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投稿者: 田中一郎

  • 西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して (昭和26年11月発行)

    西陣織物同業会発足を祝して(京都市長 高山義三)

    本日ここに着尺組合を除く他の西陣織物業者がうって一丸とする西陣織物同業会が結束せられましたことに対しまして私は心から喜びの言葉を述べる次第であります。私は余りこの織物のことは知らぬのであります。

    もともと育ちが弁護士でありまして、ぼちぼちこれから勉強しようと思っているのでありますが、夕べ私は太秦のお祭りに行きました。そうして牛の出るのを待っていた間にお茶が出ましてそこでお茶を飲んでいた時に隣にいたおじいさんが盛んに京都の事を罵倒している、私はそれを横で知らん顔をしてそれとはなく聞いていたのでありますが、なかなかの辛辣な批判をしておったのですがその中にこういうことを言っていた。京都の金持ちは皆人を泣かして金持ちになっているのだ、中京の金持ちはみな織物屋を泣かしているのだというのです。彼等の財産はなんびきぶびきで作っているのだ。なんびきぶびきというのは皆さん一寸おわかりにならぬと思います。

    実は私もよくわからなかった、併しよく聞いてみるとなんびきとは皆さんの製品に難を色々とつけてやっていく、ぶびきとは一応ついている値段を見てからどんどん安くたたいて何歩か引いて買う、つまり難くせをつけて何歩かたたいて引いて貰ってから買うというのです。私は織屋自体が団結しておれば決してこのようなことは起らないのではないかと思います、ばらばらになってつまらぬ事でお互が競争し始めるから其処にすきが出来る。そのすきに突きこまれるのであります。

    私は労働者の場合でも同じことが言えるのではないかと思うのでありますが、労力を売ろうとすると資本家はこれをたたいて買おうとする。そうするとうまくいかない。それで組合を作って運営していくと正当な利益が相互に生まれうまく行く、其の意味に於きまして私は組合が出来るのが遅かったのではないかと思います。

    大体まあ京都という所は、私もまあ京都人でありますが、どうもこの協同的な仕事をするのはむずかしい所ではないかと思います。甲が右向くと乙が左向く、会合を開いてみても其の時はだまっている。賛成なんだなと思っていると後から反対なんだと言い出す。なかなか一つの事を纏めてこれを行うということはむずかしい。併しそれにも拘らず西陣同業会が誕生し着尺組合と相提携して一つの西陣業界の力とな る組合が出来たということはまことに結構な喜ばしいことだと思います。

    西陣には伝統がある。長年続いてまいりました輝しい伝統がある。併しこの伝統というものはプラスする時とマイナスする場合がある、つまり親しい人がこれをやって来たのだから我々はこれを失しなわないように伝統を守って行けば好いのだ。という場合には伝統は明きらかにマイナスしたものを与えている。現状維持、現状から一步も出ないということは明きらかにマイナスであります。

    私はアメリカへ行きましてつくづく感じましたことは、これはもう帰国致しましてからしばしば皆さんに機会ある毎に申し上げているのですが、アメリカは午前十時の国である、 今アメリカの国は午前十時だということを言っております。アメリカは資本主義が行き詰ってもうこれ以上繁栄していけないのではないかという人がありますが、私はそうではないと思います。いやアメリカは依然として午前十時の国であるということを言って来たのですが。

    (一方で)西陣には伝統がある、この伝統は一つのプラスになる。併し伝統によってこれを再検討することなく又反省して改善し常に一步一歩進んで行くという努力をしなければ、西陣業界は発展して行かぬと思います。アメリカでもたえずこれで好いのか改善すべきところはないかと創意工夫を怠ることなく歩ゆんで行っております。反省し改善して行くところに進歩あり。どうか伝統をいかすところに西陣の発展する途があるのではないかと思います。甚だ簡単ではございますが一言申し上げまして本日の祝辞と致します。

  • センスの良いものに囲まれよう

    センスの良いものに囲まれよう

    工芸の第一の魅力は何?と問われれば、まずは多品種少量生産であることが挙げられると思います。多品種少量生産というとなんだかよくわかりませんが、簡単に言えばいろんな種類があって、細かいこだわりに応えられることだと理解してくれればよいです。そして、細かいこだわりこそセンスの見せ所です。

