loader image

カテゴリー: ブログ

  • 西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物1000年の歴史といえど、現在の組合組織ができたのはそう昔のことではありません。

    現在、西陣を代表する業界団体は西陣織工業組合(1973~)ですが、西陣では明治以降、業界団体がいくつか現れ、そして消えていきました。

    明治維新により、日本社会は前代未聞の変化を見ることとなった

    明治維新と西陣、室町

    江戸時代の西陣では、朝廷や幕府、諸大名といった大口の注文を請ける「御寮織物司」を頂点として、高級な紋織物を織りだす「高機八組」があり、そのほか「西機」と呼ばれる大衆織物部があるなど、ヒエラルキーが形成されていました。

    しかるに明治時代に入ると、四民平等や営業の自由の論議が盛んとなり、近世日本で支配的だった徒弟制度や人権無視の仲ヶ間団体は、急速に破壊に向かいました。徒弟制度によって生産体制を維持してきた西陣の大店も大きな打撃を受け、さらに東京奠都と明治維新、政府の欧化政策で、公家や有力諸侯の需要が消失し、西陣は大きな打撃を受けました。

    ※.有職織物など。明治政府はフォーマル着を洋装と指定した

    江戸時代の組合組織ともいえる「仲ヶ間」の制度は、営業の自由を制限し、新規参入のハードルとなるものでした。いくら明治維新といえど、旧商人がすべて営業をやめてしまっては京都の経済は立ち行かなくなるでしょう。
    そこで京都府は「鑑札」なる営業の許可証を制定・公布することで、旧商人に寄り添う姿勢を見せることにしました。そのときの文献が残っています。

    今般御大政御一新に付き、総て旧弊御廃止に相成り、商法御会所御取建仲ヶ間へ夫々御鑑札御下けに相成る。壱番組織屋仲ヶ間並びに壱番組仲買より御鑑札を下し置かれたのはありがたきにより、この商法速かに相立候故、新たに双方立合実意を以て熱談致し候。而して確定の上、今より壱番屋方に而織出し候品は、従来共御仲ヶ間中に限り売渡し来たる候儀に付き、猶又相改め、壱番組諸織物限り以来決して他に売致さまじく候。仍ち而不相変其御仲ヶ間へ売渡侯間、已後不実成取引等無之樣、西陣壱番組織屋小前之者に至る迄引き立て…(西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札 明治元年)

    これまでの商慣行を続行できると喜びの声を上げていることが読み取れます。同様の議定書が仲買側にも残っています。生産者と流通業者が手を取り合ってこの難局を打破しようとの空気が伝わってきます。

    東京奠都による京都荒廃に対する危機感は、行政も共有していました。これが、後述する西陣物産会社の設立に繋がります。

    西陣物産会社の設立

    明治二年、京都府知事の長谷信篤は、西陣織物産業を保護奨励するため、有力者を招致して、織物業者の新団体を結成させました。当時、京都府の大参事に就任した槇村正直は、維新政府の中心人物である木戸孝允を動かして、産業基立金10万両を天皇の御下付金として受け取り、京都の産業育成につぎ込もうとしていました。

    この一部を西陣に振り分けるにあたり、封建時代の遺物である仲ヶ間制度を廃止し、新産業組織による団体を結成し、それを基盤として、西陣産業の育成と全西陣統合体に貸付金の責任を持たせようとしたのです。

    槇村正直の掛け軸。「業は勤(はげむ)により精(くわし)く嬉(たのしむ)により荒む」

    「西陣織物館記」の編者前田達三は、京都府が西陣物産会社設立を命じたことについて、旧来の西陣織屋仲ヶ間の構成員は、明治維新により平等になったため、この際西陣織屋のヒエラルキーも解消し、全く新しい出発点に立脚した組合組織を結成しなければならないと考えたからであろう、と分析しています。

    古来より品種が多様な西陣織物は、各専門によって織屋の利害関係も変わります。そこで専門別に18の社に分け、西陣物産会社は各社を統括する役目を負いました。各社にはそれぞれ自主性を持たせましたが、実質的には西陣物産会社の下働きが主であったようです。現在は廃止されましたが、最近まで西陣の組合にあった部会制と近い制度と思われます。

    ※.模様社、金欄社、紗織社、博多社、繻子社、夏衣社、真古帯社、綸子社、縮緬社、羽二重社、古帯社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社、精好社、絵絹社、練絹社の18社。数年後に精好社、絵絹社、練絹社は合併して三品社に、天鵞絨社から絹天社が独立して17社となった。

    西陣物産会社の役員は、18各社から選挙で3名、肝煎として選ばれた人の中から、京都府が適当と思うものを任命しました。なお、各社から選挙で選ばれた18×3=72名は公任役人の資格となり、会社役員は世話役、その主任者は世話役惣代と呼ばれました。世話役惣代も京都府が任命しました。

