ組合へ差出ス可キ届書式並ニ保障登録ニ關スル手續等ハ組長之レヲ定ム

    第百二條 明治二十五年七月京都府令第四十六號同業組合取締規則ニ據リ設立シタル西陣織物製造組合ニ於テ登録ヲ受ケタル賃織契約職工雇傭契約徒弟習業契約ハ其登録有効期間ノ滿了ニ至ルマデ此ノ定款ニ定メタル保障登録ヲ受ケタルモノト同一ノ效力ヲ有ス

    第百三條 前條記載ノ組合ニ於テ付與ヲ受ケタル組合員ノ證票及ヒ職工ノ證票ハ追テ組合會ノ決議ヲ經テ期限ヲ定ムルマデ本組合ニ於テ仍ホ有効トス

    第百四條 本組合役員監事及ヒ議員部長ノ初期ノ選舉ハ創立總會ニ於テ之レヲ行フ

  • 西陣織物同業組合沿革史(1)

    西陣織物同業組合沿革史(1)

    西陣織物同業組合沿革史成る。

    榮光ある千古の傳統と由緒とに培はれたる西陣が、同業組合の名に於て大同團結したる明治三十一年より、輝く凱歌をあけて解散したる昭和十三年に至る三聖代四十有一年の事歴を編述するは、これを既往に温ねて先人の功業に謝し、これを後尾に傳へて、將來の指針たらしむべく、本組合の解散記念として最も有意義なる事業たり。

    即ち組合解散後清算人會の意を承けてこれが編纂を志し、多年操觚者として本組合に最も馴染み深き大槻喬氏に嘱したりしが、春風秋雨四十有一の短からざる歳月に針し、諸種の都合上甚しく編纂の時日及び紙数の制限を爲したるを以て、單に組合四十年の略譜たるに止まりしは編者と共に洵(まこと)に遺憾とするところなり。

    然りと雖も尙編者の熱誠と努力とは、よく縟を省き簡に纏めて要を盡くし、且つ編中隨所に機業報國の烈々たる西陣精神の躍動を見、同業組合は解散するとも、此の精神は永遠に西陣の生命として遺さるべきを確信し、欣喜措く能はざるものあり。

    茲に編者の労を謝し、一言を識して以て序と為す。

    昭和十四年卯月

    小西弁次郎

    凡例

    一、本書は西陣織物同業組合解散記念として、その存立四十一年間の事歴を略述したものである。

    一、編者もとより梭杼の間に生を享けたるものにあらず、たゞ僅かに十有六年を操觚に従ふ中、前後通じて十年を組合に出入し、門前の小僧漸く經文の第一巻を誦し得るのみ。

    一、しかも尙編纂の期限と紙数とに著しき制限があり、遺憾ながらこれを古老先輩に叩くの遑を有し得なかつたのである。

    一、よつて第一章は主として佐々木信三郎氏の著『西陣史』並に西陣小學校發行『郷土の錦』等に負ふところ多く、第二章以下は資料を組合の書庫に求めたが、此の間四旬を超ゆるを得ず、只お座なりに纏めあけたのみ、組合の期待に背いた罪は甚だ大である。

    一、文章は原則として極めて平易なる口語體に據り、編中の氏名は明治以前の分はその敬称を略し、以後はこれを附した。蓋し多くの慣例に従ったのみである。

    一、題辭は組合最終の組長長谷川市三氏、序文は最終の理事小西弁次郎氏を煩した。

    一 、最後に上記『西陣史』及『郷土の錦』と共に、第二章以下の編纂に封し、公私多端の時間を割愛して各殿の便宜を附與せられた左記諸賢にし、茲に満腔の感謝を捧ぐるものである。

    長谷川市三氏
    加藤宗三郎氏
    小西弁次郎氏
    竹村直太郎氏
    竹村武夫氏
    久井健造氏
    馬家原隆人氏
    野村信三氏
    川端政吉氏
    舊西陣織物同業組合職員諸氏
    西陣織物工業組合職員諸氏

    昭和十四年四月
    如意山麓の寓居に於て

    編者 大槻 喬識

    西陣織物同業組合沿革史

    第一章 西陣織物同業組合設立以前の西陣

    一、京都に於ける機織の濫觴と西陣の發祥

    西陣織物同業組合の誕生は明治三十一年である。それはしかし單にその前年四月を以て發布された重要輸出品同業組合法の附則に準據し、常時既に存立した二三の申合せ團體を改めて法人組織に變更したもので、成るは成るの日に成るにあらす、もとより西陣の淵源は深く且つ遠い。いま西陣織物同業組合沿革史の名のもとに、明治三十一年以降昭和十三年に至る輝く四十有一年の略語を経るに當り、まづ以て組合設立以前の西陣を概説してその第一章に充てた。温古知新の理に従ふと共に、併せて幾多先人の努力と犠牲とに対し、感謝の微意を捧けんが爲めに外ならぬ。

    天照皇大神が齋服殿に於て神衣を織りたまふたことは古事記の諭すところであり、天市千魂姫命は天豊岡に蠶を養ひ、天日鷲命、津咋見命はともに楮(こうぞ)より探つて木綿を作り、長白羽命は麻を栽培したまふたことも夫々古書に見えているので、これら各種の繊維による機能の道は遠く神代に開けていたことを知られるのであるが、京都に於ける機織の濫觴は應神天皇の御代に歸化して支那風絹帛の織法を齎らした秦の融通王の率ゐる勝部の族が、山背に移住したに初まり、雄略天皇の御代には、現在の太秦地方は、既に當時に於ける国内有数の機業地として自他共に許すところであつた。

    しかして京都の地が我国機業の中枢となつたのは桓武天皇の都を刻めさせられた延暦に發する。即ち平安奠都と共に織部司を移し置かれ皇城の長位、現在の上長者町新町西入附近に東西四十丈南北二十丈の織手町を設け、綾、羅、錦を初め旺んに絹絁布を織り、斯くて平安中期に入るに及んでは、権門を誇る藤原氏の一族を始め、朝臣は挙けて服飾の豪奢を競ひ、京都に於ける染織技術は、絢爛として平安文化の最高峰に位したのである。

    然るに源頼朝覇府を鎌倉に開き、兵馬の權は全く東に移つてより、京都の地は著しくその繁盛を奪はれたが、しかも尙優美典雅なる傳統の文化はよく京都に遺され、且つ民業としての京都機能の端は実にこの頃に開かれて、當時貴紳の好尙に投じ盛んに渡来した宋の綾なども大に模倣されたと共に、一面には武家好むところの素朴掬すべき文様をも產出せしめたのであつた。

    しかも源平北條相次で潰え室町時代に入るや、將軍金銀閣を造営して奢侈風流に恥溺すれば、諸侯及士分も王朝文化の艶麗を慕ひ、藤原の雅趣は復古して美術工藝、就中織物の發達著しく、所謂名物裂の逸品は相踵いで渡来し、再び平安の盛時に復するの観があつた。

    然るに應仁元年足利將軍の相積問題を導火線とする幕府内部の軋轢より、細川勝元、山名宗全兩者の戦端は開始せられ、勝元の東陣、宗全の西陣相對峙して兩者下らざること實に十有一年、京洛は修羅の巷となって荒廃甚だしく、文明九年戦雲は漸くおさまったのであるが、職工の多くは兵燹を避けて地方に流浪し、常時機業地として京都と並び称せられた泉州堺に逃るる者多く、京都の後業は一時全く潰滅に願したのである。 

    しかしながらその由緒と傳統とを誇る京都の授業が、かかる一時的戰亂のみによつて滅亡し去るべきわけはなかつた。軈て亂終るや離散した織工も漸く復帰して機業は逐次復興の氣運を迎へ、東陣の跡には新在家が開かれて清白の絹を織出し、羽二重、練貫等を主要織物として次第に發達すれば、一方西陣の跡には大舍人座と称する座が開かれて綾織物が再興し、天文十七年には大舍人座中三十一人は足利家の被官人となつて特別の保護を受け、軍勢の寄宿や賦役負擔の免除といふ特典を与へられ、將軍直属の技術者として甚だしく重きを加へ、茲に搖きなき基礎を築いて、後年世界に於ける有数の機業地たる西陣は、力强き機杼の音と共に發祥したのであつた。當時の西陣とは堀川以西、一條以北を謂ひ、大舍人座自體は足利末期の擾亂に際して全く座としての実効を失ったものの如くであるが、西陣機業そのものは、座の衰退とは無關係の裡によく傳統に生きてその躍動を休めなかつたのである。

    間もなく所謂戰國時代に入ったが、織田信長の剛勇の前には、地方に割據した群雄の向背も自ら定まり、一旦廃絶に瀕していた京都の儀式典禮も復興せられ、落魄流離の公卿も相次で歸京して京畿の秩序は急速に回復し、再び文化の中心となつた。

    殊に信長の後を承けた豊臣秀吉は皇居の造営を盛んにし、京師の區劃整理を断行して大に王城の地を経営し、桃山城大土功の如きは不羈奔放、まさに天下の耳目を眩惑せしむるに足るべきもので、美術工藝界を刺激啓発したること甚だ多く、茲に桃山式の豪華壯麗を現出し、西陣機業また捲土重來の意氣目ざましく發達して、能楽の流行に伴ふ能衣裳の豪華、茶道の愛好に培はれた名物裂の優雅、等二つの異なる文様は相競つて飛躍跳躍を重ね、或は唐織、或は金欄の創始となり、繻子、緞子が渡來すれば直ちによくこれに倣ひ、他の如何なる機業地も最早その技巧に於て、西陣に追随することは絕對不可能の域に到達したのである。ただ安土桃山時代は甚だ短かく、足利末期の極亂に失はれた座組織は未だ充分なる復興を見ずして、この時代を終ったのであるが、現在の乾隆、西陣、嘉樂、桃園等の諸學區に跨る区域は、機業家軒を並べて機杼の音を競ひ、茲に室町時代に發祥した西陣は、桃山時代に入って全く完成さるるに至ったのであつた。

