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カテゴリー: ブログ

  • お伺いの立て方(コミュニケーションの極意)

    お伺いの立て方(コミュニケーションの極意)

    社会人をやるにあたり、コミュニケーションからは逃れられません。社会人をやっていく以上、誰かからお金を貰わないといけないし、商売が成立しないからです。

    組織の中でのコミュニケーションで「お伺いを立てる」ことが一番基本的なもの。とはいえ社会人になりたての場合、「どうすればいいですか?」「これについて教えてください」式のオープン・クエスチョンを投げかけてしまい、思うようにことを進められなかった経験があるかもしれません。どう訊けばよかったのかわからず途方に暮れる場合もあるでしょう。これについて、今回は記事にしていきます。

    人の多いところにはコミュニケーションが生まれる

    イエスと言わせる

    お伺いを立てる際は「イエスと言わせる」ことを念頭に置くべきです。人は否定より肯定の方が言いやすいからです。

    まず自分なりに答えを用意して、「○○の件ですが、こういう事情がありますので、××の方針で行く形でよろしいですか?」と訊くのが最も簡便です。何の件か言って、根拠を述べて、方針を提案する。この形なら、自分の仮説と方針に大きな間違いがない限りは、相手はイエスというだけで案件が進むことになります。もちろんここですんなりイエスが出るかどうかは、相手との信頼関係や提案者の業務遂行能力に対する評価など、他の基準が関係してきます。普段の行いが大切です。

    とはいえ、ここで有効な仮説を立てようと思ったら、相手や組織の方針を把握しておく必要があります。利益第一の組織で出すべき正解と公務員気質の組織で出すべき正解は違います。組織としてどちらが間違っていることもないが、働く以上はノリを合わせる必要があります。

    入ったばかりなら誤った仮説を提案してもそう怒られることはないでしょうが、過去の事例を調べたり、同期や先輩の提案等を見たうえで、なるべく早くアジャストしていくのがおすすめです。

    お伺いの立て方に社会人としてのセンスが出る

    簡潔明瞭

    次に大切な心掛け、それは「簡潔明瞭」です。ベラベラと要らないことを喋り、本来不要な軋轢を生んでいる例は枚挙にいとまがありません。

    不要なことを喋る心理を考えてみるに、自分の頑張りを認めてほしい、工夫を知って欲しい、事情を汲んでもらって怒られないようにしたい……と、自分のことばかりなことに気づきます。

    業務を遂行するにあたって事情はそれほど重要ではないです。その事情によってどんな影響があるかは一考に値しますが、特に個人の事情に興味のある奴はいません。少なくとも就業時間中に話すものではないです。本当に言う必要があるかを常に考えて、会話を組み立てるべきです。よくよく考えればたいていのことは言わなくていいのです。

    無駄を省けば論点が明確になり、打ち手も研ぎ澄まされる

    話す順番を考える

    また、話すときはまず「○○の件ですが……」から入るべきです。組織で動く場合、進行中の案件は一つではないと思います。

    図書館で本を探すとき、まずはジャンル、次に名前……と順番に探していくと思いますが、この要領です。相手が何の話か把握しやすいよう、最初に何の話か明示してから話を始めるべきです。

    同様に、複数の話がある場合は早く終わるほうを先に片づけた方がいいと思います。単にイエスと言わせるだけの、承認を求めるコミュニケーションと、進め方についての相談では勝手が違います。進め方にも注意を要する案件はごまんとあるからです。以前のブログでも言ったように合意形成は物事を進めるために最も大切な論点だが、順序だててやることで手戻りも減り、無駄が少なくなります。

    コミュニケーションコストを下げる

    これまで書いてきたことはこの言葉に集約されると言ってよいでしょう。コミュニケーションは大切ですが、友達との談笑と違い、仕事上ではそう気安いものではないことに注意が必要です。

    質問に対していらないことばかり返してくる人に、積極的に質問したい人はいないでしょう。声の小さい人に質問したい人も少ないでしょうし、理解力に乏しい人に質問したい人もいません。

    結局のところコミュニケーションは気遣いです。話したことをきちんと理解して返してくれる人を人は好きになりますし、わかろうとしてくれる人を人は信頼します。その信頼の積み重ねが仕事での信用になり、ひいては裁量に転化します。そして相手がしゃべりやすい空気感を作り、逆に相手から話を持ってきてもらえるようになれば、今後の発展にもつながります。

    まずは質問に答え、追加情報(いらない場合も多い)があれば、「追加の報告なんですが……」と前置きしてから簡潔に話すべきです。とはいえ意思決定に影響を与えるような重要な情報でない限り、言わない方がいいと思います。

    無印良品が売れたのは、シンプルで知覚コストが低いからだ

    調子に乗るな

    また、「コミュニケーションコストを下げる」のに重要な心掛けが調子に乗らないことです。人は力を持つと調子に乗ります。それは金、異性、知名度……なんでも同じです。人間は身に余る力を持つとたちまち調子に乗り、周りを見下し、力をひけらかし、周りに疎まれ、そしてすべてを失う……諸行無常です。このような悲しい結果にならないためにはどうしたらいいか?調子に乗らないことです。もっと具体的に言えば、人から褒められても図に乗らないことです。

    巷では𠮟らない教育、褒める教育が持て囃されています。その結果どうなったか?実際は豪遊などできない給与水準なのに分不相応な生活をする人、そんなに容姿に恵まれていないのに容姿を理由に他人を見下し始める人……。どれも周りとの軋轢を生み、確実にコミュニケーションは減っています。不幸を生むばかりです。

    このような状況を見ては、迂闊に人に親切にできなくなるのも当然です。それもこれもみんな調子に乗りすぎなのです。迂闊に褒めたら調子に乗る相手では、仮に自分を見下してきたら癪だし、そもそも調子に乗っている人間はなんだかムカつく。それが人情です。背景情報としてのコミュニケーションコストを下げるためにも、どんなに褒められても調子に乗らず、相手の利益を考えて、謙虚に生活するべきです。

    まとめ

    まとめましょう。お伺いを立てるところからコミュニケーションの話にまで発展してしまいました。「人間はポリス的動物である」というアリストテレスの有名な言葉がありますが、人間は一人では生きていけません。コミュニケーションこそ人間生活の神髄ですから、うまく周りと付き合うのが大切なのは言うまでもありません。中国の標語「共同富裕(みんなで豊かになろう)」は個人レベルでも実現可能です。ここまでで話したことを心掛けておけば、コミュ力が高いということにもなり、周りを豊かにすることだってできるでしょう。

    世の中にコミュニケーション不足で不幸になっている人間関係は多いです。最後に高山樗牛の「美的生活を論ず」から引用・改変して、エール(?)を送るとしましょう。

    孤独な者よ、憂うるなかれ。望みを失えるものよ、悲しむなかれ。王国は常になんじの胸にあり、而してなんじをして友達みんなと一緒に豊かに暮らさしむるものは、コミュニケーション是れ也。

    高山樗牛は美的生活を論じた
  • 戦前西陣の名士・長谷川市三氏

    戦前西陣の名士・長谷川市三氏

    長谷川市三氏

    長谷川市三の名前を知る人はそう多くないと思います。西陣でも完全に歴史の人だからです。戦後に西陣を離れ、兵庫に引っ越したそうです。

    先日、西陣の織屋さんに会社の沿革を聞く機会がありました。そこは長谷市の会社の系譜をいくらか引く会社だといいます。同様に、長谷市のところで修行した番頭さんによる店がいくつかあり、その流れを引く店が、西陣にも未だ多いとのことでした。

    せっかくなのでこの機会に、長谷市氏について調べてみました。西陣の歴史に興味のある人はぜひお読みください。

    聞いた話

    長谷市には三つの事業部があり、長谷市、泰成、丸三といったそうです。それぞれ番頭がいて、その下にもたくさん機業家がおり、番頭がいたといいます。おそらく、当時御召で結成されていた矢代トラストと同じようなものなのでしょう。

    • ※ 矢代仁兵衛工場を中心に、時岡利七や巽文蔵など西陣の有力機業家が連合し、トラストを組んでいた。矢代仁は問屋が主だが、工場も併営している、当時の西陣屈指の大企業。今も室町二条に会社がある。

    そうした番頭の面々は、長谷市氏が織屋を廃業して兵庫に引っ越したのち、一斉に独立した。その流れを引く会社として、三陽織物(廃業)、泰生織物、北尾織物匠(廃業)、まこと織物等があるそうです。聞いた感じだと、多分まだまだあると思います。

    三陽織物は長谷市の番頭が独立した会社で、まこと織物は現社長の義父が番頭を務めていたとかいないとか。もう一代あったかもしれないので悪しからず。ちなみに三陽織物の流れの中には、今の梅垣織物があるそうです。

    そのほか、本ブログでよく紹介している「西陣織物館記」の筆者前田達三氏は、長谷市氏の勧めで組合に入職したと書かれていいます。「次の時代に処してほしい」と、京都府警出身の元公務員をスカウトしているから、行政とのパイプはもともとある程度あったと思っていいでしょう。