    伝統工芸品の一覧。京都の場合、国の伝産法に指定されている品目は17ある。

    僕が工芸の好きなところの第一はここです。身の回りのものにはこだわった方が良いのです。これはいいものはQoLが上がるから高いものを買えという話ではありません。何を買うかは人生の豊かさに直結するのです。個性化の現代、「伝統工芸品を買って使う」ことは、とりもなおさず、「温故知新」「不易流行」あたりの価値観を表現することにつながります。

    「第一回京都博覧会で西陣織と同じく天皇のお買い上げ品が出た」でおなじみ、京焼。有名なだけあって悪くない。織物と比べても手ごろな値段なのもいいと思う。画像はhttps://densan.kyoto/industry/kyo-yaki-and-kiyomizu-yaki/より引用

    「買って使う」くらいがちょうどいいバランス感覚であるといえば、一部の方には魅力が伝わるでしょうか?アピールとは口に出したら効果が半減するものです。センスのいいものを買って使えば、何も言わずともセンスのいい人には伝わるし、センスのいい人にだけ伝われば、センスのよさがモノを言う社会で生きるには十分です。

    ではセンスのいいものとは何でしょうか?簡単に言えば、センスの良さとは「自分の置かれている立場を表し」「ストーリーの中に組み込めるもの」とでもなると思います。

    いくら高いものでも、分不相応なものを買ったところで豚に真珠です。マタイによる福音書に曰く、「生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや」。結局のところ、何を食べようと、何を着ようと、命そのものの方が食べ物より価値があり、着物より体の方が価値があるのです。卑近な例でいえば、容姿に優れた人間ならユニクロでもGUでもサマになることがそれに当てはまるでしょう。このことは、すでに2000年前にマタイが言及しています。

    ユニクロを着こなす人たち

    センスのいいものとは、言い換えると、「自分のこれまでとこれからを代表させるもの」と言ってもいいかもしれません。ということを考えると、モノの入手経路や入手するまでの経緯、使い方等、そのものに関わる全てがセンスを表し始めるのです。例えば同じコップでも、近所の雑貨屋で適当に買ったものと、一人暮らし開始祝いで親から買ってもらったコップでは主観的な価値が違います。そしてこの説明をすれば、心ある人なら、その人にとって後者のコップは価値があるのだと理解してくれるでしょう。このように、簿価以上の価値を生むストーリーをくっつけるのがセンスの正体です。

    センスのいい着こなし。https://www.fujingaho.jp/uts-kimono/shop/g32774888/komono03-200618/より引用

    ということを考えると、センスのよいものに囲まれようと思ったら、まず自分自身がどのような人間で、これまでどう生きてきて、これからどう生きていきたいのか。これを考える必要があります。

    とはいえこんな話を始めると一生話が終わりませんし、話が壮大になりすぎますので、この辺でやめておくことにします。工芸品の世界は広くて深く、おすすめしようと思っても全く容易ではありませんが、小物もけっこう作っている龍村美術織物のオンラインショップでも紹介しておく。龍村は西陣の名門の一つで、西陣機業に対する貢献も大きく、さらに祇園祭の懸装品を作っているところでもある。

    龍村美術織物のオンラインショップ

    龍村美術織物のホームページ

    小物なら西陣織会館も、いろいろ集まっていて良いです。西陣織会館で買ったといえばストーリー性もあるし、センスのいい選択であることは間違いありません。龍村以外の名門の商品も置いてあります。

    西陣織会館はオンラインショップがありますが、残念ながら品ぞろえがいまいちです。対面も大概だと僕は思いますが、オンラインよりは幾分ましです。

    西陣織会館のオンラインショップ

    西陣織会館館内。結構ゴージャスで、「古き良き豊かな昭和」が未だに生きているのはここくらいのものだと思う。(https://kyotopi.jp/articles/NenA6より引用