    二、徳川時代の西陣

    徳川三百年は泰平であつた。特に西陣が恵まれたことは、従前はただ貴族階級にのみ限定された奢侈風流が、一般民衆にまで深く浸透したことで、永く社會の下積みとなつてゐた町人階級は、この生活様式の奢侈によつてその優越性を誇るの風潮を招来した。勿論かかる長期に互る昌平の裡には、當然奢侈の抑壓、その他種々なる變化はあつたのであるが、これにはまた一面これと全く矛盾する徳川幕府の手厚い保護があつた。萬治二年に於ける唐糸の騰貴に際しては、一旦幕府が唐人より買上け、更めてその儘の價格を以て西陣機業者に拂下けて居り、斯くの如き例は元祿年間にも二度を数へ、また延寶、元祿、享保年間に於ける再三の米價騰貴に際しては、幕府は救助米をも支給したことが文献に遺されている。

    さりながら、享保前後より本格化した幕府の殖產獎勵政策は、單り西陣のみを潤ほしたものではなく、地方機業の台頭もまた大に顕著となり、特に桐生の如きは、元文三年西陣の織工彌兵衛、 吉兵衛等によつて紗綾、縮緬その他の製法を傳習して割期的發展を遂け、また享保の大火による西陣の災禍に乗じて、安價第一を標榜する丹後縮緬が著しく京阪に進出し、西陣機業は茲に腹背に脅威を受け、辛ふじて京都へ移入する桐生の紗綾を九千端、丹後の縮緬を三萬六千場に制限した幕府の消極的保護政策によつて一息ついたのである。

    かかる保護政策の裏には、些か神史小説の類ではあるが、三代將軍家光の寵を恋にした桂昌院を脱却することが出来ない。桂昌院は大宮北小路町の青物屋の娘として生を享け、九歳にして西陣に織屋奉公に上つたのであるが、後轉向して二條家の下婢となり、寶永三年家光の入洛に際し、二條家より二條城の御湯殿詰に廻されたのが運命の轉機となつたものと伝へられ、江戸の大奥に入つての後も愛郷の念頗る厚く、西陣機業の隆替には常に説き配慮を加へ、西陣製品を大量買上けて機業家を潤ほし、五代綱吉將軍の生母としては、常時の西陣保護政策にしばしば發言したと稱せられる。

    斯くて元祿時代百六十餘ヶ町を敷へた西陣は、享保に至つて二百七十ヶ町に及び、享保十五年六月の大火には、織機七千餘中質に三千十二機を失ふの奇禍に遭遇したが、しかも尙よくこの試練に勝へて復興し、いよいよ堅実なる發達を遂げ、西陣機業の中樞たる紋織業者は、高機屋七組の組合を設けて他業者からの轉業を斥け、たとへ高機屋の娘を娶った者と雖も、元来の高機屋にあらざる限りその緣故を以て機業を営むを許さず、次男以下の宿這入りを以てしても、十五歳以下ではこれを認めないといふが如き厳重なる資格制限を勵行し、また生產過剰に陥ることを極力回避して、高機屋の信用を維持すると共に、一面機業家の流浪による西陣織法の地方傳播を警戒し、或は雇人及賃機の争奪を取締る等、統制の強化擴大によつて、よく西陣紋織の聲價維持に邁進したのであつた。

    一方千本以西には高機以外の機屋、即ち手織の製織業者が、天鵞絨、熨斗機、練貫、絵絹、琥珀、博多、小帶、選絲羽二重、練絹片色熨斗目、島縮緬、茶宇、新在家熨斗目、丹後島、木綿等、等各種の織物を産出し、斯くて寶曆以後近江縮緬(長濱)が彦根井伊家の権勢に庇護を仰いで京都に進出したり、天明の大火には享保に劣らざる災厄を蒙むつて仲ヶ間定法が紊れたり、次で天保四年、同七年兩度の飢饉、同十三年の所謂天保改革による高級織物にする彈壓、 幕末の風雲急なるところへ、萬延の絲高、慶應の米高、絲高と幾度かの試練にその躍動を脅威されながら、しかもよく洗練されたる千年傳統の技巧は、難に臨んでその本領を失はず、頑として本邦機業界の王座を確保しつ、、明治文化の上に展開するの實力を堅持したのであった。

    三、明治中葉までの西陣

    山紫水明に剣戟の響が谺(こだま)した幕末、そしてその最後が元治の兵燹であつた。京都にとつては實に應仁以後に於ける最大記録の惨禍であつただけ、西陣機業にとっても良からう筈はあり得なかつた。しかしその鉄砲焼けが庶政一新の烽火として、軈て輝かしい明治新政府は樹立され、元年二月には建礼門前有栖川宮御殿の御址に京都裁判所が設けられ、四月には府と改稱して、初代の府知事長谷信篤氏が任に就いた。市民は抃舞した。西陣また脈々たる復興の意気に燃えたのは當然である。

    然るに揣(はか)らざりき、半歳後の九月には車駕の東幸を拝するの一大衝動に直面したのである。

    そもそも京都市民が既往千有餘年に亘り、その胸底を去来した唯一の矜持は禁裡の在します帝都の市民たることであつた。その矜持を一朝にして失ふと共に、更に明治維新の政治的、社會的一大變革に含面したことは、應仁の乱、元治の乱以上の耐へ難い痛苦であり打撃であつた。京都に於けるあらゆる産業は、この明治維新に随伴した大變革によつて、まさに徹底的に打ちのめされたのであるが、就中、その最も痛烈を極めたのは、実に西陣であつたのである。せめてもの希ひとて皇太后宮の東啓御見合せを哀祈するの聲高く、西陣の男女織工數百名は、 連日大宮御所の周囲を千度したといふのもまた無理からすとされたのであつた。

    御東遷遊ばされたとはいへ、尙昔ながらの制度が存置されたならば、御後を慕ひまつつて御用を拜することも出来たであらう。しかしながら朝廷の儀式式典、貴神の服制、一般庶民の服飾、すべて古事は更改せられ、舊物は打破せられ、好むと好まざるとに拘らず、最早流離の一逢あるのみの深淵に臨んだのであつた。

    救世主は、しかるに新政府に現はれた。時の知事長谷信篤氏は西陣のこの窮状にいたく同情して、これが保護に少なからざる努力を致した。まづ明治二年の春、機業家中より小前引立掛三名を選出して、貧窮織工の保護救濟の任に當らしめ、次で明治大帝が京都に對せられた無疆(むきょう)の恩龍による、御下賜金十五萬圓を基本とした勧業資金中より、金三萬圓を西陣に貸與して、 同年十一月西陣物產會社を創立し、全機業者をして

    模樣社、金欄社、博多社、繻子社、夏衣社、新古帶社、綸子社、縮緬社、紗織社、羽二重社、古帯社、練絹社、精好社、繪絹社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社

    の十八社に分屬せしめ、これら各社より選出した七十二名を肝入とし、これを京都通商司より任命した、頭取、取締の補助員に任じて、大に業務を督励し、只管西陣機業の甦生、就中取引の改善につき力を致したのであつた。一、三、六、八の日に市場を開き、仲買はもとより諸國商人及素人に至るまで、すべて入札を以て販賣することとし、翌年には東京、大阪に支社を設け、各肝入達は一切無報酬を以て犠牲的奉仕を吝ます、更に一面長谷知事は西陣機業の發展が當然機械力に俟たざるべからざることを熱心に唱導して、明治五年十一月、佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七諸氏を佛国のリヨンに留學せしめ、滞佛八ヶ月、新に新織法及新織機を齎らして明治六年十二月佐倉、井上両氏は故郷西陣に錦を飾り、後年紋織物に画期的大發展を齎らしたジャカード機を初め十種の機械を輸入した。朝延期を請願して更に研究を重ねた吉田忠七氏は、七年三月二十日、眼前に故国を眺めながら、その乗船の遭難に殉じて空しく伊豆沖に歿したが、一方には明治六年墺国維府(ウィーン)の万國博覧会に出張する、時の政府大官佐野常民氏に隨行して、伊達彌助、早川忠七兩氏等が渡欧し、これまたジャカード其他各種の織機を齎らし、西陣機業として技術的には置に萬丈の氣を吐くに至らしめたのであるが、惜しむべし依然として多くの機業者は舊弊に囚はれて、西陣物産会社育成の念に欠け、且つ局に當るものも経験足らす、明治十年西南役の世相不安によつて、西陣物產會社は遂に全く行詰まりを来したのは是非もない成行であつた。

    二代の知事槇村正直氏は大にこれを憂慮し、西陣物産会社を廢止すると共に、十年六月更て西陣織物會社なる機構に改組して、製品検査と証紙貼用の兩制度を断行し、且つ曩(さき)の十八社を改革して

    紋織社、生紋織社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社

    の八社とし、各社の自治的取締を行はしめ、粗製濫造の防止に鞭撻大に努めたに拘らず、業者の多数は尚未だこれが運用に関して自覚するところ少なく、これまた龍頭蛇尾に終るの余儀なきに陷入った。実に如何なる發展策、振興策を講ずるとも、業者自体が精神的、道徳的な地盤に立つて鞏固なる一致團結を缺く限り、何等の實効を挙け得ないことを雄弁に物語つたもので、當時の西陣に於ては他の如何なる改革にも先立つて、遺憾ながらその團結を官に於て強要するの最も緊切なることが、既に心ある業者によつて、明治十四五年代より大に強調さるるに至つたのであつた。

    茲に於て府當局も亦見るところあり、明治十六年末には、京都府達によつて織物工業組合法が公布せられ、十八年四月には組合準則の布達あり、更めてこれに準據せる西陣織物組合が組織せられ、粗製濫造の宿弊矯正には特に力を致し