    京都府が西陣物産会社へ3万両貸付

    さて、明治維新による政情不安、生活の欧化による需要の大幅な変化、かつてのお得意様であった各藩の指導層、朝廷の公卿といった上流階級が、その存続基盤をそろって脅かされたことにより、高級織物産地である西陣は需要先を失い、深刻な経済不安に陥りました。

    当時の西陣織屋は資力に乏しいものが多く、製品の滞留はそのまま倒産につながる状況です。売れ残りを安売りする者も出て、結果的に相場が崩れることにもなりました。

    この状況を見た京都府は、西陣に3万両を貸し付け、機業振興に使わせるようにしました。問屋による買いたたきを問題視していた物産会社は、取引改善を目的として、この3万両で織屋の滞留品を買い取り、代わりに適正価格で販売することとしました。

    仲買商が取引で重要な役割を果たしている時代にもかかわらず、組合が仲買商の真似事をしたことで、仲買商がそろって不買運動を行う結果になりました。結局、商人でない織屋が売りさばかなくてはいけなくなり、結局ほとんど売れ残って3万両の借金が西陣にできました。

    京都府からの借入金を西陣に流したことにより、西陣の織屋資力に余裕ができた側面もあるでしょう。ただし、幕末の貨幣価値から言って(だいたい1両=3000円くらいと言われています)、3万両のお金は広い西陣には少なすぎ、特に大きな効果を挙げられたとは思えません。

    また、京都府からの度重なる督促に、物産会社は仕方なく機別出銭を行い、西陣全体からお金を集めることになり、返済の目途を付けましたが、西陣の組合員からは不満をためることとなりました。

    ※.各社の機台数によってお金を集める仕組み。誤解を恐れずに言えば、固定資産税や法人税に近い

    西陣のジャカード導入と博覧会

    西陣物産会社にはもちろん大きな功績もありました。最も大きなものはジャカードの導入で、次に漸次回復してきた西陣の生産能力を、博覧会への協力により世間にアピールしたことです。いくつか挙げましょう。

    第1回京都博覧会の写真。西本願寺

    ・第1回京都博覧会
    明治5年、長谷京都府知事や槇村大参事を中心に、京都の官民を挙げて大々的に行った博覧会。会場は西本願寺、建仁寺、知恩院。京都古来の物産をはじめ、全国各地の名産、骨董品等2,485点を出品。明治天皇のご臨幸もあり、皇室の御買上品は西陣織物と陶器のみでした。この事実は西陣の自信となり、気風も一新されたようです。一方でこのとき、西陣機業の後進性に気づかされ、欧式の織機具であるジャカード導入のきっかけとなったことに注意が必要です。

    ・オーストリア万国博覧会
    ウィーンでの万国博覧会に参加。日本の国威を諸外国に見せつけるために明治政府が行った事業で、日本の美術工芸物産を陳列。西陣から派遣された4世伊達弥助・早川忠七は、日本からの他の随行員同様、欧州各国を視察研究し、織機そのほか1200余点の機械器具を購入しました。

    ・第2回以降の京都博覧会
    明治6年からも、西陣物産会社は京都博覧会に協力。第3回は当時フランスから持ち帰ったジャカード織機を運転公開し、第4回以降も物産会社が製織実演を行いました。第5回は三上復一、中西昌作、喜多川平八らが品評方(審査員)に推挙されました。西陣織物の褒章受領も抜群で、西陣機業の発展が認められた博覧会です。

    ・京都府洋式機械工場(織殿)への協力
    京都府の事業により、欧州の先進的技術を会得した西陣は、京都府の設置した織物伝習所に協力することになりました。伝習所に派遣する物産会社の世話役等の経費は物産会社持ちであったため、京都府に嘆願書を出して、この経費は前述の借金を相殺することで賄うこととしました。

    このように功績もあげた西陣物産会社ですが、次第に存在意義は薄れていきます。

    西陣物産会社の自然消滅

    以上見てきたように、明治維新の動乱で大打撃を受けた西陣は、物産会社の設立や3万両の貸付、ジャカード導入など、京都府の資金面・制度面での援助により、無事に立ち直りを見せました。

    しかしながら西陣物産会社は、もともと一致団結して不景気を乗り切る目的で設立されたものだったので、織屋各社がそれぞれ単独で行動できる以上、だんだんと有名無実化していきます。

    明治8年ごろになって、庶民の服装が自由となり、さらに女性の活動範囲が広がったことで西陣織物の需要も活発化し、織屋各社の活動が旺盛になってきました。それに伴って西陣物産会社の役割も小さくなっていき、組合員各社は時々名前を利用するのみとなります。

    とはいえ業界団体たる組合は、西陣機業家全体を対象にするとき必要になります。行政からの命令もそうです。次に組合組織が新たに設立されるのも、京都府令が下った時でした。

    (つづく)

