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カテゴリー: 西陣織物館記

  • 西陣織物館記(~明治18年、西陣織物業組合設立)

    西陣織物館記(~明治18年、西陣織物業組合設立)

    同組合設立同意書の調印 

    イ、西陣地域内織物業者数及同組合設立同意者数 同業組合準則第一条は、地区内同業者の四分の三の、同意を以て設立すると定めている。 西陣織物業組合でも地区は京都市全域とすべきは当然であった。当時京都市は上下二行政区になって居た。其内上京は四十一地区に分割せられ、之れを組と称した。

    織物業者は、一組乃至九組、十五、十六、十八、十九組内に密集し、十三、十四、十七、組内にも若干存在した。道路筋を以て見れば、大略、南は出水通、東は室町通、西は御前通り、北は蘆山寺通が此年代の織屋部落であった。 明治十七年七月から、同十八年一月迄の右地域内織物業者数は、一、五九二戸が平均数であることは第一節第一項表の通りである。

    右織物業者を社別にすると、紋織社、三二二戸。生紋社、一三八戸。博多社、一八六戸。羽二重社、一一〇戸。繻子社、二四九戸。縮緬社、一九三戸。天鵞絨社、七九戸。木綿社、三一七戸。となって居る。

    右数は何れも賃業者を含んでいない、所謂、自前業者のみである。

    準則組合設立には、右数の四分の三の同意を求めればよいのであるから、各社毎に肝煎が手分けして、同意調印を求めたとしても、其負担は極めて少数である。勿論各社所属織物業者が密集して居る場所もあるが、多くは西陣地域各組各町に撒在して居るのであるから、道のりはあっても、四分の三はおろか、全員数の同意調印を求める事も、さ程困難でなかったと思われる。

    ロ、西陣織物同業組合から西陣織物業組合へ変転 本章第一節第四で、京都府布達甲第十九号により組合設立の為山田泰蔵外四名が、京都府に出頭し、西陣織物同業組合を設立した旨を述べた。 所が農商務省令準則組合は、京都府布達甲第十九号組合とは根本的に設立精神が異るのであるから、右布達組合を解消して、新たに準則組合を設立すべきであるが、京都府は、右甲第十九号布達の面子を固守して、「此準則に抵触スルモノハ来ル六月三十日限更正又ハ追加規約ヲ作り更ニ開申認可ヲ請フベシ」、と云うたので、実は新組合設立と同様の手続を要しても、認可申請は規則改正開申とせねばならなかった。

    西陣織物業組合規約制定及認可 京都西陣織物業組合、規約御認可書之写、と題し一般組合員に配布した。

    送  達

    本年四月本部甲第五十号ヲ以テ同業組合準則御布達ノ旨趣ヲ遵守シ組合会議ノ決議ヲ以テ別冊ノ通規約改正開申候処御認可相成候条此段送達候也   明治十八年十月
    西陣織物業組合
    組 長  大 木 長 七 郎  
    議 長  植 田 利 七

    勧第四〇九号

    書面之趣認可候事

    明治十八年十月七日
    京都府知事 北垣国道代理
    京都府大書記官 尾越蕃輔

    右送達書には組合会議の決議を以て、規約を改正して開申したとあるから、其会議は西陣織物同業組合の会議であらねばならない。其決議記録が保存せられて無いから判らぬが、明治十八年四月には西陣織物業組合役員が決定して居るので、右開申認可申請は同年四月中に京都府へ提出したものと思われる。さすれば京都府の右認可迄には六カ月を要して居る。之れは京都府と農商務省との間に於ける、法令上の指導打合せに要したものと想像して間違いない。其理由は、右四月決定の役員職名及其員数が変更せられ、旧各社を組としたものが改名して部と称し、其他にも変更せられた箇所が数々ある事から見て、主務官省の指示を待った為認可が遅延したものであろう。

    西陣織物業組合規約 西陣織物同業組合規約を発見せないので、此組合規約が如何に改正したのか不明であるが、同業組合の「同」の字を削除したのは明白である。全文は六十五カ条と附則であって、之れを九章に分類し、一章毎に第一条から始まる珍らしい形式のものである。又各法文には漢字に意訳振仮名を付け、部所属織物品種を決定してある。次に規約全文を掲げ、初めの条文のみ右振仮名を付して参考に供する。体裁上認可書も再記する。

    規約御認可書之写   

    送  達

    本年四月本部甲第五十号ヲ以テ同業組合準則御布達ノ旨趣ヲ遵守シ組合会議ノ決議ヲ以テ別冊ノ通規約改正開申候処御認可相成候条此段送達候也   

    明治十八年十月
    西陣織物業組合
    組 長  大 木 長 七 郎
    議 長  植 田 利 七 印

    勧第四〇九号

    書面之趣認可候也   印割   

    明治十八年十月七日
    京都府知事 北垣国道代理
    京都府大書記官 尾越蕃輔 印

    第一章 組織名称

    第一条 当組合(このくみあい)ハ、西陣織物業組合(おりものをこしらえるひと)ト称シ織物製造業者(おりものをこしらえるひと)ヲ以テ組織(くみたて)シ同職工(おなじおりて)ヲ其附属(そのつきしたが)イトス

    第二条 当組合(このくみあい)ヲ大別(おおわけ)シテ八部(はちぶ)トス其名称(そのとなえ)及各部(かくぶ)ニ於テ製造(こしらえいだ)スル織物(おりもの)ヲ左ニ概記(あらまししる)ス

    八部名称及製品

    紋織部製品
    糸錦織(いとにしきおり)、緞子織(どんす)、遠州緞子織(えんしうどんす)、繻珍織(しゆちんおり)、厚板織(あついた) 大和錦織(やまとにしき)、雲繝織(うんけん)、漢唐緞子(かんとうどんす)、綾地織(あやぢ)、縷糸織(よりいと) 郡中織(ぐんちゅう)、風津織(ふうつ)、高麗縁織(こうらいべり)、錦織(にしきおり)、古金欄織(こきんらん) 広金織(ひろきん)、半金織(はんきん)、無地金織、地金織(ぢきん)、小石織、絽金織、小巴織(しょうは)、匹田織(ひった)

    生紋部製品
    綾織(あや)、顕紋紗織(けんもんしゃ)、紋綾織、唐綾織(からあや)、広綾織、固地綾織(かたぢあや)、絽織、紋絽織、紗織、紋紗織、紗綾織(さや)、絽金織(ろきん)、精好織(せいご)、紋白織(もんしろ)、綸子織(りんず)、絖織(ぬめ)、紋壁織(もんかべ)、縫紗織(ぬいしゃ)、紗金織(しゃきん)、薄板織(うすいた)

    羽二重部製品
    羽二重織、壁羽二重織、塩瀬織(しおせ)、壁塩瀬織、画絹織、平絹織、練織(ねり)、縬練織(しじら)、飾絹織(ふるいきぬ)、生絹織(すずし)、保多織(ほた)、綟子織(もぢ)、亀綾織(かめあや)、撰糸織(せんじ)、経織(へ)、絓織(しけ)、ハンカチーフ織

    繻子部製品
    黒繻子織、紋繻子織、色繻子織、縞繻子織、生緯(きぬき)繻子織(きぬき)、 綿緯黒繻子織、綿緯色繻子織、綿緯縞繻子織、南京(なんきん)繻子織

    縮緬部製品
    本逼織(ほんせば)、綿逼織、縞縮緬織(しまちりめん)、数寄屋織(すきや)、明石縮織、上布織、壁上布織、絹縮織、生縮緬織、平御召織、綿壁上布織

    博多部製品
    博多織、紋博多織、琥珀織(こはく)、茶鵜織(ちゃう)、一楽織(いちらく)、 八丹織、斜子織(ななこ)、高貴織(こうき)、呉絽織(ごろ)、小柳織、海気織(かいき)、綿博多織

    天鵞絨部製品
    黒天鵞絨織、色天鵞絨織、黒輪(くろわな)天鵞絨織、色輪(いろわな)天鵞絨、縞天鵞絨織、紋天鵞絨、底金(そこきん)天鵞絨織、色飛(いろかすり)白天鵞絨織、二重天鵞絨織、黒綿緯(くろめんぬき)天鵞絨織、色綿緯天鵞絨織、綿天鵞絨織、金華山織、長毛(ながけ)天鵞絨織、金版(きんばん)天鵞絨織、吉野天鵞絨織、綛(かせ)天鵞絨織

    木綿部製品
    小倉織(こくら)、小倉帯地織、小倉袴地織、真田織(さなだ)、今春織(こんぱ) 綿当麻織(めんたえま)、洋服紺地織、洋服白地織、綿縮織(めんち)、綿繻子織、小倉紋帯地織、肩懸地織、衿巻地織

    第二章 地区事務所

    第一条 当組合ハ上下京区内ヲ以テ其地区トス

    第二条 各部(かくぶ)内ノ戸数(やかず)ニ応ジ地ヲ図(かぎり)シテ区(さかい)ヲ定メ事務(つとめむき)ノ便宜(たより)ヲ図ル可シ
    但本文ノ地図(さかい)ヲ定ムルノ順序(てつづき)ハ別ニ之ヲ示ス

    第三条 当組合ノ事務所ハ上京区第八組橘町第七番戸内壱号ニ設置ス

    第三章 目的及方法

    第一条 当組合ハ共同(こころをあわ)シテ本業(おりもの)ヲ盛昌(さかん)ニシ物産ヲ拡張(おしひろめ)スルヿ以テ目的(めあて)トス

    第二条 組合事務所ヨリ証紙ヲ発行シ組合員ニ於テ製造スル物品(しなもの)ニ貼附(はりつけ)セシメ本組合員ノ製品(このくみあいのひとこしらえたしな)タルヿヲ証明(あかしおく)ス
    但其雛形及施行順序ハ追テ之ヲ定ム

    第三条 組合員ニ於テ製品スル物品(しなもの)ハ精巧(くわしきたくみ)ヲ旨(おも)トシ物産(しなもの)ノ名誉(ほまれ)ヲ毀損(そこなわ)セサルヿニ注意ス可シ其売価ノ如キ濫リニ低価(やすね)ヲ競フ等売買上不当ノ事ヲナス可カラズ

    第四条 組合員製品ヲ仲買商人ニ売渡シ仲買人ヨリ歩引或ハ値引等不当ノ支払ヲ受ケタルトキハ必事務所へ申出可シ然ルトキ組長ハ之レヲ役員会ニ諮リ相当ノ取扱ヲナス可シ
    但殊更ニ約定アル者ハ此限ニアラス

    第五条 取引上仲買商ヨリ不当ノ取計ヒヲ受ケタル者ハ其旨事務所へ申出可シ此場合ニ於テハ組長ハ能其実際ヲ査覈シ役員会決議ノ上其旨組合員一同へ告知ス可シ
    附タリ組合員本文組長ノ告知ヲ領知シタルトキハ其仲買商ト爾来断然取引ヲ為ス可カラズ

    第六条 組合員有益ノ織物又ハ織法等ヲ発明スルトキハ役員会ノ決議ヲ以テ其功労報酬トシテ若干金ヲ賞与ス可シ
    但此場合ニ於テハ特別証紙ヲ附与シ該品ニ貼附セシメ其発明ヲ証ス

    第七条 組合員ハ毎月ノ製造品及売捌品ノ数量代価等ヲ計算シ翌月二日迄ニ幹事へ差出シ幹事之レヲ三日中ニ部長へ差出シ部長之レヲ精算シテ四日中ニ組長へ差出ス可シ

    第八条 組合員ハ常ニ左ノ件々ニ注意考察シ其方法ヲ為ス可シ
    一、手術ヲ練磨シ製法ヲ工夫シ良品ノ製造新法ノ発明ヲ図ルヿ
    二、世上需用供給ノ釣合ヲ観察シ物品ヲ製造シ粗製濫造ヲナササルヿ
    三、原品産業ノ景況職工ノ能否其他消費ノ得失ヲ考へ製造費ノ減省ヲ図ルヿ
    四、時勢ノ変遷産業ノ興廃流行ノ適否ニ注意シ販路ノ拡張ヲ図ルヿ
    五、営業上利害ニ関スルヿアルヲ認ムルトキハ何事ニ拘ハラス組長へ報告スルヿ

    第九条 当組合ハ毎月一回事務所ニ於テ談話会ヲ開き当業ノ景況利害得失ヨリ矯弊図益ノ見込等ヲ談話スヘシ

    第十条 修業弟子及職工取締教育規約ハ追テ之レヲ定ム可シ

    第四章 役員職制

    第一条 当組合ハ左ノ役員ヲ置ク
    組長 壱名
    副組長 壱名
    取締 三名
    理事 無定員
    書記 無定員

    第二条 各部ニ於テ左ノ役員ヲ置ク
    部長 壱名
    副部長 壱名
    幹事 無定員

    第三条 組長ハ組合ニ係ル一切ノ事務ヲ総理ス其大要左ノ如シ
    一 組合員ノ名簿ヲ整理スルヿ
    二 組合員ノ組合ニ関スル願届書ニ調印スルヿ
    三 商工景況及統計書ヲ調製スルヿ
    四 組合会ノ決議事件ヲ施行スルヿ
    五 官庁及区役所等ノ諮問ニ答申シ及照会ニ応答スルヿ
    六 組合員ノ組合ニ関スル紛議ヲ和解スルヿ
    七 違約者処分ヲ施行スルヿ
    八 金品ノ出納ヲ整理スルヿ
    九 役員選挙ノ投票ヲ開査スルヿ
    十 諸役員ヲ監督スルヿ
    十一 理事以下ヲ進退スルヿ
    十二 当業改良ノ方法ヲ計画シ及利害ニ関スル事件ハ速ニ組内へ通告スルヿ
    十三 組合ニ関スル官令ニ対シ疑義アリト認ムルモノハ組合人ニ其心得方又ハ取扱方ヲ指示スヿ
    十四 証紙発行ノヿ
    十五 職工取締ノヿ
    以上ノ事項中重要ノモノハ役員会ニ諮リ然ル後施行ス可シ

    第四章 役員職制

    第一条 当組合ハ左ノ役員ヲ置ク
    組長 壱名
    副組長 壱名
    取締 三名
    理事 無定員
    書記 無定員

    第二条 各部ニ於テ左ノ役員ヲ置ク
    部長 壱名
    副部長 壱名
    幹事 無定員

    第三条 組長ハ組合ニ係ル一切ノ事務ヲ総理ス其大要左ノ如シ
    一 組合員ノ名簿ヲ整理スルヿ
    二 組合員ノ組合ニ関スル願届書ニ調印スルヿ
    三 商工景況及統計書ヲ調製スルヿ
    四 組合会ノ決議事件ヲ施行スルヿ
    五 官庁及区役所等ノ諮問ニ答申シ及照会ニ応答スルヿ
    六 組合員ノ組合ニ関スル紛議ヲ和解スルヿ
    七 違約者処分ヲ施行スルヿ
    八 金品ノ出納ヲ整理スルヿ
    九 役員選挙ノ投票ヲ開査スルヿ
    十 諸役員ヲ監督スルヿ
    十一 理事以下ヲ進退スルヿ
    十二 当業改良ノ方法ヲ計画シ及利害ニ関スル事件ハ速ニ組内へ通告スルヿ
    十三 組合ニ関スル官令ニ対シ疑義アリト認ムルモノハ組合人ニ其心得方又ハ取扱方ヲ指示スヿ
    十四 証紙発行ノヿ
    十五 職工取締ノヿ
    以上ノ事項中重要ノモノハ役員会ニ諮リ然ル後施行ス可シ

    第四条 副組長ハ其職権組長ニ亜ク常ニ組長ヲ助ケ組長不在又ハ事故アル節之レヲ代理ス

    第五条 取締ハ正副組長ニ従ヒ庶務ヲ掌理ス
    但正副組長不在又ハ事故アルトキハ取締ニ於テ代理スルヿアル可シ

    第六条 理事ハ正副組長取締ノ命ヲ領シ諸務ニ従事ス

    第七条 書記ハ諸帳簿記録受附等ノ事ヲ掌トル事務ノ都合ニ依リテハ理事ヲ兼ムコト有ル可シ

    第八条 部長ハ正副組長ノ意ヲ受ケ其部内ノ事務ヲ幹理ス其大要左ノ如シ
    一 部内組合員ノ名簿ヲ整理スルヿ
    二 組合員ノ組合ニ関スル願届書ニ認印押捺スルヿ
    三 組合ニ関スル官令及組長ヨリ通達ノ事件ヲ伝達又ハ施行スルヿ
    四 組合員ヨリ組長へ差出ス諸報告書ヲ取纏ムヿ

    第九条 副部長ハ掌トル処部長ニ同シ

    第十条 幹事ハ其管理区内ノ諸文書ヲ送達シ庶務ヲ斡旋ス

    第十一条 正副組長取締正副部長幹事ハ俸給ヲ附セス組合会ノ決議ヲ以テ若干ノ慰労金ヲ呈ス可シ

    第十二条 役員(理事以下ヲ除ク)ハ組合員ニシテ地区内ニ住居シ年齢満二十一歳以上ノ男子ニ限ル可シ
    但左ノ各項ニ触ルヽ者ハ役員タルヲ得ス
    一 風癲白痴ノ者
    二 禁錮以上ノ刑又ハ賭博犯ニ処セラレ満刑後三ヶ年ヲ経サル者
    三 身代限ノ処分ヲ受ケ負債ノ弁償ヲ終へサル者
    四 当業ニ関スル官令又ハ組合規約ニ違ヒ処分ヲ受ケタルヨリ一ヶ年ヲ経サル者

    第十三条 役員ハ左ノ方法ヲ以テ選挙ス
    一 正副組長取締役ハ組合会ニ於テ選挙ス可シ
    二 正副部長ハ部内幹事ノ投票ヲ以テ選挙ス可シ
    三 幹事ハ其管理区内ノ組合員ニ於テ選挙ス
    但選挙ハ投票多数ヲ以テ当選トシ同数ナルキハ年長ヲ採リ同年ナルトキハ鬮ヲ以テ之レヲ定ム可シ最高当選者辞退スルトキハ次点者ヲ以テ之レニ充ツ

    第十四条 役員ノ任期ハ満二ヶ年トシ初メ一ヶ年抽籤ヲ以テ其半数ヲ改選シ爾後一年毎ニ半数ヲ改選ス可シ
    但改選ノ節前任者ヲ再選スルヲ得

    第五章 会議規程

    第一条 会議ヲ分ツテ総会組合会役員会及部会ノ四種トス

    第二条 総会ハ組合一統ノ総集会ニシテ毎年四月一回之レヲ開設シ組長之レカ会頭トナリ前年中組合事業ノ要領ヲ報告シ組合員ノ懇親ヲ結ヒ且当業上大事件アルトキハ之レヲ議ス
    但組合会ニ於テ臨時総会ヲ必要トスルトキハ臨時時会ヲ開クヿアル可シ

    第三条 組合会ハ組合人代議員ノ集会ニシテ定期臨時ノ両会ニ分チ定期会ハ毎年三月ニ開キ臨時会ハ臨時要用アルトキ開クモノトス
    但役員会ニ於テ至急要用ト認ムル事件アルカ又ハ議員三分ノ一以上ノ同意者ヲ以テ請求スルニアラサレハ臨時会ヲ開クヲ得ス

    第四条 役員会ハ役員集会シテ時々便宜ニ開会シ組合ニ係ル要務ヲ談議スルモノトス

    第五条 部会ハ各部内限リ其部内幹事ヲ以テ之レヲ開キ部長之レカ会頭トナル可シ
    但部会ノ決議ハ組長ノ認可ヲ得テ施行スルモノトス

    第六条 組合会ニ於テ議定スヘキ事件ハ左ノ如シ
    一 組合員ノ営業取引ヲ確実ニシ弊害ヲ矯正シ公益ヲ図ル方法
    二 粗製濫造ノ弊ナカラシムル方法
    三 本業ノ改良進歩ヲ計画スル方法
    四 修業弟子並ニ職工取締及教育方法
    五 組合経費ノ収支予算及賦課方法
    六 経費出納ノ当否
    七 官庁諮問ノ重要事件
    八 規約細則等ノ制定改正増減
    九 役員会ニ於テ要用トスル事件

    第七条 議員定数ハ各部戸数ニ応シ三名以上七名ヲ選出セシム被選挙人ノ資格ハ第四章第十二条ニ同シ
    但正副組長取締ヲ除クノ外役員ヲ以テ議員ヲ兼ヌルヿモ妨ケナシ

    第八条 議員ノ任期ハ満二ヶ年トシ一年毎ニ其半数ヲ改選ス尤当初ノ退任者ハ鬮ヲ以テ定ムヘシ
    但改選ノ節ハ前任者ヲ再選スルモ妨ケナシ

    第九条 組合会ハ議員中ニ於テ議長副議長ヲ選挙シ議長事故アルトキハ副議長之レニ代リ議長副議長トモ事故アルカ又ハ欠席スルトキハ更ニ議員中ニ於テ仮議長ヲ選挙シ之レヲ開ク者トス

    第十条 議案ハ役員会ニテ調製シ組長之ヲ発スヘシ
    但組長ハ役員中ニ委員ヲ定メ該案ニ対シ説明ヲ任スルヲ得ヘシ

    第十一条 会議ヲ開カントスルトキハ左ノ方法ニ従フヘシ
    一 会議ハ議員過半数ノ出席ナケレハ開ク事ヲ得ス若議員止ヲ得サル事故アリテ出席シ難キトキハ其部内組合員中ヨリ議員トナル可キ資格ヲ有スル者ヲ代理人トシ自分ノ欠席書ヲ差出スヘシ
    但代理人ハ部長ノ添書ヲ要ス
    二 議事ハ出席過半数ノ同意ヲ以テ決ス可否同数ナルトキハ議長ノ決スル処ニ従フヘシ
    三 決議ノ事項ハ之ヲ要録シ組長議長連署シ区長ヲ経由シ本府庁へ上申スヘシ

    第六章 加入者及退去者規程

    第一条 新タニ織物業ヲ開キ本組合ニ加盟セントスルトキハ開業願書ト共ニ加入申込書ヲ作リ其部長及幹事ノ調印ヲ受ケ組長へ差出し且開業願書ニ調印ヲ受クヘシ組長ハ先ツ本規約ヲ承知セシメ其紙末ニ確守ノ旨ヲ記シ記名調印セシメ然ル後願書ニ調印スルモノトス

    第二条 当組合ハ左ノ如キ標札ヲ製シ商業人へハ記号ノ肩ニ甲ト烙印シ工業人へハ記号ノ肩ニ乙ト烙印シ戸外ノ見易キ所ニ掲ケシムヘシ
    但組合員ハ標札手数料トシテ金五銭ヲ差出スヘシ

    (標札図型) 縦曲八寸五分 横曲四寸

    京都府認可

    西陣織物業組合員 印
    甲又ハ(乙) 住所

    第何号 何条某

    第三条 組合員代換改名転居廃業等ヲ為ストキハ其都度幹事ノ認印押捺ヲ以テ部長ヲ経由シ届書ニ組長ノ調印ヲ乞フヘシ
    但廃業ノ節ハ証標ヲ返戻シ其他ノ書換ヲ乞フヘシ

    第四条 組合員ハ明治十八年四月本府甲第五十号布達同業組合準則第四条但書ニ依リ本府ノ認定ヲ受ケシ者ノ外ハ何等ノ事情アルモ当組合ヲ退去スルヲ得ス

    第五条 当組合地区内ニ於テ当業ノ職工タラント欲スル者ハ幹事部長ヲ経テ組長へ申出職工証標ノ下渡ヲ乞フヘシ組長ハ本規約中職工ニ係ル部分ヲ承知セシメタ左ノ如キ証標ヲ渡スヘシ
    但証標手数料トシテ金五銭ヲ差出スヘシ