    京都府広報監として愛される「まゆまろ」

    紳士録を見てみる

    当時、西陣組合の組長選挙は苛烈を極めたとされます。長谷市はそこで何期も組長を務めるほどの人物だとわかっています。そして昭和10年前後の西陣組合なら、相当の勢力もあります。とすれば、たいてい紳士録を見れば載っているでしょう。

    長谷川市三氏
    明治21年7月23日生
    【営業または職名】紋織業
    京都市大宮上立売上ル西入伊佐町(電話西陣2093番)
    【住所】 同上
    【本籍】 同上
    【略歴】 氏は京都長谷川市太郎氏の長男に生れ、明治44年12月家督を相続す。西陣織物同業組合長及び京都商工会議所常議員に挙げられ、家業のほか、泰成織物株式会社専務取締役に就任す。

    (昭和11年刊、東京信用交換所京都支局の「京都織物界紳士録」より)

    こういう史料は基礎的な情報は載っていますが、エピソードがあるわけではないですから、特に面白みがないのが常です。

    一方で大事な手掛かりが出てきました。長谷市は明治21年生まれ、親は西陣の長谷川市太郎なる人、本籍も西陣。京都商工会議所の常議員もやっているそうです。

    となれば当たれる史料は、商工会議所の所史を見るか、「西陣機業家勉強鑑」が本筋です。

    京都商工会議所史

    まずは商工会議所の記録を見てみましょう。該当箇所がそこそこ多いので、引用はこちらを見ていただきたいです(https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1124850?keyword=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%B8%82%E4%B8%89)。1944年の商工会議所史です。

    これによると、長谷市氏は、昭和12年に常議員当選、昭和14年副会頭当選、同16年に辞任とあります。そのほか委員も歴任していることがわかります。

    西陣機業家勉強鑑

    さて、次に見てみるのが「西陣機業家勉強鑑」です。これは組合が以前公開を始めたもので、明治45年や昭和4年時点の西陣の勢力が分かるもので、昔の西陣の勢力図を調べるには、なかなか参考になります。

    「西陣機業家勉強鑑」明治45年
    「西陣機業家大鑑」昭和4年

    さて、この二つを見比べてみると、明治45年の西陣機業家勉強鑑の方に、長谷市トラストの面々の名前は全く見えないことに疑問を覚えます。長谷市の親である長谷川市太郎の名前もないから驚きです。

    昭和4年(1929年)と明治45年(1912年)の間には20年も差がないのに、この結果があるとすれば、長谷市の手腕が素晴らしかったからでしょうか?それとも、長谷市はどこかしらで番頭か何かをやっていたのでしょうか?

    西陣たより

    西陣たより

    西陣の組合は、戦前は「西陣」なる機関紙が、戦後の同業会より連なる諸組合では「西陣たより」「西陣織たより」がそれぞれ発行されていました。この機関紙を確認してみます。

    (…)織屋さんでは明治二十年頃稲田卯八さんという大人物が出た。この人の家は今の鳥原さん、辻梅さんの家とかつて長谷川市三さんの家で現在京都プロダクションがつかっている家の半分を合わせた大きなものであつた。この人は当時流行していた昼夜帯の裏地に使う大黒朱子を織つて大きな財産を残したが当時上京ではこの人に並ぶものはないといわれた大きな織屋さんであつたという。この稲田卯八さんの弟さん市太郎さんの長男が名組合長の呼び声高かった長谷川市三氏である。
    この人は宮津中学を卒業後これも西陣織物同業組合第七代組長をつとめた池田有蔵氏の店に入って見習い、二十五歳で独立、現在京都プロダクションのあるところに店を持った。これが長谷市織物商でこの他に二つの店を経営、一時は機も1200台を越したというから如何に大きな織屋さんであったかがわかる。
    昭和6年10月細井恒次郎氏に替わって西陣織物同業組合第十代組合長に選ばれたがこの時組合長になるのをきらつて有馬温泉に逃げていたのを皆に希望されてやむなく組合長に就任したのだという。
    昭和13年西陣織物同業組合が解散、西陣織物工業組合が設立されたが長谷川氏は引続いて組合長に留任、戦争が激しくなった昭和18年の織屋廃業まで13年間にわたって組合長をつとめた。この間昭和11年には現在の西陣織物工業組合の建物を建てているが(略)
    この長谷川氏はまた伊佐町の北側を全部買い取り三階建ての工場を建て地階では染、1階では関連、2階では織るというような西陣織の一貫作業も計画していたそうである。この計画の一部であったのか長谷川氏の家は間口14,5間もある立派な建物である。
    長谷川市三氏は戦後も織屋に復帰せず宝塚の方に住んでいたというが今からちょうど八年ほど前に六十九歳で亡くなった。

    (西陣たより第146号(昭和39年6月)より)

    さすがに同業組合の遺鉢を継ぐ組合の機関誌だけあって、なかなか詳しく書いてあります。先の西陣機業家勉強鑑にあった稲田卯八氏は、長谷市氏の祖父であるとのこと。「勉強鑑」には長谷川の名前がよく見えるし、そのどれかに婿入りして、生まれたのが長谷川市三氏なのでしょう。

    直接全部を相続したわけではないようですから、池田有蔵氏のところで修行した市三氏を見込んで一部を譲ったのでしょう。よく見ると昭和4年の「西陣機業家大鑑」に、繻子部部長として稲田秀蔵の名前がある。同じ繻子屋であることを踏まえると、彼が稲田卯八氏の跡取りだと思います。

    まとめ

    さて、またしてもとりとめもないものになってしまいましたが、長谷市氏のことはあらかたわかったような気がします。まとめると、

    • 長谷市氏は西陣織物同業組合の第十代組長を務めた名士で、ほかに京都商工会議所副会頭、常議員、ほか委員などを歴任した。
    • 稲田卯八という大織屋の血縁で、父の長谷川市太郎氏も織屋をやっていた。宮津中学卒業後名組合長としても名高い池田有蔵氏の店で修行し、25歳で独立。長谷市織物商のほか泰成織物・丸三機業店の二社を経営した。長谷市・泰成・丸三のいずれも大織屋で、西陣機業家番付を見ても、三社ともトップレベルに位置している。
    • 戦争中、昭和18年に織屋を廃業。戦後は宝塚の方に引っ越し、織屋に復帰しなかった。ただし同時の番頭はそれぞれ独立し、系列の多くの織屋が現在も残っている。

    長谷市氏のことを調べると、稲田氏や池田有蔵という別の大織屋の名前も出てきて、壮観といわざるを得ません。西陣の歴史の面白さには感服するばかりである。(終)

    何事も調べてみれば結構わかるものだ
  • 目的の決め方

    目的の決め方

    「人間が想像できることはすべて実現可能」とジュール・ヴェルヌは喝破しましたが、その逆もしかり、想像できないことは十中八九失敗します。

    成功の道筋が見えていなければ、効果的な打ち手が思いつくはずも、肚を決めて実行に移れるはずもありません。では目的を設定するにあたり大切なことは何か。本稿ではこれについて書いていきますので、参考になると嬉しいです。

    目的は絶対に必要

    目的を決めずに始めたことはほぼ確実に失敗します。勝利条件がないからです。負けなければおのずと勝ちとなる……と説いたのは個人投資家で著名なテスタ氏ですが、「勝たなければおのずと負けとなる」のもまた然りです。

    特に、目的を経済効果に紐づけると、打ち手が明確になります。経済効果に紐づいていない目的の設定は、無限に赤字を垂れ流す羽目になり、持続可能性に乏しくなります。続けていくためにも、目的は絶対に必要です。

    日立製作所は、「儲かる会社にする」との明確な目標のもと、構造改革を成功させた

    目的の立て方

    さて、目的の必要性はわかっていただけたと思います。では目的を設定するとして、どう設定するか。

    目的とは理想の具体化である

    自分がどうなりたいか。あるいは周りをどうしたいか──ここが最初の出発点です。

    人の欲は際限がないので、どうなれば自分は満足するのか考えなければ、欲に身を滅ぼされることになるし、自分の幸福追求から遠回りすることになります。

    「自分が幸せでないのは、家庭環境が悪かったからだ」と言う人がいたとします。事実だったとしても、今更変えようがない以上、縁を切るくらいしか打ち手がありません。しかし、縁を切ったら自分は満足なのか?その先に本当に未来が待っていて、自分の幸福追求に寄与するのか?
    この部分を考えなければ、後で後悔することになるかもしれません。今回は家庭環境の話ですが、選択には可逆なものと不可逆なものがあります。不可逆な選択については、あくまで自分の理想の実現を目的に置いて、慎重に判断すべきです。

    中国の思想家の老子は「足るを知る」ことを説いたが、「足るを考える」のも大切だ

    SMARTな問題設定

    問題設定の枠組みで有名な略語があります。具体的で(Specific)、測定可能で(Measurable)、実行可能で(Actionable)、関連性があり(Relevant)、時間枠が設定されている(Time frame)──の頭文字をとって、「SMART」ですが、問題設定と目的の設定はほとんど同じです。(問題を定義した時点で解決が目的になるのですから、当たり前です)