    伝統工芸の世界は広くて深いです。伝統工芸はネットで適当に調べるだけでは良さがわからないと思います。話をしたくなったら、ぜひ私にご連絡ください。→Contact

  • 京の商都「室町」─花の都と呉服商

    京の商都「室町」─花の都と呉服商

    江戸時代から昭和前期にかけて、京都の製造業の中心は西陣を中心とする染織工業でした。枢軸たるにはそれに応じた需要と供給が必要です。作ったものはどこかで売りさばかなくてはいけません。

    京都において、西陣で生産した繊維製品は、室町商人と呼ばれる商人集団により流通に乗り、全国に販売されてきました。今回は、京都の商業を長年にわたり支えてきた室町商人の足跡を見ます。

    室町商人のおこりと祇園祭

    平安京の町割り。http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ooedo6.htmより引用。

    平安時代のはじめ、商業の中心は西市・東市と呼ばれる官営の卸売市場でした。律令制が崩れ、平安京が衰微するにつれて、両市場に代わって三条町・四条町・七条町が、次いで町尻通・室町通が商業の中心となります。この町尻通・室町通が、現在の新町通・室町通です。

    室町時代に入り律令制が解体されても、京都には依然として荘園領主が住み、全国に末寺を持つ自社の本山が置かれました。貢租により全国から流れこむ富と、律令制時代から受け継がれてきた高度な技術、公貴族をはじめとする荘園領主たちの高級な需要がそろった京都では、前代に引き続き、全国の商品流通の中心地になりました。

    鎌倉時代より、独立専門の手工業者および商人は、朝廷・貴族・社寺を本所と仰ぎ、その特許を得て、「座」を結び、その保護下に営業を行いました。とくに経済力にすぐれた祇園社に属する諸座が、主に三条・四条周辺にかたまっていたので、当時の繁華街の中核は、それらと室町の交差点にあたる室町三条・室町四条等でした。

    この時代の室町の富を示すものの第一が、現在も毎年盛夏に行われている「祇園祭」です。現在の山鉾は全部で34基ですが、応仁の乱前までは48基あり、それぞれの街が山鉾を出していました。その範囲も、現在は蛸薬師通~松原通、油小路通~東洞院通ですが、当時は万里小路(現柳馬場通)~大宮小路(現大宮通)、二条通~五条通(現松原通)に広がっていました。

    現在の祇園祭山鉾の一覧。https://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/komagataより引用。
    なお、大宮小路は堀川通よりもっと西

    今でも山鉾所在地は室町通・新町通に集中しています。この分布からも、往時の室町商人の繁栄の影をうかがい知ることができます。

    室町の荒廃と繁栄

    応仁の乱の様子。『真如堂縁起絵巻』掃部助久国筆

    京都の過半を灰燼に帰した「応仁の乱」では、経済交通の関門が軍事上の要衝となって封鎖され、一般の経済活動に支障を来したのみならず、町域も大きな損害を被りました。市中での自由な売買は一向に叶わず、祇園祭も当然中断し、室町の繁栄は終わりかと思われました。

    しかし応仁の乱によって自衛の大切さを学んだ町人諸兄は、共同して町組を作り、その町組はさらに連合して惣町を作りました。そして応仁の乱後における京都の町は既に鎌倉時代より大まかに分かれていた上京・下京の二つに分かれて結集し、上京惣・下京惣の大きな自治組織を作りました。

    応仁の乱後、約30年の歳月をかけて、祇園祭の山鉾が復興したのは、新町・室町を中心とする山鉾町の復興の速さを物語っています。一方でこの時に復興した範囲は、現在と同じく、三条以北・東洞院以東・油小路以西は廃されています。新町・室町に富が集中していたのは、この範囲からも窺い知れるでしょう。

    近世になって、幕府が江戸に去り、政治の中心は京都から江戸に移りました。この時代になると、町人の繁栄はより明らかになっていきます。江戸時代の京都の文化について、足立政男立命館大元教授はこのように述べています。

    近世になって、幕府が江戸に去った後の京都は(中略)京都を代表するものは、武士でもなく、公家でもなく、また僧侶でもなく、それは町人であった。その町人を中心とする京都の文化は接木の文化であり、伝統の文化であるといわれているように、一千年にわたる伝統に培われた公家文化の影響を受けて、雅やかな貴族的風格をそなえた町人文化であった。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    京都を代表する文化の担い手が町人であったのは、町人のもつ圧倒的な経済力を背景にするところが大きいといえます。政治の中心から離れて財政基盤が脆弱になった公家も、幕府の政策によって富が抑えられている武家も、京都の文化の担い手として主導権を握れませんでした。