    以上、前田達三編「西陣織物館記」北村哲郎「技術と製品の歴史」ほかを参考にした。

  • で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    前回は西陣産地の原材料等についてお話しました。本記事では西陣織の魅力について、「手間がかかっている」以外の魅力を書くこととします。

    なお、今週金曜~日曜(2025-2-14~16)は東京・銀座の時事通信ホールにて、「染と織の展覧会」なる西陣・友禅・丹後の合同展示販売会があります。

    西陣織会館に展示されている空引機

    3.機械がすごい

    織機を使っている以上、どこの産地も同じものが織れるのだろうと思われるかもしれません。ある意味では間違いありませんが、西陣は紋織の産地として、糸を上げ下げする装置が他と異なります。

    経糸を上げ下げする装置は綜絖と呼ばれます。西陣では、地組織を織る組織・模様を織る組織の二つで、綜絖が分かれています。このために、同じ織物の中に異なる風合いの組織が共存できるのです。

    西陣の織屋さん「田中伝」の商品棚(西陣織工業組合 西陣織屋紹介「田中伝」より)

    4.自由度がすごい

    西陣でもっとも上等な織機は人間の手であると言われています。機械では都度設定が必要なところ、人間は臨機応変な対応が可能で、創意工夫を発揮する余地があるからです。

    力織機であっても、織りながら都度織機を止めて、絵緯(柄を出すための色糸)や箔を挿入するやり方もあります。箔のような繊細な素材でなければ、機械を止めずにそのまま織ることもできます。表に何色の糸を出すかで柄が決まるからです。

    しかしながら、すべて機械で織ると、柄にならない部分にも糸が使われ、必要以上に製品が重くなってしまいます。これを避けるために特殊な織り方をして、必要な部分だけ糸を通し、他の部分はカットすることもあります。これはすべて機械任せではできません。西陣織の工芸要素と言えるでしょう。

    京都府の工芸のページ。染織・諸工芸・食品・その他と項目が立てられており、染織分野がいかに大きな地位を占めているかが分かります

    西陣織に限らず京都の工芸というのは、概して多品種少量生産が特徴とされています。
    ここまで見てきたのは素材と織法ですが、これらもより分解すれば、
    ・図案(どのような柄の織物を作るか)
    ・素材(箔か、絹か、麻か、木綿か、絹でも紬糸にするか、等々……)
    ・撚り方(糸を組み合わせて撚り合わせ、素材として使えるようにすること。いわゆる紡績)
    ・染め方
    ・織り方

    と、いわゆる「変数」は無数にあることがわかります。この変数の多さこそが、多品種・少量生産の理由です。

    これについては、江戸時代の機業家である井関政因も、著書「天狗筆記」にて、

    織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき(…)たわいも無そうさなものじゃというは、糸は糸屋にまかし織は織手にまかし、紋はもん屋にまかし色は染物やにまかし、紋付る事は空引にまかし、みなそれぞれなんと無そうさなものじゃ。

    予織物之道つきしより今年三十八年ヶ間、是にてよろしきと安心致さぬ訳は、元来蚕は天作なり、糸は人作なり、是絹の元也。其糸に其国の水土有、寒暖有、年々都而順気不同有(年によって同じでないものがある)。其年の寒暖依、而糸の生不生有、固く和く有、艶ありまた艶なく、是を考る染草、紅に出生の白上品下品 紫根其外何れも草類天作のものにて、今年は明年不同有、織人に織物々の得手あり不得手あり、紋に模様にさまざまの好有て、工匠も及ばぬ縫合如何。過急の御用に手廻しの次第あり、御装束類色目差別格別に有右等々事、口説述がたし。其時其品を以て勘弁尽ル事なし(天狗筆記 下巻より)

    と述べています。同じものは一つとしてできない西陣織の性格は、江戸時代より変わっていません。

    西陣は昔より上流階級の需要を満たし続けてきたのは、注文に合わせて、不可能でさえなければどのような織物でも実現してきたからであるといえます。「西陣に織れない織物はない」と昔から言われていたのは、この自由度の裏返しであるといえます。

    高機の図。高機とは空引機のことで、明治中期まで使われたよく使われた織機。人間が上に上がり、手で経糸を上げ下げして絵模様を織り出す

    5.歴史がすごい

    西陣呼称500年の記事を出しましたが、京都の伝統産業の1として、西陣織は当然、歴史もすごいです。ちなみに、昭和中期より以後、伝統産業の業界でリーダーシップをとってきたのは西陣です。

    詳しいことはまた追々まとめましょう。一言でいえば、西陣は日本繊維産業の大宗であり、日本のほぼ全ての紋織産地の起源に関わっているのです。

    西陣の北西、丹後のホームページを見てみましょう。

    丹後は1300年以上前から絹織物の産地であった歴史をもちます。
     江戸時代に京都西陣で「お召ちりめん」が誕生した後、丹後の織物は「田舎絹」と呼ばれ、売れ行きが低迷。農業の凶作と重なり、人々の生活は極めて困窮しました。その危機を乗り越えようと京都西陣に赴き、ちりめん織りの技術を持ち帰った数名の先人たちがいました。帰郷後、 独特の「シボ(生地の凹凸)」を持ったちりめんの生産に成功し、これが丹後ちりめんの始まりとなったのです。彼らはその技術を人々に惜しみなく教え、 瞬く間に丹後一円に広まりました。