    このSMARTに反している場合がしばしば見受けられます。会議で議論が発散する場合、基本的にこれらのどれか、しばしばすべてが欠けています。
    なお、関連性がある(Relevant)とは、個別最適化的な課題解決でなく、組織全体として課題解決の好影響が出るように設計することを指します。この文言によって、Specificを意識するあまり視野が狭くなるケースを防止しています。

    現場感覚がある人の会議は実りあるものになることが多い

    比較の問題

    事を進めていくと、必ずどこかで選択を迫られる場合があります。Aを取ればBが取れない、両取りが理想なのはもちろんですが、理論上不可能な場合もあります。(その問題はしばしば、体が一つしかないことに起因します)

    比較で最も大切なのは、属性で分割することです。計算機科学の分野には「オブジェクト」なる概念がありますが、これはあるものの持つ特性をすべて抽象化して、抽象化した結果、残ったものをそのものと定義する試みです。この考え方は実生活でも大いに活用できます。

    たとえば商品Aを買うか、商品Bを買うかで迷っているとします。商品Aは10,000円で、見た目がよく、ブランド価値があり、再販してもそこそこの値段で売れるが、実用性がない。商品Bは8,000円で、見た目は商品Aにやや劣り、ブランド価値もあまりないが、口コミで実用性が十分と聞いています。
    この場合、見た目やブランド価値を重視するなら商品A、実用性を重視するなら商品Bでしょう。使う年数や値段、それぞれの再販価値を踏まえてそろばんを弾き、より出費が少なく済む方を選ぶ人もいるかもしれません。

    目的に即して、さらに先ほど設定したSMARTも踏まえつつ、最善のものを選択するのが大切です。(不確定要素も多いから、結局それが難しいのだが)

    比較は一見して難しいが、対立点を明確にすれば容易になる

    なんとなく不満な時

    さて、成果物を見て、なんとなくしっくりこない場合もあります。

    この場合、やることは二つです。まず、何が自分の気に入らないのかを考える。

    商品を買う場合を想像してみましょう。色が気に入らないのか、形が気に入らないのか、値段が気に入らないのか、接客が気に入らないのか……。この辺りを勘案したうえで、買うべきと思うなら買うべきだし、そうでないなら買わなければいいのです。
    議論でもそうで、具体性に欠けるのが気に入らないのか、儲からなさそうなのが気に入らないのか、そもそも商売のやり方が気に入らないのか。賛成できないなら反対すればよいです。反対意見の人が多ければ通らないのが、民主主義ですから。

    もう一つは、今のものが条件として最高か、一度考えてみることです。最高の条件──妥協できるポイントは最大限妥協しており、必要なポイントは完全に満たされている条件──が今の条件だと考えられるのであれば、自分のしっくり来ていない感覚は、気のせいです。肚を決めて決断すべきです。

    完璧な作品と評されることさえある「モナ・リザ」も、現在の評価を得るまでに時間がかかっている

    合意形成

    過去に合意形成について持論を述べましたが目的の設定こそ、合意形成が最も大切なフェーズです。人が多くなればなるほど合意形成が難しくなりますから、多くの民主的組織は、しばしば当たり障りのない計画を立て、漫然と進め、何とも言えない成果物を生成して、なんとなく終わります。

    合意形成のコストや、ステークホルダーに腰を据えさせて物事を進めるコストを考えると、こうなるのはある意味自然の摂理です。少人数の中小企業やトップダウン型組織が強いのはここで、合意形成のコストがかからない分、機動的に決断できます。

    ある人は言います。「明確に定義された問題は、すでに半分解決している(A problem well stated is a problem half solved)」。そして明確に問題を定義するにあたり、合意形成はアルファでありオメガです。

    合意形成のためにも、普段からいろんな人とコミュニケーションを取って、個々人の意見と目指すところを把握しつつ、全体の最善を追求する。これが優れた問題解決者の条件です。

    人と人とのつながりは大切だ

  • 前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    前田達三氏(西陣織物館記著者)とは何者か

    西陣織物館記を本ブログでは何度か紹介させていただいていますが、すでに掲載している部分に、少し気になる部分がありました。

    編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。

    筆者前職の関係から、西陣の風紀についてはよく知っているといいます。また別のページには、このような記述があります。

    長谷川組長が編者を西陣の組合へ就職するよう、再三勧めに来宅せられたので、編者は、此事を旧知の西陣通の新聞記者、川端堪然に話した処、「長谷市が何と謂をうと、西陣の組合では、如何程気張って功績を立ててやつても、其れが解る者は居ない。(略)君なぞ馬鹿々々しくて、続く筈が無い。あかんから止めとけ」と謂った。此事を長谷川組長に話した処、「今日の西陣組合は、京都商工会議所よりも、経済状態が安定して居って、(略)貴殿は唯私の代理として、無任所大臣で渉外に当り、西陣の内情に慣れて、次の時代に処して貰いたいと思うて居る」と答えた。其時に前記の見解を述べて此組合財産をも安全に守って呉れる人が必要であると付加えたのであるから、絶対に忘れようとしても忘れ得られないものである。

    前田氏が一般の人とは異なる立場にある人間なのは間違いないです。では前田氏はいったい何者でしょうか。

    前田氏の前職

    前述の引用に、このような文言がありました。

    編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから

    西陣周辺で働いているが、西陣機業に直接かかわってきたわけではないのでしょう。さらに新聞記者と旧知の仲にあり、長谷川市三氏とも縁があるとなると、一般の従業員でないのは間違いありません。

    この時点である程度どんな仕事をしていたか見当がつくような気もします。ありえそうなのは、京都府・京都市などの行政、新聞記者と旧知の仲にあるというから京都新聞などの新聞社、あとは金融機関あたりでしょうか。何にせよ、産業機構については素人と言っているのだから、西陣機業の中心──織屋、貸機、出機、糸屋、染屋、整経屋、機料品屋とか──にいなかったのは間違いないでしょう。

    人間のネットワークから探れることは多い

    前田氏の性格

    さらに考察の材料を求めて、さらに他の史料も見てみましょう。

    抑々も清算組合が事ここに至りましたのは、前田氏の性格が然らしめて言動文筆に現はれそれがため旧組合員初め西陣織物工業組合役員並に組合員の方々の感情を害し或は御迷惑をお掛けするに至ったものと観察するのであります。

    然し前田氏の是等の行動も西陣の将来のため、又組合財産を忠実に保護する熱意に外ならぬのでありますが、遺憾ながらその熱意の表現のしかたが気毒な性格のために誤ったにすぎないのであることを御憫察願いたいのであります。

    前田氏は組合を思い、忠実であればこそ石崎数太郎氏に関する件で永年間富士銀行西陣支店との間に独軍奮闘した結果中立売通智恵光院所在の巨額な土地が組合財産となったのであります。(略)(財団法人西陣織物館記、当時の従業員の陳情書より)

    従業員から慕われていた様子はここからうかがえます。(ちなみにこの中立売土地については、西陣織会館竣工の折に売却されています)

    前田氏の発言も見てみましょう。以下は前田氏が清算人を解任されたときの発言です。

    長年清算人をやりその前は理事であった。私は理事の間でも清算人になっても、その資格による報酬は一厘たりとももらっていない。また他の理事諸君は半期の賞与をもらったけれども私はそれももらっていない。また特別に役職手当も何も今日までもらっていない。つまり清算人であるけれども実は書記長であり、単なる一職員にしか過ぎない。ちっとも有難いものではなかった。

    逆にいろんな苦労を私が負うたので、最後の弁済であろうと、税金の督促であろうと私が受けてきた。私は当初からそうは考えていなかった。

    私は外部に対しては清算人としてその方が便利なときにはそうした。

    内部に対しては清算人としてよりも自分の我をはったわけではないが、しかし清算人の決議は守らねばならぬから守っていた。

    いままでもやめたかった。然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない。私が気にいらんことを言うておっても、 結局は自分のものになるわけではないのだから、またひとつは戦時中及び前の長谷川市三とかその輩下の遺言もあったりで、それに対して遵法せんならんものと思い遵法してきた。これが財産が一物も減らないといったところで、 我々が死んでしまえばしまいであるのと同じように、しょせん私たちは退職しなければならない職員である。だからやめろと言われればそれで結構であるが、私は希望して清算人になったのではなく、選挙されてなったのである。 だから清算人は裁判所の法規の規定によってなったのだから、裁判所にお出しになって裁判所が承諾すれば異議は申さない。

    この我を張らず、あくまで粛々と、信念をもって業務を遂行する姿をみると、行政の人間のような気がします。金融機関や新聞社にそういうタイプの人間はあまりいないような。

    西陣織物館記を読むに、前田氏はあくまで財産の保全を目的としていて、反面織屋の知的能力には全く期待していなかったようです。今はともかく昔の西陣は、大部分学歴がなかったことが知られており(小卒がほとんどで学歴に乏しく、娯楽についても、一時的快楽に逃れがちだったことは、京都二商の「西陣読本」にも記載がある)、その様子を見ている前田氏の判断は、正しい判断だったと思います。仮に前田氏が財産を保全していなかったら、西陣の財産は霧散し、現在の西陣織会館は影も形もなかったでしょう。

    現在の西陣織物館(京都市考古資料館)