    『洛中洛外図屏風』右隻。手前が室町通

    町人のこの地位は、扱った商品の質とブランド力も要因でした。この時代から、「京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり」と言われるようになり(ケンプエル)、織物・染物・刺繍・陶磁器等の工芸都市として、あるいは学問・宗教・芸術等の都として、日本における総本山的な地位を占めるようになりました。

    そしてこの商人たちを代表するのが、京呉服織物問屋商人であり、その同業者が集まって同業者街を形成していた室町通でした。室町通が最も富裕であった時代こそが、次に紹介する元禄時代です。

    元禄の室町

    『燕子花図屏風』尾形光琳筆。尾形光琳は元禄時代の代表的絵師

    17世紀の後半になって、今でも西陣では全盛期として語り継がれる元禄の時代(1688~1703)、華麗絢爛を競う時代背景を反映して、京都は伝統工芸の黄金時代を迎えました。特に染織工業においては、幕府・諸大名・各寺院が大いにこれを賞美し、それぞれ京都の呉服師を召し抱え、西陣と京染でなければ着用しないほどになりました。

    それに応じて町人の潜在的勢力もまた増大し、士農工商として身分的制約を受けていた町人は、その勢力を表現するためにまた京呉服を珍重して、西陣・室町を中心とする京都の染織工業界は、未曽有の活気を呈しました。

    この結果、「かつての京都のように、政治・経済・文化を集中し、独占した首都ではなくなったが、服飾・器物はみな優美、染織業の名声と信用は日本第一となり、染織呉服における京都の地位は牢固として抜くべからざるものとなった」のです。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

    「現金掛値なし」をうたい、京都・東京で豪富を誇った三井越後屋

    こうして致富商人となった室町商人は、次第に呉服だけでなく金融業も営むようになりました。そうした室町商人の最も代表的な人々が、千治・千總・千吉を始めとする千切屋一門であり、松坂より京都に上り、現在も財閥として名をはせる三井組、三井とともに幕末に京都の三大金融機関の役割を果たした島田組、小野組などです。

    さて、染織産業の全盛期であった元禄時代を越え、室町は再び受難の時代を迎えるのです。

    (つづく)

    (なお、本稿は京都織物卸商業組合編、足立政男著「室町の歴史と室町商人」を参考にした)

  • 西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣織物館前史2─西陣織物の発展と織物会所

    西陣物産会社消滅とその後の京都府辞令

    前回はこちら

    古来より西陣は織物の産地であるといい、あたかも一般製造業とは種別が異なるものであるように見えるといえども。一歩引いてみれば、その実態は一般製造業と大して変わりません。

    明治前半まで活躍した紋織用織機「空引機」を使用している様子。西陣呼称500年記念事業で復元され、555年記念事業で再び使われるようになった

    伝統工芸品として有名な西陣織の産地・西陣は、糸や染料、織法等々と、コスト意識の高い他産地とは一線を画す製造技法を持ってはいます。しかし結局は製造原価があり、卸値(下代)があり、その先の小売価格(上代)があります。西陣に限らず、商売に長けた販売業者が売る側より立場が強くなるのは、世の常であるといえます。

    西陣物産会社が自然消滅して数年後、明治10年に、京都府から辞令が下りました。

    当府下西陣織物之義は、古来連綿し名誉海内に冠たり、維新後益盛んに行われ、随って機数も又往年に倍数せしに乗し、 一時の流行に甘んじ眼前の小利に迷い争って、粗悪の品を濫製し甚しきに至っては、擬色綿糸入等の品を以て正品に相混ぜ、世人を眩惑し、其為め正品の名誉を失貶せしめ、終に物品も不揃にて土地衰微に陥り、今日の景況或は糊口を凌ぎかね候う輩少からず、嘆く可き事也。依て織工及仲買商等、衆議の上取締の為め上京八区智恵光院一条上ル橋町に織物会所開設し品物を検査し濫製の悪弊を一洗し、世人の信用を保全せんが為め製品に証紙貼用の方法を設け、西陣織の名称を以て織物販売する諸織工及仲買共へは一般免許鑑札を下渡す。(中略)
    但し本文の通り施行申付け侯上は、来る十一月一日以後無証紙の品は不正の品と見做し、規則中第六条の通り取り計らうべき儀に付き、兼て商家に買置き候品共、十月三十一日限り検査を受け証紙を貼用致すべき事
    明治十年九月八日 京都府知事 槇村正直