    (証標図型) 表面 曲二寸五分

    何第何号 何々織職工
    住所  何条某

    裏面 曲二寸五分

    年号月日
    西陣織物業組合ノ証 印

    第六条 職工改名転居廃業スルトキハ其都度申出改名転居ハ証標ノ書換ヲ乞ヒ廃業ハ証標ヲ返戻スヘシ

    第七条 組合員ハ証標ヲ所持セサル職工ヲ雇入ルヽヿヲ許サス

    第八条 組合員及職工ノ増減ハ一年毎ニ組内一般へ報告スヘシ

    第七章 経費収支方法

    第一条 一ヶ年経費ノ収支予算額及賦課額ハ定期組合会ニ於テ議定スヘシ組合ヨリ支弁スヘキ費目ハ凡左ノ如シ
    一 役員慰労金
    二 理事書記小使雇給
    三 事務取扱費
    四 証紙発行費
    五 会議費
    六 商工会議所費
    七 雑費

    第二条 当組合ニ係ル経費ハ組合員ニ於テ負担シ地方営業税等級ニ依リ公平ノ法ヲ定メ賦課スルモノトス

    第三条 経費賦課金ハ四期ニ分チ毎三月分ヲ一月四月七月十月ニ前徴スヘシ
    但開業者ハ其期節分ヨリ経費ヲ徴収シ廃業者ハ其期節分迄ノ経費ヲ徴収スヘシ又経費徴集額ニ残余アル片ハ翌年度へ繰リ込不足ヲ生スルトキハ役員会ニ於テ其処置法ヲ定ム可シ

    第四条 経費ハ其年四月一日ヨリ翌年三月三十一日迄ヲ一周年度トシ半季毎ニ精算書ヲ作リ組内一般へ報告スヘシ

    第八章 違約者処分法

    第一条 総テ本規約ニ違反スル者アリト認ムルトキハ其事状ヲ組長へ密告スヘシ組長ニ於テハ篤ト其実否ヲ探査シ相違ナキニ於テハ役員会ニ諮リ下条ニ拠リ処分スルモノトス
    但過誤ニ拠リ本規約ニ違反シ其他違反ノ情状宥恕スヘキモノト認ムルトキハ懇篤説諭ヲ加へ向来ヲ戒ムヘシ

    第二条 第三章第三条ノ規約ニ違背シ取引上ニ妨害セシモノハ為メニ生シタル損害ノ金高ニ相当スル違約金ヲ差出サシムヘシ

    第三条 第三章第五条ノ規約ニ違背セシモノハ金参拾円以下ノ違約金ヲ差出サシムヘシ

    第四条 第六章第七条ノ規約ニ違背シタル者ハ若干ノ違約金ヲ差出サシムヘシ

    第五条 経費ノ出金ヲ肯ハサルモノハ郵便先払税ヲ以テ督促スヘシ尚出金セサルトキハ組合会ニ諮リ処分スヘシ

    第六条 第五章第十一条第一項ニ違背スル者ハ違約金トシテ金壱円ヲ差出サシム

    第七条 役員ニシテ規約ニ違犯シ其他不当ノ行為アルトキハ組合会ニ於テ之レヲ処分ス

    第八条 第五章第十一条第一項ヲ除クノ外議員本規約ニ違反スルトキハ通常組合員ノ違反者ト同シク処分ス

    第九条 違約者ノ処分方ヲナシタルキハ其事由ヲ速ニ本庁へ申報シ及組内一般へ報告シ都合ニ依リ新聞紙ニ広告スルヿモアルヘシ
    但違約者ヨリ差出サシメタル金員ハ組合ノ共有トシテ組合会ニ謀リ之ヲ処置スヘシ

    第十条 前各条ノ違約処分ニ応セサル者及第六章第五条ニ違反スル者ハ其筋へ申告シテ処分ヲ受クヘシ

    第九章 雑則

    第一条 当組合ノ一ヶ年事蹟組合員ノ増減ハ毎年一月中本府庁へ申報シ費用決算ハ毎年四月之レヲ申報ス可シ

    第二条 組合役員ノ住所姓名及印鑑類ハ本府庁所管区役所及組内一般へ報告スヘシ其変換アルトキモ又同シ

    第三条 此規約ヲ改正増減セントスルトキハ組合会ニテ決議シ区長ヲ経由シ本府庁ノ認可ヲ受クルモノトス
    但内規約細則等ヲ定ムルトキハ本府庁へ届ケ出ツ可シ

    附則

    一 組長ハ組合ノ状況ヲ時々商工会議所へ報告シ商工会議所ヨリ組合ニ要報アルトキハ之レヲ一般へ告知スヘシ
    二 組合員ハ互ニ信義誠実ヲ旨トシ常ニ親シク交際シ其情誼ヲ尽スヘシ

    西陣織物業組合組長、副組長、取締 明治十八年四月決議の役員名簿には、

    上京区第十六組飛弾殿町 組長 大木長七郎
    同 第六組烏丸町 副組長 加藤庄次郎

    とあつて同年十月改正組合規約認可迄は、此儘で置いたものと思われる。同じく改正規約は取締三名を置いて居るも記録不明。

    同年十月大木組長が辞任して、山田泰蔵が組長に選任せられた。此時の取締三名も不明である。

    明治二十年三月右山田組長が辞職し、後任は佐々木清七が選任せられ、此時の役員は全員記録に残されている。

    上京区第四組東西町 組長 佐々木清七
    同区 第六組烏丸町 副組長 松木安次郎
    同区 第十六組飛弾殿町 取締 大木長七郎
    同区 第四組大北小路東町 取締 北川利八
    同区 第六組西今出川町 取締 川越藤助
    同区 第四組古美濃部町 常議員 山田泰蔵
    同区 第四組紋屋町 常議員 鳥居喜兵衛
    同区 第七組東上善寺町 常議員 人見勘助
    同区 第七組北小路仲之町 常議員 吉田善助
    同区 第七組西北小路町 常議員 亀山利兵衛
    同区 第七組笹屋町三丁目 常議員 家嶋治助
    同区 第七組笹屋町二丁目 常議員 林源助

    右役員達は此組合の最終迄勤めたものである。其内常議員は、規約中には存在せない役名であるが、当時の西陣業界に於ける、取締級の人物のみであるから、最高顧問として役員同列枢機に参劃せしめたものであろう。故に恐らくは、山田組長時代の副組長、及取締は此等の人の内から選任せられてあつたと見て、間違いない。

    同組合各部及部長 明治十八年四月此組合規約開申申請当時のものは、旧社名を、組と改称し、紋織組、生紋組等と称して、其長は各組行事と唱えた。同年八月規約改正認可後は、八部となつて、部長、副部長、各一名を置き、若干数の幹事を置いた。之れは部議員に相当した。

    組行事が部長、副部長に改称せられても、顔振れから見て変更し、或は改選する必要は無かつたと思われる。筆順に其儘部長、副部長に名称更えをして事足つたであろう。尤も二年後の半数改選に付ては記録が無い。

    西陣織物業組合各組行事

    上京区第四組大猪熊町 紋織組 久江長兵衛
    同  同  伊佐町  同  加藤安兵衛
    同 第二組下清蔵口町 生紋組 大石政助
    同  同  長乗西町 同  天野伝蔵
    同 第八組元妙蓮寺町 羽二重組 谷川庄八
    同 第三組戌亥町   同  時岡宗兵衛
    同 第四組幸在町   繻子組 安本宗七
    同 第四組大猪熊町  同  野本治兵衛
    同 第七組笹屋町一丁目 縮緬組 人見勘助
    同 第八組桝屋町   同  橋井幸七
    同 第一組西若宮北半町 博多社 鈴岡又兵衛
    同 第十九組吉野町  同  田中三郎兵衛
    同 第三組姥ヶ榎町  天鵞絨社 神供熊太郎
    同 第八組五辻町   同  村山藤兵衛
    同 第六組笹屋町五丁目 木綿社 佐々木甚兵衛
    同 同 同      同  川端太兵衛

    各部には、数町毎に分担を定め世話役を置いた。此世話役には人望家が多かつたが氏名を省略する。新規開業、廃業、転居、名前換其他営業上に関する一切の諸願伺届には、総て受持世話役の奥印を要する慣習であつた。

    同組合組合会代議員と議長の越権 組合会代議員は、各部の戸数に応じて三名乃至七名を其部から選出せしめた。組合議会制度の嚆矢でもあり、組合員及其部を代表する者であるから、各部共識見信望のある人を選出して居るので次に記述する。

    此頃は憲政実施、国会開設の機運が国内に横溢して、議会主義思想が澎湃としたので、西陣にも段々其傾向が現われて来た際であつたから、組合会の権威を誇る者が生じ、其上組合規約に、組合会の決議事項は之を要録し、組長議長連署し区長を経て京都府に上申する旨を定めた。之れは明かに組長の権限を制約し、却而議長の権限を強めた結果を生じた。其為議長が思上つて、温厚な旦那役員を、尻に敷き、専横に及び、例えば取引改善を目的とした後節に述べる市場開設の如き事業でも、行り口が組合の綱紀を紊し、組長の権限を無視して、専断で行い、計画が放漫粗雑であつた為、失敗に終り組合に損害を被らしめるに至つた。

    西陣織物業組合会議員(初代)

    議長 植田利七、副議長 橋本伝兵衛

    紋織組議員
    永尾徳兵衛、谷新七、武本清次郎、桜井米次郎、山田勘右衛門、原田伊助、宅間芳之助、長谷川杢次郎

    生紋組議員
    中上吉兵衛、小林伊之助

    羽二重組議員
    谷川柳助、淵田和助

    繻子組議員
    山崎亦兵衛、山本儀三郎、荒木菊三郎

    縮緬組議員
    松木安次郎、黒田彦次郎、川越藤助、林源助

    博多組議員
    細井勘兵衛、中井与助

    天鵞絨組議員
    家嶋治助、湯浅文助

    木綿組議員
    駒井清兵衛、高山伊兵衛、服部勘兵衛、沢村由三郎、小森利右衛門、谷田孝次郎、小川久吉、湯浅元治郎、菱田嘉兵衛

    右議員は明治十八年四月選挙のものであるから、各部が組名となつている。議長植田利七は博多組議員、副議長、橋本伝兵衛は紋織組議員であつた。

  • 西陣織物館記(4、~明治17年)

    西陣織物館記(4、~明治17年)

    第六節 西陣織物会所の目的たる事業

    製品検査 同織物会所規則第一条は、織物は検査をして、証紙を貼用し模擬贋製品との識別を明白にするよう命じている。

    西陣織物の検査は、同会所取締役八人が諸製品を調査することを同規則第九条で定められた。即ち之れが検査員である。

    全西陣年間織物生産数量二百万点に近いもの、然も品種銘柄を如何程圧縮大別しても、百三十余種に及ぶものの、正品、不合格品の鑑別を僅か七人の旦那で、年がら年中行われる訳のものではない。肝煎は勿論、仲買取締の番頭が補助代理を勤めさせたとすれば、妥協弊害を防止できない。況や単に織物を正品、綿緯、擬色に三別せねばならぬから事実上は甚だ困難であつて、絶えず紛議は免れなかつた。

    検査開始当初は、京都府知事の厳命である。違背者は営業停止処分を受けると云うので、漏れなく検査を受けたが日を経るに従い検査を受けなく共、別状は無い様である事が段々知られるに至つて、急速に受検提出が減少した。

    証紙の貼付 織物会所規則により検査済の織物には悉く証紙を貼付せねばならない。証紙の様式は同則第四条で定められた。

    橋本伝蔵翁の話しに「槇村知事様御立腹非常にて金を返さねば織屋商買なす事相成らずと迄被仰種々と御心配の上西陣織物会所と改称せられ一枚一銭の証紙の収入を以て消却の途を立てられ」云々と記録したものがある。

    此話だけであらんと、織物会所設立の第一義諦、濫製の悪弊を一洗し世人の信用を保全せんが為の目的は羊頭を掲げた事になる。

    橋本翁は織物会所設立当初から、四年間に渉り取締を勤めた事からすると、会所役員の多くが斯様な偏見を以て居たのかも知れない。然すれば粗製濫造防止、産業興発の真諦を理解して居なかつたのであるから、織物の検査なぞ取締役からして既に熱意の有無が疑われる。

    会所規則第四条は前掲通り証紙を三種類に定め、其内赤色正品は検査合格証であるから、一枚壱銭を納入して、原反に貼付する事を何人も納得する。又綿緯茶色証紙も、着尺御召、金襴の如き判然綿緯を使用せる事を表面せるものは異論が無いが、其中に正絹物として高値に捌かんとする者には之は都合が悪い。

    擬色青色証紙は不合格不正品を証明するものであるから、之れに一銭を払つて、其上製造人の氏名標造して貼付し、市販に出す程の阿呆は一人も無い事は確実である。

    次で綿ネル、綿反物即ち経緯糸共綿糸を使用した織物の良否鑑別問題が生じ、「綿織正品、黄色」「綿交、濃茶」「綿織擬色藍色」の証紙を追加した。

    西陣織物の検査を励行するには、綿密なる細則を必要とするが、之を制定した様子はない。此点から見て、前記橋本翁の談話が真実となつて現れて来る事は避けられなかつたし、又最初から証紙を売る事ばかり考えて、織物検査を励行するなど考えなかつたのであれば、明治十四年を待たずして、一人の検査を申出るものもなく、会所の機能が有名無実となるのは当然であつた。


    第七節 同会所員に対する違約罰則

    一、違約金は製品検査を受けない者、証紙を貼用しない織物を売買する者に対し、売却高の全額を織主から会所へ出さしめる。

    二、京都府の免許鑑札を所持せないで、西陣織物の販売する者があれば京都府庁へ上申する。

    三、違約者を見聞した者は会所へ報告すべし。之れは密告の義務を負わしめたものである。

    京都府へ上申すると云つても、御奉行様白洲の一言で入牢が決まる時代でないから、利目が無い。

    密告も役員から一般織屋、仲買商押なべて違約しては効果が無い。又違約金を科しても徴収の方法がない。

    鑑札の下渡しは、織屋及仲買商に対する西陣織物会所強制加入の手段でもあり、営業権に対する資格でもある。所が京都府の下級機関上京区役所(後述)は、地方税を納付すれば、何業に限らず営業免許鑑札を下附したから、新規開業の織物業者は、京都府勧業課発兌の免許鑑札を受けず共織屋を始めることができて、織物会所と関係なく自由に製造販売し得ることになり、京都府内部機関の不統一も会所の運営を無能力にした。


    第八節 西陣織物会所の経理

    同会所の収入 同会所規則第八条「手数料は会所に於て毎月二十五日限り計算取立其金高十分の二を会所の入費に備え残る八分は織工引立資本金として備置漸次盛大ならしむるの方法を設くるに備う」と規定した。其手数料とは証紙一枚金壱銭の収入である。其他に違約金の収入が規定せられてあるが、之れは一銭の収入も無い事は明瞭である。故に此会所は証紙の売上げによる外収入の根拠が無い。

    全西陣織屋の製品全点数に証紙が確実正直に貼付せられたならば、証紙の発兌数と生産数量が一致し、収入額も自ら明瞭に算出できる理窟である。

    右証紙の交付は京都府の睨みの利いた、明治十一年度は金壱万〇百九十八円三十一銭に達し、之を生産数量に換算すれば、壱百万九千八百三十一点となり、生産統計表に比較すると、大体正確に近い数となるから、全西陣織業が殆ど漏なく、製品検査を受けた事になり、好成績であつた。

    次に明治十二年の生産数量は、同織物会所記録により算出すると、壱百六万四千八百二十四点となる、之に対する証紙収入は金壱万六百四十八円二十四銭となることは自明の理であるが、恐らくは、此年度中は検査を受け、証紙を貼付した者は大いに減じたであろうと思われる。

    明治十三年度の西陣織物は、過去に無い好況を呈したが、織物会所の収入は殆ど無くなり、明治十四年一月槇村知事転任と共に、一枚の証紙も出なくなつた。

    同織物会所支出経費 同織物会所規則第八条は証紙収入の十分の二を、会所入費に使用する旨規定して居る。明治十一年度の会所経費を右により算出すると、金二千三十九円となり、人件費、事務費、家屋費、会議費、交際費、京都博覧会協力費、河原町織工場負担費を右金額で賄うとすれば、資力の薄い者では役員が勤まらない。尚此所に注意を要することは証紙代は織屋のみの負担であつて仲買商側は何等の支出責任が無く然も三倍の数の役員が選任せられた事である。

    証紙収入の内織工引立金として積立てるべきものは、明治十一年度分金八千五十九円となる。此金は総て、前章西陣物産会社時代の借入金の償却に充当し、毎月京都府に上納返戻した。此年内の支払額元利合計金七千八十六円〇三銭四厘であつた。

    翌年も引続き上納して、明治十四年三月迄に上納返還の成績は後節で詳細記述する。故に規定せられた織工引立には右証紙収納金は一銭も使用せられて居ない。悉く京都府に吸上げられたのであつた。明治十二年同十三年も、会所規則に遵い、検査を励行すれば、前記上納金を完済して、尚多額の右引立金が蓄積せられた理窟であるが、窮極の責任は織屋の自覚心が足らず、若干仲買商に依存した他力根性にあるものと謂われても致方が無い。


    第九節 西陣織物会所(事務所、織物検査所)

    京都府令は、上京区智恵光院一条上ル橘町に、織物会所を開設すると謂つて、組合とか団体とかを創設するとは謂つて居ないので。西陣織物会所規則を執行する、京都府の下働き機関とも解せられる。一面会員の総会を開催し経理を報告し、役員を選挙するのであるから、之れからすれば西陣織物業者と同仲買商との団体に相違ない。此怪物の正体を決定するのに頭を悩ますより、吾等は之れも西陣織物業の団体即ち組合の一種と決めて本章を編纂したのである。故に斯の橘町七番戸ノ内一号元大観楼は同織物会所の事務所であり織物の検査所と、謂わねばならぬ。

    是大観楼は本書編纂の時は京都市設橘児童小公園となって旧時の建物は無い。同会所当時は西陣最大の席貸料亭で、広い見事な庭園を構えた、木造二階建、総ゆる、多人数の集会に使用せられたが、経営困難休業の際を幸に、此会所に借入れられたものであった。此建物は明治十八年迄次の西陣織物業組合も使用した。


    第十節 西陣織物会所の功績

    一、日本産業界最初の製品検査と証紙の発行

    生産者の団体が、其団体員の生産品の正否を検査鑑別して、其結果を証明する為、一定形容の印章を以て表示し、或は生産者の氏名迄も明示せしめたのは、我国に於て西陣が最初である。

    此発案者が、京都府顧問山本覚馬か、或は明石博高か槇村知事自らであるかは、判然せないが誠に賞讃に価する。其れは爾後全国総ゆる産業組合に範を示し、九十年来同工業屈曲の検査と証紙の発行或は証印によつて、生産品の信用を保持し、他面組合団体の財源たらしめる看板事業となった。

    二、西陣織物の信用回復と生産額の上昇

    イ、明治十年より同十五年迄の西陣織物生産及設備並織物業者数表

    (一)統計表

    年 度生産数量生産金額設備織機台数織物業者数
    明治十年七、四八六、八三七円七、八三九台四、八一二人(戸)
    同十一年一、〇一九、八三一点九、六六三、〇一七円八、〇八一台四、九九五人(戸)
    同十二年一、〇六四、八二一点一〇、一九四、九六四円八、三三七台五、〇一九人(戸)
    同十三年一三、〇三一、三六三円九、二四四台五、二七一人(戸)
    同十四年一〇、八九九、一〇九円八、七〇九台五、〇一三人(戸)
    同十五年七、六三九、五〇二円七、九四三台四、〇三三人(戸)

    [略説]

    1. 生産数量は明治十一年及同十二年度の点数を辛うじて算出し得た、大体実数に近いものと思う。
    2. 生産金額は明治十三年度は明治初年以来の最高額である。翌年から急降下した、理由は後述する。
    3. 設備機台数は、手織機のみで近年使用し出した、バッタン、ハジキ框も区別していない、機合計数は生産額に比例して上下して居る。
    4. 織物業者数は自前、賃業両者の合計である。好景気に向うと先ず賃業者から増加し始めるのが、西陣機業の生態である、本表の時代は賃業者数は自前業者の倍であると見れば間違いなかろう。

    ロ、西陣織物の信用回復

    京都府指令第二百三十号布達は西陣織物業者に対し訓戒を与え、粗製品濫造を矯正し、品質検査を励行して、正否を証明したから、西陣織物の信用が高まった。前述の通り厳正なる検査を行つたとは思えぬが、西陣織屋の精神面に反省を与え、粗製品の防止と進んで品質の改善に貢献したことは間違いなかつた。

    明治十年及同十一年は全織物の検査を受け証紙を貼付した事実を見れば、目に余る不良粗悪品の製造を差控えるのは当然である。又仲買商を役員中に入れて検査の権限を与えた事も良策であつて、織屋が仲買商連中に不良品屋の定評を受けたら生命取りであるから自粛自戒することになつた。而て此傾向を仲買商が噂でなくして、直接実見するから信用回復も早く、自然仮需要も活発になつて来たものであつた。

    西陣織物会所設立の効果は頗る顕著なものがあり、京都府知事に対し大に感謝すべきである。

    ハ、生産額の上昇
    西陣織物生産額は前項統計表の示す通り上昇好成績である。織物会所が検査に着手したのが明治十年十一月一日からであつて翌十一年の生産額は前年度金額より、二百二十万円の巨額を増加し、其翌十二年度は更に金五十余万円の増加を示した。明治十三年度の生産金額は明治九年度の倍額を尚超過するに至つた。尤も明治十四年以後は追年惨胆たる不況が襲来したが、一時的にもせよ好景気を得たことは、織物会所の製品検査による功績も大きな原因である。とは謂え薬の利き目が早過ぎ効験が煇かすぎたには国内の経済情勢が手伝つたからでもあつた。

    二、西陣織物生産額上昇期の国内経済情勢悪化
    明治十年二月十五日西郷隆盛を首領とする薩摩隼人が九州に蜂起して反乱を起した。所謂西南戦争である。同年九月二十四日叛軍鎮定に至る迄七ヵ月全国から軍隊を動員して戦地に輸送した。

    明治維新改革後政府財政基礎も定まらぬ時、莫大な戦争資材調達の為、政府は不換紙幣を発行して、其支払いに充当したから、物価は漸次昂騰を来すに至り、悪性インフレイションの徴候が現れた。

    仲買商は西陣織物の先高を予想して、織物業者に対し注文買付を争うたから、生産数量も増加し、販売価格も騰貴し前表の如き著しい生産増額を示したものであつた。

    要之西南戦争による経済恐慌が西陣織物産額の上昇を現わしたのであるが、何と云つても信用は商買の基礎であるから、西陣織物の粗製濫造品が減少した事実を、仲買商が認めなかつたら、安心して取引せなかつたであろう。されば矢張り信用回復による生産額の上昇に対する西陣織物会所の功績は大に認めねばなるまい。

    明治初年西陣物産会社借入金三万二千両、京都府へ上納金

    イ、上納簿保存―上納額 前章西陣物産会社が京都府より勧業資金の内から借入れた、合計金三万二千両の内、未納残金元利を、西陣織物会所が、前記証紙売立金の内、織工引立金から月々返納した。其記録は「明治十年七月起、上納簿」に明細記帳し保存せられている。

    明治十一年九月から同十四年三月迄月々滞りなく、宜くぞ納めたものである。茲に上納簿全記を掲げたいのであるが、そうもならぬから要点のみを記述する。

    上 納 簿

    元西陣物産会社拝借金残り高

    明治十年十二月改

    一金三百九拾円九拾五銭

    但明治八年十二月別借元高利子月六朱

    右者明治八年十二月ヨリ明治拾拾年拾二月中廿五ヶ月分

    利子金五拾八円六拾四銭弐厘五毛也

    元利合金四百四拾九円五拾九銭弐厘五毛也

    此別口拝借口

    明治十一年一月ヨリ無利足約定之事

    右同断拝借金残り高

    一金弐万四千六拾四円七銭三厘八毛 元高

    但元金三万弐千円明治拾拾年三月迄機別金差引残り金

    「註」以下年額合計要約記載

    項目金額
    明治十一年中納高金四千二百三十一円七十五銭三厘三毛 元金入
    金弐千八百五十四円弐拾八銭七毛 利子
    明治十二年中納高金四千九百六十五円八拾三銭三厘 元金入
    金壱千弐百六拾円五拾壱銭九厘 利子
    明治十三年中納高金四千九百六拾九円四拾六銭五厘 元金入
    金九百拾五円三拾六銭 利子
    明治十四年中納高金九百六拾弐円拾三銭八厘 元金入
    金百七拾弐円五拾六銭壱厘 利子