    西陣産地としては迷惑千万であったでしょうが(実際、この時代の西陣は技術流出に悩んでいたようです。丹後の類似事例として、西陣の紋織技術は群馬・桐生に対して流出しました)、とにかく、西陣は紋織産地として第一の歴史を誇ります。

    「西陣」ブランドの創めを挙げるなら、朝廷・大蔵省付の官製織物工場、織部司が最初になるでしょう。西陣は初めから、宮廷貴族の需要を満たすために始まりました

    平安時代の終わりになると経済的に立ち行かなくなり、周りの貴族お抱えの職人になった方が実入りがいいという状況になっていきました。こうして、官営であった機業地は民営となっていきます。

    鎌倉幕府が成立し、貴族が政権から離れても、なお武士を顧客としました。貴族・武士・豪商などといった上流階級を相手に、よりよいものを高く受注し収める構造は、明治まで続きます。ちなみに「西陣織」の名前が付いたのは応仁の乱の後ですが、それより前は「大宮の絹」「大舎人の綾」などと呼ばれ、この時点でも一種のブランドであったことが分かっています。

    かくして西陣は最高級の織物を生産する産地となっていきます。衣・食・住の「衣」を占める繊維産業であり、「京の着倒れ」と呼ばれる絢爛豪華な織物の数々。需要に応じて産地が大きくなるのは当然であり、江戸時代の長い平和の中で西陣の織屋も増えました。前出の井関政因が「織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき…」と言ったように、極めればとことん極められる分野である織物なので、生産の工程は年を経るごとにどんどん細分化し、同時に各々が技を極める土壌ができていきます。最高級品のさらに良いものを求めてきた歴史的経緯は、ある意味で長い実績の証明であるのみならず、その実績を継続する土台となっているといえるでしょう。

    「布だぜ!」と言いたくなる気持ち、正直わかります。でもその布に、こだわりのお洒落を詰め込みたくないですか?「外見は内面の一番外側」といいます。身に着けるものにこだわろうと考えると、なるほど、多品種少量生産の西陣が役に立てる場面は多くなってくるでしょう。

    東京・銀座・時事通信ホールで開催する「染と織の展覧会」、当日入場・前売り券入場ともに可能なので、ご予定が合えばぜひ、行ってみてはいかがでしょうか!

  • 西陣呼称500周年事業と西陣織会館の建設

    西陣呼称500周年事業と西陣織会館の建設

    西陣500年記念式典の様子(於・京都国際会館、S42/9/10。「組合史」より)

    西陣呼称500年事業の実施

    (前回のつづきです)

    西武鉄道から格安で譲り受けた村雲御所跡地には、株式売り出しによる西陣産業振興㈱の資金調達と、西陣に店舗を置く12の都銀・地銀・信金の協調融資によって、昭和40年(1965)に無事、西陣産業会館が竣工しました。西陣産業会館は、西陣のランドマークとなる繊維センターとして建設されたものです。

    その二年後、1967年は西陣呼称500年となります。「組合史」は、

    西陣をなぜ愛すか――まずそれは、西陣の地域において、織物を生みだしていく有形、無形の恩恵への認識である。この恩恵は最終的に『西陣織』の商標の有利性で具体化される。我々西陣業界人はこの恩恵を、西陣業界の先祖、先輩方が遺してくれた遺産によって亨受している。今日に生きる西陣業界人は、この立派な遺産を認識するとともに、これを食いつぶすことなく、今こそ決意を新たにして、次ぎの世代へより大きな価値として残していかなければならない―――これが西陣五百年の理念であった。

    として、西陣呼称500年記念事業の意義を説明しています。

    具体的な西陣呼称500周年記念事業としては、大きく分けて4つがありました。

    ・第一事業 記念顕彰事業(記念式典とその関連大会・法要、京都国立博物館における「西陣の歴史展」の開催など。「幻の機」空引機の実演はこの「西陣の歴史展」の一環で行われた)
    ・第二事業 西陣織の歴史的資料の発掘・収集事業(「西陣 美と伝統」の企画・立案・出版、空引機の復元はこの事業の一環)
    ・第三事業 西陣織の啓蒙PR宣伝事業(テレビ、雑誌、新聞での西陣のPRのほか、記録映画の作成、記念西陣織物大会(於京都市勧業館)の開催)
    ・第四事業 将来への継続事業(新西陣織物館の建設母体やその内容についての計画立案)

