戦時体制による業界の変化
昭和十二年七月に日華事変が始まり、翌十三年四月に国家総動員法が施行されて非常時にそなえる政治経済新体制が全面的に整備された。とくに西陣の織物に深刻な影響をあたえたものは公定価格の設定、生糸の配給統制、奢侈品等の製造販売禁止(七・七禁令)、企業統合、繊維製品の配給消費統制(衣料品の切符制)、指定品の生産割当などの相つぐ強行であった。そして昭和十六年十二月八日大東亜戦争に突入してからは、西陣業界の機構改革や企業経営の合理化がただ一途戦争目的の達成のためにいよいよ急激苛烈に推進された。
ところが一方、この間の西陣着尺の生産高を見ると、昭和十二年以後一年ごとに生産数量も価額も増加の一途をたどり、昭和十六年のごときは前年の七・七禁令実施の反動もあって一五六万四千点、三〇四〇万九千点という未曽有の最高生産をしめした。緊迫した時局とは全く反対の現象であったが、その後にこれを回顧すると、斜陽の没する前の夕焼けの明るさにすぎなかったのである。
着尺工業組合の企業統合
その当時、業界を統括していた組織は現在のそれと同名称の西陣着尺織物工業組合であつたが、昭和十六年一月の組合員は五一七名、ほかに賃機業者が一八二四名あつて、その設備織機は総数六六八四台(力織機六五二三台、手機一六一台)であつた。同年九月企業経営の合理化のために統合が強行され、織機三〇台以上を基準として企業統合して、組合員数六四名となり、翌十七年八月さらに織機一〇〇台以上に基準を引き上げて三八の統合体(工業小組合三二、株式会社五、有限会社一)に再編成した。その組織員は自営業者五二五名で、そのほか賃機業者一三一四名があり、自営と賃機両業者の設備織機は総数五七九七台(力織機五五四四台、手機二五三台)であった。
企業整備で八割が廃業
昭和十八年戦局が不利になるとともに、労働力と金属資材を軍需生産に転用することを目的として戦力増強企業整備がおこなわれ、第一次(六月三十日)、第二次(九月三十日)、第三次(十一月三十日)の三回合計して人員において八〇・ニバーセントの転廃業、設備織機において七三・七パーセントの廃棄供出が実行された。その結果、着尺業界の最終的を残存操業者は工業小組合一二(組織員一六七名)と株式会社一で、その設備旅後は一四四六台であつた(ほかに京都織物=五三台、鐘淵工業㈱=二八台の両指定特殊会社があつた)。
御召よりも銘仙や蚊帳
昭和十五年一月生糸配給統制規則が実施され、従来自由に買入れ使用した生糸は配給機関より一定数量の割当をうけ、それ以上使用できないことになつた。また十七年一月繊維製品配給消費統制規則(衣料品の切符制)が公布されて自由販売が規制され、生糸の割当が減少した。それまで年々増加した西陣着尺の生産も昭和十六年をピークとして次第に減少したが、十八年には前記のとおりその年度中の企業整備により操業者数は一九・八パーセント、織機数は二六・三パーセントに激減したために原糸の割当数量は大幅に削減され、その年間生産数量は八〇万点(前年の五五・三パーセント)に、価額も単価の騰貴にかかわらず一九七二万円(前年の五九・五パーセントにそれぞれ減少した。駒撚紋お召二九万六千反、縞お召一一万七千反、絣お召八万七千反、駒撚縞お召七万七千反、無地平お召六万九千反などが主な生産であつた。
昭和十九年はさらに一段と生産が減少して前年の二〇パーセント以下となり、普通生産のお召類は激減して大部分がこれまで織ったことのない銘仙、夜具地、蚊帳などの指定生産品であつた。
着尺工業組合ついに解散す
業者の企業整備が一応完了した後、昭和十八年七月商工各部門の統制機構を改革して戦時産業体制を整備するために商工組合法が実施された。それによる統制組合は都道府県を地区とするものであるが、例外的に京都は丹後と西陣に二つの統制組合が認められることになつた。それにしても西陣着尺織物工業組合と西陣織物工業組合は一つの統制組合に統合しなければならない。複雑困難な曲折があつた後、京都府の熱心な斡旋、というよりも時局の重圧のために両組合の諒解が成立して昭和十九年六月二十六日西陣織物統制組合の設立総会が西陣織物館で開催された。この第一次の西陣着尺織物工業組合は、昭和八年二月十一日、それまで西陣産地の単一組織であつた西陣織物同業組合(明治三十一年十月-昭和十三年三月)の着尺部が分離独立したのであるが、それから満十一年五ヵ月を経て昭和十九年七月十九日に解散、再び西陣単一の統制組合に合流することとなつた。