    職員録にあたる

    さて、前田氏がかつて行政の人間だったと決め打ちすると、京都府の職員録を当たってみるのが筋です。京都府総合資料館に蔵書があるようですから、行って調べてみたら、以下の職員録に氏の名前がありました。

    七条警察署 警部 前田達三(大正12年職員録)

    監督課 嘱警部建築監督官補 前田達三(上京、荒神口、河原町西担当)
    (大正15年職員録)

    北野消防署 消防士 署長兼警部 前田達三(昭和2年~昭和5年職員録) 

    やはり前田氏は行政の人間でした

    昭和13年に組合就任ですから、その前年まですべて職員録を確認しましたが、氏の名前はありませんでした。当時の行政の異動の状況や制度についてはわかりませんが、京都府外に行ったか他の仕事に転職したかでしょう。単に無職だった可能性も、なくはないです。(長谷川氏が訪ねてくるくらいですから、その場合も何かしらの仕事はしていたと想像します)

    それにしても警察出身とは、盲点だったと感じざるを得ません。西陣を担当する京都府の部署といえば、商工部とか労働部(今は合併して、商工労働観光部になっている)だから、そのあたりかと思ったのですが。

    確かに前田氏の正義感の強さ、遵法意識、「西陣の風紀についてはよく知っていても」の文言、西陣人に対する(遵法意識の点での)不信……を勘案すると、なるほど確かに、すべてが伏線だったように思えます。

    京都府庁(https://www.pref.kyoto.jp/qhonkan/より)

    前田氏の年齢

    さて先ほど調べた職員録、大正12年から記載があったのも意外ですが、初出の時点で警部ということは、中級官吏の試験にパスしていたと推察できます。

    前田氏が何歳くらいか、わからないですが、大正12年で働いているなら確実に生まれは明治です。前田氏の書きぶりと、警部の役職から見るに、高校までは出ているでしょう。京都の地方中級官吏になっているあたり、間違いないと思います。

    前田氏が文献から消えるのが昭和47年あたりなことを踏まえると、明治36年あたりに生まれ、20歳くらいで高校卒業、官吏になり、35で西陣織物工業組合就任、69で清算人から除名と考えると、かなりありうる線に思えます。なおgoogle先生によると、戦前警察の中級官吏は、警部がスタートだったとのこと。

    まとめ

    つらつらと書き連ねてきましたが、ようやく前田氏がどんな人物か見えてきました

    • 前田氏は行政出身で、その中でも警察の出身である。
    • 昭和5年以降の足取りは不明だが、おそらくは西陣周辺にとどまっていた。
    • 高校卒業程度の学歴があり、西陣の財産保全について、織屋集団には任せておけないと考えていた。
    • 長谷川元組長の遺言等を守って、70歳近くまで西陣に生涯を捧げた。

    前田氏は今の組合の各種記録では、我欲で清算を邪魔して自分のものにしようとしているのだとか、散々な書かれ方をしています。が、このように種々調べてみると見え方も変わってきます。前田氏の各種行動は、織屋の見識に対する不信に端を発するもので、「然しやめたらこの財産を守る人がないから、私はやめんと守ってきた。皆さんがでてきてこれを安全に守りぬくとおっしゃるのなら、これにこしたことはない」と前田氏が言ったのも、完全に本心だと思います。

    私のこの記事を端緒に、前田氏の名誉が回復され、正当に評価されるようになると幸いです。

  • 組織の論理(合意のススメ)

    組織の論理(合意のススメ)

    組織が大きくなればなるほど、自分の裁量で自由自在というわけにはいきません。なるほど確かに、オーナー社長の鶴の一声で事が決まる大企業もあります。しかしよく見てみると、これも組織の論理に忠実な現象なのです。そして組織の論理とは、いかに合意を取るかに終始します。

    今回はこの合意について見てみます。組織で立ち回る大きな参考になると思います。事務方を想定して書いていますが、他の職種でも役に立つ話ではあるはずです。

    事業規模が大きくなるほど合意の必要性は高まる

    規則は合意の集合体だ

    組織の大きさはステークホルダーの人数に比例します。例えば住民全てがステークホルダーとなる公務員は、巨大組織の典型と言ってよいでしょう。

    公務員の仕事は、よく「お役所仕事」と揶揄されます。規則に厳格で融通が利かないことを指しますが、これは「合意」と規則の関係を整理すれば明快です。

    そもそも規則とは、あらかじめ合意した事柄の集合体です。適切に守っている限りで、「ここまでは文句言いっこなし」と決めたのが規則です。つまり規則とは、合意より上位にあるものでなく、むしろ合意の方が上位にあるのです。普段は規則が合意を代表し、二つに差が生まれたら、規則が改正されます。

    行政は、規則を変えるのに関係するすべての事業所等々にヒアリングし、議員などが議案を提出して、議会で承認を得て、首長が公布するものと聞いています。規則の制定プロセスが強固で、多少の住民が異を唱えたとて、到底合意は取り切れないのです。だから大っぴらに融通を利かせるわけにいかないし、規則に厳格にならざるを得ないのです。

    一方で公務員のような巨大組織にいない限り、規則の固持は実はあまり意味がありません。多数決の原理でいくらでもひっくり返せるのです。関係者が少なく、規則を守って生まれる利益と損失、破って生まれる利益と損失とを勘案して、柔軟に物事を進める必要があります。

    ルールブックもよく見ると儚いものだ

    「合意」とは?

    JTC(Japanese Traditional Company:伝統的日本企業)のハンコリレーはよく揶揄の対象になります。無駄の象徴とも言われがちなこの風習は、決裁権者すべての合意を取る過程である、と考えれば明快です。

    現在の日本はほとんどの場所で議会制民主主義が採用されています。国は国会を、県は県会を、市は市会を、株式会社は取締役会を通さなければ、組織を動かせないことになっています。イギリスの議会制民主主義を指す言葉に「王は君臨すれども統治せず(King reigns, but does not govern.)」との言葉がありますが、これは「朕は国家なり(L’État, c’est moi)」と言われるような絶対王政に対し、議会に実権がある状況を指します。

    合意を得ておくと判断の責任が分散されます。一人の独断専行で進めると、問題があったときに全責任が降りかかってきます。後々トラブルになったときのため、内々で進めるだけでなくて、できるだけ広い範囲の人を巻きこんでおいた方が、仮に裏切られたときリカバリーが効きやすいのです。

    イギリスでは議会で物事を決めることになっている(https://parstoday.ir/ja/news/world-i58482-%E8%8B%B1%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%81%A7_%EF%BC%A5%EF%BC%B5%E9%9B%A2%E8%84%B1%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%8C%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%9A%84%E3%81%AB%E5%8F%AF%E6%B1%BAより引用)

    だれに合意を取るべきか?

    あらかじめ関係各所に話を通しておき、賛意を確認しておくのが、いわゆる根回しです。会議の前に根回しを済ませて、会議本番ではシャンシャンで終わらせる──これが綺麗な会議のお作法とされますが、ではいったい誰を巻き込むべきか?

    組織によって違いますが、まず最初に話を通しておくべきは上長です。普通は決裁フローの中に組み込まれていますが、上長やさらに上、上……と必要なだけ話を通しておけば、それだけ話は早いです。直接話せるかの問題もありますが。上長が話のわからない人なら、さらにその上に内々で話を通しておき、上から無理やり通す裏技もあります。

    決裁フローだけでなくて、実行の上でネックになりうる場所があれば、そこにもあらかじめ話を通しておく必要があります。外注先が決まっているならそこに話を通しておくべきです。決裁がおりて実行する段になってから、やっぱりできませんでした、では話になりません。

    話を通すときには、全体のメリットを考えなければならない

    他人の合意でショートカットする

    反対しそうな人を飛び越えて他の人にあらかじめ合意をとっておき、反対しそうな人に対して「○○さんもこう言ってましたよ」で黙らせる技があります。

    先ほどチラっと書いた裏技がこれです。本当に全体のためになる提案だと確信が持てて、その人を納得させられるならよいでしょう。最終的に決裁権者の全員の合意が取れれば何でもいいのです。とはいえ、そのためには普段から関係を作っておかなければなりませんし、ちゃんと説得できる材料も必要ですから、そう簡単な話ではないわけですが。

    なおこうした力業は、仮に失敗したときのリスクが大きいので注意が必要です。

    手続きを守らなければ責任問題になる

    合意を取る話をしてきましたが、さらにその先、手続きの重要性も無視できません。

    決裁を取るのが面倒だからと、手続きを踏まずに個人の判断で進めたら……失敗したときの責任がすべて降りかかるのです。上席の人間を巻き込んでおけば、そっちの方が目立ちますから、必ずしも現場に責任は降りかからないかもしれません。だが責任問題から端を発して、組織の内部分裂も考えられます。最悪のケースを想定して、手続きをまじめに守るか、なるべく多くの人を巻き込むのがいいでしょう。