    先年の西陣呼称555周年記念事業で、西陣織会館地下の技術開発センターに眠っていた空引機がもう一度組み立てられ、現在は会館1階にて展示されています。500周年の時は、復元に右往左往、織手や空引の確保に右往左往し、大変な苦労があったようですが、現在は西陣織大会などのイベントごとに実演がされています。

    西陣500年記念事業で作成されたポスター(「組合史」より)

    さて、下線を引きましたが「新西陣織物館の建設母体」とは何ぞや?と思われるでしょう。この時の西陣には地域を代表しうる団体が複数あり、それが大きな懸案としてのしかかっていました。

    大正14年(1925年)の西陣織物館の写真(前田達三著「西陣織物館記」より)

    旧西陣織物館の所有権について

    この項の経緯については、財団法人西陣織物館著「財団法人 西陣織物館史」を参照していただければ幸いですが、いきさつを概略すると、

    戦時中、西陣織物館その他の所有権は「西陣織物統制組合」が担っていたが、
    ・戦後、日本の全産業を統制するために公布された法令である統制組合法が廃止となり、新たに公布された商工協同組合法を根拠法とする新組合に移行する必要が出てきた。


    ・新たに西陣織物工業協同組合が発足したが、昭和25年に織物消費税が廃止されるに伴い、長年組合の主要財源となっていた徴収手数料が消滅することとなった。
    ・昭和24年、中小企業等協同組合法が制定公布され、商工協同組合法を根拠法としていた西陣織物工業協同組合はさらなる後継団体として、西陣織物商工協同組合連合会を設立することとした。その際、西陣織物館をはじめ西陣織物工業協同組合が所有する一切の全財産と、その権利義務ともすべてを新連合会に譲渡することとした。


    ・しかしながらこれまでと異なり、織物消費税納付の必要がなくなったこと等が原因で、組合に納付された賦課金は当初想定の半額程度に落ち込んだ。結果として大幅な赤字決算となり、第二事業年度には脱退や解散するものが続出し、連合会は機能を停止した。(昭和26年(1951年))
    ・西陣が無政府状態に陥っている状況は、財産保全の観点において問題ありと西陣織物工業協同組合(以下清算組合、前田達三代表清算人)は判断した。前田氏は新連合会に寄付する旨の決議を取り消し、昭和13年に設立を決議されていた財団法人にすべてを寄贈し、財産の保全を図ろうとした。(昭和27年(1952年))
    ・昭和45年(1970年)、紆余曲折の末、連合会とは異なる新たな西陣の代表組織として結成されていた西陣織物工業組合に、清算組合の全財産を寄付することに決まった。
    ・昭和49年4月、その他、清算にあたりネックになっていた訴訟が終結を見て、ようやく清算が結了した。

    戦後25年を要したこの泥沼の清算劇は、他人事として見る分にはなかなか面白いところがあります(?)

    現在の西陣織物館(京都市考古資料館)

    とにかく紆余曲折の末、暦年の西陣各組合の資産──主に土地と建物、織物類──を手に入れ、名実ともに西陣組合史の正統となった西陣織物工業組合は、満を持して新西陣織物館の建設に取り掛かることとなりました。

    3組合の合併と西陣織会館の建設

    西陣呼称500年記念事業が終了した後も、西陣織物工業組合、西陣着尺織物工業組合、西陣毛織工業組合の3組合が合同委員会を結成して、長期的・継続的に検討を進めてきました。

    500年記念事業が終了して6年が経過した昭和48年(1973年)、ついに合併条件が整い、西陣織物工業組合を存続組合として、3組合の合併契約書が交わされました。この合併に際して3組合の理事長は、

    「三組合の資産内容はまちまちであり、 また組合員一人当りの出資持口数も各組合ごと異なっており、更には組合の出資一口当りの含み資産も組合によってまちまちであるにかかわらず、細かいことを言わずに、帳簿価額そのままで合同することができたことは、素晴らしいことである。おそらく細かいことでお互いが主張を繰返していたならこの合併は不可能であったろう。これは、西工であれ、着尺、毛工であれ、各組合の財産が個々の組合のものでなく、オール西陣共通の財産であるという認識を皆が納得してくれたからである。今回新館を建設するについて財団法人も参画して頂くことになったが、合同した新組合の財産とも一体となって、西陣共通の財産として子々孫々にまで引き継いで行かねばならない。西陣五百年にわたって先祖先輩が引継ぎ発展してこられた遺産を享受しているわれわれにとって、これをより大きくして次代に引き継ぐことは、残された義務である。

    と述べています。

    現在の西陣織会館

    500年記念事業以来、西陣業界では一本化した業界振興業務を推進する「場」が必要であるとして、西陣業界の統合・3組合合併・新会館建設は一繋ぎのものとされてきました。各組合にて合併と同時に承認された新館建設は、昭和48年中に地鎮祭が挙行され、名称が「西陣織会館」と決定、3年後の昭和51年に竣工しました。当時の様子を、「財団法人西陣織物館史」では以下のように記されています。