着尺工業組合の事務所等の売却
着尺工業組合は昭和十一年三月、五辻通浄福寺西入ル京都市立第二工業学校の敷地二〇四〇坪を買収、鉄筋コンクリート三階建本館(延べ五三一坪)のほか整理、地入および乾燥の各工場その他延べ九九一坪の大建築を翌十二年九月に竣工。着尺業者の殿堂として西陣織物館と比較して勝るとも劣らぬ堂々たる壮観を誇ったものである。その解散一年前、昭和十八年六月から工場の一部を改造して企業整備により廃業した組合員(賃機業者および従業員を含む)の職業転換と戦力増強のために航空機用螺子の製作補導所を開設した。京都府の援助と寺内製作所の協力によるものであつた。同年十二月着尺廃業者の出資により西陣航空螺子製作所(資本金五〇万円、 全額払込み)を設立。寺内社長の下に着尺廃業者の梅垣保次、島田勝次郎、小沢広三郎氏らが重役として参加し、 補導所を拡充してこれを本工場とし着尺廃業者の休止工場を転用して分工場とする方針で進んだ。その後、工業組合の解散が決定した時、その土地、建物、什器および組合が設備した螺子製作機具など一切を二〇〇万円で螺子製作所に売却してその金額を組合資産に繰入れ、清算残額はすべて組合員に配当した(ただ御召地貼交ぜ六曲屏風一双、額面六点、御召現反六点を組合解散記念として昭和十九年八月一日統制組合に寄贈した。しかし、それは昭和二十七年三十一日西陣着尺織物協同組合(現在の工業組合の前身)の懇請が認められて統制組合清算人から無償交付され、着尺会館に保管されている)。ちなみにその後西陣航空螺子製作所は終戦により存在意義をうしなつて解散。土地、建物は昭染化学工業㈱(現在の昭栄工業㈱)に売却された。現在、その本社となつている。こうして戦前の着尺工業組合は戦争の波に呑まれてしまった。戦前と現在の二つの西陣着尺織物工業組合は戦中戦後六年余りの中断期間があり、その準拠する法律は異なるけれども名称も目的も同じであり、また自他ともに現在の組合が戦前のそれの後継者であることを認めている。
戦争末期の着尺の生産
統制組合に合流した着尺業者は、それ以前の統合体の十二工業小組合を商工組合にもとづいて改組再編成した九つの施設組合(その着尺業者の組織員一六六名)と大建㈱であつて御召着尺の生産は技術保存織物として極少の特別許可があるだけ、戦時生活必需品として指定生産される銘仙、夜具地、蚊帳を織つてわずかに着尺業者の命脈をつないでいた。手工技術の保存のためとして、矢代仁が上代紬御召着尺、糸織着尺、縮み上布、上代袴地の製織を、千切屋㈱が西陣着尺の製織を日本美術及び工芸統制協会の承認をえて生糸の割当をうけたが、西陣着尺の優秀な伝統を保存するためには余りにもすくないものだつた。丹後や長浜の縮緬や西陣でも帯地業者などはこの技術保存のためにもつと有利な生産を認められていることを聞いて木村精一氏らが当局にたいして大いに運動したところ、昭和二十年度から着尺の残存業者一般にもその生産許可がおこなわれることになつた。しかし、 それ以前に八月十五日の終戦となつて、実現を見ないでしまった。昭和十九、二十年、戦争が末期に近づくにしたがって業界の混乱は経験者でなければ想像もつかないほど甚だしいものであつた。防空頭巾を背におうた戦斗と国民の人々は必ず会議の冒頭に英霊に感謝し戦勝を祈る国民儀礼をおこない、軍官当局の戦意高揚と個人の狂信的あるいは自棄的ともいえる虚勢のために表面は強がつたものの、みんなの心身は衰弱しきつていた。いかめしい甲冑を着せられた半死の大病人のようなものだった。衣食は生きる最低限の乏しさであり、全国の大中都市は用ついで爆撃された。西陣は南部の一隅に盲爆をうけただけで直接の空襲をまぬがれ、まだ幸せだつた。 一面に焼土と化した応仁の乱の破壊は見られなかった。
後のヤミの時代
国をあげて軍需生産に傾注していたのに、八月十五日を境界として軍需はびたりと中止した。一時かぎりの打ちきりではない、永久に軍需再開の見込みがない。軍艦も航空機も、大砲も火薬も全く必要がない。その代り当面の生活のためにも、将来の企業経営のためにも生活物資の生産がおこなわれなければならない。百八十度の方向転換とはこのことである。ところが、軍需を基調とした戦争経済体制は十年近い年月をかけて準備推進されてきた。突然の終戦の詔勅一つを号砲に、全国民がどつと一斉に民需生産への百八十度大転換にむかつて駆けだしたのである。混乱が起ったのは当然である。