    元利引金八千九百三拾四円八拾八銭五厘残り高

    外ニ別拝借分

    一金三百九拾円九拾五銭

    右残り高

    合計金九千三百弐拾五円八拾三銭五厘

    明治十四年四月改

    一金九千三百弐拾五円八拾三銭五厘也

    右拝借金残額自今十ヶ年賦上納願済

    右ハ明治十四年後半季分年賦並ニ端金上納


    上納簿の記載は是迄で終つている。

    ロ、京都府より借入金返済上納結末 前項上納簿によれば明治十四年末の借入金残額は金八千八百三十五円也となる。

    京都府へ西陣から納付した元利合計は金弐万八百六拾三円七拾四銭也であるから、利息をも元金に繰入れた場合は残金は三千六百四拾八円九拾弐銭六厘三毛となるから、遂には八千八百三十五円を借倒したのだとの非難は酷である。

    利子は年六朱であるが此時代勧業資金の性質上利息は免除せられてよいと思われる。

    明治十五年以降残金を幾許上納したか不明であるが、恐らくは納付しては居ないようである。同十五年一月七日写真の督促状が発せられ現に保存せられて居る。

    此通知によつて直ちに納付したか、どうかは記録が無い。

    京都府織物伝習所増築、織殿名称復活と西陣の啓発

    前章第八節第八に記述した、河原町二条下ル、角倉屋敷跡に、京都府勧業課が開設した、織物伝習所は、全国各地から伝習生の入所申込相次いで好評嘖々。特に明治天皇の行幸を辱うし、佐倉、井上が仏国より持帰つた織機実演を天覧に供して嘉賞あり。成績頗る良好なるで、新に織工場を増築して明治十一年三月竣工し。平安京の古称を復活して、伝習所を京都府織殿と改称した。

    当時織殿の機械設備は、

    輸入紋揚器一、糸繰機二、緯巻機十二、綾織機十二、平織機二十三、縫取機八、計総設備九十五台

    伝習生、男子二十三人、女子十三人

    雇員織工、男子二十四人、女子二十八人

    全国唯一無比の大規模官設模範工場と称せられた。

    元来京都府織物伝習所の設置は、西陣産業の近代化即ち西洋先進国の機械化を目的とし、之を指導開発せんとしたものであるが故に、以前の西陣物産会社から引続いて、西陣各社肝煎等が交代世話方を命ぜられ。是れにより西陣織屋が、産業の機械化及能率増進の智識を啓発せられた。

    明治十五年林源助等が設立した西陣共進織物会社が、中立売通智恵光院東入元京都府窮民授産所跡に、蒸気動力による織機を据付けて、苦心経営した事も、織殿からの教育によるものであつた。

    織殿は官営により形式にこだわり経費の支出が放漫となり、収支つぐなわぬ為、明治十四年二月、中井三郎兵衛、磯野小右衛門等の申請により、設備一切を払下げ民営としたので西陣織物会所との関係も無くなり、其際織殿教師佐倉常七は佐々木清七工場へ、同井上伊兵衛は伊達弥助工場に招聘せられた。

    国産ジャガード紋織機の普及

    イ、佐倉常七等輸入ジャガード紋織機の模造完成 国産ジャガード紋織機の完成は西陣織物会所の功績ではない。会所役員たる取締役の大部分が仲買商であつて、西陣織物仲買商は取引策には力を入れても、生産設備育成には外方を向く特質があるから、西陣織物会所が積極的に西陣機業の育成事業を行う事などあり得なかつた。

    元来西陣産業革新の目的はジャガード機即空引きの要らぬ機械に夢があつた。故に京都府伝習所の開設も織殿への発展も、ジャガード機の経糸自動開口装置に魅力があつたからである。而て此会所時代に其の模造品が完成し、之れを使用するに至つて西陣の産業機械化の黎明が来たのであるから、事蹟の一つとして記述してよいと思う。

    明治九年春、福井県から伝習生として入所した、村野文治郎が、川端通二条下ル差物大工、荒木小平方に寄宿中、荒木に対し、日本でジャガード機の模造品を拵える事が織物産業上の最大急務である、と話したのが発端であつた。

    荒木は此れを聞いて、試作を希望したものの、現品に就ての智識が無いので、京都府に申請して、伝習所の雇員にして貰い、日々機械の運転操作及構造を研究し、傍ら製作を試みた。機械中木製の部分は自身多年の熟練で、同型品を製作し得たが、金属部分品は鑿と鉋と曲尺のみの差物職の手に負へるものでなく。当時の精密工業であるから川端通りの鋤鍬造りの鍛冶屋では物にならず、工作に頓挫を来した。之を見た村野は福井県庁の山岡次郎に照会して、福井市の機械工場に見本を示して、製造せしめたものを以て、再三失敗の後漸く明治十年九月初て、ジャガード機二百の口及び百の口各壱台を完成し、遂に国産ジャガード紋織機第一号が登場した。

    試験の結果は輸入品に劣らぬ性能を認められたので、荒木は進んで研究改善に努力し、明治十一年春、京都博覧会に出品褒賞を授与せられた。

    当時ジャガード機の輸入は困難であり、従つて、国内では高価でもあつたが、国産機が誕生するに及んで、安価に入手出来るようになつた。

    我国織物産業発達の根本の開拓者は、佐倉、井上の渡仏の功績と荒木の国産ジャガードの模造成功にある。此三人の晩年は必ずしも幸運でなかつた。日本政府も京都府も市も此人々を褒賞し、功績を表彰した事を聞かない。

    ロ、西陣に於けるジャガード紋織機の普及 ジャガード紋織機は、此会所時代には全々普及せなかつた。明治十一年佐々木清七が、国産ジャガード機第一号を購入(現西陣織物館蔵)。同十四年国産ジャガード三百の口を、自家工場に使用し、空引高機より遙かに、優秀性のある事を一般に知らしめる事に努力した為、ぼつぼつ使用し始めた程度である。

    明治六年佐倉常七等から、持帰つた織機の内、バッタン筬框の装置は、西陣従来の機大工でも製作し得たので、織物伝習所の織機を模して製作し、改造設備も容易であつて安価に出来るから、早く普及した。ジャガード機は、設備に相当の資金を要するので、佐々木清七級の資力ある者は別として、弱少業者が大部分を占める西陣では、即時に之を購入し設備するだけの資力が無い。故に西陣織物業者が旧套を脱し得ないのてなくして、資力が早急に切替えする事を拒むのである。然し西陣にも西陣なりに産業革命の波が寄せて来る。機械生産によれば、空引機では対抗し得ない現実が迫つて来るに従い、ジャガード機普及の速度を加え、遂に西陣から空引機の姿が消滅したのは此時から未だ十数年先のであつた。


    第十一節 西陣織物会所の解消

    明治十四年九月から、同十五年一月にかけて、織物会所取締役中、仲買商は全員、病気と称して退役し、後任者を選任せなかつた。

    仲買商は既に織物検査も、証紙貼用も実行せなくなつたのであるから、織物会所存在の意義が無く、仲買商が役員たる必要性を認めないとの考えからであると謂う訳で、無理の無い事である。故に明治十五年一月には、会所の役員組織が崩壊したのであつて、此時から形式上織物会所は機能を停止した。

    然し明治十四年十二月には、京都府へ年賦上納金をして居るし、織屋である取締役は退職して居なく、京都府は依然西陣織物会所の解消を認めて居なかつた。従つて会所の事務所たる旧大観楼は其儘使用して看板も外されなかつたと言い。


    第四章 京都西陣織物業組合

    証紙発兌による収入の残金の有無は不明である。

    西陣織物業者が、新に強力な、全西陣統合団体の結成を、強く要望して行動した件は次章に記述する。

    要するに西陣織物会所は、次章の西陣織物業組合の設立と共に解消し、大観楼事務所も、又金銭その他の什器も共に新組合に引継いだ。

    西陣織物会所は、特別に解散の披露等を行わず、謂うなら風の如く散つたのである。然し其事蹟は偉大であつた。


    第一節 西陣織物業組合設立に至る迄の情勢

    明治十三年より同二十三年迄の西陣織物生産及設備並織物業者数表

    一、統計表

    年度生産数量生産金額設備織機台数織物業者数
    明治十三年一三、〇三一、三六三円九、二四四台五、二七一人(戸)
    同十四年一〇、八九九、一〇九円八、七〇九台五、〇一三人(戸)
    同十五年七、六三九、五〇二円七、九四三台四、〇三三人(戸)
    同十六年四、八〇一、九三四円六、九九六台三、一六四人(戸)
    同十七年四、八六六、九三七円三、四六七台一、七四九人(戸)
    同十八年二、三一八、八四二円三、三三六台一、六四八人(戸)
    同十九年七一〇、四五〇点二、八九七、八八七円三、六一五台一、六二五人(戸)
    同二十年一、〇四〇、五一一点四、六九七、六二一円五、七四七台二、八六八人(戸)
    同二十一年一、一九三、一九四点四、〇七六、一三〇円五、七七三台二、一五八人(戸)
    同二十二年一、二四四、五八八点四、〇一六、〇四八円五、九一二台二、一七五人(戸)
    同二十三年一、五八六、五五九点五、五二六、四七七円五、六三一台二、〇七二人(戸)

    二、略説

    一、前章に明治十五年迄の統計表を掲げたが、都合上再録する。

    一、生産数量中昭和十八年以前の生産点数を表わしたものを発見しない。

    一、生産金額は明治十八年の生産額が明治十三年の数の五分の一に減少して居る。不況の擂鉢底に当る。

    一、織物業者数は賃業を含めた数であるから、明治十七、十八、十九年の同業者減少数は不況を物語るにしても極端過ぎる現象である。

    一、設備機台数は手織機のみの表である。蒸気力による動力織機も設備せられて居たが極少数である。此時代はジャガード機を使用する者は稀であるから、紋織紋襦子は空引機である。


    西陣織物史上最大の不景気と、其原因及新製品の研究熱 明治十年以降、西陣織物の景気が上昇して、秋眉を開いたのも束の間。同十五年からの景気は、地滑りにも似た暴落であつて、明治十八年は、明治、大正年代を通じて最悪の不況であつた。 斯の不景気は、西陣のみでなく、全国経済界の恐慌によるものであつて、西南戦争後悪性インフレイションが、遂に之を、瀕死の症状に、陥らしめたものである。 西南戦争後、政府の、財政政策が根本的に誤まつた。例えば輸入超過による、正貨の流出から来る、金利の昂騰を阻止する為には、産業の振興より外なしとして、国内の事業熱を煽り、其為に要する資金の供給に対し、紙幣を無制限に濫発し、国庫準備金も放出したから、経済界の不安が遂に爆発して、紙幣の価値は半減し、公債は下落し、銀行の倒産が続出した。京都市経済界も例外であろう筈なく、深刻な打撃を被り、遂には西陣織物仲買商の取引停止、分産、倒産、閉店などが相次いで生じた。例により、其皺寄せは悉く、西陣織物業に被さり、売渡先は潰れる、製品は捌けぬとなつて、日頃蓄財資力なき西陣の小企業者は、忽ちに息の根を止められるに至つた。 斯様な悲惨な、西陣織業の衰弱期にあつても、有名、有力織物業者は、一歩も退かなかつた。永井喜七、神供源助、小谷利兵衛、服部六左衛門、永尾徳兵衛、吉田音吉、長谷川李次郎、佐々木清七、伊達弥助、鳥居喜兵衛等は洋式機械の研究、時代の変遷による需要に適合する製品の考案、綿ネル織物の研究等、着々成功を齎して、西陣産業の復興に専念した。

    京都西陣織物八社聯合協議会 前章西陣織物会所取締役中の仲買商は、明治十五年一月二十四日全員病気と称して悉く退役した。原因は、有史以来の不景気襲来によるものであつて、後任者選任どころの騒ぎではなかつた。織物会所は設立の根本たる役員組織が崩壊し、事実上解散したも同様であるが、織屋は全西陣統合の団体として同会所存続の意向を持ち、旧大観楼の組合事務所(会館)は、織物会所の名と共に存続せしめて居た。又織屋方の取締役は退役して居なく、八社の肝煎は、天鵞絨社の吉田善助が代表して、西陣織物会所の名称で織屋のみの新団体結成を企図し、八社肝煎が集会協議の結果、京都西陣織物八社聯合盟約協議会綱領を作成した。此協議会を開催して、綱領案の印刷が出来たのは、翌十六年の三、四月頃かと思われる。 右綱領は即ち、新西陣織物会規則とする積りのものであつて、全文百二十カ条に及び、頗る新珍語を以て表現して居る。例えば、右会所役員の長を管長、其他を主幹と云い、八社の肝煎は新しく社長、副社長と呼ぶ。即紋織社長となる如き改革を為して居て、大いに興味をそそるものがある。左に綱領の緒言と第一編大意と題するものを記載して全般を伺つて貰うことにする。尤も此計画は、次の第四項の京都府達により、不発に終つた。

    京都西陣織物八社聯合協議会案

    緒言

    物産ハ国家ノ基礎方今ノ急務ナリ若シ其衰頽スレバ何ヲ以テカ民財国貨共ニ富強ヲ致サン哉夫レ我カ京都ノ如キ古来連綿西陣織物ノ一大物産有リ以為レバ、車駕東行ヨリ以来京都人民猶依然トシテ栄富ヲ保スルガ如キ西陣物産ノ有レハナリ而モ我日本ノ域内ニシテ物産ノ名誉ハ独リ我ガ西陣織物ニ止マルカ然ルニ大政維新ノ後日ニ月ニ蕃殖シ稍濫粗ノ物品ヲ製織シ奸ヲ恣ニシ一己ノ利ヲ貪リ織産工業ノ情質ヲ一変シ物産ノ盛路ヲ塞ケリ該弊害ヲ洗浄シ流転ヲ担保セン為メ夙ニ織物会所ヲ設ケ聯合一般盟約以テ検査取締ノ方法ヲ施行セシニ方法ノ不充分ナル力将タ時勢ノ然ラシムル処カ殆ト解網ノ弊徴ヲ顕出セリ方今ノ有志者夫レ之ヲ慨セザラン哉果シテ府庁長官ノ親シク懇諭アルニ相遇フテ甫メテ此弊習ヲ今日ニ矯正セスンハ非サルヿヲ覚知シ既ニ己ニ織工八社聯合会ヲ開キ協同商議シテー大沿革以テ良結果ヲ為サント欲ス請フ吾人志操ヲ之ニ傾ケ強テ一己ノ為メニ公衆ノ栄富ヲ遮リ妄リニ小利ニ惑フヿヲ息メテ栄富ヲ共等ニ悠久ニ維持センヿヲ楽フト云爾。

    京都西陣織物八社聯合協議会案

    第一編

    大意 三章

    第一章 我カ西陣織工八社聯合協力ヲ以テ大ニ工ヲ起シ業ヲ振ヒ物産ヲ拡充シ地方ヲ繁栄ナラシメ相互ノ栄富ヲ共保セントス

    第二章 我カ聯合織工栄富ヲ共保セン為メ盟約ヲ定メ規程ヲ設ケ其精功美善ハ以テ之ヲ顕挙シ我ヵ聯合社会ノ亀鑑ニ備ヘ其放惰奸醜ハ以テ之ヲ屏収シ我カ聯合社会ノ業務風俗ヲ矯正ス

    第三章 我が聯合社会ニ於ケルモ流転盛衰ニ於テハ克ク一人ノ力ヲ以テ衛保スルニ止ル可カラサルヿヲ覚知ス然リ而シテ之ニ一大協力ヲ団結シ巨万ノ資本金ヲ蓄積シ之ヲ興業ノ基立ニ充テ之レヲ共救ノ資ニ備フ。

    京都府布達第十九号

    イ、同布達全文

    明治十六年四月十日京都府布達第十九号

    商工業者組合設立ノ件

    上下京区内ニ住居又ハ寄留シ別紙種目ノ商工業ヲ営ムモノハ申合セ左ノ各項ニ随ヒ組合ヲ設ケ便宜規約ヲ定メ本年六月三十日限リ開申当庁ノ認可ヲ受クベシ
    爾後之ヲ変換加除スルトキハ其都度開申認可ヲ受クヘシ
    此旨上下京区一般ヘ布達候事
    但組合名称及ビ役員ノ変換組合人員増減ニ限リ名称並ニ役員ノ変換ハ其都度人員ノ増減ハ毎年一月中前年分届出ベシ

    一、組合名称
    一、組合役員並ニ選挙法及其職務権限
    一、組合役員及組合員姓名居所
    一、組合ニ係ル経費収支方法
    一、組合集議方法

    別紙

    一、商業  
    西陣織物商、丹後縮緬類、関東織物商(瓦商、雇入請宿旅館等四十九種商を列挙す)

    一、工業  
    織物工業、藍染工業(以下大工、左官、画工迄二十五種工ヲ列記)

    ロ、同布達に基く西陣織物業者組合設立の動向と、組合設立発起人 京都府は初めて布達公文に「組合」と云う名称を使用して、各業者団体の設立を命じたことは、賞讃に価するものであるが、京都市商工業の実情をば顧慮することなく、机上の短見によつて、唯一片の御布令で、一斉に、組合が創立せられるものと思つたのは間違いであつた。 此時代、大工、屋根屋、手伝職人に、組合を結成せよと謂つても容易に出来るものでなく、画家を職工扱いにしても承知するものではない。僅か二ヵ月の間に、組合を設立せよと命じても、組合其ものの必要を感じて居ないのであるから、設立されよう筈がない。故に同年六月二十七日、「京都府達甲第六十三号、商工業組合設立延期の件」により「本年七月三十一日迄延期」の旨を達したが、其れでも中々まとまらぬので。翌十七年九月三十日甲第九十四号京都府布達は、前記京都府布達第十九号により設立した組合へは、其同業者は必ず加入すべき旨の、強制組合加入を命令し、換言せば同組合の特権を認めた。其れでも尚組合を創立する商工業者は極く少数であつて、右布達の成果は上らなかつた。 其中に在つて、西陣織物業者は組合の重要性を認識し、過去の経験もあり、組合に対する智識も、他の業者より遙かに進歩して居て、既に前記八社協議会綱領の如き、難文規約の草案迄作成して居たことであり、全西陣業者中、新組合結成に異議を唱える者は無かつた。 明治十六年七月、山田泰造、時岡利七、鳥居喜兵衛、小林伊之助、大木長七郎等が、京都府勧業課から、前項布達による組合設立勧奨を受け、即時西陣織物同業組合を設立したと、伝えられている。此組合の規約も、設立経緯も記録に残されていない。唯旧大観楼を事務所として使用し、集合協議した事のみが残されて居るのは、此組合を設立したと云つても、翌年の十一月には農商務省令同業組合準則が公布せられたから、直ちに組合規則を改正し、同時に組合名も変更して、殆ど新組合設立と同様の姿となつたものであると思われる。唯茲に特筆すべきは前記発起人中の山田泰蔵は三十九歳、大木長七郎、三十五歳、時岡利七、二十九歳等、西陣企業界にも、壮年気鋭の者が此組合設立に於て頭角を現して来たことである。

    農商務省令第三十七号同業組合準則に基く京都府布達

    イ、省令同業組合準則の沿革

    明治三年頃より、品川弥二郎、平田東助等が、フランスの産業組合を調査研究し、明治十五年には独逸に於ける、産業組合の研究も遂げるに至り、此制度を我国にも採用育成する事が必要であると共に、之に関する法律を制定し、早急に公布すべきである旨を、政府に建言力説した。 中央政府も亦、産業開発上、同業者団体結成の必要性を認めるに至り、先ず同業組合準則を発布して、其原則を定め、各地方庁を指導した次第であつた。

    ロ、農商務省令同業組合準則

    明治十七年十一月農商務省令第三十七号

    同業組合準則

    同業者組合ヲ結ビ規約ヲ定メ営業上福利ヲ増進シ濫悪ノ弊害ヲ矯正スルヲ図ル者不勘候処往々其目的ヲ達スルコト能ハサル趣ニ付今般同業組合準則相定候条向後組合ヲ設ケ規約ヲ作り認可ヲ請フ者アルトキハ此準則ニ基ツキ可取扱此旨相達候事

    準則本文は、次に記する、京都府布達本文と、一句一語の相違も無いから、省略する。

    ハ、京都府布達同業組合準則 明治十八年四月十三日京都府布達第五十号を以て、同業組合準則を発布した。

    同業組合準則左ノ通相定候条此旨布達候事
    但明治十六年四月当庁甲第十九号布達上下京区一般ニ基ツキ組合ノ認可ヲ受ケシ分ニテ此準則ニ抵触スルモノハ来ル六月三十日限更正又ハ追加規約ヲ作リ更ニ開申認可ヲ請フヘシ

    同業組合準則

    第一条 農工商ノ業ニ従事スル者ニシテ同業者或ハ其営業上ノ利害ヲ共ニスル者組合ヲ設ケントスルトキハ適宜ニ地区ヲ定メ其地区内同業者四分ノ三以上ノ同意ヲ以て規約ヲ作リ当庁ノ認可ヲ請フヘシ

    第二条 同業組合ハ同盟中営業上ノ弊害ヲ矯メ其利益ヲ図ルヲ以テ目的ト為スヘシ

    第三条 同業組合ノ規約ニ掲クヘキ事項ハ左ノ如シ  
    第一項 組合ヲ組織スル業名及組合ノ名称  
    第二項 組合ノ地区及事務所ノ位置  
    第三項 目的及方法  
    第四項 役員ノ選挙法及権限  
    第五項 会議ニ関スル規程  
    第六項 加入者及退去者ニ関スル規程  
    第七項 費用ノ徴収及賦課法  
    第八項 違約者処分ノ方法  
    右ノ外組合ニ於テ必要トナス事項

    第四条 組合ノ設ケアル地区内ニ於テ組合員ト同業ヲ営ム者ハ其組合ニ加入スヘシ  
    但事業ノ規模及趣向ヲ異ニスルカ為メ加盟シ難キカ或ハ加盟ヲ拒ムヘキ事由アルトキハ当庁ヘ申出其認定ヲ請フヘシ

    第五条 同業組合ハ同業組合ノ資格ヲ以テ営利事業ヲ為スコトヲ得ス

    第六条 同業組合ハ其一年間ニ経費予算ヲ立テ後クモ三ケ月前ニ当庁ニ報告スヘシ

    第七条 同業組合ハ総テ其事蹟及費用決算表ヲ毎年一月中当庁ニ報告スヘシ

    第八条 同業組合役員ノ苗名及住所ハ当庁ヘ報告スヘシ、其変換アル時モ亦同シ

    第九条 規約ヲ改正スルトキハ更ニ当庁ノ認可ヲ請フヘシ

    第十条 分立又ハ合併スル時ハ更ニ規約ヲ作リ当庁ノ認可ヲ請フヘシ

    第十一条 同業組合ニ於テ聯合会ヲ設ケ其規約ヲ作ルトキハ当庁ノ認可ヲ請フヘシ  但其聯合他府県ニ渉ルトキハ開会地管轄庁ヲ経由シテ農商務省ノ認可ヲ請フヘシ

    二、京都府布達第十九号と省令第三十七号との矛盾調整

    前記農商務省令の発布が、明治十七年十一月であつて、京都府布達同業組合準則の公布が、翌年四月であるから、其間に五カ月を要して居る。然も省令と京都府布達は全文、そつくり同一である。如何に官僚式、繁文縟礼時代でも、余りにも悠長すぎる。其理由は、京都府布達第十九号と此農商務省令との、理想と現実の矛盾を、調整せねばならなかつたに因るものであると思われる。