    すなわち西陣物産会社に代わる、西陣織物会所の設立辞令です。要約すると、
    ・粗製乱造が問題になり、商売に影響が出ている
    ・西陣織の信用を回復するため、西陣織物会所を設立すべし
    ・西陣織物会所は、織屋・仲買商ともに、製品検査・証紙貼用を徹底させるべし
    ・職工及び仲買商は免許制を取る

    ことが言い渡されました。

    明治の初めごろは明治維新・東京奠都で西陣が衰退するのではないかと思われていたのが、明治10年ごろにはすっかり杞憂となりました。むしろ庶民の服装が自由になったこと、女性の外出・交際の場面が広がったことから、豪華な織物を織り出す西陣織物の需要は増し、特に帯地・着尺御召※1・繻子※2で活況を呈しました。

    その好況を受け、数千軒を数える西陣織屋の中には、正絹と称して綿を使用したり、退色が激しい擬色錦糸を使用したりと、粗悪品を製造する所が現れてきました。西陣織物会所設立の辞令が下ったのは、こうした背景があるといえます。

    ※1 「西陣お召」で有名な、強く撚りをかけて丈夫さを増した横糸「御召緯(おめしぬき)」を使用した高級きもの用生地。11代将軍徳川家斉が好んだことからこの名前がある。現在は「西陣きもの会」が商標を実質管理している。
    ※2 スーツやパーティードレスの裏地などによく使われる、さらさらとした生地。サテンとも呼ばれる。光沢が華やかさや高級感を演出する。平織・綾織(斜文織)と並ぶ三原組織の一つ。

    西陣織物会所の組織機構と仲買商

    前回の西陣物産会社で、織屋を専門ごとに18社に分けたことが業務の複雑化を招いたとの反省がありました。そのため今回設立された織物会所では、8社にまとめられることとなりました。※1

    西陣織物の品質改善が開設の眼目であったため、良品を仕入れて販売するのが生業の仲買商も、織物会所の設立にかかわることとなりました。仲買商は地域別に5組に分けられ、それぞれ仁組・義組・礼組・智組・信組と名付けられました。※2

    こうした組み分けに従い、役員は選挙で選ばれ、京都府勧業課によって開票・任命を受ける仕組みであったようです。役員は取締役と呼ばれました。

    仲買商よりも織屋の方が断然多く、したがって票数も織屋の方が断然多いにもかかわらず、歴代取締役のうち、4分の3は仲買商となる結果になりました。これは従前より、織屋より仲買商の方が商慣行上、立場が強かったことに加え、資力に勝れる仲買商が、言ってみれば金に物を言わせて、当選を勝ち取ったのではないかと推測されます。
    後の時代の西陣織物業組合、織物製造業組合、織物同業組合等々の組長選挙でも、買収・賄賂何でもありの伝統があったようです。

    織物会所で設けられた織屋の8社(8部会)には、西陣物産会社同様、それぞれ3名の肝煎(役員)が置かれました。その中には、佐々木清七、喜多川平八、人見勘助など、のちにも名前を残している人も見えます。

    なお組合事務所は、上京区智恵光院通一条上ル橘町に置かれました。この場所は西陣最大の席貸し料理店で、広く見事な庭園を備えた木造二階建ての建物だったようですが、経営困難に陥り、この会所に借り入れられたものであった、と記録にあります。専用の組合事務所を持ったのはこの時が初めてで、この建物こそが西陣織物館の先祖といえます。

    現在、この場所は公園になっています。ネットがあって野球等の球技ができ、結構広いので、小学生の憩いの場として大いに活用されています。

    現在の織物会所事務所跡。橘公園

    ※1 紋織社、生紋社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社
    ※2 仁・義・礼は上仲買、智・信は下仲買の者がまとめられました。上仲買とは産地の近くで織元から買い付け、下仲買に流す業者で、下仲買はおおむね上仲買から買い付け、全国に流す業者です。なお初代筆頭の名前を見ると、礼組に矢代仁の矢代庄兵衛が、信組に千治の西村治兵衛が見えます。

    さて、織物会所がどのような組織かはわかりました。では中心となる証紙事業とは、どのようなものだったのでしょうか?