    「製織物品は物産の名誉を毀損せざることに注意し、売価の如き濫りに低価を競ふ等、賣買上不当のことを為すべからず」

    と、西陣本来の使命と長所とを強調して、証紙の貼用と製造者の捺印を強制し、優秀品には褒賞を授け、褒賞受領者には、これを模寫して他の製品にも貼附するの特権をも得せしむると共に、一面市場設置による取引の改善を強化し、明治十八年十二月四日を初日として、爾後二、 四、七、九の毎月十二回開市し、一定の買次人を經、諸国の商人及一般需要者に販売するの方法を採り、販賣能率の増進に資したのであるが、しかも尚市場に収容洩れとなった買次人の不滿や、一方機業者に於ても証紙の貼用、販賣高に応じて納入する歩銭等の煩を厭ふ違反者績出して、茲に三度び西陣人の團結は葬むられ、違反者に対し厳重なる刑罰を以て臨まざる統制は、 結局ひとり西陣のみならす、本邦商工業者には適合せざることを思はしめるものがあつた。

    ただしかしこの頃よりして、初めて従来の如く唯々として問屋仲買の指令に甘んするを訳しとせず、自ら進んで時流を調査し、自家の識見を以てこれに適格する織物を製作せんとするもの漸次多きを加へ、これを轉機として、逐次問屋仲買隷属の相から脱却し、獨步の職分に活きるの風を馴致したことは、最大の收獲とせられるところであつた。

    斯く西陣機業が稍本格に向つて一歩を踏み出した際、たまたま明治二十五年七月、府令を以て同業組合取締規則の布達を見たので、西陣は同年十月、新にこれに基いて、機業家のみならず、 紋様業者、整理業者をも加へた九部を以て西陣織物製造業組合を組織し、地域も亦市内一間を更に擴大して、愛宕、葛野、久世、紀伊の四郡をも包含し、組合取締所を五辻通大宮西入に設けて事務を處理し、総括者頭取のもとに九名の取締役を置き、更に各部に部長、副部長及幹事の職制を設け、組合會の定員を四十名として、協力よく内容の改善更新に努めたので、組合の基礎は漸く鞏固となり、更に撚絲業及撚絲下繰業をも加へ、機構の強化擴大に伴ひ、事務所の如きも智恵光院今出川上ル、元誓願寺黒門東入ルと神々したが、機業家に場する賃業者及職工をも組合員に準じて附屬せしめ、迄に明治初年以来始めて見る大規模なる團體を結成し、輸入にかかる機械器具の運用も全く一般に了得されて、粗製濫造の積弊漸くその跡を絶たんとするの氣運を醸成するに至った。

    たまたま明治二十八年は、京都にとつて維新以來未會有の殷盛に際会した年であつた。平安遷都一千百年記念として桓武天皇を奉祀する平安神宮鎮座の盛典を舉行せられ、これを機として政府は四十五萬圓の巨費を投じ、東京以外最初の第四回内国勧業博覽會を京都に開催したるのみならず、他方日清戦役の捷報織るが如く、翌二十九年には、戦捷の結果康平銀二億両を獲得して償金インフレを招來し、全國的に市況大に活発を呈したので、西陣また多年に亘る沈滞から脱却し、従来為政者が幾度か吹いた團結の笛にも踊らなかつた西陣機業者も、茲に漸く確固たる信念を把持し、同時に統制の利をも了解するに至り、斯くて明治三十年四月發布された重要輸出品同業組合法にも、全西陣はよく小異を捨てて大同に就き、よりよき統制と向上とのために、同業総親和に一歩を進めることが出来たのであつた。

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  • 戦前・戦後の西陣着尺組合の回顧記

    戦前・戦後の西陣着尺組合の回顧記

    戦時体制による業界の変化

    昭和十二年七月に日華事変が始まり、翌十三年四月に国家総動員法が施行されて非常時にそなえる政治経済新体制が全面的に整備された。とくに西陣の織物に深刻な影響をあたえたものは公定価格の設定、生糸の配給統制、奢侈品等の製造販売禁止(七・七禁令)、企業統合、繊維製品の配給消費統制(衣料品の切符制)、指定品の生産割当などの相つぐ強行であった。そして昭和十六年十二月八日大東亜戦争に突入してからは、西陣業界の機構改革や企業経営の合理化がただ一途戦争目的の達成のためにいよいよ急激苛烈に推進された。

    ところが一方、この間の西陣着尺の生産高を見ると、昭和十二年以後一年ごとに生産数量も価額も増加の一途をたどり、昭和十六年のごときは前年の七・七禁令実施の反動もあって一五六万四千点、三〇四〇万九千点という未曽有の最高生産をしめした。緊迫した時局とは全く反対の現象であったが、その後にこれを回顧すると、斜陽の没する前の夕焼けの明るさにすぎなかったのである。

    着尺工業組合の企業統合

    その当時、業界を統括していた組織は現在のそれと同名称の西陣着尺織物工業組合であつたが、昭和十六年一月の組合員は五一七名、ほかに賃機業者が一八二四名あつて、その設備織機は総数六六八四台(力織機六五二三台、手機一六一台)であつた。同年九月企業経営の合理化のために統合が強行され、織機三〇台以上を基準として企業統合して、組合員数六四名となり、翌十七年八月さらに織機一〇〇台以上に基準を引き上げて三八の統合体(工業小組合三二、株式会社五、有限会社一)に再編成した。その組織員は自営業者五二五名で、そのほか賃機業者一三一四名があり、自営と賃機両業者の設備織機は総数五七九七台(力織機五五四四台、手機二五三台)であった。

    企業整備で八割が廃業

    昭和十八年戦局が不利になるとともに、労働力と金属資材を軍需生産に転用することを目的として戦力増強企業整備がおこなわれ、第一次(六月三十日)、第二次(九月三十日)、第三次(十一月三十日)の三回合計して人員において八〇・ニバーセントの転廃業、設備織機において七三・七パーセントの廃棄供出が実行された。その結果、着尺業界の最終的を残存操業者は工業小組合一二(組織員一六七名)と株式会社一で、その設備旅後は一四四六台であつた(ほかに京都織物=五三台、鐘淵工業㈱=二八台の両指定特殊会社があつた)。

    御召よりも銘仙や蚊帳

    昭和十五年一月生糸配給統制規則が実施され、従来自由に買入れ使用した生糸は配給機関より一定数量の割当をうけ、それ以上使用できないことになつた。また十七年一月繊維製品配給消費統制規則(衣料品の切符制)が公布されて自由販売が規制され、生糸の割当が減少した。それまで年々増加した西陣着尺の生産も昭和十六年をピークとして次第に減少したが、十八年には前記のとおりその年度中の企業整備により操業者数は一九・八パーセント、織機数は二六・三パーセントに激減したために原糸の割当数量は大幅に削減され、その年間生産数量は八〇万点(前年の五五・三パーセント)に、価額も単価の騰貴にかかわらず一九七二万円(前年の五九・五パーセントにそれぞれ減少した。駒撚紋お召二九万六千反、縞お召一一万七千反、絣お召八万七千反、駒撚縞お召七万七千反、無地平お召六万九千反などが主な生産であつた。

    昭和十九年はさらに一段と生産が減少して前年の二〇パーセント以下となり、普通生産のお召類は激減して大部分がこれまで織ったことのない銘仙、夜具地、蚊帳などの指定生産品であつた。

    着尺工業組合ついに解散す

    業者の企業整備が一応完了した後、昭和十八年七月商工各部門の統制機構を改革して戦時産業体制を整備するために商工組合法が実施された。それによる統制組合は都道府県を地区とするものであるが、例外的に京都は丹後と西陣に二つの統制組合が認められることになつた。それにしても西陣着尺織物工業組合と西陣織物工業組合は一つの統制組合に統合しなければならない。複雑困難な曲折があつた後、京都府の熱心な斡旋、というよりも時局の重圧のために両組合の諒解が成立して昭和十九年六月二十六日西陣織物統制組合の設立総会が西陣織物館で開催された。この第一次の西陣着尺織物工業組合は、昭和八年二月十一日、それまで西陣産地の単一組織であつた西陣織物同業組合(明治三十一年十月-昭和十三年三月)の着尺部が分離独立したのであるが、それから満十一年五ヵ月を経て昭和十九年七月十九日に解散、再び西陣単一の統制組合に合流することとなつた。

    着尺工業組合の事務所等の売却

    着尺工業組合は昭和十一年三月、五辻通浄福寺西入ル京都市立第二工業学校の敷地二〇四〇坪を買収、鉄筋コンクリート三階建本館(延べ五三一坪)のほか整理、地入および乾燥の各工場その他延べ九九一坪の大建築を翌十二年九月に竣工。着尺業者の殿堂として西陣織物館と比較して勝るとも劣らぬ堂々たる壮観を誇ったものである。その解散一年前、昭和十八年六月から工場の一部を改造して企業整備により廃業した組合員(賃機業者および従業員を含む)の職業転換と戦力増強のために航空機用螺子の製作補導所を開設した。京都府の援助と寺内製作所の協力によるものであつた。同年十二月着尺廃業者の出資により西陣航空螺子製作所(資本金五〇万円、 全額払込み)を設立。寺内社長の下に着尺廃業者の梅垣保次、島田勝次郎、小沢広三郎氏らが重役として参加し、 補導所を拡充してこれを本工場とし着尺廃業者の休止工場を転用して分工場とする方針で進んだ。その後、工業組合の解散が決定した時、その土地、建物、什器および組合が設備した螺子製作機具など一切を二〇〇万円で螺子製作所に売却してその金額を組合資産に繰入れ、清算残額はすべて組合員に配当した(ただ御召地貼交ぜ六曲屏風一双、額面六点、御召現反六点を組合解散記念として昭和十九年八月一日統制組合に寄贈した。しかし、それは昭和二十七年三十一日西陣着尺織物協同組合(現在の工業組合の前身)の懇請が認められて統制組合清算人から無償交付され、着尺会館に保管されている)。ちなみにその後西陣航空螺子製作所は終戦により存在意義をうしなつて解散。土地、建物は昭染化学工業㈱(現在の昭栄工業㈱)に売却された。現在、その本社となつている。こうして戦前の着尺工業組合は戦争の波に呑まれてしまった。戦前と現在の二つの西陣着尺織物工業組合は戦中戦後六年余りの中断期間があり、その準拠する法律は異なるけれども名称も目的も同じであり、また自他ともに現在の組合が戦前のそれの後継者であることを認めている。