    京都府布達は遮二無二、組合を結成せしめんとする強権命令であつた。省令は之と反対に地区内同業者四分ノ三の同意を要する。即ち仏独の産業組合の歴史と、組合設立の精神を参酌し、民主的、自由思想を基調として居る。京都府布達実施の実情から見れば、強制組合設立命令を出しても中々設立出来ぬものが、同業者四分ノ三の同意を得ねば、設立を認められないような組合が、出来よう筈が無いと思われるが、省令同業組合準則は、当時としては、民衆の意見を尊重した進歩的な規定であつて、即ちイデオロギーが新しいと謂つた具合である。兎も角既に省令が公布せられたのであるから京都府布達第十九号の強制組合設立命令は、其効力を失つたのである。故に再三期日を延期して迄組合の設立を奨励した京都府は鼻先を折られた形となり、役所の威厳を損ずる事夥しく、此間の調整に時日を要したものと思われる。推理を逞しくするようであるが、そうとしか思われないし、事実、京都府布達準則は、曩の布達第十九号を廃止せぬ儘で公布した如き体裁にして居る。

    明治以来、西陣織物業者は会社と称し、会所と称して、産業団体を結成した。其れは京都府知事様の御声がかりにより仰せ出されたものであつた、とは云え、其れにより西陣機業の指導者達も一般織物業者も、組合結成に対する、訓練は出来ている。殊に政府の法律を基本としての組合設立とあれば、頗る有難いものと考え、従来の組合内部機構の組織に立脚して、同業者四分ノ三の同意を求める事は至極容易であつた。

  • 西陣織物館記(明治八年~十年、西陣織物会所(1))

    西陣織物館記(明治八年~十年、西陣織物会所(1))

    第三章 西陣織物会所

    第一節 西陣織物会所設立原由

    京都府布令第二百三十号西陣織物会所設立命令

    明治十年九月八日、京都府布令第二百三十号を以て、織物会所設立と、其趣旨を布達した。

    第二百三十号

    当府下西陣織物之義、古来連綿シ名誉海内=冠タリ維新後益盛ンニ行ハレ随テ機数で又往年二倍数セシニ乗シ 一時ノ流行=甘シ眼前ノ小利二迷ヒ争テ粗悪ノ品ヲ濫製シミツキニ至テハ擬色綿糸入等ノ品ヲ以テ正品二相混 世人ヲ眩惑シ其為正品ノ名誉ヲ失貶セシメ終二物品モ不揃ニテ土地衰微=陥り今日の景況或へ糊ロヲ凌兼侯 輩不少嘆ク可キ事也依繳工及仲買商等衆議,上取締,為メ上京八区智恵光院一条上ル橋町二織物会所ヲ開設 シ品物ヲ検査シ濫製ノ悪弊ヲ一洗シ世人ノ信用ヲ保全センガ為メ製品ニ証紙貼用ノ方法ヲ設ヶ西陣織之名称ヲ 以テ織物販売スル諸織工及仲買共へへ一般免許鑑札ヲ下渡尚自今新営ノ者共ニ於テモ都テ西陣一同協議ノ件々 相共々確守侯樣厚豪保護度旨連名ヲ以テ願出侯ニ付聞届去ル七月十五日ョリ別紙規則書之通施行申付候条其旨 可相心得事

    但本文之通施行中付侯上へ来心十一月一日以後無証紙ノ品へ不正之品ト見微シ規則中第六条之通り可取計儀二付兼テ商家二買置侯品共十月三十一日限検査ヲ受証紙貼用可致事

    右之趣管内無洩相達者也

    明治十年九月八日

    京都府知事 槇村正直

    右布告の通り、西陣織物の粗製濫造を防止して、信用を回復する為、有名無実となっている西陣物産会社を廃して、西陣織物会所と称する組合の開設命令と共に、製品検査、証紙貼用、職工及仲買商の免許制度実施を申付 たものである。

    西陣織物会所開設命令布達の理由

    明治元、二年頃に於ける、西陣織物の前途に対する心配も、幸に杞憂とな つて、千年もの以前から拘束せられた、庶民の服装の覇絆が解放せられ、着装、色彩の自由を得ると共に、時代 の潮流による、婦女の外出交際面が広くなった事から、外出衣裳の需要が増加し、流行が生じた事により、生産及販売面が広くなり活況を呈し、殊に帯地、着尺御召、繻子の需要は、前途に大きな光明を生ずるに至つた。 製品の取引が旺盛になると、粗製濫造品が現れるのが西陣のみでなく、日本産業の宿弊と云われるが、当時の西陣には其れが特に劇しかったようである。

    例ば正刷物と称して縮緯を使用したり、製品に金属粉をなすり付けて、重量を加えたり、尺足らずの庇物混入、退色脱色する物、当初から使用に堪えぬ物さえあって、明治七、八年頃には、西陣織物取引には油断がならぬと、信用が失墜して来たので、優良品の製造に努力せる者は、頗る迷惑を感じ、仲買商は一律に仕入の警戒をすると共に、品質鑑別に苦心をせねばならない状態となった。尤も仲買商も段々で中には織屋に巧妙な粗製品の製造を注文する者も無いでもなかったが。其為西陣織物の生産と売行に顕著な悪影響が現れて来た。

    明治四年度より同九年迄の西陣織物生産及設備並に織物業者数表

    イ、統計表

    同9年同8年同7年同6年同5年明治4年年度
    生産数量
    6,876,969円6,894,767円7,468,637円7,257,650円7,334,046円7,486,839円生産金額
    7,592台6,922台7,839台7,753台7,853台7,839台設備織機台数
    4,661人3,164人4,812人4,763人4,764人4,812人織物業者数

    ロ、略説

    (一)本表中生産数量は、記録が無い、後年の本表は生産数量の単位を点として表わして居る、西陣は他産地と 黒り、多種多様の銘柄を生産する土地であるから、点数のみで表示しては事実に相違するものがある、例 ば結子織巾一尺七寸長サ三丈六尺も一点。骰子織巾二尺三寸長サ一丈四尺も一点。極端になると、一尺六 寸角手巾帛紗も一点。であるから、此時代は記録として数量を計上し得なかったものと思われる。

    (二)生産金額は正確に近いと思ってよい、当時の単価を表したものは保存して居ないが、明治二十六年の相場表から推算すると、錦織、中二尺三寸長サ三丈物補檔或は女帯地用が、中品六円位。繻子織、中二尺三寸 長サ一丈四尺女帯地、一円五十銭位。であつた。

    此時代の生産金額は織屋の売値と統計表とに殆ど開きが無いから、僅少の生産金額の高低も、織屋の懐具 合に、深刻な影響を与え。明治八年九年の生産額減少に大狼敗したのであるが、明治十年には回復の徴候 が現れた。

    自設備台数は、手織機のみの数であつて、自前業者の設備は、平均台数三台。賃業者は資力薄く一台か稀に 二台も持つ者は、自前業者とならんとする勤勉家であった。

    高機と繻子機と二枚機とは、装置に格段の相違があり、従業者も高機は多人数を要す。

    回織物業者数は自前、賃業両者合算であるが、自前業者数を賃業者数の三分一と見れば、一六〇〇人となる (戸としても宜い)。

    明治八年の織物業者数の減少が、一七○○人となつて居るにも拘わらず、設備台数の減少率が少ないの は。高機は空引であるから、織機一台に付必ず、織手一人空引一人手伝一人以上を要する。之等の熟練者は徒弟、奉公人、家族同様の者も多く、手間取りでも好い技術者は手放したら補充が困難であるから、少々位の不景気では設備を廃止することは出来ない。又粗製濫造の弊害が生じたと云つても。高機織屋の信用は絶対不動であつて、寧ろ優秀品は争って引取られたと思われる。従って此表の織物業者の減少の主たるものは、賃業者か新規営業者であつて、経験の浅い、不良織屋であつたと謂える。

    第二節 西陣織物会所規則

    前節布告中に「別紙規則書之通施行申付候」とある。

    西陣織物会所規則(全文)

    一、西陣織物ヲ盛大二販売セント欲セバ旧来ノ弊風一洗シ品位精良ニシ無益ノ費ヲ省キ価ヲ廉ニシ広ク通 商ノ道ヲ開カン為メ職工並二仲買商業会協議,上西陣織物会社設立シ該物品ヲ検査シ精祖ヲ判別シテ証紙ヲ貼用シテ以テ向来製品ノ名誉挽回シ公益ヲ計ランヿヲ要シ肢会所ニ於テ施行スル条款左ノ如シ

    第壱条
    一織物並仲買商ニ於テ濫製ノ物品売買致ササル為メ会所ニ於テ検査ノ上織品ニハ悉ク証紙ヲ貼用シテ他ノ模擬贋製スルモノト判然識別セシムベシ但証紙ハ会所ニ於テ印刷スベシ

    第二条
    一製品ニ精粗アリ価二高下アルト雖モ唯適当ノ価ヲ以テ売却シ欺罔眩惑セサルヲ要ス故二正品へ正品綿緯ハ綿緯擬色ハ擬色タルノ証紙ヲ糊貼シ之ヲ発売スヘシ

    第三条
    一都テ織上タル品ハ何ニ不依先ツ製造人ノ住所姓名ヲ記シタル標紙糊貼シ実印ヲ以テ消印サスヘシ尤反物類ハ壱度帯地類ハ壱条毎ニ貼用シ弐反続ニハ弐葉ヲ貼用シ悉皆会所ヘ出サス可シ
    但標紙ノ恰好印影等ハ織物製造人ノ適宜タルヘシ

    第四条
    一会所二差出タル諸織物検査シタル上ハ左ノ図ノ如キ三色ノ証紙ヲ貼用シ正品擬色綿線ノ区別ヲ判然タラシム但此証紙ハ製造人姓名標紙ノ傍ニ湖貼シ且消印ス可シ(左ノ図証紙ハ本章第六節ニ掲出)

    第五条
    一会所ニ於テ証紙貼用ニッキ検査手数料トシテ証紙一葉金壱銭ノ割ヲ以テ収入ス可シ

    第六条
    一製品検査ヲ不受又ハ証紙ヲ貼用セスシテ織主ヨリ発売スル者アルニ於テハ違約金トシテ其売却金高ヲ売主ヨリ会所へ出サシムへシ又時宜ニ寄リ公裁ヲ仰クヿモアルベシ

    第七条
    一会所ノ証紙貼用セサル物品売買イタス者ヲ見聞セバ其趣会所へ報知スベシ会所ニ於テハ速ニコレヲ第六条就テ処分スベシ

    第八条
    一手数料ハ会所ニ於テ每月二十五日限り計算取立其金高十分ノ二ヲ会所ノ入費ニ側へ残ル八分へ織工引立資本金トシテ備置漸次盛大ナラシムルノ方法ヲ設クルニ備フ

    第九条
    一当会所役員分職

    総取締役壱人
    会所ヲ括シ証紙ノ製造会計其外庶務ヲ掌ル

    取締役八人
    会計へ出頭シ諸製品ヲ査調シ証紙発兌ヲ取扱ヒ濫造品製出セサルヲ注意シ且金銀ノ出納ヲ扱フ

    筆者二人
    此会所ニ関スル諸記録ヲ掌ル

    右役員ハ各其職務ニ対シ会所ニ於テ定メタル給料ヲ受収スヘシ
    但其給料へ現業着手ノ上判定スヘシ

    第拾条
    一会所役員ハ織工及ヒ仲買中ヨリ一同投票ヲ以テ取締役九名ヲ撰挙シ其同僚中ニ於テ投票ヲ以テ総取締一名ヲ撰任スヘシ

    第十一条
    一役員在職年限ハ総取締ハ一ヶ年取締ハ弐ヶ年ヲ以テ一期ト為スヘシ

    但衆望ニ由リテハ重年セシムルヿアルヘシ

    第十二条
    一役員撰挙ノ投票ハ会所ニ於テ取集メ封ノ儘勧業所ヘ差出シ府庁ノ稟議ヲ歴テ就職スヘシ

    第十三条
    一取締役以下ノ役員或ハ雇入人等ハ取締役衆議ヲ以テ之ヲ撰挙スヘシ

    第十四条
    一每年取締役撰挙集会二於テ其人員ノ半ヲ新任其順次旧員交代セシム可シ初年奉職セン人員ノ半ハ壱ヶ年間又ハ残員ハ弐ヶ年在職タルヘシ

    第十五条
    一織工及仲買共総集会ハ毎年一月十五日七月十五日正午十二時ヨリ午后六時迄会所ニ於テ之ヲ執行シ半ヶ年間ノ諸計算帳簿ノ出納ヲ示シ役員交代及ヒ諸般ノ事務ヲ論定スヘシ其他協議スへキ事件有之臨時集会ヲ開クヿアルヘシ右臨時集会ヲ開クニ当リテハ其期日時限及ヒ議事ノ大意ヲ記シテ十日已前二取締役ヨリ報知スヘシ

    第十六条
    一 御免許鑑札所持セスシテ西陣ノ織物ニ模擬販売スル者アル時ハ速ニ之ヲ府庁へ上申スヘシ

    右之通相定ムルト雖モ実地施行ノ上其利害得失ヲ審ニシ之ヲ増減加除スルヿアルヘシ尤モ織工並仲買協議ノ上府庁ニ上請スヘシ

    明治十年六月十五日

    西陣織物会所

    第三節 会所員と会所組織機構

    会所員 

    会所員とは後年の組合員であるが、京都府布令第二三〇号中に「西陣織ノ名称ヲ以テ織物販売スル諸織工及其仲買共へハ一般免許鑑札ヲ下渡」と命じて居て、此鑑札を下渡された者のみが、会所員たる資格を有する事になる。

    織工とは織物業者であつて、此鑑札を下渡された者は一、九六六人である、其外に鑑札を貰えない賃業者が二、 八四六人あつた訳で、之等の者は織物販売の資格が無かった。

    仲買商で右鑑札の下渡しを受けた者は二三一人であつて会所員である。

    織物業者たる会所員の組織機構

    イ、西陣織業八社

    西陣織物会所規則前文に「織工ト仲買商衆会協議ノ上西陣織物会所設立シ」とあつて此両者が西陣織物業は、八社を設けて分属せしめ。仲買商は五組を編成せしめた事は、規約中には無いが、会所の下部組織として、会所万般の要務を処理した事になつて居る。先ず本項は織業八社に付いて記する。

    西陣物産会社は、織工を十八社に分割所属せしめた為組織が複雑になり、各社相互間と織物業者の所属が重複して円満に仕事が行われなかったので今回は之れを八社に大別した。即ち

    紋織社。生紋社。羽二重社。繻子社。縮緬社。博多社。天驚被社。木綿社。 であって各社三名の肝煎を選任し、諸般の事務を斡旋せしめた。

    口、西陣織物業申合条約書 

    翌十一年九月、前項八社が、西陣織物業申合条約書を作成して、会所設立の目的に添うべきことを誓約し。此条約書を木版印刷、掛額として各戸に掲出せしめ。又各社は其集会所に、社名を専門品種織物を以て製作し、看板額を造って掲出した。

    西陣織物業申合条約書

    西陣織物業取締ノ為メ織物仲買商ト合併シ会所設立相成候上者社中各家二於テモ相互ニ実意ヲ以交際シ隔意ナカランガ為メ一同申合せ条約スルヿ左ノ如シ

    第一条
    一当社中之儀ハ織物製造ヲ業トナス故ニ社中一同精々良品ヲ製出シ物産ヲ盛大ニシ西陣一般ノ繁栄ヲ計ルベシ
    附リ一日ノ利ヲ得ンカ為粗悪濫製品又欠幅及短尺等決テ製出致スマシクヿ

    第二条
    一取締上ニ関係ノ事件ニ付会所取締役及肝煎皿等ヨリ注意之レアル儀一切違背致スマシクヿ

    第三条
    一売買上ニ付不当ノ損失相掛侯カ又ハ不人情ノ引合等致ス仁之レアルニ於テハ其旨社中へ廻達シ向後社中一同堅ク取引致スマシクヿ

    第四条
    一戸主タル者授業弟子へ織業研究致シ侯様精々注意致スへクヿ

    第五条
    一社中各家授業弟子年期ヲ定メ雇入ノ者期限中不埒ノ儀之アリ暇遣シ侯カ或へ自儘ニ退出致シ侯者之レアル節ハ迅速肝煎へ届ケ出ベシ

    第六条
    一肝煎役ニ於テへ前第五条ノ始末届出候へバ迅速社中一統へ廻達致スヘシ
    附リ社中各家ニ於テへ本条ノ趣肝煎ヨリ廻達之レアル上ハ其暇出シ侯者社中一統決テ雇入致スマシク且又廻達以前心附カズシテ雇入之レアルト雖モ右廻達之レフラバ速ニ暇出スベシ

    第七条
    一織工人雇入ノ儀御鑑札所持之レナキ者並二前雇入主ハ示談之レナク雇入侯儀決テ致スマジクヿ
    附り出機賃機ノ儀モ同様タルベシ

    第八条
    一織物営業致度者ハ社中ニテ保証人ヲ依頼シ連印ヲ以肝煎へ申出ベシ

    第九条
    一肝煎役二於テへ前第八条ノ趣頼出候へバ迅速社中へ廻達シ一同協議ノ上願書へ奥印シ会所へ差出スべシ

    第十条
    一社中集会ノ節肝煎ヨリ通知ノ時刻遅参致スマシクヿ
    但シ拠ナキ事故之レアラバ前以肝煎へ断書ヲ出スべシ若シ断ナク遅参侯へバ違約金トシテ弐拾五銭出金スへシ
    附り本文但シ書違約金ハ会所へ差出シ織工引立資本金ノ内へ収加スべシ

    第十一条
    一前条ノ確定ヲ堅守スヘクハ勿論若シ違背スル等ノヿアラバ協議ノ上違約金三円ヲ出サシメ社中除名スヘシ
    附リ違約金ハ前同断資本金ノ内へ収加スヘシ

    右之条々社中一統誓約如件

    明治十一年九月

    西陣織物八社

    • ※遅参(遅刻)についての罰則が異様に厳しいのは、昔の京都には「京都時間」と呼ばれる風習があって、京都人全般としてよく遅刻していたらしい。今はそんなこともないから、第二次大戦のあたりで風紀が改まったのだと思う。

    ハ、織業八社申合規則

    前項織物業申合条約書は、会所規則の織物業側細則の如きものであつて、斯様な申合せは、中々実行せられなかつたと見えて、明治十年以降生産数量が上昇し、織屋数が増加すると共に、織手の引 抜き争奪等の弊害が生じ、明治十三年七月織業八社申合規則を制定して、これが防止を協定した。

    織業八社申合規則

    西陣織業ヲ大別シテ五部トナシ第一ハ織品ノ地合及ビ模様柄色等ヲ勘考シ原糸ヲ買入レ之ヲ諸職工へ分配シ製造セシムル者或ハ一己ニテ製出スル者ヲ称シテ織元ト云フ
    其二ハ織元ヨリ原糸ヲ預り其注文に応シ之ヲ製造シ其織賃ヲ請フ者ヲ称シテ出機ト云フ
    其三ハ織元或ハ仲買ヨリ原糸ヲ受取り製造品ト交換シテ各代価ヲ計算シ其差額ヲ請フ者ヲ称シテ仕入機ト云フ
    其四ハ己ニ機械ヲ持タス織元へ通稼シテ其織質ヲ請フ者ヲ称シテ織工人ト云フ
    其五ハ幼少ヨリ年期ヲ定メ織元ノ家ニ入リ織業ヲ伝習スル者ヲ称シテ受業人ト云フ
    然ルニ此織業ニ於テ各種々ノ弊習アリト雖モ其一ニヲ挙テ謂ンニ仮令ハ織元ナル者他ノ織元ニ予テ雇入レ置ク織工人或ハ受業人ヲ其雇主又ハ教 授者へ一応ノ問答モナク密ニ吾家へ雇入レ他ノ業ヲ妨ケ一時ノ小利ヲ得ントスル者ナシト謂ハサルヲ得ス又出機或ハ仕入機ナル者甲ノ織元ヨリ原糸ヲ受取り之ヲ製造シテ乙ノ織元或ハ他ノ仲買へ売渡ス夫カ為メ甲ノ織元ニ於テ若干ノ損失ヲ醸ス等ノ儀ナキニ非ス又織工人ナル者予テ甲ノ織元ニ雇レ織質ヲ前借シ其織物成功セスシテ双乙ノ織元へ雇レ同ク織賃ヲ前借シ唯前借金ヲ以テ飲食ニ耽り織業ヲ惰ル等ノ者尠ナカラス夫ガ為メ織元ニ於テ損害ヲ醸シ本人ニ於テハ到底一家ヲ成スヿ能ハス又受業人ナル者予テ年期ヲ定メ織元ノ家ニ入り織業ヲ伝習シ年期未満中半途ニシテ種々ノ事故ヲ申立退身シテ他ノ織元へ雇レ唯目下ノ小利ヲ貪ラントスル者アリ夫カ為終身其業ニ熟達スルヿ能ハス終ニ精巧品ヲ製ス織工減スルニ至ラン平故ニ各其業ヲ督責シ品行ヲ正シクシテ織業ヲ磨キ織功伝習ヲ旨トシ熟達シテ後来ノ供益ヲ謀ランヿヲ勧誘センカ為メ織業八社申合規則ヲ設ク左ノ如シ

    右が八社申合規則の前文であり趣旨である。先ず織元、仕入機、織工人、出機、受業人、の説明をして其弊害を挙げ、之を防止する為に規則を設けた、と説明してある。

    本文規則は第二十六款(条)によつて、織物規則、出機規則、仕入機規則、織工人規則、受業人規則に分類して、雇人の争奪を防止するに努めたものである。末尾には、次の如く各社連印し之を印刷して配布した。

    右定約ノ条款堅相守可申侯為後証社中一同連署候也

    明治十三年七月

    織業八社連印

    仲買商会所員機構

    イ、仲買商五組

    西陣織物仲買商を、大略地域別に五分して、仁組、義組、礼組、智組、信組を結成せしめ。各組に組頭三名を選任し、会所と連絡及要務の処理に当らしめた。 明治十一年九月、織物八社と同様に、京都府の指図によつて条約書を作成し、各組員に交附した。

    口、仲買商申合条約書

    西陣織物仲買商申合条約書

    西陣織物仲買商取締ノ為メ組合ヲ設ケ織物会所へ合併スル上ハ組内各家ニ於テで相互に実意ヲ以テ交際シ隔意ナカランカ為メ一同申合セ条約スルヿ左ノ如シ

    第一条

    一当組合ノ儀ハ西陣産出ノ織物ヲ売捌クヲ以業トナス故ニ組内一同精々良品ヲ取扱ヒ売買ヲ盛大ニシ西陣ノ繁栄ヲ計ルヘシ

    附リ一己ノ利ヲ得ンカ為メ粗悪濫製品ヲ取扱ヒ西陣 産物ノ声価ヲ失ヒ或ハ他ノ商買ヲ妨クルコナカレ

    第二条

    一 売買上二付不当ノ損分相懸ケ候カ又ハ不人情ノ引合等致ス仁之レアルニ於テハ其旨組内へ廻達シ向後組内一統堅ク取引致スマシクヿ

    第三条

    一取締上二関係ノ事件二付会所取締役及組頭ョリ注意之レアル儀一切違背致スマシクヿ

    第四条
    一組内各家ニ於テ手代トシテ年期ヲ定メ展入ノ者期限中二不埒ノ儀之アリ暇遣シ侯カ或者自儘二退出致シ候者之レアル節ハ迅速組頭へ届ケ出へシ

    第五条
    一組頭ニ於テへ前第四条ノ始末届出候へハ迅速組内一統へ廻達致スヘシ
    附リ組内各家ニ於テハ本条ノ趣組頭ヨリ廻達之レアル上ハ其暇出シ侯者組内一統決而雇入致スマジク且又廻達以前心附スシテ雇入之レアルト雖モ右廻達之レアラハ速ニ暇出スべシ