    証紙事業の始まりと西陣織物の信用回復

    当時使用された証紙。西陣織物館記より

    織物会所の設立理由は、粗製乱造を問題視した京都府からの厳命であったので、粗悪品と正品を見分けて分別するのが組合事業の中心だったと言って差し支えないでしょう。分別した結果を示すのが証紙であり、この証紙事業は、細かい部分は変わりつつも、現在の西陣織工業組合にも引き継がれています。

    織物会所で行われた証紙事業は、西陣織屋すべてが製品検査を受け、正品・錦緯・擬色に3分し、製造元の名前を記した証紙を貼用するものでした。密告の義務があり、製造元たる西陣織屋・販売者たる仲買商の両方に責任があり、違反者は売却金額全額を京都府が没収するとのことで、当初の実績は上々、1枚1銭と定めた証紙の売上は1万198円31銭に達しました。

    この証紙事業は大いに成果を上げました。生産品の正否を鑑別し、その結果を組合員の名前まで付して明示したのは日本で西陣が初めてであり、これは全国の産業組合に範を示す看板事業となりました。

    原反検査が行われるとあって、粗製乱造を行っていた織屋は粗悪品の製造を差し控えるようになり、信用は徐々に回復しました。検査に買主である仲買商も関わったことも大きく、実際に買主が見て証紙を発行しているため、需要も自然と活発化してきました。

    加えてこの時代の西陣織物の活況には、西南戦争に伴うインフレと、それを見越した仲買商の注文増加があったこともありました。ともかく信用を回復した西陣は、一時活況を呈しました。

    とはいえ、お上から言い渡された命令が長続きしないのが西陣です。時間がたつにつれ、物産会社同様、有名無実化していきます。

    証紙事業と織物会所の自然消滅

    松方大蔵卿

    しかしながら、この証紙事業の意義はなかなか理解されなかったようです。西陣織物館記にある、初代取締も務めた橋本伝蔵氏の言によると、「槇村知事様ご立腹非常にて、金を返さねば織屋商売成すこと相成らずとまで仰せられ種々とご心配の上、西陣織物会所と改称せられ1枚1銭の証紙の収入をもって消却の道を立てられ……」と当時理解されていたようです。

    つまりは西陣物産会社時代、なし崩し的に払わなくなった借金を返済させるため、機別出銭に代わる徴収方法として、証紙事業を命じたと考えられていました。

    実際、証紙事業で定められていた罰則は、ほとんど有名無実化しました。西陣で産出される織物は数が多すぎて、すべての原反検査をやり続けるのは現実的に難しかったのです。違約金を徴収するにも徴収の方法がなく、密告が行われたとて、京都府の警察権は江戸時代ほどではないのも大きな理由でした。

    そのため、西南戦争によるインフレが終わり松方デフレが到来したことも手伝って、明治14年ごろには証紙貼用が行われなくなり、検査にも出されなくなりました。証紙事業以外に収入がない織物会所は屋台骨となる事業を失い、取締役を務める意義を感じなくなった仲買商諸兄は、病気と称して退任し、織物会所はその機能を停止せざるを得なくなったのです。

    (つづく)

  • 西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物館前史─西陣組合の黎明

    西陣織物1000年の歴史といえど、現在の組合組織ができたのはそう昔のことではありません。

    現在、西陣を代表する業界団体は西陣織工業組合(1973~)ですが、西陣では明治以降、業界団体がいくつか現れ、そして消えていきました。

    明治維新により、日本社会は前代未聞の変化を見ることとなった

    明治維新と西陣、室町

    江戸時代の西陣では、朝廷や幕府、諸大名といった大口の注文を請ける「御寮織物司」を頂点として、高級な紋織物を織りだす「高機八組」があり、そのほか「西機」と呼ばれる大衆織物部があるなど、ヒエラルキーが形成されていました。