    戦争末期の着尺の生産

    統制組合に合流した着尺業者は、それ以前の統合体の十二工業小組合を商工組合にもとづいて改組再編成した九つの施設組合(その着尺業者の組織員一六六名)と大建㈱であつて御召着尺の生産は技術保存織物として極少の特別許可があるだけ、戦時生活必需品として指定生産される銘仙、夜具地、蚊帳を織つてわずかに着尺業者の命脈をつないでいた。手工技術の保存のためとして、矢代仁が上代紬御召着尺、糸織着尺、縮み上布、上代袴地の製織を、千切屋㈱が西陣着尺の製織を日本美術及び工芸統制協会の承認をえて生糸の割当をうけたが、西陣着尺の優秀な伝統を保存するためには余りにもすくないものだつた。丹後や長浜の縮緬や西陣でも帯地業者などはこの技術保存のためにもつと有利な生産を認められていることを聞いて木村精一氏らが当局にたいして大いに運動したところ、昭和二十年度から着尺の残存業者一般にもその生産許可がおこなわれることになつた。しかし、 それ以前に八月十五日の終戦となつて、実現を見ないでしまった。昭和十九、二十年、戦争が末期に近づくにしたがって業界の混乱は経験者でなければ想像もつかないほど甚だしいものであつた。防空頭巾を背におうた戦斗と国民の人々は必ず会議の冒頭に英霊に感謝し戦勝を祈る国民儀礼をおこない、軍官当局の戦意高揚と個人の狂信的あるいは自棄的ともいえる虚勢のために表面は強がつたものの、みんなの心身は衰弱しきつていた。いかめしい甲冑を着せられた半死の大病人のようなものだった。衣食は生きる最低限の乏しさであり、全国の大中都市は用ついで爆撃された。西陣は南部の一隅に盲爆をうけただけで直接の空襲をまぬがれ、まだ幸せだつた。 一面に焼土と化した応仁の乱の破壊は見られなかった。

    後のヤミの時代

    国をあげて軍需生産に傾注していたのに、八月十五日を境界として軍需はびたりと中止した。一時かぎりの打ちきりではない、永久に軍需再開の見込みがない。軍艦も航空機も、大砲も火薬も全く必要がない。その代り当面の生活のためにも、将来の企業経営のためにも生活物資の生産がおこなわれなければならない。百八十度の方向転換とはこのことである。ところが、軍需を基調とした戦争経済体制は十年近い年月をかけて準備推進されてきた。突然の終戦の詔勅一つを号砲に、全国民がどつと一斉に民需生産への百八十度大転換にむかつて駆けだしたのである。混乱が起ったのは当然である。

    軍隊に召集され、軍需工場に働いた人々が西陣に帰ってきた。勝つまでは欲しがりませんと小さい子供たちまでが辛抱してきた衣食住その他の欲望が堰をきつて本能のままに爆発した。しかし、それを合理的に指導する行政が全く破綻しており、欲望を満たす物資が欠乏していた。この場合の行動を普通の尺度で計算してヤミとか違法とか責めるのはかえって不当である。西陣では大多数の人達がヤミ織機を組みたて、ヤミ糸を探しだして製織し、ヤミ商売をおこなった。

    西陣に痛かつた生糸の凍結命令

    終戦後間もなく、京都府商工課から(イ)西陣産業を復興して労務者十万余人の受入れ態勢を整えねばならぬ、(ロ)経済立国のためにも、戦勝国にたいする賠償のためにも西陣織物の生産を急に復興せよ。力織機を主として大増設を為すべし。京都府は如何なる援助でもする・・・との通知があつた。だが戦時中の権威をなくした統制組合にはそんな大事業をリードする実力はなかつたし、京都府の援助も被占領下の一地方庁の機能としてきわめて限られたものだった。残存業者も復帰業者も、だれもが占領軍は軍国を復興させる重工業は許さないという見通しを持ち、繊維などの平和産業に生きねばならぬと考えていたが、当面みな自分だけのためしか働かず、またそれ以上の余力もなかつた。加えて昭和二十年十二月三十一日商工・農林両省令が公布され、「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」にもとづき現在所有の生糸等数量報告とともにその現状保持の命令が告示された。生糸を所有する者は直ちに数量を報告し、その使用も売買も移動もしてはならないというのである。生糸の凍結命令であつた。生糸および組織物を輸出して食糧を輸入し、国民の餓死を救うために先ずその国内消費を規制することが必要で、これは正当な措置だったが絹を生命とする西陣にとっては首を絞められる苦痛であった。

    生糸の輸出増進に努力してみたが意外に不振で価格は下落した。やむなく一部は内需に消費せねばならなくなつた。二十一年七月輸出不適糸五万五千梱を国内放出し、また占領軍の経済科学局は手工織物業を育成するため手工業温存用として一千俵の生糸使用を許可した。西陣産地は第一回割当四一五七貫をうけた。全国割当の四割強を占め、終戦前の二十年度技術保存用割当数量の約六倍に相当した。着尺は手工業織物でないから織れないはずであるが木村精一氏らが御召の製造許可を熱心に懇請し、またエドガースやヘルチら米当局は輸出向として着尺の方にむしろ大きい関心を持つていたので御召や紬織が手工業織物と認められた。その生糸を購入できたのは二十二年一月であつた。ついで第二回の二十三年度分として三七〇一貫(全国の五割弱)の割当をうけ、四五一名(着尺は八〇名)が製織をおこなつた。実際に御召を織ることができたのは矢代仁と千切屋ぐらいのものだつたろうが、このために多数の人たちが織機を動かす口実をあたえられ、ヤミ製織がだんだん公然となつてきた。 また二十二年四月養蚕農家還元絹織物用として生糸一万二千俵が放出された。農賃織物といわれ、織機登録がなく、また原糸割当がない復帰業者の仕事として誠に有難いものだつた。

    復帰した転廃業者が西陣復興のリーダー

    行政秩序の混乱と原料資材の欠乏のために、正規の生産や配給にたよつているだけでは自分も家族も餓死するよりほかなかつた。そこから生れる本能的な生活意欲が西陣復興の原動力であり、織物に経験があつて最も意欲のたくましい復帰業者がそのリーダーであつた。遠近各地から中古織機やその部分品を買いあつめて設備し、手当り次第に着尺を織り帯を織った。なにか織物であれば、商売になつた。仲間がふえた。そのうち、これら復帰業者の間に新しい商工協同組合法により組合結成の気運がひろがつた。協同組合をつくり親組合の西陣織物工業協同組合(統制組合が新法により二十二年二月末協同組合に移行)に加入すれば形式だけでも合法的な織物業者になれる。経済警察や税務署の摘発を緩和することだけでも大いに有利だと考えた。西陣織物工業平和第一協同組合が米田駒太郎氏を理事長として結成されてから「西陣織物工業平和」を名乗る組合が続々と結成された。いずれも復帰業者を主軸とし百人以上の組合員を集めた。平和第四協同組合(岡本英一理事長)は着尺業者中心の組合であって、一時は六百数十名の組織員を包容したが、同業者の発言権を拡大するためにこれを適当員数の協同組合に分割して独立させ、それぞれ西陣織物工業協同組合に加入させた。このため親組合は組合員が増加し、 昭和二十二年末には戦時中からの残存業者の二十二協同組合(組織員九二七名)と単独組合員の十一会社のほかに新加入の二十二協同組合(組織員一五二八名)と単独の九会社で総数六十四組合員となつた。その後も新規加入者がふえ、二十三年三月には親組合の理事を二名増員させ、新加人組合側の米田駒太郎、山県武雄両理事長がこれに就任するほどの勢力となつた。

    なお織機登録については、力織機一〇七九台が二十二年十月まで新規登録を承認され、手織機一五、七二八台が二十二年末に登録復活してそれまで登録織機を持たなかった復帰業者も登録の配分をうけることができた。 こうして終戦後復帰した業者も、多数が完全に正規操業の資格を獲得し、西陣織物業の復興は昭和二十三年から正しい軌道にのって円滑に進行しはじめた。

    戦時体制の解除と平行して統制組合から協同組合へ

    以上に記述したように昭和二十年八月十五日正午の終戦によつて世の中は一変した。極言すると、午前中は軍国の一員として戦力増強のために働いた人たちは午後には全く自由な個人となつて自分自身の生きるためにのみ行動したのである。もちろん進駐してきた連合軍の行政は戦時体制の解消と平和国家の再建を目指して推進された。そこに、いわば新々体制の確立があつた。

    昭和二十一年十二月一日施工協同組合法が施行されて、二十二年二月末日で統制組合は解消し、施設組合はそれまでに新法による同組合に移行する手続きを完了することが必要となつた。これより先きに、統制組合は戦争協力の好ましからざる機構であるために廃止と同時にその財産は没収されるとの風評が伝わったので、西陣織物統制組合は財産保存のために組合員全員を以て西陣織物施設組合を設立(二十一年十月九日登記完了)し統制組合の全財産をこれに寄附譲渡したのである。そしてこの新施設組合も旧統制組合傘下の各施設組合同様の手続きで昭和二十二年二月二十八日(京都府認可)西陣織物工業協同組合に移行することができた。

    着尺業者たちも統制組合時代の施設組合を協合組合に変更して引き続き親組合たるこの新しい協同組合の組合員としてとどまった。そのほか廃業者や新規開業者などが続々と協同組合を新設してこの西陣織物工業協同組合に加入してきたこと、また彼らも新たに織機の登録をうけ正規の業者たる資格を獲得するに至ったことは前に記述した通りである。