     昭和51年3月22日、竣工式はまことに盛大におこなわれた。 午前9時10分、正面玄関前において西陣織会館の繁栄と業界発展を祈願する神事ではじまった。続いて10時植木光教総理府総務長官、蜷川虎三京都府知事、舟橋求巳京都市長、滋賀辰雄西工組理事長、山口伊太郎(財)西陣織物館理事長が紅白のテープに鋏を入れるとホール中央のオブジェ”糸・機·人” が天井の光を受けて静かに回り、西陣織会館の歴史を動かしはじめた。 510名の列席者から一斉に拍手が湧き起った。 1階、2階、3階と参列者の波が続き、10時20分西陣ホールへと舞台は移った。一瞬の暗転の後格調高く四季を織り込んだ綴の緞張にスポットが当ると緞張は静かに上昇、入れ替わりに鮮やかな紫地の組合旗が降りて、滋賀理事長の式辞がはじまった。 続いて川島西工組建設委員長が当日の竣工式に至るまでの10年に及ぶ足跡を感慨も新たに報告。次いで今回の建設に援助、協力をした京都織物卸商業組合始め西陣関連団体を代表して西田忠次原糸商協組理事長に、更に建設の設計、管理を行なった彦谷邦一氏、工事を担当したフジタ工業(株)、三機工業 (株)、近畿電気工事(株)にそれぞれ感謝状が贈呈された。 続いて来賓を代表して植木総務長官、通産大臣代理大阪通産局村田文男総務部長、蜷川知事、船橋市長、森下弘京都商工会議所会頭、西村大治郎京都織商理事長、木村卯兵衛西陣産地問屋協組代表理事が祝辞を述べた。当日はまた地元選出の衆参議員、田中伊三次氏、小川半次氏、永末英一氏、竹村幸 雄氏、河田賢治氏も出席、紹介を受けた。 11時式典は終了。引続いて京舞井上流家元が檜の白木造りの舞台で祝いの舞を披露、盛んな拍手を受けた。この後参列者は、4、5階に展開している西陣織特別展を見学、6階研修室でのパーティーで祝杯を上げた。この後更に7階から地階へ、技術開発センター等の見学をして、午後1時30分盛大な竣工式を終えた。 なお当日は引続き午後0時30分と2時30分の2班に分れての西工組合員による竣工式も行なわれた。また翌23日には一般従業員、近隣住民に対する特別見学会が催された。

    西陣織会館建設とその後

    かくして昭和51年(1976年)、竣工相成った西陣織会館は、敷地面積1350坪、延床面積4339坪、高さ約40メートルの大建築となり、建築費約32億に上りました。この西陣織会館は、今なお西陣の統合の象徴として堀川今出川に鎮座しています。

    なお、竣工当時西陣織会館は西陣織工業組合の所有でしたが、平成元年より財団法人西陣織物館の所有となっています。

  • で、西陣織の何がすごいの?(1)

    で、西陣織の何がすごいの?(1)

    以前、「西陣織の取材に行きましたが正直、何がすごいのかわかりませんでした」と全国メディアの記者さんが言っていたと耳にしました。思わず笑ってしまいましたが、知らない人から見れば、無理からぬことだと思います。

    そこで今週は、経験不足の身ながら恥を忍んで、西陣織の何が実際すごいのか?をいくつかご紹介することとします!(追加、訂正等あればご連絡ください)

    1.使用している糸(など)がすごい

    「糸がすごい……?ただの糸でしょ?」との声が聞こえてきそうですね。Non, Non, Non,西陣は糸がすごいんです。最高級品は素材にこだわります。グルメと一緒です。

    西陣産地は絹(シルク)が主流の産地ですが、絹は摩擦に弱く、湿度に弱く、紫外線に弱く、虫にも弱い、非常に繊細な素材です。その代わりに合繊(合成繊維)や化繊(化学繊維)には出せない風合いや光沢、肌触りの柔らかさが出せるのですが。

    歴史的な機業地である西陣では、歴史的に多くの糸染め技法が編み出されてきたため、多くの染屋さんがありました。普段は使われない色での糸染めなどがされ、西陣の織屋さんでは、大きな糸棚を持っているところが多いです。

    奥が糸棚。数えきれないほどの種類の色糸があります。(おおばさんのFacebookより

    西陣は先染織物の産地です。すなわち先に糸を染めて、後で織る産地ですが、糸だけを染めるために使える手法というのがあります。代表的なものが絣(かすり)で、絣は糸染めに出す前に一部のみを防染(染まらないようにすること)し、独特な絣糸と呼ばれるものを作り、それを使う織物です。絣糸を使った織物としては、西陣ではあまり聞きませんが、他産地の「銘仙」(めいせん。絣の織物の一種で、くず繭などから作られる。大正から昭和にかけて、普段着として流行)が有名です。