軍隊に召集され、軍需工場に働いた人々が西陣に帰ってきた。勝つまでは欲しがりませんと小さい子供たちまでが辛抱してきた衣食住その他の欲望が堰をきつて本能のままに爆発した。しかし、それを合理的に指導する行政が全く破綻しており、欲望を満たす物資が欠乏していた。この場合の行動を普通の尺度で計算してヤミとか違法とか責めるのはかえって不当である。西陣では大多数の人達がヤミ織機を組みたて、ヤミ糸を探しだして製織し、ヤミ商売をおこなった。
西陣に痛かつた生糸の凍結命令
終戦後間もなく、京都府商工課から(イ)西陣産業を復興して労務者十万余人の受入れ態勢を整えねばならぬ、(ロ)経済立国のためにも、戦勝国にたいする賠償のためにも西陣織物の生産を急に復興せよ。力織機を主として大増設を為すべし。京都府は如何なる援助でもする・・・との通知があつた。だが戦時中の権威をなくした統制組合にはそんな大事業をリードする実力はなかつたし、京都府の援助も被占領下の一地方庁の機能としてきわめて限られたものだった。残存業者も復帰業者も、だれもが占領軍は軍国を復興させる重工業は許さないという見通しを持ち、繊維などの平和産業に生きねばならぬと考えていたが、当面みな自分だけのためしか働かず、またそれ以上の余力もなかつた。加えて昭和二十年十二月三十一日商工・農林両省令が公布され、「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」にもとづき現在所有の生糸等数量報告とともにその現状保持の命令が告示された。生糸を所有する者は直ちに数量を報告し、その使用も売買も移動もしてはならないというのである。生糸の凍結命令であつた。生糸および組織物を輸出して食糧を輸入し、国民の餓死を救うために先ずその国内消費を規制することが必要で、これは正当な措置だったが絹を生命とする西陣にとっては首を絞められる苦痛であった。
生糸の輸出増進に努力してみたが意外に不振で価格は下落した。やむなく一部は内需に消費せねばならなくなつた。二十一年七月輸出不適糸五万五千梱を国内放出し、また占領軍の経済科学局は手工織物業を育成するため手工業温存用として一千俵の生糸使用を許可した。西陣産地は第一回割当四一五七貫をうけた。全国割当の四割強を占め、終戦前の二十年度技術保存用割当数量の約六倍に相当した。着尺は手工業織物でないから織れないはずであるが木村精一氏らが御召の製造許可を熱心に懇請し、またエドガースやヘルチら米当局は輸出向として着尺の方にむしろ大きい関心を持つていたので御召や紬織が手工業織物と認められた。その生糸を購入できたのは二十二年一月であつた。ついで第二回の二十三年度分として三七〇一貫(全国の五割弱)の割当をうけ、四五一名(着尺は八〇名)が製織をおこなつた。実際に御召を織ることができたのは矢代仁と千切屋ぐらいのものだつたろうが、このために多数の人たちが織機を動かす口実をあたえられ、ヤミ製織がだんだん公然となつてきた。 また二十二年四月養蚕農家還元絹織物用として生糸一万二千俵が放出された。農賃織物といわれ、織機登録がなく、また原糸割当がない復帰業者の仕事として誠に有難いものだつた。
復帰した転廃業者が西陣復興のリーダー
行政秩序の混乱と原料資材の欠乏のために、正規の生産や配給にたよつているだけでは自分も家族も餓死するよりほかなかつた。そこから生れる本能的な生活意欲が西陣復興の原動力であり、織物に経験があつて最も意欲のたくましい復帰業者がそのリーダーであつた。遠近各地から中古織機やその部分品を買いあつめて設備し、手当り次第に着尺を織り帯を織った。なにか織物であれば、商売になつた。仲間がふえた。そのうち、これら復帰業者の間に新しい商工協同組合法により組合結成の気運がひろがつた。協同組合をつくり親組合の西陣織物工業協同組合(統制組合が新法により二十二年二月末協同組合に移行)に加入すれば形式だけでも合法的な織物業者になれる。経済警察や税務署の摘発を緩和することだけでも大いに有利だと考えた。西陣織物工業平和第一協同組合が米田駒太郎氏を理事長として結成されてから「西陣織物工業平和」を名乗る組合が続々と結成された。いずれも復帰業者を主軸とし百人以上の組合員を集めた。