    業界の発展と団結心の衰退

    業者が増加し設備が充実して、業界が発展するにしたがいそれに対応した組織改革とか新旧勢力の対立などと関連して業界内部に経済的あるいは感情的な種々のトラブルが生じる。いわんや、政治・経済・生活の全面において新々体制発展の途上にあつて基盤が動揺している時代であるから、些細な問題一つでも大きな波乱の原因となることが少なくなかつた。戦争のため長い間忍耐をかさねてきた人たちが予期しない敗戦をみ、いよいよ激しい生活苦になやまされて、やり場のない憤懣を自分の周囲に投げつけるのである。ワンマンの存在は許されない。みんなが互いに不満をぶつけあうばかりである。業界の団体行動が円滑に進まないのも当然であつた。昭和二十三年に激化するインフレを抑えるために経済再建九原則の強行がはじまつた。翌二十四年五、六月には生糸および絹製品の統制が撤廃されて統制あるために繁栄した一部の業者に致命的な打撃をあたえた。また同年八月シャウブ博士が税制改革とくに高率(従価四割)の織物消費税の減税と廃止を勧告してからは脱税が多くなり、先きゆきを予想して織物の値下がりがつづいた。繊維統制があつて原糸の割当をうけるために、織物消費税があつて納税手続きの便宜をうけるために業者は協同組合員であることが必要であつた。統制と消費税が廃止され、特権をなくした組合に組合経費を負担して加入している必要はない。同時に組合側は割当手数料や徴税事務交付金などの収入源をうしない、主として組合員にたいする分賦金に依存せればならない。組合の魅力はうすれ権威はなくなるのだ。もともと、ここ十年の間、戦時体制のなかで、組合は統制事業にだけ力をいれ、業界の自主的な共同事業を第二義的にみていたので組合員が協同精神の真価を忘れてしまったのも無理ではなかった。その折二十四年六月一日、中小企業等協同組合法が公布され、従来の協同組合は翌二十五年二月末日までに新法による事業協同組合に移行せればならなくなった。しかし西陣織物工業協同組合は実質的には協同組合の連合会であつたためにそのまま移行することができず、たとい形式だけ移行しても運営してゆくことが不可能だということが明らかになつた。基盤たる業界の複雑さと自由化を目的とする法令の改正の板ばさみにあつて、従来の西陣産地の組織機構は崩壊の危機に直面した。 

    混沌のなかから着尺組合の誕生

    昭和二十五年になつて西陣織物工業協同組合の解散時期が近ずいても、その後の新組織について適当な成案が得られなかった。かえって組合職員の整理や退職金問題にからむ役員と職員間の紛糾が悪化して、この重大な時期に組合事務が渋滞し、組合内部から自爆の危険が生じた。このため、なんら為すところなく二月二十八日の法定期限を経過して三月一日解散、清算にはいることになった。親組合はこうして行きづまつたが、傘下の各協同組合はそれぞれ新法にもとづいて事業協同組合の設立手続きを進め、五十組合を超えるにいたつた。また対外交渉のためにも西陣を代表する統一組織が必要であつた。この情勢に圧されて、組合連合会の設立がいそがれ、四月二十日設立同意者四十七組合が出席して西陣織物商工協同組合連合会の創立総会をひらいた。

    しかし、この連合会にたいする会員の熱意はきわめて冷淡なもので、創立後二ヵ月を経過した六月末にかいても出資払込みをなしたるものは三十七であつた。法の規定により事業協同組合の組合員は従業員百名以下の中小企業にかぎられたので、有力な大機屋は連合会に関係することができなかった。また会員たる各事業協同組合も組織員数の多少や生産実力の優劣など大幅の相違があり、その組織員の異動がはげしかつた。連合会は名称と形体に相当する内容が伴わず、業者自身がその団結に信頼をおかなかつた。

    他方、着尺業者は昭和十九年の統制組合以来、他種業者と合流して同一の傘下にあつたが、終戦後は前述の通り急に組合(いわゆる小組合)の数がふえ、その組合の組織員はさらに一層急速に増加した。各組合の理事長は同志相集まり、しばしば会合していたが、親組合の内紛、同業者の不満と動揺が大きくなるにつれて会合が頻繁になり、「着尺会」を結成して形体を整えることになった。やがて組合理事長だけにかぎらず、有志希望者の参加を認めて会合を重ね、種々の問題を協議しているうちに、次第に業界組織化の機運が濃厚になってきた。

    着尺組合の結成と着尺会館の獲得

    着尺会が基礎となった着尺業者の集まりが次第に大きくなるにつれて、会合の度ごとに着尺だけの単一綜合組合が必要だという考えが有力になつてきた。着尺会をはじめた小組合理事長たちや戦争中からの残存業者よりも復帰した新規業者の方が人数も多く意欲も盛んで、この主張をリードした。親組合は帯地業者が主軸で着尺、ビロード、金襴その他の寄合い世帯であり、協同組合から協同組合連合会に改組して以来、いよいよ内部の紛糾がはげしくなり弱体化の一途をたどつて、ほとんど有名無実の形骸にひとしい存在になつていた。この行づまりが団結かたかつた戦前の着尺工業組合の記憶をよみがえらせ、彼らを発奮させたのである。

    昭和二十五年七月二日、嵯峨の嵐峡館で会合。中小企業等協同組合法にもとづく西陣着尺織物協同組合の設立を決定し、実行委員を選任して創立準備をすすめることになつた。従来の各協同組合を解消、個々の業者が直接に組合員となつて単一組合を設立することを着尺業界全体に呼びかけた。九月四日、一三〇名の同意者をえて西陣織物館で創立総会をひらき、その後続々と加入者がふえて二二〇名となり十月十二日発会式を織物館でおこなつた。その時蜷川京都府知事から「ここまでは誰れでもやる。これからの運営がむつかしい。折詰総会だけの組合にならないで、協同組合本来の精神にもとづく立派な組合にみんなの協力で育ててもらいたい・・・・・・・」との激励があった。事務所は織物館に設置し、本館の二階、現在の談話室の西の六坪ばかりの小部屋を使ったが、その後、旧西陣織物工業協同組合清算人の好意で現在の土地並びに旧建物を入手、十二月二十九日これに移転して着尺会館と命名した。

    (本組合結成までの業界展望(西陣着尺織物工業組合、昭和45年)より転載。)

  • 西陣織物館記(明治二年、西陣物産会社(1))

    西陣織物館記(明治二年、西陣物産会社(1))

    第二節 西陣物産会社の性格及機構

    同会社は西陣織屋の組合、同会社名称の起源

    会社と云う個有名詞は、明治二十九年民法、商法の公布により、法人たる会社が独占してしまった。西陣物産会社は名は同じでも、全々異なる性格の団体であつて、後年の組合である。又其下部組織に「社」と称するものが十八社結成せしめられた。故に社と会社の親子関係に於て、 混わしいものが出来て居る。

    辞典を按ずるに、「団結して事を共にする者を社と曰う」とある。又「古は郷閭(きょうりょ)に二十五家を一組とし、之を一社と称せり、此社が相聚(あつま)りて団体をなすを社会と云う」、とあって。「会は合である」と註してあるから、西陣物産会社は此古辞と組織型体を、其儘に頂戴したものである。尤も前記註訳には社会と書いてあるが、今日の如く会社と云えば資本主義保守の代表者となり、社会と云えば革新思想をあらわす、といった区別はなく上下転々共に同意義であった。

    徳川時代の、西陣織屋仲ヶ間は、今日の組合の元祖であると調われるが、其真の目的とする所は、織屋の名門が、特権保持の団体であり、八組中でも一番織屋の座中へ加入することは、中々に許されず、此組衆中以外の織屋は小前の者として、十把一絡げに取扱われた。

    旧弊刷新により、全西陣織屋は、高機も、西機も、織屋としても、国民としても、平等の地位になつたのであるから、旧仲ヶ間の如くに、人権を無視した思想によつて造られたものは、此際解消せしめて、全く新しい出発点に立脚し、全西陣の組合団体を結成せしめねばならぬ。との考えから、京都府は、此名称により、設立することを命じたものであると思う。

    西陣織物は昔から絹織物の大宗ではあるが、品種銘柄が雑多であるから、各専門生産によつて、織屋同志の利害関係が異るから、一律には行かないので、之れを十八品種別に区分し、夫々を社と称した。社には或程度の自治権を持たしめ、之を統一する者を会社とし、対外接衝、官庁への上意下達等の権限を持ち、其惣代役員は全西陣を代表して、官庁に対し総ゆる責任を負担せねばならぬこととした。

    政体変革、忽忙の時であるから、中央政府は勿論地方官庁も共に法制も定まらず、京都府御政府の御思召は即ち法令であつて、否応なしに、承けたまわらねばならぬ代りに、困って泣付いた場合、一諾よく資金の貸賃下げも 実行せられた。

    尚此西陣物産会社の名称は、明治十年の改組迄、変る事がなかったのであるが。明治三年正月京都府が、京都物産引立会所をば、京都の豪商を御用掛として設立し、同年七月物産引立総会社と改めた際、会社の出張所の名儀を併用した。

    同会社の機構及役員

    イ、品種別十八社下部組織 

    前項の通り、西陣産物を、品種銘柄別に十八分類し、各品種別に織屋を結束せしめ、之れを社と称した。

    同一人の織屋が、二品種を生産している場合は、両社に所属するのは致方なく、後年の組合でも同様行われた。即ち、

    模様社。金欄社。紗織社。博多社。繻子社。夏衣社。真古带社。綸子社。縮緬社。羽二重社。古带社。線子社。木綿社。天鵞絨社。真田社。精好社。絵絹社。練絹社。

    であつて、夫々独立運営の機構としたが、事実は同会社の下働きの役が主であつた。

    ロ、同会社役員と官の待遇

    役員は十八社各社毎に、肝煎三名を置き、各社所属員が選挙したものを、京都府 に申達し。同庁は詮考の上適当と思う者を任命した。合計七十二名の肝煎は公任役人の資格である。

    会社の役員は世話役と称し、其主任者は世話役惣代である。之れは京都府が任命した。

    十八社肝煎が京都府から、如何なる待遇を受けたか、記録はないが、京都府から辞令を頂戴する事だけでも、光栄に感じた事であろう。会社の世話役に対しては左の辞令を交附した。