    絣糸を使えば平織でこの表現ができます(画像はhttps://kyotolove.kyoto/I0000556/より拝借)

    特殊な糸染め技法西陣ではそのほか、「お召緯(おめしぬき)」と呼ばれる強い撚りをかけた糸を使用した、西陣お召という特殊な糸を使用した織物が生産されています。(参考:織屋紹介「今河織物」)

    そのほか、西陣では「金銀糸」「箔」の二種もよく使われます。金銀糸とは、金箔を紙に蒸着させて薄く切り、糸のようにして、芯となる糸に巻き付けたもの。箔は糸のようにした金箔紙・銀箔紙をそのまま使用するものです。

    どれも西陣を支える大切な技術ですが、現在職人の高齢化などが進み、産地の持続化が危ぶまれているのもこの部分が中心です。技術は一朝一夕で身につくものではありませんし、精密な作業で注文内容も毎回違いますから、機械化は容易ではありません。

    2.織る技術がすごい

    ジャカード織機。(京都府ホームページより)

    「織る技術って言ったって……手で織るならわかるけど、機械で織るんじゃないの?」ですって?上に挙げたような一癖も二癖もある素材を織るわけですから、当然、織機も調整が必要になります。早くすれば早くするだけ早く織れるというものでもなく、織機に不具合が出た際には直す必要もありますし、そうでなくとも、スピードが一定でなくては織りキズ(完成した際の不具合)になります。特殊な素材を使っている以上、機械だからといって誰でも簡単に織れるというものでもないのです。

    手機での製織。
    西陣では「手機に勝る織機はない」といわれる(織屋紹介「泰生織物」より)

    最初の疑問にもありましたが、もちろん、手で織るものの方がすごいです。製織技術がすごいといえば、手機で製織する「綴織(つづれおり)」や「スクイ織」などが代表的です。

    今年の西陣織大会の内閣総理大臣賞も「スクイ織」の作品でしたが、手機なら細かい表現も可能で、隙間を開けるといった機械では不可能な技法も使えます。まさに西陣の真骨頂、「多品種少量生産」の極みといった具合です。その分、値も貼ることになるわけですが……。

    (ちなみに普通の平織(上げ下げが2種類しかない織り方。最も単純)でも、織手の力加減や糸を入れる角度等でも巧拙が出ますので、平織なら簡単というわけでもありません。筆者も昔少しやりましたが、織りキズが出てしまって難しかったです。。。)

    3.機械がすごい

    柄のついていない無地の織物であれば、経糸(たていと)と緯糸(よこいと、ぬきいと)に上げ下げにそれほど気を使う必要もありません。間を少し開けて、空気なり水なりでできるだけ速く糸を飛ばし、ガーっと織ればいいだけです。(変な表現になりましたが、現在の繊維業界の主流はエアージェットやウォータージェットなのです)

    西陣は紋織の産地なので、そう簡単にはいきません。経糸を上げ下げするにも、上げる糸と上げない糸をしっかり区別し、ちゃんと柄が出るようにしなければなりません。

    ジャカード織機の画像(https://www.ren-web.net/feature/vol1.phpより。)

    経糸一本一本を制御する必要があるわけですが、そのために西陣が現在使っているのが「ジャカード」という経糸の上げ下げを制御する機械で、これを使った織機をジャカード織機といいます。ちなみに、ジャカードは現在のコンピュータの原型とされています。

    西陣が紋織の産地として他の追随を許さず、「西陣・西陣織」としてブランドを確立できるのは、ジャカードという制御装置だけではありません。その周辺装置にも秘密があるのです。

    では、次回はこの「ジャカード織機」をはじめとして、

    3.機械がすごい2

    4.自由度がすごい

    5.歴史がすごい

    この三本立てでお送りするとします。今回書き損ねた、買い手目線での強みについてもご説明しましょう。

    それでは!

  • 西陣織会館はなぜ堀川今出川にあるのか?

    西陣織会館はなぜ堀川今出川にあるのか?

    はじめに

    堀川今出川に立つ西陣織会館は、地域で一番大きな建物と言ってよい巨大な建物で、西陣のランドマークでもあります。本当は奥にある西陣産業会館の方が大きいですが、奥にあってあまり目立ちません。

    その西陣織会館の前身である西陣織物館が、今出川大宮東入の京都市考古資料館になっていることは、西陣に詳しい人ならご存じかもしれません。近くの今出川大宮バス停の裏に大きな「西陣」碑があるのが目印です。

    京都市考古資料館(今出川大宮東入る)前の西陣碑

    現在の西陣織会館は、この旧西陣織物館からすこし南東の、堀川今出川南入にあります。西陣織会館だけにとどまらず、その奥の西陣産業会館も、西陣織工業組合の関係団体の敷地です。西陣産業会館も西陣織会館と同じく、西陣の発展のために使用されています。(住宅や手織り体験の開催地、修学旅行生の食堂などとして)

    それにしても旧西陣織物館、古色蒼然としているものの、立派な建物です。移転したからには何か経緯がありそうです。現在の西陣織会館・西陣産業会館は、どのような経緯で建てられたのでしょうか?