    手続きを軽視した結果、戦後の西陣では織物館をめぐってカオスな状況になった

    裏技を使うときは、合意が取れるか考えよう

    世の中にはグレーゾーンがあります。ルールでは禁止されていないものの、多分やらない方が良いことがそれです。

    グレーゾーンの中でも、場所によってやっていいことかどうか変わるのが、話を難しくしています。例えば大学で授業に潜ることを考えましょう。大学の授業は、普通、潜っても特に問題がありません。単位にはならないが、勉強するだけなら許されるでしょう。学外の人でも、潜ろうと思えば潜れます。一方で高校の授業はどうでしょうか?高校の授業は普通、クラス制で、決まった人が受けます。他の高校に侵入して、授業を受ける人などほとんどいないと言っていいでしょう。もちろん、許されないだろう。

    この二者の違いは何でしょうか?ズバリ、合意が取れるかどうかです。どちらも指摘されれば諦めざるを得ないのは前提として、後で自分の行動が周りに知られたとき、周りからの信頼を失うかどうかは、合意が取れるかにかかっています。

    合意が取れるかは、社会常識や状況など、所属するコミュニティの価値観に大きく左右されます。会社や学校に入ったら、まずは大人しくしておいて、他者理解に努めつつ、そのコミュニティの価値観を冷静に判断するのが賢明です。

    周りに迷惑をかけたり、やり方を間違えない限り、社会は意外に自由である
  • 仕事は楽しくやろう(「生きるだけ」で終わらないために)

    仕事は楽しくやろう(「生きるだけ」で終わらないために)

    仕事に楽しさを求めるか給料を求めるか、この二者択一(?)は求職者永遠の課題です。就職した後も多くの人はこの問いに向かい続け、ある人は夢を追って仕事をやめ、ある人は閑職に追い込まれてなお職にしがみついています。またある人は給与の少なさに絶望し、より報酬の高い仕事を求めて転職活動をしています。

    人それぞれ価値観は異なり、重視するポイントも人それぞれですから、この問いに答えるのは簡単ではありません。それに、給料が高ければ他のすべてが我慢できるようなものでもありません。

    それはともかく、僕の答えは、「楽しさの方が大切」です。これには深い理由があります……。

    (前提)楽しさと給料はトレード・オフではない

    まず、楽しい仕事と給料のいい仕事はトレード・オフではありません。給料の多寡は、単純化すれば、需要と供給と、雇い主の懐事情で決まります。基本的にみんながやりたがる仕事は給料が安いですし、やりたがらない仕事は給料が高いです。そして儲かっているところは給料が高いですし、儲かっていない所は給料が安いです。これを踏まえると、楽しくて給料が高い仕事をやろうと思ったら、「誰もやりたがらなくて」「儲かっていて」「でも自分は楽しいと思う仕事」をやればよいことになります。まぁ、給料が高い仕事の新卒はほぼ無条件で倍率が高いですから、そう簡単にはいかないわけですが。

    • ※前提として、事象Aと事象Bがトレードオフになる場合とは、事象Aと事象Bが背反である場合、さらに言えば、事象「Aでない」から事象Bが導ける場合です。この場合、「楽しい」は主観、「給料が高い」は客観です。(給料の多寡も主観だと主張されるかもしれません。その意見には全く同意ですが、「楽しい」と比較すると客観的ですから、今は客観ということにしてください)

    さて、前提は確認しました。ここからはもっと深い話をしていきます。

    給料以上のものを仕事で得よう

    仕事は給料を得るためだと主張する人は少なくありませんが、ホワイトとされる955(9時から5時まで週5日)ですら、平日の覚醒時間の半分以上を仕事に捧げるわけで、給与所得のためだけにこの犠牲は、割に合わないと思います。

    仕事をするメリットの第一は、自己紹介がしやすくなることです。仮にあなたが車屋だとしましょう。初めて会う友達に自己紹介をするとき、まず自分の名前を紹介して、仕事を紹介して、それから出身地とか大学とか、その辺の紹介をするでしょう。そしてそれを聞いた相手は、あなたのことを車屋の人で記憶します。次に車関係で相談があれば、まずあなたにあたるかもしれません。

    名刺は社会人必須のアイテムだ

    仕事は絶対に好きな業界で働くのがいいです。車屋でないと車業界のことはわからないでしょうし、伝統産業のことが知りたくて好きなら、その業界に入るのがいいです。「業界内部に入る」とは、値千金どころの話ではないのです。

    人と関わる機会があっても、自分がどんな人間で、信用に足る人間であることを認めてもらえなければ、実のある展開は期待できません。信用していない人間に重要な情報は教えないし、仕事も回さないからです。某漫画の主人公が「人脈と信用が大切」と言及していたが、まさにそうです。ある程度大きなことをやろうと思ったら、人と人との繋がりが大切になります。知り合いが多いだけではなくて、「この人なら信頼できる」「まじめに仕事をやってくれる」の安心感がないと、先々につなげられないし、目の前の仕事も覚束ないです。

    「世紀の大天才」は、人脈と信用こそが実行のキーファクターだと喝破した

    「社会資本」を得よう

    この信頼のことを社会資本と呼びます。これは一朝一夕では手に入りません。お金があれば手に入る性質のものでもありません。目の前の仕事を愚直にこなし、周りのみんなを儲けさせ、幸せにして、そしてすべてに感謝してこそ得られるものです。そして社会資本を得るには、仕事としてその業界ないし作品、製品に本気で向き合う(少なくとも、周りからそう見られる)必要があります。最終的に業界の振興の担い手になろうと思ったら、業界内の信用と顔の広さは必須です。プラトンは、ソクラテスの言葉として以下の言葉を紹介しています。「一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである」。めくるめく未来を想像して、世のため人のため、そして自分のために生きるのと、単に給与所得のために生きるのでは、天と地ほどの差があります。

    仕事として本気で向き合おうとしたとき、嫌いなことに熱量を持って向き合うのは、こだわりが強い人間にとってかなり難しいことだと思います。嫌いなことにフルコミットなどできるはずがないのです。まぁ、出来のいい諸兄はできると思うので、僕にはできないだけの話です

    人と人のネットワークこそ仕事で得られる最大の資産だ

    楽しくない仕事で品格を見せよう

    世の中の仕事には雑用も多いです。単に荷物を運ぶだけとか、新聞を読んでコピーして回覧に回すとか、ひたすらハンコを押すとか、封筒にひたすら詰めるとか。仕事が信用につながるといっても、雑用までする必要があるのか、疑問に思う向きもあるかもしれません。

    さて、某漫画の主人公はこうも言っています。「動くべき時に動けるか、それができる人間はたとえ泥にまみれても綺麗だ」。これこそnobless oblige(ノブレス・オブリージュ、「位高ければ徳高きを要す」)の神髄であり、雑用のような仕事こそ、自分の品格を磨くのです。だから雑用を振られたら、「爆速で終わらせる!!」のノリでやるのがおすすめです。早く終わらせて雑用全てを平らげたら、面白い仕事が降ってくるものです。

    かぐ〇様単行本第12巻121話、〇宮かぐやが新聞部部長を助けにドブ池に入るシーン

    今の時期は、新しい環境で辞めるだの辞めないだのと騒がしいです。周りでも仕事が好きな人嫌いな人、色々いますが、やめる人は概して「社会資本」の概念を欠いていると思います。好きな人でも考慮していない場合は多いです。「後悔しない、最善の選択」を取ろうと思ったら、目先の報酬──給与所得とか──だけに目を向けず、広い目で見て、取れるだけ情報を取り、持続可能性のある決断を下すのが大切です。

    「人間はポリス的動物である」とアリストテレスは言いました。人間は一人で生きていけないのですから、他人とのかかわりを軸に人生を設計するのは、決して悪い選択ではないでしょう。

    「アテネの学堂」ラファエロ作、バチカン宮殿内
  • 学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    学生の街は一面的な見方にすぎない(大人の京都は面白い)

    京都は学生の街と言われます。「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」との有名な句はそれについて読まれたものであり、京都を離れる学生の郷愁を表している、とされます。(ちょっと調べた感じ、このブログが端的に表現されていてよかったです)

    鴨川は京都の青春の象徴とされる。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47728320U9A720C1AA1P00/より引用

    学生と社会人について、京都でよく言われるとされ、実際に僕も言われたのは「京都では学生さん、社会人と呼び分けんねん。学生は『学生さん』でお客さんやけど、『社会人』は違って、『さん』がつかない」この文句である。

    これは京都の持つ多面性をよく表していると思います。他の都市と同様、京都も広く大きい。学生程度が把握しきれるほど浅い町ではないことはご承知置き頂きたいと思います。だから「京都は学生の街」との一面的な理解は捨てて、大人になって、出世してからまた来てもらえば、また違った側面をご覧いただけるでしょう。

    一都市として見る京都の姿は、さすがと息をのまざるを得ません。大人の京都の面白さについては、僕がブログで紹介しているような歴史を始めとして、美術・工芸・歴史・宗教・文学・建築・商業・工業等々と多岐にわたり、語りつくせるものでもないし、そもそも僕では力不足すぎることを承知の上で、あえて簡単に説明してみます。

    1.歴史

    これは言うまでもありません。が、深入りするのに一番敷居が高いのがこれかもしれません。京都は1200年の歴史があるだけあって、歩くだけで楽しめる街でもあります。知識に対するリターンが一番大きくなる街といってもいいかもしれません。深い知識を入れようと思ったら、相応に骨が折れますが。