    第六条
    一当組内へ組合致度向ハ組内ニテ保証人壱名ヲ依頼シ連印ヲ以組頭へ申出へシ

    第七条
    一組頭二於テハ前第六条組合願出候へハ迅速組内へ廻達シ一同協議ノ上願書へ奥印シ会所へ差出スヘシ

    第八条
    一組内集会ノ節組頭ヨリ通知ノ時刻遅参致スマシクヿ
    但シ拠ナキ事故之レアラバ前以組頭へ断書ヲ出スへシ若断ナク遅参致候へハ違約金トシテ弐拾五銭出金スヘシ
    附リ本文但シ書違約金へ会所へ差出シ織工引立資本金ノ内へ収加スへシ

    第九条
    一前条ノ確定ヲ堅守スヘクハ勿論若シ違背スル等ノヿアラバ協議ノ上違約金五円ヲ出サシメ組合除名スヘシ
    附り違約金へ前同断資本金ノ内へ収加スヘシ

    右ノ条件組内一統誓約ス依テ此条約書弐部ヲ製シ組合一同署名調印シ壱部ハ会所壱部ハ組頭二止メ置其写書ヲ以テ各家ニ壱部ツツ蔵置候也

    明治十一年九月

    西陣織物仲買

    此条約書信組原本が西陣織物館に保存してある。

    仲買商五組人名書及其発行趣意と取引心得 

    明治十三年七月織業八社申合規則を作成した時。西陣織物会所は、西陣織物仲買五組人名書を印刷に付して、西陣織物業者に配布し、組外仲買業者との取引を禁止せしめた。 理由は、織物会所設立後三年に満たずして、仲買商の開廃業異動が頻繁であつて、特に新規業者の組外取引が急増した為、之を防止せんとする目的であつた。人名書左の通り

    去ル明治十年九月当府第二百参拾号御布達並西陣織物会所諸規則等ニテ織工引立ノ御主意ハ社中一同兼テ承知ノ儀ニ付無鑑札/商人へ取引可致筈ハ無之侯得共万一御鑑札ノ有無ヲ心得スシテ取引致侯テハ本規則第十六条ノ通府庁へ上申可致侯儀ニ付心得違無之樣今般仲買商組合ノ人名簿製シ社中各家へ壱部ヅツ附与致候間此人名ノ外無鑑札ノ商人へ決テ取引不致ハ勿論若密々取引致候者見聞候ハバ迅速会所へ通知可有之候也

    明治十三年七月

    西陣織物会所

    西陣織物仲買人名

    仁組

    上京第八組元妙蓮寺町 中孫三郎外百二十八名

    義組

    上京第十六組下石橋南半町 千田藤兵衛外七十二名

    礼組

    上京第廿四組冷泉町 矢代庄兵衛外三十一名

    智組

    上京第四組御射山町 中村半兵衛外六十二名

    信組

    下京第三組衣棚町 西村治兵衛外五十二名

    合計三百五十名

    右五組所属の仲買商は仁、義、礼組は概ね上仲買と呼ばれ、智信組所属の者は下仲買と称して居た。

    第四節 西陣織物会所の総会と役員選挙

    同総会の開催

    前掲会所規則第十五条により、織工及仲買共の総集会は毎年一月十五日と七月十五日、開催時間は正午から午後六時迄となっている。即昼間会所で開催することになる。

    総会とあれば会所員たる西陣織物業者約二千人、仲買業者三百五十人、之れを収容できる建物は当時無いから屋外集会より外はない、又当時の交通状態からして容易に定刻に集合せなかつたであろうから、総集会と云つても取締肝煎等の一部の人達が集会したに過ぎなかったと思われる。

    同会所役員選任 イ、役員に関する規定

    会所規則第九条から第十四条に規定してあって、我国最初の組合規則であるが、中々要領を得て居る、殊に取給一ヵ年毎半数改選規定の嚆矢をなしたものである。

    口、役員選挙権と選挙方法 

    役員の選挙権は織工及仲買中京都府から鑑札を下渡された者に限るのは当然である。

    選挙は単記無記名投票であつたかと思われるが、織屋の多くは自家取引先仲買商の主人の顔も知らない者がある。又織屋間でも願る視野の狭い時代に、如何なる選挙方法を執行したか記録も無く不明である。

    開票は会所規則第十二条により、投票面を封の儘、京都府勧業課に送って、開票して貰うのである。従って不適当と認められる者は、多数票を得ても任命して貰えない。

    ハ、会所役員京都府辞令 

    会所役員は京都府の辞令によって就任する。辞令の様式が改選の都度変つた。

    (一)明治十年六月二十八日付織物会所設立当初の辞令。

    織工引立掛 氏名

    西陣織物会所取締役兼務申付侯事

    京都府

    (二)明治十一年七月九日付取締役辞令

    氏名

    西陣織物会所取締役差許侯事

    京都府

    (三)明治十四年八月十日付取締役辞令

    氏名

    西陣織物会所取締役当選二付認可侯事

    京都府

    右辞令は明治二年仲買商及織物業者の有力者を、京都府が織工引立掛に任命し、京都府役人待遇であつたから、「兼務申付」とか「差許し候事」とか書いた。明治十四年の辞令は、当時段工引立掛は廃止して居たので「認可侯事」となった訳である。

    会所役員定数及任期並権限報酬 

    イ、役員定員及任期

    取締役の数は九名内一名を互通により総取締役とした。任期は二ヵ年、毎年選挙集会で半数を改選した。

    ロ、役員の職務権限

    織物会所規則第九条は簡潔数語を以て役の職分を定めてある。

    取締役は証紙発兌を取扱い濫造品製出せざるを注意するよう定められている。織屋問屋の旦那衆が、毎日出務する筈もなく、肝煎の協力、或は番頭の代理も、殆どの日数であったであろうから、自然と紀綱が素れたであろうと想像せられる。

    ハ、役員の報酬後物会所規則

    第九条第二項に「会所ニテ定メル給料を受取スベツ」とあつて役員は報酬を受けねばならん、古老橋本伝蔵翁は「役員に給料を与えぬと不勤するから今回は之れを支給する事にして月給総取締十五円取締八円であった」と話している。

    此金額は今の貨幣価値にしても多額では無い、当時の取締役達の自負心は之れを宛にしたとは思われず。

    第五節 役員及肝煎人名録

    役員人名録

    同人名録僥倖の発見と西陣組合記録の亡失理由

    西陣織物館には西陣織物会所が解消せられた年、即ち明治十五年迄の、取締役人名録一冊と八社肝煎人名、 仲買組頭人名錄一冊が、保存せられてある。

    明治元年より西陣組合の隆等九度。其間各組合の財産及記録は、次々に引継がれた筈になつている。然るに西陣織物同業組合初期以前の記録が亡失して居るのは、総じて西陣の組合は職員が長続きしない。殊に同業組合時代以後は、役員議員の選挙騒動により、組合職員が功労者であろうと、重要人物であろうと、硬骨忠実な者、謂わば組合事務に融通を利かさず、気に入らぬとなれば、非離攻撃して退職せしめるから、生字引の人物が無くなる、新任者は重要記録も古文書も、猫に小判で玉石を弁別せずして廃棄した。特に昭和十一年事務所改築に当り古土蔵を撤去するに当り、古記録全部を廃棄処分に付し売却した事実がある。其為貴重な女献は皆失われた。現に西陣織物館に所蔵せられるものは、大正三年九月以降、時の組長池田有藏及初代織物館長田畑庄太郎が蒐集したもの、及西陣組合事績の研究家福井九兵衛の寄贈による文書が主である。

    此人名録二冊は右所蔵品中には無かった。昭和三十年夏、西陣織物館記編纂の必要あることを思い、編者が編冊書類整理中戸棚の際、塵埃中から、奇蹟的に発見した。此様な文書が絶対に存在する場所では無く、三十余年勤続の職員に尋ねても、唯不可思議なりと答えるのみである。真に僥倖であつた。

    此様な次第から次項に全員名を掲げる。

    履歴・職名住所・区画氏名
    明治十年任
    明治十三年二月十日商業事故ニ依テ辞職

    但シ織工引立掛ハ従前之通
    総 取 締
    上京第十六区下石橋南半町
    千 田 宝 守
    同年 取締役御免引立掛是迄通同 区 仲之町小西治郎右衛門
    明治十二年七月十五日取締役御免
    織工引立掛是迄之通明治十四年十月四日依願引立辞職。
    上京第三区 真倉町谷 新 助
    明治十二年七月十五日取締役御免

    織工引立掛是迄之通
    同 第四区 硯屋町小川治郎兵衛
    明治十三年二月十日依願免職

    但シ引立掛是又依願免職
    同 第八区 北ノ御門町沖田嘉左衛門
    同年 取締役御免引立掛是迄之通同 第三区 姥ヶ寺ノ前町橋 本 伝 蔵
    明治十四年月 日病気ニ依リ引立掛差免同 第四区 北舟橋町金 田 忠 兵 衛
    同年 取締役御免引立掛是迄之通同 第八区 元妙蓮寺町中 孫 三 郎
    明治十四年八月五日病気ニ付引立掛差免同 同区 観世町北 村 勘 吉
    同年 眼疾ニ依テ辞職同 同区 五辻町石田庄右衛門
    明治十年十一月一日拝命
    同 十四年取締役御免
    同年 六月三日依願引立掛差免
    同 第四区 東西町佐々木藤兵衛
    明治十一年三月廿一日拝命引立掛従前之儘

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同 第六区 溝前町石 川 伝 兵 衛
    明治十二年十月廿三日実印改

    同年 同月同日拝命 引立掛従前之儘
    同 第三区 真倉町吉 田 甚 兵 衛
    同年 七月九日拝命

    同 十三年期限ニ付役義御免
    同 第七区 笹屋町三丁目湯 浅 源 兵 衛
    同日 拝命

    同 十三年十月十日依願免職
    同 第九区 革堂町樫 本 治 三 郎
    明治十一年七月九日拝命

    同 十二年二月商業事故ニ依テ辞職
    同 第四区 紋屋町鳥 居 喜 兵 衛
    同年 同日拝命

    同 十三年七月十三日期限ニ依テ役義御免
    下京第三区 御倉町西 村 源 助
    同年 同日拝命

    明治十二年一月廿日病気ニ依テ辞職
    上京第五区 柳図子町太 田 喜 三 郎
    同年 十月廿五日拝命

    同 十三年七月十三日期限ニ依テ役義御免
    同 第八区 北ノ御門町木 村 卯 兵 衛
    明治十二年一月廿七日拝命

    同年 十月廿八日辞職
    同 第七区 中之町渡 辺 伊 之 助
    同年 二月十五日拝命

    同 十三年七月十三日辞職 同月同日引立掛拝命
    上京区第三組真倉町飯 室 伊 兵 衛
    明治十二年七月十五日拝命

    同年 八月三十日辞職
    上京区第四組幸在町碓 井 嘉 兵 衛
    同日 拝命

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同区 第八組北猪熊町沢 田 嘉 七
    同 十二年九月二日拝命

    同 十三年九月二日辞職
    下京区第四組膝屋町喜多川 孫 兵 衛
    同 十二年十一月四日拝命

    同 十三年二月廿二日辞職
    上京区第廿四組道場町辻 井 長 兵 衛
    同 十三年二月廿八日拝命

    同年 七月三十日辞職

    同年 同日拝命

    同 十四年七月期限ニ付退役
    同区 第八組桜井町曽 和 嘉 兵 衛
    明治十三年七月十三日再勤拝命

    明治十四年九月期限ニ付退役
    上京区第十六組下石橋南半町千 田 宝 守
    同年 同日拝命同区 第八組横大宮町樋 口 利 兵 衛
    同年 同日拝命同区 第三組真倉町飯 室 伊 兵 衛
    明治十四年六月三日引立掛拝命

    同 十四年八月五日取締役辞職

    同年 八月九日依願引立掛退役
    同区 第七組竪亀屋町村 上 平 七
    同年 同日拝命

    明治十四年四月七日辞職

    明治十三年七月十三日拝命

    同 年 十二月廿八日病気ニ付退役
    同区 第九組革堂町倉 辻 新 助
    同年 同日拝命

    同 十四年九月十八日戸長役ニ付辞職
    下京区第四組御射山町中 村 半 兵 衛
    同年 同日拝命

    同 十四年六月廿二日退役
    上京区第四組阿弥陀寺町碓 井 幸 七
    明治十三年十二月廿八日拝命

    同 十四年八月十三日不得止事故ニ付辞職
    同区 第八組石薬師町中 山 勇 次 郎
    明治十四年四月十六日拝命

    同年 五月六日病気ニ付退役
    同区 第六組烏丸町加 藤 安 次 郎
    同 年 六月二日拝命同区 第九組革堂西町西 村 友 義
    同 十五年一月廿四日病気ニ付退役同区 第八組観世町川 口 忠 七
    同年 七月就職同区 第廿四組冷泉町勝 見 儀 兵 衛
    同年 同月就職

    同年 八月九日病気ニ付退役
    同区 第三組新猪熊町吉 村 伊 之 助
    同年 同月就職同区 第六組三条殿町服 部 勘 兵 衛
    同年 同月就職

    同年 八月病気ニ付退役
    同区 第九組仲之町小西治郎右衛門
    明治十四年八月当撰

    同年 八月辞職
    同区 第三組姥ヶ寺之前町橋 本 伝 兵 衛
    同年 四月当撰

    同年 九月十八日病気ニ付退役
    同区 第九組革堂町橿 本 治 三 郎
    同年 八月当撰

    同年 九月十八日不得止事故有之ニ付辞職
    同区 第八組栄町大 西 佐 助
    同上 当撰

    同年 十月六日病気ニ付退役
    同区 第廿四組冷泉町矢 代 庄 兵 衛
    同上 当撰

    同年 九月十八日病気ニ付退役
    同区 第七組中之町渡 辺 伊 之 助
    同上 当撰

    同年 九月廃業ニ付差除ク
    同区 第七組元四丁目巽 佐 七
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気ニ付退役
    同区 第八組元北小路町伊 東 平 七
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気退役
    同区 第八組元伊佐町東 海 庄 左 衛 門
    同上 当撰

    同 十五年一月廿四日病気退役
    下京区第四組菱屋町日 下 部 半 太 郎

    右歴代五十人の取締役中、織屋は谷新助、小川治郎右衛門、石川伝兵衛、橋本伝造、湯浅源兵衛、鳥居喜兵衛、太田喜三郎、飯室伊兵衛、樋口利兵衛、碓井幸七、村上平七、橋本伝兵衛、巽佐七、吉村伊之助の十四名に過ぎない。其他は全員仲買商である。選挙であるのに十数倍の選挙権数を擁する織屋の当選者が四分の一の数であるから、理屈も筋も通らぬ世の中であつた。所詮取引改善と称えても空念仏に過ぎなかつた。 昭和二十四年ともなれば、右名簿の役員中同業を相続して居る者は商、工業者共寥々である。

    八社肝煎人名録 西陣織物会所八社肝煎の人達の中には、多くの西陣復興の大功労者がある。 肝煎は各三人が選任せられたのであるが、次に記する人名は、明治十年から同十四年七月迄に、肝煎に就任した人々を歴年順に記してある。故に各社筆頭の三人は、織物会所設立当初の肝煎であり、末筆の三人は会所解消最終の肝煎である。筆順は上段から横に読む。

    第五節 役員及肝煎人名録

    一、紋織社

    住所氏名
    上京第九區水落町宅間佐助
    同區第四區紋屋町鳥居喜兵衛
    同 同 大猪熊町久江長兵衛
    同 第一區下天神町羽田喜助
    同 第八區北猪熊町岡本喜兵衛
    同區第九組飛鳥井町原田伊三郎
    同區第三組西熊町武本清次郎
    同區第四組伊佐町加藤安兵衛
    同區同 同町洞本庄七
    同區第九組水落町宅間芳之助
    同區第四組東西町佐々木清七
    同區第八組桝屋町橋井幸七
    同區第六組烏丸町加藤庄次郎
    同區第七組笹屋三丁目木村忠兵衛

    二、生紋社

    住所氏名
    上京第八區南舟橋町喜多川平八
    同 第三區花車町小林伊助
    同 第二區長乗西町白井善七
    同 第二區上清蔵口町小野平七
    同 第三區真倉町大井幸八
    同 第二區竹園町坂田嘉助
    同 第七區西北小路町鈴木禎次郎
    同區第二組下清蔵口町佐藤卯兵衛
    同區第四組東石屋町柊 卯兵衛
    同區第二組上清蔵口町野々村常次郎
    同區第二組長乗西町天野伝造

    三、羽二重社

    住所氏名
    上京第十九區吉野町谷口伊兵衛
    同 第七區笹屋二丁目人見勘助
    同 第七區東上善寺町榎並治兵衛
    同 第八區横大宮町高野武助

    四、繻子社

    住所氏名
    上京第四區石屋町山本儀兵衛
    同 同 硯屋町小川茂兵衛
    同 第九區堀之上町佐々木半兵衛
    同 第四區幸在町碓井嘉兵衛
    同 第四組山名町木村忠兵衛
    同區第四組藤ノ木町岩崎福太郎
    同區第二組上清蔵口町小野宗次郎
    同區第三組戌亥町時岡宗兵衛
    同 第七組西亀屋町井上伊助
    同區第一組西千本町八木清兵衛

    五、縮緬社

    住所氏名
    上京第五區柳之図子町太田喜三郎
    同 第六區烏丸町加藤安次郎
    同 同 三条殿町川越藤助
    同 第七區笹屋二丁目林 和助
    同 第三區蛭子町武田弥兵衛
    同 同 真倉町飯室伊兵衛
    同區第七組元四丁目谷口弥助
    同區同 竪亀屋町村上平七

    六、博多社

    住所氏名
    上京第三區真倉町吉田甚兵衛
    同 第七區元中之町植田利七
    同 第八區北猪熊町沢田嘉七
    同 第十六區飛弾殿町大木長七郎
    同 第十五區加賀屋町岸 安兵衛
    同區第六組笹屋五丁目河野平五郎
    同區第四組西北小路町永嶋九郎兵衛
    同區第十五組加賀屋町岸 安兵衛(件)
    同區第八組桝屋町村田嘉七
    同區第六組笹屋四丁目三木嘉助
    同區第八組石薬師町林 久七

    七、天鵞絨社

    住所氏名
    上京第三區姥ヶ寺之前町吉川久左衛門
    同 第七區笹屋三丁目湯浅源兵衛
    同 第六區笹屋四丁目大西幸吉
    同 第七區元四丁目藤井長兵衛
    同 同 笹屋三丁目佐藤太七
    同區第三組蛭子町武田弥三郎
    同區第七組菱屋町藤林新助
    同區第廿一組堀松町金森常次郎

    八、木綿社

    住所氏名
    上京第六區溝前町石川伝兵衛
    同 第七區竪亀屋町鹿田常助
    同 同 今出川町菱田嘉兵衛
    同 第六區玉屋町西門忠兵衛
    同 同 烏丸町駒井清兵衛
    同 同 笹屋五丁目高山伊兵衛
    同 同 三条殿町服部勘兵衛
    同區第七組松屋町谷林善兵衛
    同區第三組姥ヶ北町大久保源助
    同區第六組笹屋五丁目川端太兵衛
    同區第十五組東西俵屋町盛田重太郎
    同區同 新桝屋町野口猪之助
    同區第六組笹屋五丁目近藤治兵衛
    同區第七組草堂町岸田嘉一郎
    同區第六組炭屋町川端太兵衛
    同區同 笹屋五丁目佐々木甚兵衛

    仲買組頭人名録には、仁、義、礼、智、信組の組頭を網羅してある。記載を省略する。

  • 西陣織物館記(明治三年~八年、西陣物産会社(3))

    西陣織物館記(明治三年~八年、西陣物産会社(3))

    第七節 会社の会所(事務所会館の草分け)

    会社会所設置願と設置場所の選定 組合事務所である会所が、三度場所を桿えた。又出張所を設置した事もあり。其都度京都府へ願書を出した。

    乍恐奉願上候口上書

    一、今般西陣物産会社取建之儀奉順上候処御聞済被成下侯ニ付商社取組請後 品入札売捌場所上京拾弐番組油小路一条上ル二町目越後屋武助持家借り受右 入札定日モ取極度依之諸国商人及其外望之人々者右会所へ集り買取呉樣仕度 此段何卒市中一円江御布告被成下候機御聞済被成下候へバ莫大之御仁植如何

    計ヵ難有仕合〻奉存候 以上

    明治二已年十一月

    西陣織職頭壱番より七番迄

    惣代

    京都御政府

    上京六番組木下突抜町 伏見屋新助

    同三番組突抜町 菊屋七右衛門

    同十一番組横大宮町 鱗形屋利兵衛

    同四番組今出川町 菊屋嘉兵衛

    同四番組中年寄 吉田治郎兵衛

    同五番組添年寄 武本治兵衛

    同十一番組五辻町 日和田屋新七

    右願書により京都府より「聞届候事」とあつて、油小路一条上ル所に事務所を構えた。

    油小路通は、豊臣秀吉が洛中洛外の境界御土堰を築造し、京都の都市計画を定めるに、油小路を中央に東は京極、西朱雀迄の条里を立てたから、油小路通は上は寺之内から下は十条迄、途中切断の箇所が無い、京都唯一の通りであつた。故に新参の丁稚でも、油小路へ出て猫車でも曳いて北向けば、寝呆けつつ歩いても西陣に行ける。最も交通便利な街道である。此通りに会所を設置したことは最も賢明であつた。然し織屋が技然と構えて仲買が頭を下げて、集つて来ると思つたのは、余りにも甘過ぎた考え方であつた。

    会所移転願と其理由

    乍恐以書付奉伺上候

    一、先般物産会社御許容被為皮下奉御蔭載物產之道日日広大二相成候二付而者当時之仮宅間逼ニ而如何様仕侯共捌方不都合ニ御座候ニ付今出川大宮西ニ入町二貸家七八軒計在之右借り受各社相分ヶ売捌方仕候は至極弁理宜敷候間近々転宅仕度何卒此段御聞届被為成下侯は如何計か難有仕合二奉存侯 以上

    明治三庚午正月

    京都御政府

    聞届候事

    西陣物産会社惣代

    鱗形屋治兵衛

    日和田屋 新七

    右願書中「仮宅間過二而如何様仕侯共捌方不都合」とあるは、三万両に近い織物が持込まれ、余り捌けなかつたとすれば、普通民家では狭隘を告げるのは当然である、と共に西陣産業の特殊性は、各級屋の専門製品が、多岐に別れ、夫々需要面が異り、自然販売先も変っているのに、会社一本集荷の際、各社毎に分担させてなかったように思われる。各社毎に集荷販売の自主権を持たしめねば、不平不満が生ずる。そうなると各社毎に部屋が入るから七八軒も借らねばならない。

    各社出張所を下京四条烏丸西に設置 

    明治三年四月「各社一体殊之外代呂物不捌二付此度四条烏丸西へ入町沢屋政七宅各社一体出張仕諸織物諸方登り客素人ニテモ附ヶ札ヲ以正路明白二現銀売捌仕度」と十七社と会社連名で京都府へ願出「聞届候事」とあつて出張所を設置した。之れは即観光客、当時御登りさん相手の、直売も考えたのであろうが、成績不良間もなく閉鎖した。

    会所再度の移転

    乍恐御伺奉申上口上書

    一、当会社義是迄上京第八区今出川通大宮西江入町仮宅罷在候処間逼不都合御座候二付今度同区五辻通大宮西入町江転宅仕度候間此段御伺奉申上候御聞済被為成下候へば難有仕合二奉存侯 以上

    明治五年壬申七月

    京都府御庁

    西陣織物総会社

    世話役

    武本治兵衛

    竹内作兵衛

    伊達弥兵衛

    永嶋九郎兵衛

    右移転の度毎に間逼が理由になつて、腑に落ちぬが、機別出銭により借入金三万両の内上納も少々は出来た。 会社経費も些少の融通が付き、折柄京都博覧会の開催等による西陣出品の受賞も多く、殊更、御買上品もあり、会社世話人も気を好くし、交際面も広くなり仕事も増加したと思われ、事務所の構えに対する必要性を覚るに至つたのであろうか。之れが西陣織物業者の会館の草分けと見てよい。