    村雲御所時代

    昭和25年の地図。竪門前町とある部分が現在の西陣織会館・西陣産業会館

    この場所にはもともと、日蓮宗の瑞龍寺というお寺がありました。瑞龍寺のホームページを見ると、このような記述があります。

    村雲瑞龍寺は、日蓮宗唯一の門跡由緒寺院でございます。
     開基されたのは、太閤豊臣秀吉の実姉、羽柴智(とも)の方でございました。羽柴智(とも)の方のご子息であられる関白豊臣秀次、秀勝、秀保は、非業の死を遂げ、さらに、秀次の一門は処刑されてしまいました。その菩提を弔うために出家し、瑞龍院日秀尼(にっしゅうに)と称しました。慶長元年(1596)、日秀尼は、後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領千石・菊花御紋・紫衣を賜り、寺を創建されました。
     代々、有栖川宮、伏見宮、そのほか皇族、華族などの女子息たちが九条家より入寺し、住職に就かれました。のちに、三代将軍徳川家光公から京都二条城内の殿舎を寄進され、嵯峨から堀川今出川に移転されました。天明の大火で焼失し再建するも、昭和36年に豊臣秀次の居城跡、八幡山城址に京都より移築されました。
     本尊は、一塔二尊四菩薩(釈迦牟尼如来)でございます。他に、天拝妙見大菩薩、聖観世音菩薩、天拝鬼子母尊神、
    大黒天神、金生稲荷が祀られております。

    西陣の織屋(織物製造業者)は伝統的に日蓮宗ですが、その背景にはこの瑞龍寺の影響があったでしょう。西陣は江戸時代より、幕府や朝廷の需要を取り込んできた産地だからです。主要な取引先である幕府・朝廷ゆかりの寺が西陣の真ん中にあったわけです。門跡寺院(皇室ゆかりの子女が代々入寺するお寺のこと)だったことは今の呼称からもわかり、現在も西陣織会館の南東入り口には「村雲御所跡」の石柱が立っています。

    西武鉄道株式会社と村雲御所の買収

    西武鉄道買収前の村雲御所の様子

    西陣の宗教的中心地でもあった村雲瑞龍寺(村雲御所)は昭和36年(1961年)に移転しました。これについて、西陣織物工業組合刊「組合史」では、

    昭和35年末、西武鉄道株式会社が、村雲御所(日蓮宗瑞龍寺・上京区堀川通今出川下る)を買収し、建物を近江八幡に移転して土地は売却したい意思を持っているとの情報を組合田島理事が理事会にもちこんだ。自動車時代をむかえ、西陣産地も狭隘さを痛感していただけに、この広大な土地、約二千七百坪を得られることは、まことに時宜を得たことであった。

    と記述があります。

    西武鉄道としては、村雲瑞龍寺の上物だけ近江八幡(西武創始者・堤康次郎の出身地)に持って行って、西陣業界の発展に資するためなら売却してもよいとの考えだったそうです。

    この提案は西陣にとって大変魅力的でした。これに応じるため設立されたのが「西陣産業振興株式会社」であり、当時の定款の第一が「西陣繊維センター建設のための土地の貸与または売却」とあることからもその設立経緯がうかがえます。

    西陣産業振興株式会社の発足で多額の株式払い込みを受けたものの、西武側が売却金額として提示した金額には足らなかったようです。その差額については、西陣業界発展の大義名分の意味から、当時西陣に本支店を持っていた12銀行(三菱銀行、三和銀行、東海銀行(以上3行は現在の三菱UFJ銀行)第一銀行、富士銀行(以上2行は現在のみずほ銀行)、三井銀行、住友銀行(以上2行は現在の三井住友銀行)、協和銀行、大和銀行(以上2行は現在のりそな銀行)、西陣信用金庫(現在の京都中央信用金庫の一部)、京都銀行、滋賀銀行)の協調融資によって賄われました。

    西陣産業会館と西陣織会館の建設

    西陣織会館建設前の西陣産業会館の様子。手前が堀川通

    このようにして手に入れた土地の上に、まず建てられたのが西陣産業会館です。1,2階を西陣関連業界の店舗として3階から10階までをアパートとして利用するもので、38年(1963年)に地鎮祭、2年後に竣工式が行われました。かくして地下1階、地上10階、塔屋3階、延床面積5,700坪を誇る大ビルディングが西陣に誕生し、現在に至るまで存続しています。

    一方の西陣織会館の完成については、西陣呼称500周年の周年事業として進められました。次回のブログでは、西陣呼称500周年事業と西陣織会館についてお伝えしましょう。

    それでは!

    (続きはこちら)