    基礎知識として入れておくといいのは、平安京の町割りです。これと、これの周辺知識を多少入れておくだけで、他の吸収率がずいぶん違うと思います。京都の歴史本は無限にありますから、あとは好きなものを読んで、好きなところを歩けばいいでしょう。これで京都を楽しみ放題です。

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    2.食事

    第二は食事です。京都は出汁が美味しいです。出汁以外も結構おいしいが(肉の調理とか)、結局のところ、京料理のおいしさの8割は出汁のおいしさです。

    お出汁の写真。https://odashi.co.jp/household-use-dashi/より引用

    京料理の本領は懐石といわれますし、もちろん値が張るだけあっておいしいです。懐石でおすすめの店を挙げるとすると、上七軒のおかもと紅梅庵とか、富小路六角下がるの要庵西富家西陣郵便局の裏の西陣魚新とかだろうか?特に要庵西富家は本当においしいと思います。懐石の相場は、安くて1万円程度、高くて8万とかだと思うが、その中で一人4万円程度なのは安いといえば安いと思います。隣のやま岸より安いですし。

    要庵西富家のホームページ。料理がおいしいのはもちろん、宿としても一流で素晴らしい

    なお、懐石は本当にピンキリです。例えば5,000円~6,000円くらいの懐石(?)は外れが多いので注意が必要です。あと海鮮は正直東京の方がおいしいです。

    3.工芸

    京都は工芸の都です。元禄時代に頂点を迎えた京都の工芸は、今でも日本の諸技芸の本場であって、いくらでもこだわりたい諸兄にはピッタリです。これは過去にも引用したけれども、

    京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり。(ケンぺル「日本誌」)

    なのです。

    西陣織にも多くの品種がある。最高級品だけあって当然意匠・風合いともに素晴らしいものが多いのだが、ピンキリでもある分相場が形成されづらく、買うのが難しい側面もある

    きものが好きな人なら室町・西陣を訪問したいと思う人もいると思いますが、きものを深掘りするのは結構難しいから、僕に連絡するか、他に探すかするといいと思う。
    ともかくどこかの小売店・問屋・メーカーの上客になるか、その道に就職するかのどちらかしかありません。これは呉服に限った話ではありませんが。

    焼き物ならいわゆる京焼ですが、焼物なら五条坂周辺の店がいいでしょう。小売店なら竹虎堂朝日堂あたりがおすすめかもしれません。陶磁器会館もいいです。それと、夏くらいにはメーカーが販売会をしていますから、このタイミングで買うのもいいでしょう。前は私もたまに買いに行っていました。

    (懇意にしている小売店の人にメーカーの販売会の話をしたら微妙な顔をされましたから、そういうことなのでしょう。メーカーと流通の関係は何処の業界も変わりませんね)

    陶磁器会館の写真。http://kyototoujikikaikan.or.jp/guide/access/より引用

    とにかくこの街は、一定程度までは来るもの拒まず・去る者追わずですが、仕事をするにあたっては、キッチリ腰を据えて取り組まなければなりません。舐めた仕事をしては駄目です。ツイッターでは「モラトリアムの具現化」などと面白い評価をされていますが、学生に限った話なのは言うまでもありません。

    おまけ

    さて、本ブログの主要な題材は西陣・西陣織、あるいは室町も含めた染織産業の歴史である。そして西陣の歴史で一番面白いのは、明治から昭和までの組合史だと思います。せっかくなので今回は、かつて西陣にあった広報誌「西陣織たより」第一号(昭和26年発行)に載っていた文章を掲載しておく。ここに出てくる「西陣織物同業会」とは現在の組合の直接の前身である。

    西陣織物館の写真

    西陣と金融

    第一銀行西陣支店 支店長 加藤光一

    わが西陣に機業界を代表し業者の總意を結集し、業界の進步發展の爲めに必要な事業を行う機關が存在しなかつたと云うことは、洵に不思議なことでありましたが、此の度西陣織物同業會が設立の準備を完了し、菊花薫る仲秋の佳日に新發足せられましたことは、真に御同慶に堪えないところであります。多くの困難を排除して此處まで事を運ばれた理事者各位の勇氣と御苦心に對し、またさしあたり經濟的な利益の期待出来ない同業會に卒先參加せられた會員各位の熱意に對し、深甚の敬意を表する次第であります。

    西陣は千年の歴史を有する我国最古の機業地であり、傳統の精巧な技術を有し、製品は帶地、着尺、金欄、ビロー ド、廣巾織物等多種多様に亙ること、生糸は元より人絹、 化纖、毛糸、麻糸、綿糸等あらゆる繊維が原料として使用せられていること、生產行程が極度に分業化せられ、此の分化された業種毎に多数の業者、多様の業態の存在すること等内地の機業地に比較し得るものがありません。

    由來產業と金融は車の兩輪の如きものでありまして、上記のような機業地としての特色は自ら金融の面に於ても幾多の特異な様相を呈することとなるわけであります。西陣の金融に関与している機関には、銀行、信用金庫、商工中金、無尽会社等本来の金融機関の他に生糸商、買継商(所謂上仲買)、室町筋の問屋(所謂下仲買)或は府市の直接又屋、糶市(せりいち)等迄時と場合によっては相当の役割を果しております。

    銀行について簡單に申しますと、西陣の中心、同業会の事務所のあります今出川大宮界隈に軒をつらねる銀行が八行九店舗、之に一信用金庫が加わって十店舗で土曜會と云う連絡機關をつくつて居ります。此の土曜会メンバーの銀行の預金は二二一二億、貸金は一七一八億位と推定せられるのでありまして貸出の約八割は機業とその関連産業に対するものであります。貸出よりも預金の方が多いようでありますが、西陣の機業に闘する限りでは貸出は預金を可なり上廻り所謂オーバー・ローンの形になつていることは明かであります。右の土曜會メンバーの銀行の他に廣く西陣地區には、銀行の店舗が一〇、信用金庫の店舗が四、無尽会社の営業所が数ヶ所ありまして之が直接間接に機業の金融にたづさわっているわけで、一機業地にかくの如く多種多数の金融機関の営業所を有しているところは何処にもありません。

    よく局外の人は西陣は古い、あらゆる面でもつと新しくならなければいけないと無責任に言つてのけますが、西陣は千年の風雪に耐えて今日の形態にたどりついたものであり、今日の西陣は一見複雑怪奇で、舊套依然たるものがあるようにみえますが、また新興の機業地に見られない強靭な底力があって、今迄幾度か西陣の危機を叫ばれながら立派にそれを乗り切つて生き抜いて来、今日内地の機業地の中にあって尤も健全なものに数えられているのには、それ相当の理由がなければなりません。元より新しい時代の威覺をとり入れ、現状を改善して行く工夫努力を怠ってはなりませんが、それかと言つて傳統を忘れ一塁に革命的な改革を行うことは、角を矯めて牛を殺す愚に均しいのではないでしようか。西陣の機業と金融は車の兩輪の如くどちらが進みすぎても遅れすぎてもいけない。同じ速度で着實に前進することこそ西陣を健全に發展に向わせる原動力と信じるのであります。

    (太字部分のみ新字に直した)

  • センスの良いものに囲まれよう

    センスの良いものに囲まれよう

    工芸の第一の魅力は何?と問われれば、まずは多品種少量生産であることが挙げられると思います。多品種少量生産というとなんだかよくわかりませんが、簡単に言えばいろんな種類があって、細かいこだわりに応えられることだと理解してくれればよいです。そして、細かいこだわりこそセンスの見せ所です。

    伝統工芸品の一覧。京都の場合、国の伝産法に指定されている品目は17ある。

    僕が工芸の好きなところの第一はここです。身の回りのものにはこだわった方が良いのです。これはいいものはQoLが上がるから高いものを買えという話ではありません。何を買うかは人生の豊かさに直結するのです。個性化の現代、「伝統工芸品を買って使う」ことは、とりもなおさず、「温故知新」「不易流行」あたりの価値観を表現することにつながります。

    「第一回京都博覧会で西陣織と同じく天皇のお買い上げ品が出た」でおなじみ、京焼。有名なだけあって悪くない。織物と比べても手ごろな値段なのもいいと思う。画像はhttps://densan.kyoto/industry/kyo-yaki-and-kiyomizu-yaki/より引用

    「買って使う」くらいがちょうどいいバランス感覚であるといえば、一部の方には魅力が伝わるでしょうか?アピールとは口に出したら効果が半減するものです。センスのいいものを買って使えば、何も言わずともセンスのいい人には伝わるし、センスのいい人にだけ伝われば、センスのよさがモノを言う社会で生きるには十分です。

    ではセンスのいいものとは何でしょうか?簡単に言えば、センスの良さとは「自分の置かれている立場を表し」「ストーリーの中に組み込めるもの」とでもなると思います。

    いくら高いものでも、分不相応なものを買ったところで豚に真珠です。マタイによる福音書に曰く、「生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや」。結局のところ、何を食べようと、何を着ようと、命そのものの方が食べ物より価値があり、着物より体の方が価値があるのです。卑近な例でいえば、容姿に優れた人間ならユニクロでもGUでもサマになることがそれに当てはまるでしょう。このことは、すでに2000年前にマタイが言及しています。