    何某 氏 名

    西陣物産会社諸世話可遂心配候事

    明治二年十一月

    京都府

    世話役面々

    日和田屋新七。井筒屋弥助。葛屋善兵衛。伏見屋新助。菊屋七右衛門。鳞形屋利兵衛。菊屋嘉兵衛。吉田次郎兵衛。武本治兵衛。丹波屋長右衛門。丹波屋利右衛門。

    であつて、資産名望、西陣織屋の筋目も定かな者のみから任命し、多くは旧高機織物業者である。

    之等の世話役は帯刀を許され、京都府庁溜りの間に参入をも許されたから、大に優遇せられたものである。故に次項に述べる如く、羽織袴帯刀で出務したようである。即ち一般仲買商とは官位に於て格が異ったし、言葉も侍調子になったのではないかとさえ思われる。

    第三節 同会社の事業計画仕法書の内容

    此会社の事業が、設立の主眼であるから、京都府の指図により、其仕法書を作成し提出したものであろう。

    西陣織物産会社

    乍恐奉窺候口上書

    一、職業江仕込糸者和系商社より見積り高三十日之延金二而買入申度侯事

    但糸壱個(三拾把)之内上中下有之候ニ付織品ニ応シ仕分ヶ致夫々組頭之者共より小前之者へ貸渡シ候事

    一、右糸操縷者小前下職手明きの者雇入職業為致相応之賃銭遣シ候左候得者掠糸二番買之愁ひ無之自然元附安価之一助ニモ相成候様奉存候事

    一、糸練物場所取建壱ヶ月之練高に応シ其月之入費糸目方高に割付候事

    一、糸染之儀者藍染屋之外諸色者社中に染場所取建右練物之法ニ準シ候事

    一、絹織立之儀者諸国及外国向をも精々弁知シ織立物安価ニ織上ヶ潤沢ニ売弘め申渡候間諸国

    御府藩県下へ御通達奉願上其所江向候品柄色模様等承り度候事

    一、絹売捌き方者一六ノ日絹中買御会所へ相集め入札を以売払可申候若不算之人有之候節者從御政府樣厳敷被仰付度奉願上候

    但売残り之品者小前中買へ壱ヶ月之延金二而売渡シ可申自然不算之節へ右同断

    一、会社潜売買致候者有之候節者社外可為事

    一、諸国商人及素人江現金売之儀者定日ニ不拘日日附札之儘売渡侯事

    一、御寮織物師卜唱苗字相名乗候者五戸有之此者一番織屋ニ而織立候品ト同様ノ品を乍織立居是迄一同江随心不致彼是旧弊申募居候得共御寮御用向之御品等も右一番之織屋内ニ而も織立相動来り候得者(そうらわば)右等之差別無之次第と存候間向後会社へ附属為致度候事

    一、是迄小前ノ者へ賃織差出シ候向有之候処元糸並仕上ヶ糸絹等質物二差入候者在之及相対候ハバ不法之儀を申立言語同断の儀に候得共何分小前之者故為相済侯此儀杯へ質貸渡世之者は粗乍存知預り候向で有之嘆ヶは敷事二付以来右様之所行致者有之候ハバ被仰付被下度此段御願奉申上候

    一、雇入奉公人取締之儀者其主人精々親篤に教諭を加へ職業勉励為致可若不行跡之動方有之候 ハ屹度社外いたし度候事

    附惣体西陣之者とも積年弊習離離少々斗貨殖二相成候と遊惰致不景気ニ相成候と極難渋之向多分在之是等のもの今般屹度管轄仕度候。

    右之通相成候ハハ仲買糸屋両口錢及掠糸之無愁も自然安価に相成捌方も宜敷相成申候会社取結之上者一統のもの親戚同様に相親しミ一己之私欲を省き当地衰微不相成様協心尽力仕永世不朽之基礎といたし度候間乍恐此段奉窺上候 以上

    明治二已年十一月

    右仕法書の可否窺奉った書面上欄に京都府の指令が貼付せられてある。仕法書の主眼は取引改善であるが、尚之れを事業別から見ると、要するに、共同購入、共同発註、一元集荷、共同販売と、殆ど昭和時代に来ての協同組合法に規定せられる事業の内容を挙げて、中小企業の進むべき道を、明白に唱つた立派なものである。単に取引改善と、一口に片付けるには勿体ない程の組合憲法である。所で此仕法書は、経費及事業資金に付ては何等触れて居ない。之れは恐らくは京都府から借入れる内諾があつて、明示する要が無かつたのであろう。

    第四節 西陣困窮の次第

    第一節に述べた如く、東京遷都により、先途に光明を失った西陣産業をば、回生振興せしめねばならないが。

    其れは元より、個々の織屋が発達せねばならないのであつて、織屋が困窮極まって、総潰れとなる状態にありとすれば、先ず是れを防止して遣らねばならないのである。

    西陣の大災厄は、古くは応仁。近世では享保、天明の大火を最大として、其数も多いが、今度のは天災地変で なくて、政治の変革による製品滞貨の災難である。其製品が又無価値にも成り兼ねない、不安な状態から来る危機であつた。

    黒船来舶によつて、泰平の夢が破られてから十数年。政治の混乱と、治安秩序の紊乱が続いて、不安不景気の世の中をかこつても、西陣の機場に、将校の音が絶える程の事はなかつた。綾、鈴、金欄、殺子の製織は、日々続けられ、其襲産数量は、縦屋四、九〇〇○戸から年間約壱百万点以上に達して居た。之れが不景気で、売れぬと云つて仕事を手控えしても、日々相当数量の製品が溜る。殊に当時の西陣織屋の大部分は、製品が捌けぬとなると、忽ち其日の生活にも困る者が出来る。所が此時の不景気は政治革命による、需要層の崩壊と同時に起った、 服装の大転化によるものであるから、一時を忍ぶ如き甘いものでない、深刻さがあつた。

    西陣織物の需要層は、往古から庶民階級ではなかったことは申迄も無い。慶応四年迄と調えると思うが、上は徳川将軍家から旗本八万騎。加州金沢前田侯百二万二千石の国守大名から、小禄一万石の小名に至る迄。二百六十の列藩、其れに従う家中侍。別しては禁裏と朝臣百三十五公卿と云つた堂上衆が、御得意様であつた。其人々の必需品である直衣、狩衣、直垂、素襖、大紋、肩衣、待等悉く不必要となり。又其等御得意様の経済状態が、 是迄の如く、大まかでは居られなくなつた。尚又廃仏棄却の思潮によつて、僧衣荘厳用裂地の需用が途絶したか ら、従来の用途の製品の捌口が消滅したのである。従而て売れない物を仕入れる仲買商も無く、買えと云うのも無理な訳である。

    西陣の織屋で仲買と二足わらじを履く程の資力ある者は格別であるが、縦屋(よしや)専業である限り、御寮織物司であろうと、大舎人座の筋目であろうと、家の土蔵に千両千貫貯え寝かせている程の者は、一人も無いのが特色と云われ、大織屋は三代持たぬと云われる諺があるのも、此様な懐状態から生ずる、悪循環がある故に、窮迫するとなると急速度に困まつて来る。製品を抱え切れねば、倒産するより他はないのである。

    此状態に於ては、当然滞貨品の投売りする者が生じ、生産地全般に値崩れさす不徳義者も生じるのが、西陣織屋の悪癖であるが、此時は製品の用途が、全然無くなつたものがあつて、投売も相手にならぬ、丸損の心配もあつた。とは云え、滞貨の中には売れる物もあり、必需品も沢山あつたが、織屋の脚下を見る、仲買商人の遅ましい商魂は、益強気で仕入れを控え、或は値をたたくから、取引の改善も、痛切に叫ばれる訳ともなつた。

  • 前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    西陣織物館記を本ブログでは何度か紹介させていただいていますが、すでに掲載している部分に、少し気になる部分がありました。

    編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。

    筆者前職の関係から、西陣の風紀についてはよく知っているといいます。また別のページには、このような記述があります。

    長谷川組長が編者を西陣の組合へ就職するよう、再三勧めに来宅せられたので、編者は、此事を旧知の西陣通の新聞記者、川端堪然に話した処、「長谷市が何と謂をうと、西陣の組合では、如何程気張って功績を立ててやつても、其れが解る者は居ない。(略)君なぞ馬鹿々々しくて、続く筈が無い。あかんから止めとけ」と謂った。此事を長谷川組長に話した処、「今日の西陣組合は、京都商工会議所よりも、経済状態が安定して居って、(略)貴殿は唯私の代理として、無任所大臣で渉外に当り、西陣の内情に慣れて、次の時代に処して貰いたいと思うて居る」と答えた。其時に前記の見解を述べて此組合財産をも安全に守って呉れる人が必要であると付加えたのであるから、絶対に忘れようとしても忘れ得られないものである。

    前田氏が一般の人とは異なる立場にある人間なのは間違いないです。では前田氏はいったい何者でしょうか。

    前田氏の前職

    前述の引用に、このような文言がありました。

    編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから

    西陣周辺で働いているが、西陣機業に直接かかわってきたわけではないのでしょう。さらに新聞記者と旧知の仲にあり、長谷川市三氏とも縁があるとなると、一般の従業員でないのは間違いありません。

    この時点である程度どんな仕事をしていたか見当がつくような気もします。ありえそうなのは、京都府・京都市などの行政、新聞記者と旧知の仲にあるというから京都新聞などの新聞社、あとは金融機関あたりでしょうか。何にせよ、産業機構については素人と言っているのだから、西陣機業の中心──織屋、貸機、出機、糸屋、染屋、整経屋、機料品屋とか──にいなかったのは間違いないでしょう。

    人間のネットワークから探れることは多い

    前田氏の性格

    さらに考察の材料を求めて、さらに他の史料も見てみましょう。

    抑々も清算組合が事ここに至りましたのは、前田氏の性格が然らしめて言動文筆に現はれそれがため旧組合員初め西陣織物工業組合役員並に組合員の方々の感情を害し或は御迷惑をお掛けするに至ったものと観察するのであります。