平和第四協同組合(岡本英一理事長)は着尺業者中心の組合であって、一時は六百数十名の組織員を包容したが、同業者の発言権を拡大するためにこれを適当員数の協同組合に分割して独立させ、それぞれ西陣織物工業協同組合に加入させた。このため親組合は組合員が増加し、 昭和二十二年末には戦時中からの残存業者の二十二協同組合(組織員九二七名)と単独組合員の十一会社のほかに新加入の二十二協同組合(組織員一五二八名)と単独の九会社で総数六十四組合員となつた。その後も新規加入者がふえ、二十三年三月には親組合の理事を二名増員させ、新加人組合側の米田駒太郎、山県武雄両理事長がこれに就任するほどの勢力となつた。
なお織機登録については、力織機一〇七九台が二十二年十月まで新規登録を承認され、手織機一五、七二八台が二十二年末に登録復活してそれまで登録織機を持たなかった復帰業者も登録の配分をうけることができた。 こうして終戦後復帰した業者も、多数が完全に正規操業の資格を獲得し、西陣織物業の復興は昭和二十三年から正しい軌道にのって円滑に進行しはじめた。
戦時体制の解除と平行して統制組合から協同組合へ
以上に記述したように昭和二十年八月十五日正午の終戦によつて世の中は一変した。極言すると、午前中は軍国の一員として戦力増強のために働いた人たちは午後には全く自由な個人となつて自分自身の生きるためにのみ行動したのである。もちろん進駐してきた連合軍の行政は戦時体制の解消と平和国家の再建を目指して推進された。そこに、いわば新々体制の確立があつた。
昭和二十一年十二月一日施工協同組合法が施行されて、二十二年二月末日で統制組合は解消し、施設組合はそれまでに新法による同組合に移行する手続きを完了することが必要となつた。これより先きに、統制組合は戦争協力の好ましからざる機構であるために廃止と同時にその財産は没収されるとの風評が伝わったので、西陣織物統制組合は財産保存のために組合員全員を以て西陣織物施設組合を設立(二十一年十月九日登記完了)し統制組合の全財産をこれに寄附譲渡したのである。そしてこの新施設組合も旧統制組合傘下の各施設組合同様の手続きで昭和二十二年二月二十八日(京都府認可)西陣織物工業協同組合に移行することができた。
着尺業者たちも統制組合時代の施設組合を協合組合に変更して引き続き親組合たるこの新しい協同組合の組合員としてとどまった。そのほか廃業者や新規開業者などが続々と協同組合を新設してこの西陣織物工業協同組合に加入してきたこと、また彼らも新たに織機の登録をうけ正規の業者たる資格を獲得するに至ったことは前に記述した通りである。
業界の発展と団結心の衰退
業者が増加し設備が充実して、業界が発展するにしたがいそれに対応した組織改革とか新旧勢力の対立などと関連して業界内部に経済的あるいは感情的な種々のトラブルが生じる。いわんや、政治・経済・生活の全面において新々体制発展の途上にあつて基盤が動揺している時代であるから、些細な問題一つでも大きな波乱の原因となることが少なくなかつた。戦争のため長い間忍耐をかさねてきた人たちが予期しない敗戦をみ、いよいよ激しい生活苦になやまされて、やり場のない憤懣を自分の周囲に投げつけるのである。ワンマンの存在は許されない。みんなが互いに不満をぶつけあうばかりである。業界の団体行動が円滑に進まないのも当然であつた。昭和二十三年に激化するインフレを抑えるために経済再建九原則の強行がはじまつた。翌二十四年五、六月には生糸および絹製品の統制が撤廃されて統制あるために繁栄した一部の業者に致命的な打撃をあたえた。また同年八月シャウブ博士が税制改革とくに高率(従価四割)の織物消費税の減税と廃止を勧告してからは脱税が多くなり、先きゆきを予想して織物の値下がりがつづいた。繊維統制があつて原糸の割当をうけるために、織物消費税があつて納税手続きの便宜をうけるために業者は協同組合員であることが必要であつた。統制と消費税が廃止され、特権をなくした組合に組合経費を負担して加入している必要はない。同時に組合側は割当手数料や徴税事務交付金などの収入源をうしない、主として組合員にたいする分賦金に依存せればならない。組合の魅力はうすれ権威はなくなるのだ。もともと、ここ十年の間、戦時体制のなかで、組合は統制事業にだけ力をいれ、業界の自主的な共同事業を第二義的にみていたので組合員が協同精神の真価を忘れてしまったのも無理ではなかった。その折二十四年六月一日、中小企業等協同組合法が公布され、従来の協同組合は翌二十五年二月末日までに新法による事業協同組合に移行せればならなくなった。しかし西陣織物工業協同組合は実質的には協同組合の連合会であつたためにそのまま移行することができず、たとい形式だけ移行しても運営してゆくことが不可能だということが明らかになつた。基盤たる業界の複雑さと自由化を目的とする法令の改正の板ばさみにあつて、従来の西陣産地の組織機構は崩壊の危機に直面した。