    ユニクロを着こなす人たち

    センスのいいものとは、言い換えると、「自分のこれまでとこれからを代表させるもの」と言ってもいいかもしれません。ということを考えると、モノの入手経路や入手するまでの経緯、使い方等、そのものに関わる全てがセンスを表し始めるのです。例えば同じコップでも、近所の雑貨屋で適当に買ったものと、一人暮らし開始祝いで親から買ってもらったコップでは主観的な価値が違います。そしてこの説明をすれば、心ある人なら、その人にとって後者のコップは価値があるのだと理解してくれるでしょう。このように、簿価以上の価値を生むストーリーをくっつけるのがセンスの正体です。

    センスのいい着こなし。https://www.fujingaho.jp/uts-kimono/shop/g32774888/komono03-200618/より引用

    ということを考えると、センスのよいものに囲まれようと思ったら、まず自分自身がどのような人間で、これまでどう生きてきて、これからどう生きていきたいのか。これを考える必要があります。

    とはいえこんな話を始めると一生話が終わりませんし、話が壮大になりすぎますので、この辺でやめておくことにします。工芸品の世界は広くて深く、おすすめしようと思っても全く容易ではありませんが、小物もけっこう作っている龍村美術織物のオンラインショップでも紹介しておく。龍村は西陣の名門の一つで、西陣機業に対する貢献も大きく、さらに祇園祭の懸装品を作っているところでもある。

    龍村美術織物のオンラインショップ

    龍村美術織物のホームページ

    小物なら西陣織会館も、いろいろ集まっていて良いです。西陣織会館で買ったといえばストーリー性もあるし、センスのいい選択であることは間違いありません。龍村以外の名門の商品も置いてあります。

    西陣織会館はオンラインショップがありますが、残念ながら品ぞろえがいまいちです。対面も大概だと僕は思いますが、オンラインよりは幾分ましです。

    西陣織会館のオンラインショップ

    西陣織会館館内。結構ゴージャスで、「古き良き豊かな昭和」が未だに生きているのはここくらいのものだと思う。(https://kyotopi.jp/articles/NenA6より引用

    伝統工芸の世界は広くて深いです。伝統工芸はネットで適当に調べるだけでは良さがわからないと思います。話をしたくなったら、ぜひ私にご連絡ください。→Contact

  • 京の商都「室町」─花の都と呉服商

    京の商都「室町」─花の都と呉服商

    江戸時代から昭和前期にかけて、京都の製造業の中心は西陣を中心とする染織工業でした。枢軸たるにはそれに応じた需要と供給が必要です。作ったものはどこかで売りさばかなくてはいけません。

    京都において、西陣で生産した繊維製品は、室町商人と呼ばれる商人集団により流通に乗り、全国に販売されてきました。今回は、京都の商業を長年にわたり支えてきた室町商人の足跡を見ます。

    室町商人のおこりと祇園祭

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    平安時代のはじめ、商業の中心は西市・東市と呼ばれる官営の卸売市場でした。律令制が崩れ、平安京が衰微するにつれて、両市場に代わって三条町・四条町・七条町が、次いで町尻通・室町通が商業の中心となります。この町尻通・室町通が、現在の新町通・室町通です。

    室町時代に入り律令制が解体されても、京都には依然として荘園領主が住み、全国に末寺を持つ自社の本山が置かれました。貢租により全国から流れこむ富と、律令制時代から受け継がれてきた高度な技術、公貴族をはじめとする荘園領主たちの高級な需要がそろった京都では、前代に引き続き、全国の商品流通の中心地になりました。

    鎌倉時代より、独立専門の手工業者および商人は、朝廷・貴族・社寺を本所と仰ぎ、その特許を得て、「座」を結び、その保護下に営業を行いました。とくに経済力にすぐれた祇園社に属する諸座が、主に三条・四条周辺にかたまっていたので、当時の繁華街の中核は、それらと室町の交差点にあたる室町三条・室町四条等でした。

    この時代の室町の富を示すものの第一が、現在も毎年盛夏に行われている「祇園祭」です。現在の山鉾は全部で34基ですが、応仁の乱前までは48基あり、それぞれの街が山鉾を出していました。その範囲も、現在は蛸薬師通~松原通、油小路通~東洞院通ですが、当時は万里小路(現柳馬場通)~大宮小路(現大宮通)、二条通~五条通(現松原通)に広がっていました。

    現在の祇園祭山鉾の一覧。https://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/komagataより引用。
    なお、大宮小路は堀川通よりもっと西

    今でも山鉾所在地は室町通・新町通に集中しています。この分布からも、往時の室町商人の繁栄の影をうかがい知ることができます。

    室町の荒廃と繁栄

    応仁の乱の様子。『真如堂縁起絵巻』掃部助久国筆

    京都の過半を灰燼に帰した「応仁の乱」では、経済交通の関門が軍事上の要衝となって封鎖され、一般の経済活動に支障を来したのみならず、町域も大きな損害を被りました。市中での自由な売買は一向に叶わず、祇園祭も当然中断し、室町の繁栄は終わりかと思われました。

    しかし応仁の乱によって自衛の大切さを学んだ町人諸兄は、共同して町組を作り、その町組はさらに連合して惣町を作りました。そして応仁の乱後における京都の町は既に鎌倉時代より大まかに分かれていた上京・下京の二つに分かれて結集し、上京惣・下京惣の大きな自治組織を作りました。

    応仁の乱後、約30年の歳月をかけて、祇園祭の山鉾が復興したのは、新町・室町を中心とする山鉾町の復興の速さを物語っています。一方でこの時に復興した範囲は、現在と同じく、三条以北・東洞院以東・油小路以西は廃されています。新町・室町に富が集中していたのは、この範囲からも窺い知れるでしょう。

    近世になって、幕府が江戸に去り、政治の中心は京都から江戸に移りました。この時代になると、町人の繁栄はより明らかになっていきます。江戸時代の京都の文化について、足立政男立命館大元教授はこのように述べています。

    近世になって、幕府が江戸に去った後の京都は(中略)京都を代表するものは、武士でもなく、公家でもなく、また僧侶でもなく、それは町人であった。その町人を中心とする京都の文化は接木の文化であり、伝統の文化であるといわれているように、一千年にわたる伝統に培われた公家文化の影響を受けて、雅やかな貴族的風格をそなえた町人文化であった。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    京都を代表する文化の担い手が町人であったのは、町人のもつ圧倒的な経済力を背景にするところが大きいといえます。政治の中心から離れて財政基盤が脆弱になった公家も、幕府の政策によって富が抑えられている武家も、京都の文化の担い手として主導権を握れませんでした。

    『洛中洛外図屏風』右隻。手前が室町通

    町人のこの地位は、扱った商品の質とブランド力も要因でした。この時代から、「京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり」と言われるようになり(ケンプエル)、織物・染物・刺繍・陶磁器等の工芸都市として、あるいは学問・宗教・芸術等の都として、日本における総本山的な地位を占めるようになりました。

    そしてこの商人たちを代表するのが、京呉服織物問屋商人であり、その同業者が集まって同業者街を形成していた室町通でした。室町通が最も富裕であった時代こそが、次に紹介する元禄時代です。

    元禄の室町

    『燕子花図屏風』尾形光琳筆。尾形光琳は元禄時代の代表的絵師

    17世紀の後半になって、今でも西陣では全盛期として語り継がれる元禄の時代(1688~1703)、華麗絢爛を競う時代背景を反映して、京都は伝統工芸の黄金時代を迎えました。特に染織工業においては、幕府・諸大名・各寺院が大いにこれを賞美し、それぞれ京都の呉服師を召し抱え、西陣と京染でなければ着用しないほどになりました。

    それに応じて町人の潜在的勢力もまた増大し、士農工商として身分的制約を受けていた町人は、その勢力を表現するためにまた京呉服を珍重して、西陣・室町を中心とする京都の染織工業界は、未曽有の活気を呈しました。

    この結果、「かつての京都のように、政治・経済・文化を集中し、独占した首都ではなくなったが、服飾・器物はみな優美、染織業の名声と信用は日本第一となり、染織呉服における京都の地位は牢固として抜くべからざるものとなった」のです。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    「現金掛値なし」をうたい、京都・東京で豪富を誇った三井越後屋

    こうして致富商人となった室町商人は、次第に呉服だけでなく金融業も営むようになりました。そうした室町商人の最も代表的な人々が、千治・千總・千吉を始めとする千切屋一門であり、松坂より京都に上り、現在も財閥として名をはせる三井組、三井とともに幕末に京都の三大金融機関の役割を果たした島田組、小野組などです。

    さて、染織産業の全盛期であった元禄時代を越え、室町は再び受難の時代を迎えるのです。

    (つづく)

    (なお、本稿は京都織物卸商業組合編、足立政男著「室町の歴史と室町商人」を参考にした)