    然し前田氏の是等の行動も西陣の将来のため、又組合財産を忠実に保護する熱意に外ならぬのでありますが、遺憾ながらその熱意の表現のしかたが気毒な性格のために誤ったにすぎないのであることを御憫察願いたいのであります。

    前田氏は組合を思い、忠実であればこそ石崎数太郎氏に関する件で永年間富士銀行西陣支店との間に独軍奮闘した結果中立売通智恵光院所在の巨額な土地が組合財産となったのであります。(略)(財団法人西陣織物館記、当時の従業員の陳情書より)

    従業員から慕われていた様子はここからうかがえます。(ちなみにこの中立売土地については、西陣織会館竣工の折に売却されています)

    前田氏の発言も見てみましょう。以下は前田氏が清算人を解任されたときの発言です。

    長年清算人をやりその前は理事であった。私は理事の間でも清算人になっても、その資格による報酬は一厘たりとももらっていない。また他の理事諸君は半期の賞与をもらったけれども私はそれももらっていない。また特別に役職手当も何も今日までもらっていない。つまり清算人であるけれども実は書記長であり、単なる一職員にしか過ぎない。ちっとも有難いものではなかった。

    逆にいろんな苦労を私が負うたので、最後の弁済であろうと、税金の督促であろうと私が受けてきた。私は当初からそうは考えていなかった。

    私は外部に対しては清算人としてその方が便利なときにはそうした。

    内部に対しては清算人としてよりも自分の我をはったわけではないが、しかし清算人の決議は守らねばならぬから守っていた。

    いままでもやめたかった。然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない。私が気にいらんことを言うておっても、 結局は自分のものになるわけではないのだから、またひとつは戦時中及び前の長谷川市三とかその輩下の遺言もあったりで、それに対して遵法せんならんものと思い遵法してきた。これが財産が一物も減らないといったところで、 我々が死んでしまえばしまいであるのと同じように、しょせん私たちは退職しなければならない職員である。だからやめろと言われればそれで結構であるが、私は希望して清算人になったのではなく、選挙されてなったのである。 だから清算人は裁判所の法規の規定によってなったのだから、裁判所にお出しになって裁判所が承諾すれば異議は申さない。

    この我を張らず、あくまで粛々と、信念をもって業務を遂行する姿をみると、行政の人間のような気がします。金融機関や新聞社にそういうタイプの人間はあまりいないような。

    西陣織物館記を読むに、前田氏はあくまで財産の保全を目的としていて、反面織屋の知的能力には全く期待していなかったようです。今はともかく昔の西陣は、大部分学歴がなかったことが知られており(小卒がほとんどで学歴に乏しく、娯楽についても、一時的快楽に逃れがちだったことは、京都二商の「西陣読本」にも記載がある)、その様子を見ている前田氏の判断は、正しい判断だったと思います。仮に前田氏が財産を保全していなかったら、西陣の財産は霧散し、現在の西陣織会館は影も形もなかったでしょう。

    現在の西陣織物館(京都市考古資料館)

    職員録にあたる

    さて、前田氏がかつて行政の人間だったと決め打ちすると、京都府の職員録を当たってみるのが筋です。京都府総合資料館に蔵書があるようですから、行って調べてみたら、以下の職員録に氏の名前がありました。

    七条警察署 警部 前田達三(大正12年職員録)

    監督課 嘱警部建築監督官補 前田達三(上京、荒神口、河原町西担当)
    (大正15年職員録)

    北野消防署 消防士 署長兼警部 前田達三(昭和2年~昭和5年職員録) 

    やはり前田氏は行政の人間でした

    昭和13年に組合就任ですから、その前年まですべて職員録を確認しましたが、氏の名前はありませんでした。当時の行政の異動の状況や制度についてはわかりませんが、京都府外に行ったか他の仕事に転職したかでしょう。単に無職だった可能性も、なくはないです。(長谷川氏が訪ねてくるくらいですから、その場合も何かしらの仕事はしていたと想像します)

    それにしても警察出身とは、盲点だったと感じざるを得ません。西陣を担当する京都府の部署といえば、商工部とか労働部(今は合併して、商工労働観光部になっている)だから、そのあたりかと思ったのですが。

    確かに前田氏の正義感の強さ、遵法意識、「西陣の風紀についてはよく知っていても」の文言、西陣人に対する(遵法意識の点での)不信……を勘案すると、なるほど確かに、すべてが伏線だったように思えます。

    京都府庁(https://www.pref.kyoto.jp/qhonkan/より)

    前田氏の年齢

    さて先ほど調べた職員録、大正12年から記載があったのも意外ですが、初出の時点で警部ということは、中級官吏の試験にパスしていたと推察できます。

    前田氏が何歳くらいか、わからないですが、大正12年で働いているなら確実に生まれは明治です。前田氏の書きぶりと、警部の役職から見るに、高校までは出ているでしょう。京都の地方中級官吏になっているあたり、間違いないと思います。

    前田氏が文献から消えるのが昭和47年あたりなことを踏まえると、明治36年あたりに生まれ、20歳くらいで高校卒業、官吏になり、35で西陣織物工業組合就任、69で清算人から除名と考えると、かなりありうる線に思えます。なおgoogle先生によると、戦前警察の中級官吏は、警部がスタートだったとのこと。

    まとめ

    つらつらと書き連ねてきましたが、ようやく前田氏がどんな人物か見えてきました

    • 前田氏は行政出身で、その中でも警察の出身である。
    • 昭和5年以降の足取りは不明だが、おそらくは西陣周辺にとどまっていた。
    • 高校卒業程度の学歴があり、西陣の財産保全について、織屋集団には任せておけないと考えていた。
    • 長谷川元組長の遺言等を守って、70歳近くまで西陣に生涯を捧げた。

    前田氏は今の組合の各種記録では、我欲で清算を邪魔して自分のものにしようとしているのだとか、散々な書かれ方をしています。が、このように種々調べてみると見え方も変わってきます。前田氏の各種行動は、織屋の見識に対する不信に端を発するもので、「然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない」と前田氏が言ったのも、完全に本心だと思います。

    私のこの記事を端緒に、前田氏の名誉が回復され、正当に評価されるようになると幸いです。

  • 西陣織物館記(明治元年~二年)

    西陣織物館記(明治元年~二年)

    明治元年より同三十年迄の西陣織屋団体の隆替と其の事務所(会館)の変遷

    第一編

    第一章 明治元年西陣織屋仲ヶ間と仲買商仲ヶ間との議定一札

    第一節 議定取交わし由来

    此の議定とは、申合せ書であるが、西陣織屋と仲買商が、組合を仲ヶ間と云つた時代、団体交渉により申合せた、最後の文書である。

    徳川幕府が、大政を奉還して、王政に復古し、帝都が江戸に遷つたので、京都の街も、やがて古都奈良のようになりはせんかと心配した。別して西陣織屋と下京の仲買問屋は、失望落胆と共に、此上は商工業者互に結束して助け合い、難局を突破すべきであると、両仲ヶ間の肝煎、取締役が、各々思案の末、取替え一札とはなつたのであろうが。明治大革新の嵐の際、付焼刃の気休めでは物に成らず、早くも翌明治二年には、次章の西陣物産会社の設立により、此議定書二巻は、屑紙同様となつて、文献としても、史実としても価値なきものとせられ、何人の目にも留めて貰えなかった。

    此議定書二巻は、西陣織物館の筐底に、うずもれて居た。署名者中には、其後裔が現存して、同業を続営し発展している店もある。

    茲に全文を掲げて本記の起筆とする。

    第二節議定書

    一、西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札

    議定為取替一札之事

    西陣高機織物之儀、京都第一之産物ニテ往古ヨリ諸国江普通二付而へ其御仲買方江売渡来候儀ニ付互二水魚之交リヲ結ヒ相続仕来候処今般御大政御一新二付総而旧弊御廃止二相成商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成壱番組織屋仲ヶ間並壱番組仲買ヨリ御鑑札被下置難有依之商法速二相立候放新二双方立合実意ヲ以熟談致候而確定之上自今壱番屋方二而織出シ侯品へ従来共御仲ヶ間中二限り売渡シ来候儀二付猶又相改メ壱番組諸織物限リ以来決而他売致間軸候仍而不相変其御仲ヶ間江売渡侯間已後不実成取引等無之樣西陣壱番組織屋小前之者二至迄引立方相続二相成候而土地衰微二不相成樣実直之取引致永世商法相建テ双方申合役中之者調印確定之上へ無異変為取替一札依而如件

    明治元辰年十二月

    壱番織屋
    高機八組

    肝煎

    鱗形屋治兵衛 
    伏見屋新助

    取締役 

    永組 檜皮屋利兵衛
    亀組 緞子屋治郎兵衛
    梅組 近江屋久兵衛
    松組 伏見屋織兵衛
    紗組 紗屋利右衛門
    本地組 房屋喜兵衛
    鶴組 錦屋平兵衛
    竹組 堺屋九郎兵衛

    壱 番

    西陣織物仲買
    御肝煎中
    御組御一同衆中

    • ※高機八組とは江戸時代の仲ヶ間組織のことで、西陣の営業権を独占した。なお当時は御寮織物司と呼ばれる織物業者がおり、織物業者としては、この御寮織物司の方が格が高く、大名や皇室等の注文を受けた。御寮織物司としては井関家や三上家などが知られている。

    二、西陣織物仲買より高機八組へ議定一札

    議定為取替一札之事

    当仲買之儀者往古ヨリ西陣高機織物限り買請来リ侯儀ニ付互ニ水魚之交リヲ結ビ相続仕来候処今般御大政御一新二付商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成候処西陣壱番組二而顧立候諸織物当仲ヶ間江買請 侯儀二付旧弊相除キ商法之大意ヲ旨トシ自然織物不捌ヶ之節者実意ヲ以談事方致双方納得之上買請不実之取引 等決而不仕尚小前之衆中二至迄相続専一二仕決而不当之直組等致間敷候依テ不相変壱番組織屋仲ヶ間ヨリ被織立候品々手広二買請実直二取引仕土地衰徵不相成機今般双方確定之上永世之商法相立候上者後世二至り侯而モ異変無之樣相互二役中之者連印為取替一札依而如件