混沌のなかから着尺組合の誕生
昭和二十五年になつて西陣織物工業協同組合の解散時期が近ずいても、その後の新組織について適当な成案が得られなかった。かえって組合職員の整理や退職金問題にからむ役員と職員間の紛糾が悪化して、この重大な時期に組合事務が渋滞し、組合内部から自爆の危険が生じた。このため、なんら為すところなく二月二十八日の法定期限を経過して三月一日解散、清算にはいることになった。親組合はこうして行きづまつたが、傘下の各協同組合はそれぞれ新法にもとづいて事業協同組合の設立手続きを進め、五十組合を超えるにいたつた。また対外交渉のためにも西陣を代表する統一組織が必要であつた。この情勢に圧されて、組合連合会の設立がいそがれ、四月二十日設立同意者四十七組合が出席して西陣織物商工協同組合連合会の創立総会をひらいた。
しかし、この連合会にたいする会員の熱意はきわめて冷淡なもので、創立後二ヵ月を経過した六月末にかいても出資払込みをなしたるものは三十七であつた。法の規定により事業協同組合の組合員は従業員百名以下の中小企業にかぎられたので、有力な大機屋は連合会に関係することができなかった。また会員たる各事業協同組合も組織員数の多少や生産実力の優劣など大幅の相違があり、その組織員の異動がはげしかつた。連合会は名称と形体に相当する内容が伴わず、業者自身がその団結に信頼をおかなかつた。
他方、着尺業者は昭和十九年の統制組合以来、他種業者と合流して同一の傘下にあつたが、終戦後は前述の通り急に組合(いわゆる小組合)の数がふえ、その組合の組織員はさらに一層急速に増加した。各組合の理事長は同志相集まり、しばしば会合していたが、親組合の内紛、同業者の不満と動揺が大きくなるにつれて会合が頻繁になり、「着尺会」を結成して形体を整えることになった。やがて組合理事長だけにかぎらず、有志希望者の参加を認めて会合を重ね、種々の問題を協議しているうちに、次第に業界組織化の機運が濃厚になってきた。
着尺組合の結成と着尺会館の獲得
着尺会が基礎となった着尺業者の集まりが次第に大きくなるにつれて、会合の度ごとに着尺だけの単一綜合組合が必要だという考えが有力になつてきた。着尺会をはじめた小組合理事長たちや戦争中からの残存業者よりも復帰した新規業者の方が人数も多く意欲も盛んで、この主張をリードした。親組合は帯地業者が主軸で着尺、ビロード、金襴その他の寄合い世帯であり、協同組合から協同組合連合会に改組して以来、いよいよ内部の紛糾がはげしくなり弱体化の一途をたどつて、ほとんど有名無実の形骸にひとしい存在になつていた。この行づまりが団結かたかつた戦前の着尺工業組合の記憶をよみがえらせ、彼らを発奮させたのである。
昭和二十五年七月二日、嵯峨の嵐峡館で会合。中小企業等協同組合法にもとづく西陣着尺織物協同組合の設立を決定し、実行委員を選任して創立準備をすすめることになつた。従来の各協同組合を解消、個々の業者が直接に組合員となつて単一組合を設立することを着尺業界全体に呼びかけた。九月四日、一三〇名の同意者をえて西陣織物館で創立総会をひらき、その後続々と加入者がふえて二二〇名となり十月十二日発会式を織物館でおこなつた。その時蜷川京都府知事から「ここまでは誰れでもやる。これからの運営がむつかしい。折詰総会だけの組合にならないで、協同組合本来の精神にもとづく立派な組合にみんなの協力で育ててもらいたい・・・・・・・」との激励があった。事務所は織物館に設置し、本館の二階、現在の談話室の西の六坪ばかりの小部屋を使ったが、その後、旧西陣織物工業協同組合清算人の好意で現在の土地並びに旧建物を入手、十二月二十九日これに移転して着尺会館と命名した。
(本組合結成までの業界展望(西陣着尺織物工業組合、昭和45年)より転載。)