    しかるに明治時代に入ると、四民平等や営業の自由の論議が盛んとなり、近世日本で支配的だった徒弟制度や人権無視の仲ヶ間団体は、急速に破壊に向かいました。徒弟制度によって生産体制を維持してきた西陣の大店も大きな打撃を受け、さらに東京奠都と明治維新、政府の欧化政策で、公家や有力諸侯の需要が消失し、西陣は大きな打撃を受けました。

    ※.有職織物など。明治政府はフォーマル着を洋装と指定した

    江戸時代の組合組織ともいえる「仲ヶ間」の制度は、営業の自由を制限し、新規参入のハードルとなるものでした。いくら明治維新といえど、旧商人がすべて営業をやめてしまっては京都の経済は立ち行かなくなるでしょう。
    そこで京都府は「鑑札」なる営業の許可証を制定・公布することで、旧商人に寄り添う姿勢を見せることにしました。そのときの文献が残っています。

    今般御大政御一新に付き、総て旧弊御廃止に相成り、商法御会所御取建仲ヶ間へ夫々御鑑札御下けに相成る。壱番組織屋仲ヶ間並びに壱番組仲買より御鑑札を下し置かれたのはありがたきにより、この商法速かに相立候故、新たに双方立合実意を以て熱談致し候。而して確定の上、今より壱番屋方に而織出し候品は、従来共御仲ヶ間中に限り売渡し来たる候儀に付き、猶又相改め、壱番組諸織物限り以来決して他に売致さまじく候。仍ち而不相変其御仲ヶ間へ売渡侯間、已後不実成取引等無之樣、西陣壱番組織屋小前之者に至る迄引き立て…(西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札 明治元年)

    これまでの商慣行を続行できると喜びの声を上げていることが読み取れます。同様の議定書が仲買側にも残っています。生産者と流通業者が手を取り合ってこの難局を打破しようとの空気が伝わってきます。

    東京奠都による京都荒廃に対する危機感は、行政も共有していました。これが、後述する西陣物産会社の設立に繋がります。

    西陣物産会社の設立

    明治二年、京都府知事の長谷信篤は、西陣織物産業を保護奨励するため、有力者を招致して、織物業者の新団体を結成させました。当時、京都府の大参事に就任した槇村正直は、維新政府の中心人物である木戸孝允を動かして、産業基立金10万両を天皇の御下付金として受け取り、京都の産業育成につぎ込もうとしていました。

    この一部を西陣に振り分けるにあたり、封建時代の遺物である仲ヶ間制度を廃止し、新産業組織による団体を結成し、それを基盤として、西陣産業の育成と全西陣統合体に貸付金の責任を持たせようとしたのです。

    槇村正直の掛け軸。「業は勤(はげむ)により精(くわし)く嬉(たのしむ)により荒む」

    「西陣織物館記」の編者前田達三は、京都府が西陣物産会社設立を命じたことについて、旧来の西陣織屋仲ヶ間の構成員は、明治維新により平等になったため、この際西陣織屋のヒエラルキーも解消し、全く新しい出発点に立脚した組合組織を結成しなければならないと考えたからであろう、と分析しています。

    古来より品種が多様な西陣織物は、各専門によって織屋の利害関係も変わります。そこで専門別に18の社に分け、西陣物産会社は各社を統括する役目を負いました。各社にはそれぞれ自主性を持たせましたが、実質的には西陣物産会社の下働きが主であったようです。現在は廃止されましたが、最近まで西陣の組合にあった部会制と近い制度と思われます。

    ※.模様社、金欄社、紗織社、博多社、繻子社、夏衣社、真古帯社、綸子社、縮緬社、羽二重社、古帯社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社、精好社、絵絹社、練絹社の18社。数年後に精好社、絵絹社、練絹社は合併して三品社に、天鵞絨社から絹天社が独立して17社となった。