    第八節西陣物産会社の功績と功労者

    同社世話役の信望

    明治年間西陣界隈、此会社に対する批判は、必ずしも好評でなかった。理由は「金三万両の借入れが上納できず、遂に全織屋の機別出錢によつて、明治十年迄に、漸く三分一を納め、残額は借倒しとなつたのは、世話役の不仕陀羅によるもの」との非難からであつた。然し之れは後年歴史の真相を極めずして、組合機構を弄する者が論議の材料に使ったものであつて、寧ろ盾の半面を知らぬ者である。

    抑も三万両とあれば、当時莫大な金額であるから、たとえ、全西陣の結社でも、京都府は其れのみでは貸下げるものではなく、世話役の信望があつたからである。京都府は、此会社の世話役、肝煎共に西陣織屋としての筋目も良く、識見人格共にある人々を選抜し、其人達の社会的地位に対して貸下げたものである。新規の織屋が儲うけて売出した顔だけでは、百両も貸出さなかったであろう。当時四民平等に御一新と云われても、其様なものであつた。而して此三万両の貸下げがなかつたら、其後西陣機業が時世に適合した織物の研究により、立直った上に急激な発達を見る事を得なかつた。勿論此会社の取引改善は失敗に終つた。古組、天神講、今宮講、上下両仲買等百五十余軒の、強力な問屋資力と巧妙な商魂商策には、西陣織屋の敵する所でない事は、初から判つて居なければならない。寧ろ之れは京都府役人の権勢過信独善の責任にあると言ってよい。乍然此会社存続八年間に於ける西陣機業の興隆革新は、一つに京都府当局の指導誘抜によるものであり、同時に全社世話役の功績によるものでもある。以下事績を略記する。

    京都府初代知事長谷信篤の庇護

    長谷信篤は、明治元年四月京都府知事に任命せられた。旧堂上家、門地は新家外様と云う格。家禄も少なく、下位公卿であつたが、代々俊英が出て三位以上に昇って居た。此人も明治維新の王政復古に功績あり、壬生基修、東久世通禧などと比肩せられ、明治八年元老院議官。後に貴族院議員となつた。

    永代京都に培われた人であるから、京都を愛することが深いのも当然で、又京都人の気風を知悉したればこそ、皇后宮東行阻止運動をば平穏に治め得たのである。謂わば殆と西陣の地域内に育つたようなものであるから、幼少から織屋の生活も見て知つて居たし、西陣織屋の盛衰が、京都市経済界消長の鍵となることも、熟知して居たので、其窮状と救済策をよく理解して、三万両の大金を容易に貸与して呉れたものであろう。

    明治の改革に順応する京都府の行政、財政、教育、産業対策は、権大参事槇村正直によつて断行せられ、長谷知事は偶像に過ぎなかった、と謂う者もあるが、これは槇村親近者の偏見である。徳大寺、久我、西園寺等と共に明治帝の側近に奉仕して、宮中との縁故も厚く、時世の推移を明察し得る能力を有し、年齢五十歳、人格円熟、応揚な襟度を持して、槇村の履足を延ばし、駻馬を京都に馴れしめたのである。

    明治八年元老院に転ずる迄に、西陣が此人から受けた恩恵庇護は莫大である。物産会社が西陣の代表として面目を維持し得たことは、此人の御蔭によるものと断言してよい。然し今日迄も西陣の人々で此人の恩義を顕彰した人があった事を聞かない。

    二代目京都府知事植村正直の指導 

    明治の元勲木戸孝允の推鹸により、旧長州藩士槇村正直が京都府椒大参事に任ぜられたのが、明治二年七月である。

    木戸は、第二の故郷として最も愛する京都へ、自分の盟友槇村を置いた。公務の余暇には必ず土手町の別邸に住み、槇村は影の如く付添って、日常の世話に尽し、其れが又京都府政に大きな利益を得た。明治八年七月長谷知事の後任に、異例の昇進をして知事に任ぜられたのも木戸の庇護によつてである。明治十四年一月元老院議官に転ずる迄の長い在任中、自ら牛肉を喰い、牛乳を飲んで、角も生えねば、身体に毛も生えぬ事を市民に示した如き、天馬空を行く施政振りで、京都市を単なる文化財保有の旧都たる事を免れしめて、産業に、学芸に、活潑なる活動力を与え、我国六大都の一としての繁栄を保持し得ることができたのは、此人の恩恵によるものである。而て西陣産業を革命時の崩壊から救上げ、鞭撻指導し復活せしめて呉れた恩人である。

    西陣物産会社、京都第一回博覧会へ協力 

    明治五年四月十七日より六月三日迄京都博覧会が開催せられた。会主三井八郎右衛門、小野善助、熊谷直孝の大財閥から、大年寄、御用達、物産引立御用掛、と京都財界有力者挙げて参加、長谷京都府知事、槇村大参事以下官員が、京都の浮沈を賭しての大事業であつた。

    会場は西本願寺、建仁寺、智恩院を充てた。

    京都府は布告を発して一般に出品を勧誘し、又政府に要請して外国人の観覧を求めた。出品種目は、京都古来の物産を始とし、全国各地の名産。甲冑刀剣、所謂骨薰品迄二千四百八十五点を陳列し、其内には英、仏、独各国の物も出品せられた。

    西陣物産会社は、世話役、肝煎が総勢協力、織屋業者を勧誘して、智恩院会場に陳列した。

    同年六月二日明治天皇が、地行巡幸の途次、博覧会場に臨幸せられ、西陣織物の新発明品に付て、特に御下問あり、光栄に感激した。

    御買上品は、西陣織物と陶器のみであつて、西陣織物は次の通りである。

    新発明、両面繻子二丈八尺、価二十二両

    織元 繻子社 小谷孫兵衛

    同、長毛底金級一丈一尺五寸、価拾壱両

    織元 物産会社 竹内作兵衛

    同、両面天鵞絨衿巻一筋、価三両

    織元 三上孫市 武内治兵衛 喜多川平八 中西長右衛門

    陶器は、茶碗、平皿数点に過ぎず、此御買上によつて、西陣織屋一同無上の栄誉なりとして感奮すると共に、気風を一新した。

    会期中、英、米、仏、普国人の入場者は、七百七十名であつて当時京都では大異変である。

    是れに対しては政府派遣訳官十五名が出張通弁に当った。

    観覧の外国人は、西陣織物の精巧に驚嘆した後、産地工場を見るに及んで、原始的生産と非能率労働に、胆をつぶした事も明かである。此年代はフランスにジャガード紋織機が発明せられて既に七十年を経、其後の進歩改良により、同時に生産機械化による、産業革命が達成せられ、高能率時代の黎明期にある欧米人から見れば、憐れな後進国の正体を暴露したものであった。従って京都府役人にも、物産会社世話役にも、機械化の必要を説いた事と思われる。其れがやがて、西陣織屋の外国留学となつたものである。

    佐倉常七等の渡仏

    事の起りは、前記博覧会期中、物産会社世話役惣代竹内作兵衛が、フランス共他の先進国には、空引の要らぬ織機があるそうな。京都府の御斡旋により、輸入して貰えぬものか、と願出たのが序りであつた。

    京都府は、智恩院内仏語学校教師、レオン・ジュリーに相談した処、ジュリーは洋式機械を輸入したからとて、直に運転できるものではない。渡仏してよく研究し、技術を習得せねば駄目であると云われ、之を聞いた長谷知事は諾いて、竹内に貴様行けと命じた。

    竹内は自分老齢其任に堪えず代人を差遣わしますと、別家の佐倉常七(天保六年一月七日生当年二十八歳)を推薦し、独りでは心元ないから、同家級工井上伊兵衛を同伴せしめる事にした。

    洋行の旅費、学習費、諸機械購入費、 を京都府から支出する事に決定した。

    此事を聞いた、上京区三十一組(後の中京区銅駝学区) 河原町通二条下ル一三船入町吉田忠七が、熱心に同行を懇請した。此人は学識もあり、機械に関する研究もして居たので、物産会社世話役及十八社肝煎連署で、此者の諸費用は、帰国後会社機別出銭の内から京都府に、返却するとの条件で願出、三人同行が許された。

    明治五年十一月十三日物產会社関係者より次の銭別が三人に贈られた。

    一金十二円 博多社、一金十円廿五錢 金欄社、一金七円五十銭模様社、一金六円 繻子社、一金三円八十七銭五厘 夏衣社、一金三円七十五銭 縮緬社 一金三円 天鵞絨社、一金三円 古帯端袴社、一金二円五十錢真古帯社、一金二円木綿社、一金二円精好社、一金二円 紗織社、一金一円十五錢真田社、一金壱円 練絹社、一金壱円五十鈴 画絹社、一金三円五十銭羽二重社、一金壱円繻子社

    一扇子百本、一団扇百本、一キセル百本、一織物チョキ三枚、取締中洋行の三名は明治五年十一月十七日神戸港出帆、香港経由無事仏国リオン着、勉学等の記録は省略する。

    明治六年十二月二十八日佐倉常七と井上伊兵衛が、ジャガード紋織機其他の洋式機械を購入帰国し。専ら機械の研究に努力し最も嘱望せられた、吉田忠七は、明治七年三月二十日帰国乘船が、故国目前伊豆沖に来り難波沈没し、乗船者九十四名中値に三人が救助せられたのみで他は不明、吉田は惜しくも其研究資材と共に沈んで帰らなかった。 

    伊達弥助、早川忠七、填国万国博覧会政府派遣大隈総裁一行に随行

    西紀一八七三年(明治六年) 墺国維納市で、万国大博覧会が開催せられるので。東洋の大日本帝国の、美術工芸物産を陳列して、国威を海外に輝かすことに決定せられた。名古屋城の金鯱を天主閣から降して、持って行つたのも此時である。

    政府は同博覧会に参加派遣使として参議大隈重信を総裁に任じ、独壞人顧問六名、副総裁外随行員四十九名、全国各府県物産製造関係技術者及商人合計二十九名を同行せしめ、同年一月二十八日出発せしめた。

    京都府からは織物工伊達弥助、早川忠七と陶工舟山六郎が派遣せられた。伊達弥助は井筒屋四世であつて、西陣物産会社設立以来の世話役惣代である。

    之等墺国派遣団一行の年齢は大隈総裁は別として、副総裁佐野常民五二 歳、其他の随員四十歳代が八名、悉く三十歳以下の青年が多く十二歳の少年もあった。其内京都の早川忠七が二十四歳、伊達弥助のみが高齢六十歳であつた。

    伊達は初めの万国博覧会出品物を、物産会社に撰沢仰付けられ、会社を代表して手代早川を同伴東上出張中洋行を命ぜられたものである。前項佐倉等の貧乏啞旅行と異り、日本政府の費用により、通訳其他万般漏なき準備の下に渡欧したのであるから、最高の待遇を受け、顔る便利を得た洋行であつた。故に随行員の多くは此機会を利用して、欧羅巴各国を視察研究した。伊達・早川両名も仏蘭西其他各国を廻り、染織技術を視察して、織機其外千二百余点の器械器具を購入し、帰国したのが明治八年初春であつた。

    第二回京都博覧会以後各回協力

    第二回博覧会は、明治六年三月十六日より同六月十日迄明治天皇が、京都産業振興の御思召で、京都御所を会場とする事を許され、旧内待所、御花御殿、対之屋、御馬場、仙洞御所を使用したので、此会期の入場者数内国人、四十万六千人。外国人、六百三十四人。明治、大正、昭和年代、敗戦迄の京都の同種会中最大の入場者であつた。

    西陣物産会社は御花御殿に陳列所が割当られ、高機(空引)を設備して製織実演を行った。世話役、肝煎が毎日出務して来観者に説明する等各般の斡旋尽力した。

    同第三回は明治七年四月一日より同六月八日迄京都御所に開催。西陣織物は前年同様御花御殿に陳列した。

     此年は特に佐倉常七がフランスより持帰った洋式織機を蒸気力により運転公開して、観覧者を驚かせたと謂う。

    同第四回は明治八年三月一日より百日間開催。同五回は、明治九年三月十五日より是れも百日間、何れも京都御所及大宮御所を会場として開催し、西陣物産会社は毎回織物製織を実演公開した。陳列場には常に世話役肝煎出張尽力したが、第五回は三上復一、中西昌作、喜多川平八等が、品評方に推挙せられ、西陣織物の褒賞受領は、数に於ても抜群であつて、西陣授業の時代に適応した進歩が認められた。

    同第六回は、明治十年三月十日より、会期百五日間開催した。此博覧会協賛は物産会社としては最後であった。

    同年一月二十五日孝明天皇十年祭に付、皇陵参拝の為久々で京都御所に行幸啓あり。同年二月十五日西郷隆盛西南戦争の勃発により、明治天皇のみ引続いて京都御所に御駐輩になつたので、博覧会場は、仙洞御所、大宮御所のみを拝借使用した。同六月十日会場天覧を得、西陣織物は益好評を拍し多くの褒賞を授けられた。

    京都府洋式機械織工場への協力 

    佐倉常七、井上伊兵衛が仏国から購入した機械類は、上京区五辻通大宮西入ル物産会社事務所へ荷着し、世話役肝煎等が、右両人指導の下に開梱して、組立準備に尽力したのが、明治七年 一月であつた。元々之等の機械は、京都府の経費を以て購入したものであるから、京都府勧業場は、河原町二条下ル一ノ舟入町旧角倉屋敷跡に、織工場を建築し、同年五月には諸機械の据付を終り、六月から右両人を教師と して運転公開し一般の指導を開始した。両名に対する給料の支給願は印刷の都合上前頁に掲げた。

    織物伝習所を物産会社役員で世話する事

    明治八年一月京都府は、洋式機械運転技術を全国に普及し、織布の機械化を計る為、京都府勧業場から全国各地に対し、伝習生を募集した。各府県から多くの派遣申込があつて、 習学せしめることとなつたので、物産会社の世話役肝煎等に、伝習所の世話及見廻役を命じたが、其費用は物産会社負担であつたから、左の敵願書を差出した。

    奉願上口上書

    当物産会社之儀去る明治已己十一月物産保全広隆ノ為メ会社取結奉願上候処御許容被為成下其上私共始メ七十八人之者共へ諸世話心配可蒙侯様御書下ヶ頂載仕追々御趣意柄二基会社創法ヨリ六箇年三ヶ月ニ至り社続之為メ乍未熟諸世話致来候処追々同職業盛大二相成其上当今元角倉御用邸ニ於テ織工御場御取設二相成洋来之機 械運動旅為成危機職業御引立之段奉恐入侯依之右織工御場為見廻り総会社世話役順番ヲ立テ日動可致旨御書下ヶ頂載仕難有奉承伏候依テ迅速御請可差上之処何分五人之者愚昧之面々故

    六ヶ年以上で勤役罷在候処何等之所 詮モ無之不法則二打過際限で無之ト奉献息恐縮致候不興之私共自今退役仕度旨ヲ以後役人選之儀ヲ各社肝煎中ヘ及頼談候処早速集会相設評議仕候処何分於元社日費之手当無之候故各社重立侯者ョリ割賦ヲ以テ積立出金相 成候様申聞ヶ候得共今般機別出金之儀相満候迄へ聊カタリ共出金不致旨申立候ニ付差当而当感仕候放期限之後 へ追テ奉申上候間法則取極候迄之処何卒有機別御上納金之内別紙金高之通日費為手当月々御貸下ヶ被成下度為 然之上者各社肝煎俱々一層相励御用之廉々並織工御場見廻り等二至迄無懈怠相勤元社再興方法相談侯上者日費 償方そ相立自ラ日費金御返納を出来候様集議一決仕候上へ後役更二人選ヲ以テ奉伺御採用之上へ私共二毛先役 ト相唱精々世話可仕候間何卒前頭之日費金月々拝借之儀且者私共退役之儀右両様トを奉願上侯間出格御仁恤を以テ右之段御聞届被成下候ハバ難有仕合二奉存侯

    明治八年二月

    西陣物産会社世話役

    竹内作兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    中西長右衛門

    武本治兵衛

    会社

    前書之通相違無之候間於私共で俱々奉願上候

    明治八年二月

    十八社肝煎総代

    吉川久右衛門
    吉田甚兵衛
    平野卯八
    松田庄八

    荒木武兵衛

    宅間佐助

    山田甚助

    京都府知事 長谷信篤殿

    日費金壱ヶ月分計算書

    一金五円 筆紙墨從焚灯油其他共

    一金三円五拾銭 宿料並二町入費共

    一金拾五円

    筆生一人、会社留守一人

    用使二人雇賃

    総計高金弐拾三円五拾銭

    右之通御座候

    右願書に対して京都府は、願の通り機別出錢上納金との相殺を承認すると共に、世話役には暫く留任を求めた。

    此伝習所の成績は良好であつて、此所に学んだ者達によつて全国の織物生産地が、洋式化し急激な発達を為した。又、同年二月二日明治天皇が、伝習所に行幸せられ、佐倉、井上等の操作する、洋式機械を御覧になった。

    会社の終末 

    明治八年頃となつて、西陣物産会社内部結束が弛緩し、各織屋単独個人の活動が、旺盛になつて、会社は時々に名を利用するに過ぎなくなつた。当時の役員には会社の基本財産を蓄積するなどの智識はなかつた。当初三万両もの金が這入ったのであるから、会所建物等を買い、或は建築すれば会社の活躍に便利であり、上納金の成績も良好であつたと思われるが、要するに未だ其処迄の考えは出なかったものと見える。

  • 西陣織物館記(明治二年~三年、西陣物産会社(2))

    西陣織物館記(明治二年~三年、西陣物産会社(2))

    第五節 西陣困窮に対する匡救の方策と其の成敗

    京都府より借受金三万両と共同仕入支払

    西陣窮境打開の方策は、此際滞貨を一掃して、将来の需要に向く新製品に着手せしめることが、焦眉の急である。と共に、此機会に、仲買問屋の搾取から脱し、公正なる取引制度を、確立しようとする考えが起ったのも、時勢の赴く所であつた。其れが即ち、前記会社の仕様書となつて、実行せんとしたものである。

    右仕法書に基いて集荷するとなると、小額の資金では事足らないから、矢張りお上に、まとまつた金の貸出しを、願上げるより外に分別は出ない。

    京都府は、右申請の趣を聞届けても、責任を負う者が無くてはならない。因て全西陣織物業者の、公認と云うより公設団体を創設せしめ、勧業資金の内から、大枚三万両を貸出して呉れたのである。

    此三万両貸付け方法は、諸説に分れ、二万両と一万両の二度とか、或は一万五千両ずつ二度とか、伝えられるが、其間にも、別口八千両の借入があり、其外にも、時々泣訴してお助けを願い、寛大に聞届けられたようである。尤も別口分は、総て正直に完済した事になつている。

    此三万両を以て、後記入札売捌所兼会社事務所を設置して、共同販売事業を行なった。而て此事業による収入を以て、借入金三万両を返済する計画であつた。

    京都府の御命令により、会社の組織が確定して、会社が一本で集荷し、一手入札販売することに、御許しがあつたので、製品は漏なく、会社へ持込むよう触れた。待ちに待った織屋は、先を争って代物を運んだであろう。 中には永く土蔵で埃に埋れた品に、陽の目を拝ました物もあるのは人情である。

    一手販売取引改善の成果

    会社の一本集荷が現金取引である限り、製品の持込成績は極めて良好である。次 に一手販売となって、入札により旧弊潸実を排し、明朗な取引の理想が顕現したかと云うと、そううまくは問屋は卸さなかつた。 

    持込品に対しては、夫々優算払をしたと思われるが。扱て此価格の査定方法を如何にしたか、文献記録が無い。借入金三万両は、またたく間に、残らず織屋に支払われた。

    文献には、当時未だ織屋の自覚が足らなかつたから、失敗を招いた。と記されてある。之れは余程ひいき目に見たのであつて、実は成功する筈のない、空想に近いものであった。仲買商間の談合、或は不買同盟、特別関係にある仲買商と織屋の抜け取引、は防止できない。会社には、殆ど売れぬ代呂物のみ持込まれ、会社は滞貨の山を抱える。会社の責任者たる世話役は、狼敗して、下京へ出張所を出したり、京都御政府に、市中御布告を願ったり、諸国商人及素人売りの駒札を、諸所に建てたり、四苦八苦の販売宣伝をした。其間にも世話方惣代が、泉州堺、摂津大阪へ売捌きに出張した。其又出たちが振っていたと云われる。京都府から御許しのあつた帯刀二木、羽織袴、手代、番頭に荷物を持たせて行つた。当人は士分を以て得意満面でも、買う方では阿呆らしくて尻込みする。大名相手に慣れた坂堺の豪商には歯が立たず、徒らに後の世語りとなつた。

    斯様な有様であつたから、遂には一本集荷も、一手販売も、休止するより他なく、後仕末に、世話方役員は苦労を続けたが、個々の織屋自体は現金が這入つて、経営費が回り、蘇生の思いであつた。何と云つても、三万両の大金は西陣より外へは出て居ないのである。これにより新製品の考案研究の余裕も生じ、次々に優秀織物が生産せられ、西陣全体に活気を呈するようになり、立直ることが出来たのであると編者は断定する。西陣の今日あるは、此三万両の御影であり、又之れにより此物産会社が各種の大きな仕事に協力することを得て後記する偉大な功績を挙げ得たのである。

    • ※結果として失敗したとはいえ、これが西陣組合による販売・宣伝の取組の先駆けである。

    第六節 京都府より借入金三万両返納経緯

    同借入金返済延期歎願と京都府の指図

    前節の通り借入金は、織物を持込んだ者に払渡し、代品物は一向に不捌けで、売得金が無いから、返済上納の目算が立たず、延期を嘆願するより外はなかつた。

    乍恐以書付率願上侯

    一 、従先般東洞院六角下ル物産引立所江旧冬従御政府奉拝借侯御金参万両御廻シニ相成故於同所借用被申付右者

    旧冬西陣織屋共必至困窮之折柄事実奉言上候処格別之御仁恕を以種々御手お被為尽御金御貸下被為成下右御蔭奉載二而旧冬必至之困苦を相遁候然ル処何分代呂物不捌ニ付種々損失利損等出来仕其上此頃に至り一般之不景 気二而不捌弥增相成不融通二而一統心痛仕候已後屹度尽力仕規則相立追々代呂物売捌来ル七月晦日限元利上納可仕候右ニ付何とも恐多御願事二御座候得共当分之所月壱歩之利足二而貸下ヶ候様同所江御沙汰被為成下候樣

    只管奉願上侯此段何卒格別之御仁恤を以右之通御聞届被為成下候ハバ莫大之御仁恕如何計數難有仕合ニ奉存侯

    以上

    明治三午年四月

    西陣物産会社

    世話役惣代
    日和田屋新七
    井筒屋弥助
    蔦屋善兵衛
    丹波屋長右衛門
    同 利右衛門

    御政府

    右願書に対し、京都府より願書の上欄付箋に、次の通り指図があつた。

    本書東洞院物產引立所より改而借用するニ不及其儘当府より其引立所へ貸渡候都合二而可然候条申出之通返上日限無相違相納可申候事

    但返上日限無相違相納候上ハ其節利足等之儀も尚精々詮儀之都合も可有之候事。

    此奉願書に「旧冬物産引立所へ御回し」とあるが旧冬とは十二月であつて、物産引立所の出来たのは明治三年一月即ち春である。所が此物産会社が貸下げを受けた金は、京都府勧業方直接取扱いであつて、借入金は、商法司と称した日本銀行の前身の如きものから交付せられた。然るに、此願書も全々嘘と思えぬから、三万両の貸下げの内残金一万円或一万五千両があつて其れは物産引立所から回わされたものと思える。扱て此物産引立所の内容が此願書の狙い所であつたと思われるのは、京都府は、明治三年一月京都市の産業崩壊の危機を防止すると共に旧弊刷新を企て、之を指導する目的を以て、東洞院通六角下ル所に之れを設置し、京都市内の豪商十数名を京都府御用掛物産引立世話役に任命し、主として勧業資金の貸付と、経営の指導をして、商工業者の企業の立直しに、助力せしめることにした。何しろ民間人の寄せ集めと、大まかな旦那衆のみであるから、貸出しが放漫で、好意的偏頗な処置に流れ易く、借り方も顔が利けば気楽に融通して呉れて、督促も呑気であつたから、何かと窮窟な京都府の取扱金より、此引立会所から借りた方がよい。さすれば、返済上納延期も話が解りよく、一つ一つ恐れ入らなくて済むと考え、西陣物産会社も早い話が借金の肩代りを願ったものであるが、京都府は余計な手数を踏まなくてもよい。七月末日に返済出来るなら、相違なく持って来いと命令したので、藪をつついて蛇を出した。