    明治元戊辰年十二月

    壱番

    西陣織物仲買

    肝 煎

    誉田屋庄兵衛
    千切屋治兵衛

    取締役

    雁金屋半兵衛
    誉田屋正五郎
    井筒屋半兵衛
    鍵屋源兵衛
    藤屋長兵衛
    菱屋治郎右衛門
    雁金屋吉兵衛
    菱屋治三郎

    一番織屋
    高機八組
    御肝煎中
    御取締中
    御組一同衆中

    第三節 商法会所と京都財閥三家の勢力

    京都府商法会所、後の勧業方前節議定書に、「商法御会所御取建仲ヶ間江夫々鑑札御下げに相成」と謂つて感謝している。此会所とは京都府の一分課であつて、明治二年四月七日、之れを廃して、勧業方と称する課を設 けた。

    右会所は、明治元年四月二十五日京都知府事長谷信篤が任命せられ(京都府知事と改称したのは明治二年七月十七日)謂わば応急措置に設けたものであつて、存続期間は、永くても十ヵ月には満たなかったらしく、従って著しい仕事も出来そうなこともなく、史録にも残されるような事績も見当らない。故に夫々に鑑札を下附すると 云つても、京都市の商工業者全員個人別に下附したとすれば、当時の役所仕事の状態からして、一年や其所等では到底渡し切れるものではなく、恐らくは旧仲ヵ間の、名前帖により、旧慣に従い、夫々の仲間即ち組合に、 取扱わしめたものと思われる。

    此鑑札の下附は、即ち営業の許可制であつて、若し其取扱いが事実上仲ヶ間に委任されたのであれば、新規業者に対する牽制策となり、旧業者の既得権を保護したものであるから、旧来の商工業者は感謝して当然である。然し、之れを単に封建的保守反動的行り方であると、見てしまう事も当らないのであつて、当時は諸政御一新の革命思想が澎湃として、四民平等から、営業の自由を唱え、就中、職工、徒弟制度の、人権を無視した、旧来の仲ヶ間団体破壊の論議が、盛になつて来たから、自然大棚の旦那は、商買に嫌気が生じ、生産及取引の熱意が無くなった。是れでは京都市の経済界は崩壊し、衰微することは、火を見る如く明かである。此際之等の人々を 其緒に安んぜしめ、革新政治を、平穏に進行せしめようと、計つた策であると謂うても、そう間違っては居ない と思う。

    此意味に於て、御会所の設置は、短期間ではあつたにしても、其効果は大きく、京都府知事に建言した、其道の有力者があつたからと思われる。

    三井、小野、島田三家の勢力

    当時京都の大財閥は、三井八郎右衛門、小野善助、島田八郎右衛門の三家であ つた。其他に富豪はあつても、此三家とは、比較にならぬ少資力であつたし、京都府知事も、此三家には厚く礼を尽した。王政復古と称した、政争の禁裏諸費用は、此三家から貢がれ、影の大きな功績者であるとも云われ、 宮庭内裏の勢力は、薩長土藩閥も及ばなかつたとの、語り草もある。三井家は説明の要はなかろう。小野家は、烏丸通押小路から二条通間の大邸宅を構え、皇室に親近して、金融用達を勤めた。遷都と共に東京へ移住し、明治六年には小野組一門挙げて、東京府移籍届を、京都府に提出した。槇村京都府大参事は、此様な大金持が、次々と東京へ移つては、京都は益々寂れるのみであると、其届書を握った儘で、京都裁判所へ送付せないので、裁判所は司法省へ其旨を報告し、槇村大参事は、其為に拘置せられた程の、有名な事件がある。小野組の勢力の一端を物語るものであろう。又島田家は金融業と呉服商を兼営して、京都市の経済界を左右する力を持つたから、 此三家を差し置いては、荒廃せんとする、当時の京都の産業を立直すことは不可能である。故に此人々が、長谷知事の枢機に参劃して、漸進方策を以て行つたと想像する。

    • ※1 この三井は現在の三井財閥につながる。小野・島田家は、ともに明治年間に破産。

    前記物業方設置の翌年正月、東洞院通六角下ル東側に開設した、物産引立会所御用掛は、此三家と下村正太郎 が任命せられ、所謂京都府市の殖産興築に貢献したものであることからも窺えるものである。

    第四節 仲買仲ヵ間より高機八組宛一札

    右勧業方が設置せられた時、仲買商より西庫高機八組宛の一札を次に記す。

    一、先般本文之通為取置侯多商法御会所御廃止相成今般京都政府於勧業方御取被遊都而諸仲ヶ聞是迄之通御建置相成則名前帳面右勧業方へ奉差上置侯付本文為取之条目双方相互二堅相守第一土地之資發 不相成檬実直取引致小前,者引立方之御趣意相守永続相成樣心掛聊異変有之開敷設仍而尚又連印為取容置

    一礼如件

    明治二已年六月

    壱番

    西陣織物仲買

    肝煎
    誉田屋庄兵衛
    千切屋治兵衛

    同取締役惣代
    菱屋治郎右衛門
    鍵屋源兵衛

    一番織屋高機八組
    御肝煎中
    御取締中

    右一札に対する、高機八組からの取替書は保存せられていないから、織屋仲ガ間から返書を発送したか否かは判然せない。畏らくは発送して居ないのが真実と思われるのは、此時には既に織屋側には、次章の会社設立に関 し、京都府の指示を受けて居たので、空文に等しい取替書の一札なぞ出すに及ばなかった状態にあつた。

    第二章 西陣物産会社

    第一節西陣物産会社創設事情

    京都府知事よりの申渡

    明治二年十一月、京都府知事三位長谷信篤は、西陣織物産業の窮境を救い、之を保護奨励の為に、織物業者の新団体を結成せしめ、製品の取引制度を改革せしめる目的で、其有力者を招致して、西陣物産会社を設立せしめた。

    此史実に付ては、明治四十二年十二月十四日、西陣繻子織新織法案出等の功績により、藍綬褒章を下授せられた橋本伝蔵が、八十一後の高齢の時の談中に、

    明治二年十月京都府より自分等御差紙有之侯ニヨリ府庁へ出頭シタルニ知事申渡へ西陣ノ織物大ニナラシムペシ其方法トシテへ織物ノ取引所設クペシ云々ト御熱心奨励被下

    とある。当時京都府庁は下立売通新町西入目守護職邱、即ち現府庁の地※2にあつて、出頭したのは其所であ る。右に付ては、もつと考察して見る必要があると 思う。

    • ※2 京都府庁は旧京都守護職屋敷を活用して設置されたことが知られているが、明治4年から明治18年までの府庁は二条城に置かれた。現在の本庁舎(旧本館)の竣工は明治37年。

    勤王討幕内乱による西陣の打撃文久、元治、慶応、から明治二年迄、凡十年に渉る歳月は、勤王攘夷佐幕開国の政争に全国が沸騰して、皇居京都は、権謀術数、剣撃闘争の日々が繰返えされた。殊に元治元年七月十九日から、同月二十日夜に至る迄、燃え続けた所謂甲子禁門の戦による兵燹(へいせん)は、河原町通三条上ル東側、長州藩下屋敷から火を発して、市内八百十一町、戸数二万七千五百十三戸が焼亡したと伝えられている。

    次で明治元年(慶応四年) 正月五日「菊は咲く咲く葵は枯れる」の俗語で名高い、伏見鳥羽の合戦から、同年 四月十一日江戸城の明渡しとなり、錦旗東征、函館五稜郭の一戦を最終として、戊辰の役と称せられた、朝幕の葛藤は一応終息し、王政復古とはなつた。

    此永年に造る国内の擾乱が、西陣織物の消化力に甚大な打撃を与えたことは古から戦争の度毎に受ける、平和産業西陣織物の宿命に例外はなかった。況(ま)して、明治二年三月二十八日、明治天皇が、東京へ都を遷された時には、徳川幕政三百年、商工業の繁盛を江戸に奪われた悔しさも、今度こそ吾世の春となつて、見返す時節到来と、喜びの期待が大きかつただけに、京都市民の落胆は見るも憐れであつたと云う。中でも西陣織物業者の前途は真闇で、忘然自失の有様となったのは尤もである。

    京都御政府へ西陣織屋匡救歎願

    抑も、徳川が天下の覇権を握った慶長此方、泰平の時世が続いたと謂っても、西陣屋街は幾度も、全滅に近い大火に通い、飢饉による災厄に襲われ、商買上では他産地の侵攻あり、糸屋の思惑買〆による暴騰あり、その度毎に、公方様、所司代御奉行様に願上奉つて、お助けを乞うたり、他産地を抑付けて貰ったりした。即ち極端なる特権階級の保護政策による、温床に安住して来たのであつた。

    明治の大改革により、諸政卿一新と云つても、未だチョン幅は其の儘であり。侍は二本帯刀して居た時代故、西陣織屋も昔からの習性は抜け切れなく、京都御政府様にお授けを乞うたし、又此際そうするより他はなかつたの でもあつた。第一行く先々の事は何とあろうと、今日の織屋が立行かなくなって来たので、先般明治政府から、 京都府へ、勧業資金として貸下げた、金十五万円から、此危機を脱する為の資金を、御貸下げ賜わるよう、織屋仲ガ間肝煎から願出たものと、謂っても間違いあるまいと思う。

    此時京都府には、長谷知事を補佐する為、槇村大参事が任命せられ、満々たる野心を抱いて、革新政策を断行せんと意気込んでいる際であり、京都市重要産業の興隆の為、資金を貸付けると共に、封建時代の遺物、仲ヶ間制度を廃止せしめ、新産業組織による団体を結成し、其れを基盤として、西陣産業を育成しようと計画し、同時に此全西陣統合体に貸付金に対する責任を持たしめることにしたのである。