  • 西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣物産会社消滅とその後の京都府辞令

    前回はこちら

    古来より西陣は織物の産地であるといい、あたかも一般製造業とは種別が異なるものであるように見えるといえども。一歩引いてみれば、その実態は一般製造業と大して変わりません。

    明治前半まで活躍した紋織用織機「空引機」を使用している様子。西陣呼称500年記念事業で復元され、555年記念事業で再び使われるようになった

    伝統工芸品として有名な西陣織の産地・西陣は、糸や染料、織法等々と、コスト意識の高い他産地とは一線を画す製造技法を持ってはいます。しかし結局は製造原価があり、卸値(下代)があり、その先の小売価格(上代)があります。西陣に限らず、商売に長けた販売業者が売る側より立場が強くなるのは、世の常であるといえます。

    西陣物産会社が自然消滅して数年後、明治10年に、京都府から辞令が下りました。

    当府下西陣織物之義は、古来連綿し名誉海内に冠たり、維新後益盛んに行われ、随って機数も又往年に倍数せしに乗し、 一時の流行に甘んじ眼前の小利に迷い争って、粗悪の品を濫製し甚しきに至っては、擬色綿糸入等の品を以て正品に相混ぜ、世人を眩惑し、其為め正品の名誉を失貶せしめ、終に物品も不揃にて土地衰微に陥り、今日の景況或は糊口を凌ぎかね候う輩少からず、嘆く可き事也。依て織工及仲買商等、衆議の上取締の為め上京八区智恵光院一条上ル橋町に織物会所開設し品物を検査し濫製の悪弊を一洗し、世人の信用を保全せんが為め製品に証紙貼用の方法を設け、西陣織の名称を以て織物販売する諸織工及仲買共へは一般免許鑑札を下渡す。(中略)
    但し本文の通り施行申付け侯上は、来る十一月一日以後無証紙の品は不正の品と見做し、規則中第六条の通り取り計らうべき儀に付き、兼て商家に買置き候品共、十月三十一日限り検査を受け証紙を貼用致すべき事
    明治十年九月八日 京都府知事 槇村正直

    すなわち西陣物産会社に代わる、西陣織物会所の設立辞令です。要約すると、
    ・粗製乱造が問題になり、商売に影響が出ている
    ・西陣織の信用を回復するため、西陣織物会所を設立すべし
    ・西陣織物会所は、織屋・仲買商ともに、製品検査・証紙貼用を徹底させるべし
    ・職工及び仲買商は免許制を取る

    ことが言い渡されました。

    明治の初めごろは明治維新・東京奠都で西陣が衰退するのではないかと思われていたのが、明治10年ごろにはすっかり杞憂となりました。むしろ庶民の服装が自由になったこと、女性の外出・交際の場面が広がったことから、豪華な織物を織り出す西陣織物の需要は増し、特に帯地・着尺御召※1・繻子※2で活況を呈しました。

    その好況を受け、数千軒を数える西陣織屋の中には、正絹と称して綿を使用したり、退色が激しい擬色錦糸を使用したりと、粗悪品を製造する所が現れてきました。西陣織物会所設立の辞令が下ったのは、こうした背景があるといえます。

    ※1 「西陣お召」で有名な、強く撚りをかけて丈夫さを増した横糸「御召緯(おめしぬき)」を使用した高級きもの用生地。11代将軍徳川家斉が好んだことからこの名前がある。現在は「西陣きもの会」が商標を実質管理している。
    ※2 スーツやパーティードレスの裏地などによく使われる、さらさらとした生地。サテンとも呼ばれる。光沢が華やかさや高級感を演出する。平織・綾織(斜文織)と並ぶ三原組織の一つ。

    西陣織物会所の組織機構と仲買商

    前回の西陣物産会社で、織屋を専門ごとに18社に分けたことが業務の複雑化を招いたとの反省がありました。そのため今回設立された織物会所では、8社にまとめられることとなりました。※1

    西陣織物の品質改善が開設の眼目であったため、良品を仕入れて販売するのが生業の仲買商も、織物会所の設立にかかわることとなりました。仲買商は地域別に5組に分けられ、それぞれ仁組・義組・礼組・智組・信組と名付けられました。※2

    こうした組み分けに従い、役員は選挙で選ばれ、京都府勧業課によって開票・任命を受ける仕組みであったようです。役員は取締役と呼ばれました。

    仲買商よりも織屋の方が断然多く、したがって票数も織屋の方が断然多いにもかかわらず、歴代取締役のうち、4分の3は仲買商となる結果になりました。これは従前より、織屋より仲買商の方が商慣行上、立場が強かったことに加え、資力に勝れる仲買商が、言ってみれば金に物を言わせて、当選を勝ち取ったのではないかと推測されます。
    後の時代の西陣織物業組合、織物製造業組合、織物同業組合等々の組長選挙でも、買収・賄賂何でもありの伝統があったようです。

    織物会所で設けられた織屋の8社(8部会)には、西陣物産会社同様、それぞれ3名の肝煎(役員)が置かれました。その中には、佐々木清七、喜多川平八、人見勘助など、のちにも名前を残している人も見えます。

    なお組合事務所は、上京区智恵光院通一条上ル橘町に置かれました。この場所は西陣最大の席貸し料理店で、広く見事な庭園を備えた木造二階建ての建物だったようですが、経営困難に陥り、この会所に借り入れられたものであった、と記録にあります。専用の組合事務所を持ったのはこの時が初めてで、この建物こそが西陣織物館の先祖といえます。

    現在、この場所は公園になっています。ネットがあって野球等の球技ができ、結構広いので、小学生の憩いの場として大いに活用されています。

    現在の織物会所事務所跡。橘公園

    ※1 紋織社、生紋社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社
    ※2 仁・義・礼は上仲買、智・信は下仲買の者がまとめられました。上仲買とは産地の近くで織元から買い付け、下仲買に流す業者で、下仲買はおおむね上仲買から買い付け、全国に流す業者です。なお初代筆頭の名前を見ると、礼組に矢代仁の矢代庄兵衛が、信組に千治の西村治兵衛が見えます。

    さて、織物会所がどのような組織かはわかりました。では中心となる証紙事業とは、どのようなものだったのでしょうか?

    証紙事業の始まりと西陣織物の信用回復

    当時使用された証紙。西陣織物館記より

    織物会所の設立理由は、粗製乱造を問題視した京都府からの厳命であったので、粗悪品と正品を見分けて分別するのが組合事業の中心だったと言って差し支えないでしょう。分別した結果を示すのが証紙であり、この証紙事業は、細かい部分は変わりつつも、現在の西陣織工業組合にも引き継がれています。

    織物会所で行われた証紙事業は、西陣織屋すべてが製品検査を受け、正品・錦緯・擬色に3分し、製造元の名前を記した証紙を貼用するものでした。密告の義務があり、製造元たる西陣織屋・販売者たる仲買商の両方に責任があり、違反者は売却金額全額を京都府が没収するとのことで、当初の実績は上々、1枚1銭と定めた証紙の売上は1万198円31銭に達しました。

    この証紙事業は大いに成果を上げました。生産品の正否を鑑別し、その結果を組合員の名前まで付して明示したのは日本で西陣が初めてであり、これは全国の産業組合に範を示す看板事業となりました。

    原反検査が行われるとあって、粗製乱造を行っていた織屋は粗悪品の製造を差し控えるようになり、信用は徐々に回復しました。検査に買主である仲買商も関わったことも大きく、実際に買主が見て証紙を発行しているため、需要も自然と活発化してきました。

    加えてこの時代の西陣織物の活況には、西南戦争に伴うインフレと、それを見越した仲買商の注文増加があったこともありました。ともかく信用を回復した西陣は、一時活況を呈しました。

    とはいえ、お上から言い渡された命令が長続きしないのが西陣です。時間がたつにつれ、物産会社同様、有名無実化していきます。

    証紙事業と織物会所の自然消滅

    松方大蔵卿

    しかしながら、この証紙事業の意義はなかなか理解されなかったようです。西陣織物館記にある、初代取締も務めた橋本伝蔵氏の言によると、「槇村知事様ご立腹非常にて、金を返さねば織屋商売成すこと相成らずとまで仰せられ種々とご心配の上、西陣織物会所と改称せられ1枚1銭の証紙の収入をもって消却の道を立てられ……」と当時理解されていたようです。

    つまりは西陣物産会社時代、なし崩し的に払わなくなった借金を返済させるため、機別出銭に代わる徴収方法として、証紙事業を命じたと考えられていました。

    実際、証紙事業で定められていた罰則は、ほとんど有名無実化しました。西陣で産出される織物は数が多すぎて、すべての原反検査をやり続けるのは現実的に難しかったのです。違約金を徴収するにも徴収の方法がなく、密告が行われたとて、京都府の警察権は江戸時代ほどではないのも大きな理由でした。

    そのため、西南戦争によるインフレが終わり松方デフレが到来したことも手伝って、明治14年ごろには証紙貼用が行われなくなり、検査にも出されなくなりました。証紙事業以外に収入がない織物会所は屋台骨となる事業を失い、取締役を務める意義を感じなくなった仲買商諸兄は、病気と称して退任し、織物会所はその機能を停止せざるを得なくなったのです。

    (つづく)