    借入金返済延期願い再度―京都府の不承知

    前項の三万両七月末日返済額は、当初から実行不可能であつて、 一時逃れの手段であつたから、泣訴哀願、期日を同年十月末日迄、延期して貰ったものの、之れとても、返済上納金を調達し得る目算が、立たなかったから、次の願書を提出した。

    乍恐奉願上候口上書

    一、先般物産会社御許容被為成下職業情実盛大之為め御金三万両御拝借奉願上侯処格別之御仁植を以御 貸下被為成下御蔭奉載ニテ必至之困苦を相通難有奉 恐縮侯然る処有御金当十月御返納可奉仕等之処一般 之不景気二而不捌ヶ弥增不融通ニ付実以心痛仕侯間已後尽力仕法則相立代呂物売捌キ専一二可仕侯間何 卒格別之御憐愍を以来ル十二月廿九日迄御猶予被為成下候段御歎願奉申上侯間御聞届ヶ被為成下候ハバ莫大之御慈悲ト如何計難有仕合二奉存候 以上

    明治三庚午年十月廿九日

    西陣物産会社世話役

    沢田新七

    武本治兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    広瀬利右衛門

    中西長右衛門

    京都府御政府

    此願書の署名は、明治三年九月十九日、庶民の氏を称するを許す、との布告により、旧来の何屋何兵衛の、屋号を姓氏に替えることになつたから、斯様に変った。

    右口上書に対する京都府の意見は、「難聞届侯事」として願書に付箋返却せられた。

    再三の延期願に立腹した京都府役人が、遂に強硬な態度を示した。然しながら物産会社は京都府が聞届け下さらぬからと云つても、無い袖は振り様が無いので、又長文の歎願書を差出した。

    借入金返済延期御憐愍御聞届け歎願

    一、願書

    奉歡願候口上書

    一、当職之面々商業非法ニ募罷居候処既ニ昨己年一般之不景気二付商先ヲ失と中秋之頃ニ至テ休職ニモ可及候様成行其上中宮様御発興被為在侯テ相歎己が怠ヲモ忘却致当職続小前之者共モ携御騰ヶ間敷儀奉惜候段言語同断之至卜奉恐縮侯処其後当職内之者共区々御愁訴奉言上候処逐一御利解被為遊候其上元仲ヶ間之肝煎之者共御召出二相成職業向之形勢悉ク御尋之上会社一途二組立可申様御許容被為成下夫而己莫大之御金拝借奉願上候処格別之御に慎ヲ以テ御貸下ヶ被為成下體有本感伏会社法則申合ヲ以テ物産興隆成立,主トシ去ル十一月廿六日 初会社致一同持合セシ品々尚小前三至迄集会仕候処商人家中追々二集リ現金人札等致以之外繁昌之法ヲ設ヶ切 何二職業盛大相成候へバ弊習去り勉励精業可仕様、前条御愁訴奉言上侯者共速二必至ノ窮態ヲ助リ御恩沢 之程如何計難有率感載侯就テへ追々二御金御拝借奉顧上侯処都合三万両御貨下ヶ被為成下雞有奉恐縮侯尚亦当 社基本トシテ身元相応之積立金ヲ持寄出産之品追々買入致潤沢=仕入凡代金高拾万両余之品々閒置当地四条 並東京大阪右ヶ所商業出張所を御許容被為皮下益々盛大二相成世話役之面々共奉拝悦候処其以来济会社二於テ モ御趣意柄精実貫徹仕自ラ物価一般二下落仕元品莫大之安直相成当時社中之有代呂物夫々買入之節ノ直合= 引競べ明白二勘定相立侯得共当時平均二直段ニテ急速=売払候時へ多分之損失二立至り且又一般ノ人気ニそ物 り候哉ト当十七社の肝煎役之者共深心痛仕自然之損失卜乍中御拝借之御金御返納並御利足御上納等二不都合二 成行候得者第一奉対御上樣重々離相済奉恐入候御儀ニ付今般世話役一同決談之上各社更二一洗仕法則相改別紙之仕法相立テ御貸下ヶ金御返納方へ一ヶ年二三千両宛月賦ヲ以御上納奉中上度侯且亦御利是之儀へ御元金皆 上納後二吃度相納可申段一同莫大之奉豪御恩沢愈物産広隆基愚昧之面々投身命尽力可仕候実=以右厚ヶ間敷儀 奉言上侯テへ昨年已来必至之窮羅御救助被為成下御趣意ヲ忘却等で可仕様下被思召侯下奉心痛候得共実二 以会社従御許容一ヶ年ノ間世話役面々抽丹精御書下ヶ之御趣意基諸世話致居候得共自然之形勢二成行候段變重 ニモ御記申可奉言上侯間何卒御憐愍ヲ以テ願之通御聞届ヶ被為成下候へバ広大之御慈悲,如何計難有仕合可奉存侯以上

    明治三庚午閏十月

    物産世話役

    惣代

    沢田新七

    武本治兵衛

    竹之内 作兵衛

    伊達弥助

    渡辺善兵衛

    中西長右衛門

    京都御政府

    願書文言の説明

    前項願書の内容は泣訴の一言に尽きる。其内「中宮様御発輿被為在候テ相歎己が怠ヲモ忘却」云々に付ては、若干の説明を加える要があると思う。

    明治元年十二月十八日一条忠香の三女美子寿栄君御入内、即日立后被仰出、次で中宮の称を廃して皇后宮と称し奉る事になった。願書中の中宮様は西陣永年の呼び慣わしを其儘に使用したものである。

    明治二年三月七日明治天皇、京都を発し、東京に遷られるや、諸官省悉く東京に移ったから、京都は津浪の引いた後の如く、寂寥たる感があつた。次で皇后宮が同年十月五日御発輿、東京へ向われる旨発表せられた。

    内静的と見られた京都市民が、俄然騒ぎ出し、「天子様の御東行は時世の移変り是非もないが、中宮様は永久に京都に住ませられたい」と、市内諸所に行啓反対の貼紙をする、九月二十四日には数千人が行啓反対或は中止嘆願の旗幟を押立てて、寺町通を北へ石薬師門から京都御所朔平門から常御殿の皇后宮御住まいの方へ押寄せ、東京行啓中止の直訴を企てた。

    ――――後年のデモンストレイション示威運動も京都が先端であろうか――京都府は狼敗して、兵部省の兵隊を繰り出して群集を阻止し、追い払ったと伝えられる。

    此時皇宮堂上衆悉く東遷した為、大影響を被つて居る西陣織屋も、黙って居られないと、禁裏様とは深い縁由もあり地の利も近く、毎日数百名が湖平門前広場から東猿ヶ辻辺り迄坐り込んだ。(座り込戦術は西陣の発明であり、これが又第一号であつたかも知れない)又多勢が、御所の周囲をぐるぐる回って、千度詣りの祈禱をする。当時の有様をば、何とかして、西京に留まらせ給うみちはなきかと、嘆き訴え申せしこそ道理なれ。と書いたものがあるが、ことわり所ではない新婚夫婦に、百数十里別居生活を要求するなぞ、無茶な話であるが、之れを又自慢にして右願書に書いた。

    長谷京都府知事は、群衆心理からの事故発生、例ば御門前で割腹するなぞ、男子の本懐と思うていた時代故、 非常に心配して、京都市内の有力者を総動員し市民の説得と慰撫に努めた。結果は事なく東京へ御出発あらせられたものの、此様な京都市民の不満を緩和する為にも役立つからと、政府は勧業資金十五万両を、京都府に交付して呉れたのである。(明治五年十二月明治天皇が京都市へ下賜せられた十万両とは別である)是れに付ては、 西陣織屋の熱意と苦境の有様が、上聞にも達した事も、有力な原因である。其れを思えば、京都府がそう喧ましく謂わんでも、暫く待つてもらいたいと、皇室を担ぎ出して頼んだと見られる。

    又暫く待つて貰っても、所詮は借りた金であるから、払わぬとは調えず、色々と泣き事を並べても、要は金が集つていないのみでなく、調達の思案が付かぬので、此際延期願の筋を通す為、年賦毎月払いの計画を申出た。 而て願文中に「別紙の仕法相立」とあるが、仕法書は未だ発見せない。実際には何等実行して居ないのであるから、発見せなくてもよい訳である。

    又「当十七社の肝煎役ノ者共」とあるは、会社設立当初の十八社の内練絹、精好、絵絹が合併して三品社と称し、別に天驚該社から、綿天社が分離して、十七社となった。

    京都府の問責上納命令 

    明治三年十月借入金三万両上納延期教願書は、仕法書迄付けて、支払方法を陳弁した に拘わらず、其後少しも実行する気配もないので、翌四年夏、京都府から、西陣物産会社に対し、上納申度書が発せられた。

    西陣物産会社世話役

    同 各社肝煎

    同 各社中

    去己己之冬両度に貸下侯金三万両返上方之義段々及遅引候右は西陣之儀者御国内之織物之最上外国迄を致貴誉侯物産二付方今之世態益勉強可為致ため若干之金高茂貸下候事二候処兎角返金怠惰に相流れ去頃巳来催促之節ニ近来織物不人気又た各社相続難義申立斯三ヶ年之今日至迄不納二罷過候条以之外之次第二有之最前他二無之 格別二救遺侯仁恕之所置をも忘却さしめ候心得世話役之者は不及申各社一同不束至極憐助之途も無之候就而は 皆金三万両一時上納可申渡之処突然大金取揃方彼此離たるへくに付猶分段々評議を以三ヶ度済ニ成遺候条難有相心得各社之者へも篤と申渡銘々尽力之上当七月十三日同晦日八月廿九日都合三ヶ度二割合セ壱度壱万両宛無 相違勧業場へ返納可致候就而は此往各社ニ於て屹度見込有之事柄二而融通方差湊候節へ仕法書を以て願出候はゞ時々僉議之上引立可遺候事

    辛未

    京都府

    右の如く至極尤もな、文切形の借金免れも、よい加減にして置けと、謂つた愉快な而も名文の上納申渡書が降って、会社一同一言も無い。特に各社の者を対象にして居るので、全織屋に対して責任を負わしめたことになる。とは言え、僅か半月余りの間に、壱万両は愚か千両の調達も、会社のみでは不可能であるから、必然各社が各個人の織屋を対象として苦面の方法を協議の結果、遂に機別出銭となった。

    機別出銭と上納額機別出銭とは、織屋戸別に設備機台数により、分担金を出すのであつて、

    一、広巾織機壱台二付月廿五銭

    二、逼幅織機壱台二付月十二銭五厘

    三、木綿織機は其半額

    と定めて、毎月各社の肝煎が集金して会社に納め、会社は京都府へ之を上納することにした。此負担は時代の物価から見て相当重いものである。

    機別出銭はお上の御命令との触込みに、止むなく承知はしたものの、社により不腹不満があつた。

    元来元金三万両の支途は、製品持込者に、概算払したのであつて、其為会社に損失が生じたとすれば、当然製品持込者が責任を負担せねばならぬのに、西陣全般に機別出銭せしめる事は、甚不公平であると考えられ、予定通りの出銭が得られなかったものの、明治十年三月迄には金七千九百参拾六円を、支払上納し、残金は二万二千〇六十四円と、明治四年七月盆の入費に困窮した、小前織屋救済の為に、京都府から別途に借入れた金弐千円が未払となり、合計金弐万四千六十四門七錢三厘八毛が、次の西陣織物会所に引続がれた。

  • 西陣織物館記(明治二年、西陣物産会社(1))

    西陣織物館記(明治二年、西陣物産会社(1))

    第二節 西陣物産会社の性格及機構

    同会社は西陣織屋の組合、同会社名称の起源

    会社と云う個有名詞は、明治二十九年民法、商法の公布により、法人たる会社が独占してしまった。西陣物産会社は名は同じでも、全々異なる性格の団体であつて、後年の組合である。又其下部組織に「社」と称するものが十八社結成せしめられた。故に社と会社の親子関係に於て、 混わしいものが出来て居る。

    辞典を按ずるに、「団結して事を共にする者を社と曰う」とある。又「古は郷閭(きょうりょ)に二十五家を一組とし、之を一社と称せり、此社が相聚(あつま)りて団体をなすを社会と云う」、とあって。「会は合である」と註してあるから、西陣物産会社は此古辞と組織型体を、其儘に頂戴したものである。尤も前記註訳には社会と書いてあるが、今日の如く会社と云えば資本主義保守の代表者となり、社会と云えば革新思想をあらわす、といった区別はなく上下転々共に同意義であった。

    徳川時代の、西陣織屋仲ヶ間は、今日の組合の元祖であると調われるが、其真の目的とする所は、織屋の名門が、特権保持の団体であり、八組中でも一番織屋の座中へ加入することは、中々に許されず、此組衆中以外の織屋は小前の者として、十把一絡げに取扱われた。

    旧弊刷新により、全西陣織屋は、高機も、西機も、織屋としても、国民としても、平等の地位になつたのであるから、旧仲ヶ間の如くに、人権を無視した思想によつて造られたものは、此際解消せしめて、全く新しい出発点に立脚し、全西陣の組合団体を結成せしめねばならぬ。との考えから、京都府は、此名称により、設立することを命じたものであると思う。

    西陣織物は昔から絹織物の大宗ではあるが、品種銘柄が雑多であるから、各専門生産によつて、織屋同志の利害関係が異るから、一律には行かないので、之れを十八品種別に区分し、夫々を社と称した。社には或程度の自治権を持たしめ、之を統一する者を会社とし、対外接衝、官庁への上意下達等の権限を持ち、其惣代役員は全西陣を代表して、官庁に対し総ゆる責任を負担せねばならぬこととした。

    政体変革、忽忙の時であるから、中央政府は勿論地方官庁も共に法制も定まらず、京都府御政府の御思召は即ち法令であつて、否応なしに、承けたまわらねばならぬ代りに、困って泣付いた場合、一諾よく資金の貸賃下げも 実行せられた。

    尚此西陣物産会社の名称は、明治十年の改組迄、変る事がなかったのであるが。明治三年正月京都府が、京都物産引立会所をば、京都の豪商を御用掛として設立し、同年七月物産引立総会社と改めた際、会社の出張所の名儀を併用した。

    同会社の機構及役員

    イ、品種別十八社下部組織 

    前項の通り、西陣産物を、品種銘柄別に十八分類し、各品種別に織屋を結束せしめ、之れを社と称した。

    同一人の織屋が、二品種を生産している場合は、両社に所属するのは致方なく、後年の組合でも同様行われた。即ち、

    模様社。金欄社。紗織社。博多社。繻子社。夏衣社。真古带社。綸子社。縮緬社。羽二重社。古带社。線子社。木綿社。天鵞絨社。真田社。精好社。絵絹社。練絹社。

    であつて、夫々独立運営の機構としたが、事実は同会社の下働きの役が主であつた。

    ロ、同会社役員と官の待遇

    役員は十八社各社毎に、肝煎三名を置き、各社所属員が選挙したものを、京都府 に申達し。同庁は詮考の上適当と思う者を任命した。合計七十二名の肝煎は公任役人の資格である。

    会社の役員は世話役と称し、其主任者は世話役惣代である。之れは京都府が任命した。

    十八社肝煎が京都府から、如何なる待遇を受けたか、記録はないが、京都府から辞令を頂戴する事だけでも、光栄に感じた事であろう。会社の世話役に対しては左の辞令を交附した。

    何某 氏 名

    西陣物産会社諸世話可遂心配候事

    明治二年十一月

    京都府

    世話役面々

    日和田屋新七。井筒屋弥助。葛屋善兵衛。伏見屋新助。菊屋七右衛門。鳞形屋利兵衛。菊屋嘉兵衛。吉田次郎兵衛。武本治兵衛。丹波屋長右衛門。丹波屋利右衛門。

    であつて、資産名望、西陣織屋の筋目も定かな者のみから任命し、多くは旧高機織物業者である。

    之等の世話役は帯刀を許され、京都府庁溜りの間に参入をも許されたから、大に優遇せられたものである。故に次項に述べる如く、羽織袴帯刀で出務したようである。即ち一般仲買商とは官位に於て格が異ったし、言葉も侍調子になったのではないかとさえ思われる。

    第三節 同会社の事業計画仕法書の内容

    此会社の事業が、設立の主眼であるから、京都府の指図により、其仕法書を作成し提出したものであろう。

    西陣織物産会社

    乍恐奉窺候口上書

    一、職業江仕込糸者和系商社より見積り高三十日之延金二而買入申度侯事

    但糸壱個(三拾把)之内上中下有之候ニ付織品ニ応シ仕分ヶ致夫々組頭之者共より小前之者へ貸渡シ候事

    一、右糸操縷者小前下職手明きの者雇入職業為致相応之賃銭遣シ候左候得者掠糸二番買之愁ひ無之自然元附安価之一助ニモ相成候様奉存候事

    一、糸練物場所取建壱ヶ月之練高に応シ其月之入費糸目方高に割付候事

    一、糸染之儀者藍染屋之外諸色者社中に染場所取建右練物之法ニ準シ候事

    一、絹織立之儀者諸国及外国向をも精々弁知シ織立物安価ニ織上ヶ潤沢ニ売弘め申渡候間諸国

    御府藩県下へ御通達奉願上其所江向候品柄色模様等承り度候事

    一、絹売捌き方者一六ノ日絹中買御会所へ相集め入札を以売払可申候若不算之人有之候節者從御政府樣厳敷被仰付度奉願上候

    但売残り之品者小前中買へ壱ヶ月之延金二而売渡シ可申自然不算之節へ右同断

    一、会社潜売買致候者有之候節者社外可為事

    一、諸国商人及素人江現金売之儀者定日ニ不拘日日附札之儘売渡侯事

    一、御寮織物師卜唱苗字相名乗候者五戸有之此者一番織屋ニ而織立候品ト同様ノ品を乍織立居是迄一同江随心不致彼是旧弊申募居候得共御寮御用向之御品等も右一番之織屋内ニ而も織立相動来り候得者(そうらわば)右等之差別無之次第と存候間向後会社へ附属為致度候事

    一、是迄小前ノ者へ賃織差出シ候向有之候処元糸並仕上ヶ糸絹等質物二差入候者在之及相対候ハバ不法之儀を申立言語同断の儀に候得共何分小前之者故為相済侯此儀杯へ質貸渡世之者は粗乍存知預り候向で有之嘆ヶは敷事二付以来右様之所行致者有之候ハバ被仰付被下度此段御願奉申上候

    一、雇入奉公人取締之儀者其主人精々親篤に教諭を加へ職業勉励為致可若不行跡之動方有之候 ハ屹度社外いたし度候事

    附惣体西陣之者とも積年弊習離離少々斗貨殖二相成候と遊惰致不景気ニ相成候と極難渋之向多分在之是等のもの今般屹度管轄仕度候。

    右之通相成候ハハ仲買糸屋両口錢及掠糸之無愁も自然安価に相成捌方も宜敷相成申候会社取結之上者一統のもの親戚同様に相親しミ一己之私欲を省き当地衰微不相成様協心尽力仕永世不朽之基礎といたし度候間乍恐此段奉窺上候 以上

    明治二已年十一月

    右仕法書の可否窺奉った書面上欄に京都府の指令が貼付せられてある。仕法書の主眼は取引改善であるが、尚之れを事業別から見ると、要するに、共同購入、共同発註、一元集荷、共同販売と、殆ど昭和時代に来ての協同組合法に規定せられる事業の内容を挙げて、中小企業の進むべき道を、明白に唱つた立派なものである。単に取引改善と、一口に片付けるには勿体ない程の組合憲法である。所で此仕法書は、経費及事業資金に付ては何等触れて居ない。之れは恐らくは京都府から借入れる内諾があつて、明示する要が無かつたのであろう。

    第四節 西陣困窮の次第

    第一節に述べた如く、東京遷都により、先途に光明を失った西陣産業をば、回生振興せしめねばならないが。

    其れは元より、個々の織屋が発達せねばならないのであつて、織屋が困窮極まって、総潰れとなる状態にありとすれば、先ず是れを防止して遣らねばならないのである。

    西陣の大災厄は、古くは応仁。近世では享保、天明の大火を最大として、其数も多いが、今度のは天災地変で なくて、政治の変革による製品滞貨の災難である。其製品が又無価値にも成り兼ねない、不安な状態から来る危機であつた。

    黒船来舶によつて、泰平の夢が破られてから十数年。政治の混乱と、治安秩序の紊乱が続いて、不安不景気の世の中をかこつても、西陣の機場に、将校の音が絶える程の事はなかつた。綾、鈴、金欄、殺子の製織は、日々続けられ、其襲産数量は、縦屋四、九〇〇○戸から年間約壱百万点以上に達して居た。之れが不景気で、売れぬと云つて仕事を手控えしても、日々相当数量の製品が溜る。殊に当時の西陣織屋の大部分は、製品が捌けぬとなると、忽ち其日の生活にも困る者が出来る。所が此時の不景気は政治革命による、需要層の崩壊と同時に起った、 服装の大転化によるものであるから、一時を忍ぶ如き甘いものでない、深刻さがあつた。

    西陣織物の需要層は、往古から庶民階級ではなかったことは申迄も無い。慶応四年迄と調えると思うが、上は徳川将軍家から旗本八万騎。加州金沢前田侯百二万二千石の国守大名から、小禄一万石の小名に至る迄。二百六十の列藩、其れに従う家中侍。別しては禁裏と朝臣百三十五公卿と云つた堂上衆が、御得意様であつた。其人々の必需品である直衣、狩衣、直垂、素襖、大紋、肩衣、待等悉く不必要となり。又其等御得意様の経済状態が、 是迄の如く、大まかでは居られなくなつた。尚又廃仏棄却の思潮によつて、僧衣荘厳用裂地の需用が途絶したか ら、従来の用途の製品の捌口が消滅したのである。従而て売れない物を仕入れる仲買商も無く、買えと云うのも無理な訳である。

    西陣の織屋で仲買と二足わらじを履く程の資力ある者は格別であるが、縦屋(よしや)専業である限り、御寮織物司であろうと、大舎人座の筋目であろうと、家の土蔵に千両千貫貯え寝かせている程の者は、一人も無いのが特色と云われ、大織屋は三代持たぬと云われる諺があるのも、此様な懐状態から生ずる、悪循環がある故に、窮迫するとなると急速度に困まつて来る。製品を抱え切れねば、倒産するより他はないのである。

    此状態に於ては、当然滞貨品の投売りする者が生じ、生産地全般に値崩れさす不徳義者も生じるのが、西陣織屋の悪癖であるが、此時は製品の用途が、全然無くなつたものがあつて、投売も相手にならぬ、丸損の心配もあつた。とは云え、滞貨の中には売れる物もあり、必需品も沢山あつたが、織屋の脚下を見る、仲買商人の遅ましい商魂は、益強気で仕入れを控え、或は値をたたくから、取引の改善も、痛切に叫ばれる訳ともなつた。

  • 西陣織物館記(明治元年~二年)

    西陣織物館記(明治元年~二年)

    明治元年より同三十年迄の西陣織屋団体の隆替と其の事務所(会館)の変遷

    第一編

    第一章 明治元年西陣織屋仲ヶ間と仲買商仲ヶ間との議定一札

    第一節 議定取交わし由来

    此の議定とは、申合せ書であるが、西陣織屋と仲買商が、組合を仲ヶ間と云つた時代、団体交渉により申合せた、最後の文書である。

    徳川幕府が、大政を奉還して、王政に復古し、帝都が江戸に遷つたので、京都の街も、やがて古都奈良のようになりはせんかと心配した。別して西陣織屋と下京の仲買問屋は、失望落胆と共に、此上は商工業者互に結束して助け合い、難局を突破すべきであると、両仲ヶ間の肝煎、取締役が、各々思案の末、取替え一札とはなつたのであろうが。明治大革新の嵐の際、付焼刃の気休めでは物に成らず、早くも翌明治二年には、次章の西陣物産会社の設立により、此議定書二巻は、屑紙同様となつて、文献としても、史実としても価値なきものとせられ、何人の目にも留めて貰えなかった。

    此議定書二巻は、西陣織物館の筐底に、うずもれて居た。署名者中には、其後裔が現存して、同業を続営し発展している店もある。

    茲に全文を掲げて本記の起筆とする。

    第二節議定書

    一、西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札

    議定為取替一札之事

    西陣高機織物之儀、京都第一之産物ニテ往古ヨリ諸国江普通二付而へ其御仲買方江売渡来候儀ニ付互二水魚之交リヲ結ヒ相続仕来候処今般御大政御一新二付総而旧弊御廃止二相成商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成壱番組織屋仲ヶ間並壱番組仲買ヨリ御鑑札被下置難有依之商法速二相立候放新二双方立合実意ヲ以熟談致候而確定之上自今壱番屋方二而織出シ侯品へ従来共御仲ヶ間中二限り売渡シ来候儀二付猶又相改メ壱番組諸織物限リ以来決而他売致間軸候仍而不相変其御仲ヶ間江売渡侯間已後不実成取引等無之樣西陣壱番組織屋小前之者二至迄引立方相続二相成候而土地衰微二不相成樣実直之取引致永世商法相建テ双方申合役中之者調印確定之上へ無異変為取替一札依而如件

    明治元辰年十二月

    壱番織屋
    高機八組

    肝煎

    鱗形屋治兵衛 
    伏見屋新助

    取締役 

    永組 檜皮屋利兵衛
    亀組 緞子屋治郎兵衛
    梅組 近江屋久兵衛
    松組 伏見屋織兵衛
    紗組 紗屋利右衛門
    本地組 房屋喜兵衛
    鶴組 錦屋平兵衛
    竹組 堺屋九郎兵衛

    壱 番

    西陣織物仲買
    御肝煎中
    御組御一同衆中

    • ※高機八組とは江戸時代の仲ヶ間組織のことで、西陣の営業権を独占した。なお当時は御寮織物司と呼ばれる織物業者がおり、織物業者としては、この御寮織物司の方が格が高く、大名や皇室等の注文を受けた。御寮織物司としては井関家や三上家などが知られている。

    二、西陣織物仲買より高機八組へ議定一札

    議定為取替一札之事

    当仲買之儀者往古ヨリ西陣高機織物限り買請来リ侯儀ニ付互ニ水魚之交リヲ結ビ相続仕来候処今般御大政御一新二付商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成候処西陣壱番組二而顧立候諸織物当仲ヶ間江買請 侯儀二付旧弊相除キ商法之大意ヲ旨トシ自然織物不捌ヶ之節者実意ヲ以談事方致双方納得之上買請不実之取引 等決而不仕尚小前之衆中二至迄相続専一二仕決而不当之直組等致間敷候依テ不相変壱番組織屋仲ヶ間ヨリ被織立候品々手広二買請実直二取引仕土地衰徵不相成機今般双方確定之上永世之商法相立候上者後世二至り侯而モ異変無之樣相互二役中之者連印為取替一札依而如件

    明治元戊辰年十二月

    壱番

    西陣織物仲買

    肝 煎

    誉田屋庄兵衛
    千切屋治兵衛

    取締役

    雁金屋半兵衛
    誉田屋正五郎
    井筒屋半兵衛
    鍵屋源兵衛
    藤屋長兵衛
    菱屋治郎右衛門
    雁金屋吉兵衛
    菱屋治三郎

    一番織屋
    高機八組
    御肝煎中
    御取締中
    御組一同衆中

    第三節 商法会所と京都財閥三家の勢力

    京都府商法会所、後の勧業方前節議定書に、「商法御会所御取建仲ヶ間江夫々鑑札御下げに相成」と謂つて感謝している。此会所とは京都府の一分課であつて、明治二年四月七日、之れを廃して、勧業方と称する課を設 けた。

    右会所は、明治元年四月二十五日京都知府事長谷信篤が任命せられ(京都府知事と改称したのは明治二年七月十七日)謂わば応急措置に設けたものであつて、存続期間は、永くても十ヵ月には満たなかったらしく、従って著しい仕事も出来そうなこともなく、史録にも残されるような事績も見当らない。故に夫々に鑑札を下附すると 云つても、京都市の商工業者全員個人別に下附したとすれば、当時の役所仕事の状態からして、一年や其所等では到底渡し切れるものではなく、恐らくは旧仲ヵ間の、名前帖により、旧慣に従い、夫々の仲間即ち組合に、 取扱わしめたものと思われる。

    此鑑札の下附は、即ち営業の許可制であつて、若し其取扱いが事実上仲ヶ間に委任されたのであれば、新規業者に対する牽制策となり、旧業者の既得権を保護したものであるから、旧来の商工業者は感謝して当然である。然し、之れを単に封建的保守反動的行り方であると、見てしまう事も当らないのであつて、当時は諸政御一新の革命思想が澎湃として、四民平等から、営業の自由を唱え、就中、職工、徒弟制度の、人権を無視した、旧来の仲ヶ間団体破壊の論議が、盛になつて来たから、自然大棚の旦那は、商買に嫌気が生じ、生産及取引の熱意が無くなった。是れでは京都市の経済界は崩壊し、衰微することは、火を見る如く明かである。此際之等の人々を 其緒に安んぜしめ、革新政治を、平穏に進行せしめようと、計つた策であると謂うても、そう間違っては居ない と思う。

    此意味に於て、御会所の設置は、短期間ではあつたにしても、其効果は大きく、京都府知事に建言した、其道の有力者があつたからと思われる。

    三井、小野、島田三家の勢力

    当時京都の大財閥は、三井八郎右衛門、小野善助、島田八郎右衛門の三家であ つた。其他に富豪はあつても、此三家とは、比較にならぬ少資力であつたし、京都府知事も、此三家には厚く礼を尽した。王政復古と称した、政争の禁裏諸費用は、此三家から貢がれ、影の大きな功績者であるとも云われ、 宮庭内裏の勢力は、薩長土藩閥も及ばなかつたとの、語り草もある。三井家は説明の要はなかろう。小野家は、烏丸通押小路から二条通間の大邸宅を構え、皇室に親近して、金融用達を勤めた。遷都と共に東京へ移住し、明治六年には小野組一門挙げて、東京府移籍届を、京都府に提出した。槇村京都府大参事は、此様な大金持が、次々と東京へ移つては、京都は益々寂れるのみであると、其届書を握った儘で、京都裁判所へ送付せないので、裁判所は司法省へ其旨を報告し、槇村大参事は、其為に拘置せられた程の、有名な事件がある。小野組の勢力の一端を物語るものであろう。又島田家は金融業と呉服商を兼営して、京都市の経済界を左右する力を持つたから、 此三家を差し置いては、荒廃せんとする、当時の京都の産業を立直すことは不可能である。故に此人々が、長谷知事の枢機に参劃して、漸進方策を以て行つたと想像する。

    • ※1 この三井は現在の三井財閥につながる。小野・島田家は、ともに明治年間に破産。

    前記物業方設置の翌年正月、東洞院通六角下ル東側に開設した、物産引立会所御用掛は、此三家と下村正太郎 が任命せられ、所謂京都府市の殖産興築に貢献したものであることからも窺えるものである。

    第四節 仲買仲ヵ間より高機八組宛一札

    右勧業方が設置せられた時、仲買商より西庫高機八組宛の一札を次に記す。

    一、先般本文之通為取置侯多商法御会所御廃止相成今般京都政府於勧業方御取被遊都而諸仲ヶ聞是迄之通御建置相成則名前帳面右勧業方へ奉差上置侯付本文為取之条目双方相互二堅相守第一土地之資發 不相成檬実直取引致小前,者引立方之御趣意相守永続相成樣心掛聊異変有之開敷設仍而尚又連印為取容置

    一礼如件

    明治二已年六月

    壱番

    西陣織物仲買

    肝煎
    誉田屋庄兵衛
    千切屋治兵衛

    同取締役惣代
    菱屋治郎右衛門
    鍵屋源兵衛

    一番織屋高機八組
    御肝煎中
    御取締中

    右一札に対する、高機八組からの取替書は保存せられていないから、織屋仲ガ間から返書を発送したか否かは判然せない。畏らくは発送して居ないのが真実と思われるのは、此時には既に織屋側には、次章の会社設立に関 し、京都府の指示を受けて居たので、空文に等しい取替書の一札なぞ出すに及ばなかった状態にあつた。

    第二章 西陣物産会社

    第一節西陣物産会社創設事情

    京都府知事よりの申渡

    明治二年十一月、京都府知事三位長谷信篤は、西陣織物産業の窮境を救い、之を保護奨励の為に、織物業者の新団体を結成せしめ、製品の取引制度を改革せしめる目的で、其有力者を招致して、西陣物産会社を設立せしめた。

    此史実に付ては、明治四十二年十二月十四日、西陣繻子織新織法案出等の功績により、藍綬褒章を下授せられた橋本伝蔵が、八十一後の高齢の時の談中に、

    明治二年十月京都府より自分等御差紙有之侯ニヨリ府庁へ出頭シタルニ知事申渡へ西陣ノ織物大ニナラシムペシ其方法トシテへ織物ノ取引所設クペシ云々ト御熱心奨励被下

    とある。当時京都府庁は下立売通新町西入目守護職邱、即ち現府庁の地※2にあつて、出頭したのは其所であ る。右に付ては、もつと考察して見る必要があると 思う。

    • ※2 京都府庁は旧京都守護職屋敷を活用して設置されたことが知られているが、明治4年から明治18年までの府庁は二条城に置かれた。現在の本庁舎(旧本館)の竣工は明治37年。

    勤王討幕内乱による西陣の打撃文久、元治、慶応、から明治二年迄、凡十年に渉る歳月は、勤王攘夷佐幕開国の政争に全国が沸騰して、皇居京都は、権謀術数、剣撃闘争の日々が繰返えされた。殊に元治元年七月十九日から、同月二十日夜に至る迄、燃え続けた所謂甲子禁門の戦による兵燹(へいせん)は、河原町通三条上ル東側、長州藩下屋敷から火を発して、市内八百十一町、戸数二万七千五百十三戸が焼亡したと伝えられている。

    次で明治元年(慶応四年) 正月五日「菊は咲く咲く葵は枯れる」の俗語で名高い、伏見鳥羽の合戦から、同年 四月十一日江戸城の明渡しとなり、錦旗東征、函館五稜郭の一戦を最終として、戊辰の役と称せられた、朝幕の葛藤は一応終息し、王政復古とはなつた。

    此永年に造る国内の擾乱が、西陣織物の消化力に甚大な打撃を与えたことは古から戦争の度毎に受ける、平和産業西陣織物の宿命に例外はなかった。況(ま)して、明治二年三月二十八日、明治天皇が、東京へ都を遷された時には、徳川幕政三百年、商工業の繁盛を江戸に奪われた悔しさも、今度こそ吾世の春となつて、見返す時節到来と、喜びの期待が大きかつただけに、京都市民の落胆は見るも憐れであつたと云う。中でも西陣織物業者の前途は真闇で、忘然自失の有様となったのは尤もである。

    京都御政府へ西陣織屋匡救歎願

    抑も、徳川が天下の覇権を握った慶長此方、泰平の時世が続いたと謂っても、西陣屋街は幾度も、全滅に近い大火に通い、飢饉による災厄に襲われ、商買上では他産地の侵攻あり、糸屋の思惑買〆による暴騰あり、その度毎に、公方様、所司代御奉行様に願上奉つて、お助けを乞うたり、他産地を抑付けて貰ったりした。即ち極端なる特権階級の保護政策による、温床に安住して来たのであつた。

    明治の大改革により、諸政卿一新と云つても、未だチョン幅は其の儘であり。侍は二本帯刀して居た時代故、西陣織屋も昔からの習性は抜け切れなく、京都御政府様にお授けを乞うたし、又此際そうするより他はなかつたの でもあつた。第一行く先々の事は何とあろうと、今日の織屋が立行かなくなって来たので、先般明治政府から、 京都府へ、勧業資金として貸下げた、金十五万円から、此危機を脱する為の資金を、御貸下げ賜わるよう、織屋仲ガ間肝煎から願出たものと、謂っても間違いあるまいと思う。

    此時京都府には、長谷知事を補佐する為、槇村大参事が任命せられ、満々たる野心を抱いて、革新政策を断行せんと意気込んでいる際であり、京都市重要産業の興隆の為、資金を貸付けると共に、封建時代の遺物、仲ヶ間制度を廃止せしめ、新産業組織による団体を結成し、其れを基盤として、西陣産業を育成しようと計画し、同時に此全西陣統合体に貸付金に対する責任を持たしめることにしたのである。

  • 西陣織の来歴(西陣織物館記を読む)

    西陣織の来歴(西陣織物館記を読む)

    はじめに

    2年半前に「西陣555年記念事業」が行われたように、西陣には長い歴史があるが、そのうち過去を詳述した資料はまれである。

    織物の歴史はどこでも古い。衣食住の「衣」を司っている以上、編み物や不織布(フェルト)と比べて圧倒的に単純な織物の自足が促されるのは当然だ。西陣しかり、博多しかり、桐生しかり、八王子しかり、織物産地はどこでも上古からの歴史を主張できるのだ。

    今出川大宮東入の西陣織物館前、現京都市考古資料館前の西陣碑

    中でも西陣は官機の流れをくむ。官機とは官営の織物工場のことで、律令制の時代は大蔵省の織部司と称する専門工場があったのである。やがて律令制は崩壊し、貴族が直接、織手を抱えるようになった。室町時代には「大宮の絹」「大舎人の綾」と呼ばれるブランド産品が製造されていたらしい。

    応仁の乱に由来する「西陣」発生以前に、こうした一見由緒正しい歴史があるにもかかわらず、西陣が555周年などと控えめな数字を主張するのはなぜか。丁度いい明確な区切りが他にないこともあるが、応仁の乱で、技術に断絶が生まれているからである。今の西陣の技術の系譜をたどるとすれば、応仁の乱以降は直系だが、それ以前はいわば血のつながりはなくて、養子に入ったようなものだ。

    そして今の西陣の高度な技術は、江戸時代に培われたものだ。元禄時代、消費生活の奢侈化と衣料需要の増加に牽引されて、日本は未曽有の好景気に沸き、町人を中心とする元禄文化のもと、産地である西陣と販売を手掛ける室町はこの世の春を謳歌した。今でも西陣の全盛期は元禄時代と言われている。ここから西陣はまた浮沈交代を繰り返し、明治時代に至る。

    江戸時代、三井越後屋の売り場。「現金掛値なし」「店売り」が特徴。三井グループの源流

    さて、ざっと江戸時代までの西陣の歴史を追ったが、この後、明治時代以降の西陣の過去を知るのに、使える資料は多くない。そのうち最も読みやすく、読みごたえがあるのが「西陣織物館記」だ。西陣組合の先輩である前田達三氏が著したもので、今、西陣が明治時代の組合史を辿れるのは、この本のおかげである。

    せっかくなので公開する。前提知識が要るから、所々で僕の補足も入れることにする。なお著作権は切れているので、安心してほしい

    序日

    本記は西陣織物館の履歴書であり、生立ちの記である。夫れが、其の母体である、西陣織物産業人の組合団体を管理する人物の、器量の大小、才能の深浅、誠実心の厚薄、エゴイズムの強弱と、ほんのちょっぴりの仁侠心の存否が、組合の成敗浮沈を決し。引いて此の織物館の隆替興廃を醸成せしめた明治元年以降九十年の歴程を記述したものである。乍然、本記は小説でもなけれ ば、物語り伝説でもない。唯事務上の書類の内容を、綴合せたに過ぎないようなものであって。 謂おうなら、事実調査書であり、事件の陳述書であり又証拠書類でもある。

    本記を年代により三編に別け、財産目録を附録とした。

    第一編は、明治元年から、明治二十六年迄に、幾度も西陣織屋の本山が、建立しかかっては出来ず。建立せられたと思ったら、忽ち消失してしまった陣痛時代※1が過ぎて。明治二十七年、同二十八年の組合主悩者達が傑物揃いで、一般に信望があり、卒先範を示したから。西陣織屋一人残らず、最低十銭から、最高百円に至る迄快く寄附金を拠出して、黒門通元誓願寺角に、組合事務所(会館)を建設した迄の事績※2を記述し。其後は明治三十年迄の運営状況を略記した。

    • ※1 明治時代、「西陣物産会社」「西陣織物会所」「西陣織物業組合」といった組合組織のようなものができたが、いずれも長続きせず、消滅した。
    • ※2 この時代にできた「西陣織物製造業組合」のとき、黒門通元誓願寺東入に西陣織物館の前身ができた。(ちなみに今の組合の丸西マークは、この頃すでにあったらしい)
    西陣の組合が代々受け継いできて、現在は西陣織工業組合のマーク。明治28年にはすでにあったようだから、130年以上の歴史がある

    第二編は、明治三十一年以後、昭和十三年迄の西陣織物館全盛時の要項を、摘記したものである。

    其間大正四年七月、現存西陣織物館が建設せられる際は、組長及役員に俊英があり、姉なる事務長を抱えながら、西陣織物業界に多数の反対者があつた。※3其内文書に、会合に反対を唱えたのが、当時の西陣織屋の学歴─大部分中等学校程度ではあるが─のある者であつたから。昔から雷同性のある西陣の事とて、全般的に悪影響を与え。建築設計が萎縮して、ギャラリー程度のものとなり、芸術味が欠けてしまった。其れでさえ宏壮大廈無用の長物だと罵しつた。眼孔狭短見浅慮、が今に災を残して居る。其れにも拘わらず、西陣織物館が京都新名所として有名になったのは。之れが運営に人物を得て、熱意と誠実により、着々効果を上げたからである事を大略記述した。又昭和十年には附属事務所の改築を断行した。此度は賛成者のみで、一人の反対者も無かった代りに。其費用は組合剰余金等を以て賄い、一切経費の増徴をしない、条件を以てしたから。寄附金の募集も行わなかった。建築設計及規模に関して議論百出。其為組合組長の原案と全々異るものとなり。頗る使用効率の悪い建物が出来てしまった。去りながら鉄筋コンクリート三階建は、其れなりに、爾後の組合事業に大きな効果を与えたことを記し。西陣織物同業組合解散に至る迄を以て本編を結んだ。

    • ※3 「現存西陣織物館」とは、いま京都市考古資料館として活用されている、今出川通大宮東入にある建物。大正4年竣工。

    第三編は。昭和十三年西陣織物工業組合設立から統制経済の概略。及び戦時転廃業の様相、西陣織物産地の荒廃、続いて敗戦被占領下の類落による、西陣織物館の危機と、之が保全に対する編者の施策、及昭和二十五年西陣織物工業協同組合解散前後の様相を、若干記述して擱筆した。

    編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。最少限度之れだけの物の梗概を頭に入れて置かねば、諸官庁其他系統機関の諸会合に出席しても、口が利けないから、否応なしの勉強であつた。其上物価統制に基く公定価格の設定による、格付見本として、各級物業者が原価計算と共に提出した、全西陣織物の品種銘柄は、実物教育となつて。現時西陣織物の智織を、最大限にまでに、豊富ならしめると共に。西陣織物業者誰彼無しに逢うて、嫌でも其性格を知らねばならなかったが故に、織物業者も企及し得ざる普偏的な、西陣の土の匂いを身に付ける事が出来た。

    折も折、昭和十三年九月に、同工業組合理事会が、西陣織物館其他の財産を以て、公益財団法人設立の決議を為した際、列席して、織物館建設者達の真意を明確に把握することを得た。

    又、西陣織屋は昔から、時代と共に新陳代謝する。早よう謂えば、西陣の大機屋は三代と続かないとの諺がある。諸行無常は、あえて西陣織屋のみではない、他の産地も同様である。然るに、前線の負け戦さを挽回せんとする国策とやらで、西陣織屋は新陳共に軍工場に強制転業を命ぜられ。西陣地域杼校の音も、絶えだえとなつてしまった。誠に心細い事限りなかったが。織屋は亡びても、産地は亡びない。西陣織物産業は軈(やが)て復活し。往年の隆盛を見る時期の来ることを、確信した。そうなっても、西陣産地は中小企業工業者の集合地である事だけは、絶対に変らないから。是れが拠点、西陣織物館を失っては、早期復興は至難である。仮令(たとい)権道を用いても、 保全を計らねばならないと考え、之を実行したのであつた。

    一敗地に塗れて、山河国民総て虜囚となった。昔人は、「古来征食幾人か回る」と詠じたが、 西陣は終戦と共に旧業者がどつと帰来したり、新規の開業者で。一挙に戦前の倍数に昇る織物業者で溢れた。嬉ばしき現象ではあるが其処に数々のトラブルが発生した事を、本編に記述してある。

    昭和二十五年十一月十一日京都市会議長に、西陣織物館開館助成の請願をし、翌年二月十三日京都市会で之を採択し。高山京都市長からは、京都市の観光施設として同館の再開を希望し、経済局、観光局と協議の上実地踏査をして助成する旨の誠に好意ある通達を受けた。其以前三月二日、大林組から織物館全館の改装工事仕様書と同工事費見積額金三百六十六万六千七百三十円を提出し。万端の手筈良好に運び、経費調達方途も万全の策を施したに拘わらず。主脳者の頭の切り替えが出来ず、訳の判らぬ現象が生ずると共に。果ては法人格も無い同業会に、事務所と什器を占拠せしめ※4、清算を阻害し。明治初年からの西陣織物組合功労者、組長、理事長の肖像額全部を会議室鴨居から、引降し、之を破壊するの暴挙を為すに至らしめた。言語道断の不埒とは云え、西陣織物工業協同組合清算と織物館資産との微妙な関係から、事を荒立てるの不利を思うて、静観するより外はなかった。

    • ※4 今の西陣織工業組合の前身の一つ「西陣織物同業会」は、当初西陣織物館を事務所や展示等で使用したが、旧組合(西陣織物工業協同組合)理事等との意思疎通が十分でなかったため、大きな騒動を引き起こした。これについては過去ブログで少し言及がある。

    昭和三十二年六月に至り、西陣織物館及附属建物並諸財産に対する法律上の障害が除かれ。是等を建設した、功労者先輩の遺志を、達成し得るの時期に到達したことを認め、本記を編集するに至ったものである。

    編纂の当初の目次計画は、西陣織物館其他の資産中。特に織物参考品、古文書等は、詳細なる説明と、寄贈者の名及蒐集記録を掲げて、第四編とする積りであつたが、其れでは本記が浩瀚になり過ぎるので。昭和二十六年十一月一日既成の目録を其儘に、附録として掲げるに留めた。実は本記編纂の目的は此附録財産の保全にあつて前三編は其説明に過ぎないものである。 之等所蔵品の中には、天保以来の西陣織物史上、金銭に更え難い貴重な古文書がある。戦時被爆により編者が斃れたら、仮令焼夷を逸れても。一括の反故紙として廃棄せられることを憂いたが、幸に共に今日あるを得た。

    以上を本記編纂の序日とし。尚編纂の経緯若干を凡例に於て補述することにした。

    昭和三十四年十月二十五日

    於西陣織物館

    編者述

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