    西陣物産会社の役員は、18各社から選挙で3名、肝煎として選ばれた人の中から、京都府が適当と思うものを任命しました。なお、各社から選挙で選ばれた18×3=72名は公任役人の資格となり、会社役員は世話役、その主任者は世話役惣代と呼ばれました。世話役惣代も京都府が任命しました。

    京都府が西陣物産会社へ3万両貸付

    さて、明治維新による政情不安、生活の欧化による需要の大幅な変化、かつてのお得意様であった各藩の指導層、朝廷の公卿といった上流階級が、その存続基盤をそろって脅かされたことにより、高級織物産地である西陣は需要先を失い、深刻な経済不安に陥りました。

    当時の西陣織屋は資力に乏しいものが多く、製品の滞留はそのまま倒産につながる状況です。売れ残りを安売りする者も出て、結果的に相場が崩れることにもなりました。

    この状況を見た京都府は、西陣に3万両を貸し付け、機業振興に使わせるようにしました。問屋による買いたたきを問題視していた物産会社は、取引改善を目的として、この3万両で織屋の滞留品を買い取り、代わりに適正価格で販売することとしました。

    仲買商が取引で重要な役割を果たしている時代にもかかわらず、組合が仲買商の真似事をしたことで、仲買商がそろって不買運動を行う結果になりました。結局、商人でない織屋が売りさばかなくてはいけなくなり、結局ほとんど売れ残って3万両の借金が西陣にできました。

    京都府からの借入金を西陣に流したことにより、西陣の織屋資力に余裕ができた側面もあるでしょう。ただし、幕末の貨幣価値から言って(だいたい1両=3000円くらいと言われています)、3万両のお金は広い西陣には少なすぎ、特に大きな効果を挙げられたとは思えません。

    また、京都府からの度重なる督促に、物産会社は仕方なく機別出銭を行い、西陣全体からお金を集めることになり、返済の目途を付けましたが、西陣の組合員からは不満をためることとなりました。

    ※.各社の機台数によってお金を集める仕組み。誤解を恐れずに言えば、固定資産税や法人税に近い

    西陣のジャカード導入と博覧会

    西陣物産会社にはもちろん大きな功績もありました。最も大きなものはジャカードの導入で、次に漸次回復してきた西陣の生産能力を、博覧会への協力により世間にアピールしたことです。いくつか挙げましょう。

    第1回京都博覧会の写真。西本願寺

    ・第1回京都博覧会
    明治5年、長谷京都府知事や槇村大参事を中心に、京都の官民を挙げて大々的に行った博覧会。会場は西本願寺、建仁寺、知恩院。京都古来の物産をはじめ、全国各地の名産、骨董品等2,485点を出品。明治天皇のご臨幸もあり、皇室の御買上品は西陣織物と陶器のみでした。この事実は西陣の自信となり、気風も一新されたようです。一方でこのとき、西陣機業の後進性に気づかされ、欧式の織機具であるジャカード導入のきっかけとなったことに注意が必要です。

    ・オーストリア万国博覧会
    ウィーンでの万国博覧会に参加。日本の国威を諸外国に見せつけるために明治政府が行った事業で、日本の美術工芸物産を陳列。西陣から派遣された4世伊達弥助・早川忠七は、日本からの他の随行員同様、欧州各国を視察研究し、織機そのほか1200余点の機械器具を購入しました。

    ・第2回以降の京都博覧会
    明治6年からも、西陣物産会社は京都博覧会に協力。第3回は当時フランスから持ち帰ったジャカード織機を運転公開し、第4回以降も物産会社が製織実演を行いました。第5回は三上復一、中西昌作、喜多川平八らが品評方(審査員)に推挙されました。西陣織物の褒章受領も抜群で、西陣機業の発展が認められた博覧会です。

    ・京都府洋式機械工場(織殿)への協力
    京都府の事業により、欧州の先進的技術を会得した西陣は、京都府の設置した織物伝習所に協力することになりました。伝習所に派遣する物産会社の世話役等の経費は物産会社持ちであったため、京都府に嘆願書を出して、この経費は前述の借金を相殺することで賄うこととしました。

    このように功績もあげた西陣物産会社ですが、次第に存在意義は薄れていきます。

    西陣物産会社の自然消滅

    以上見てきたように、明治維新の動乱で大打撃を受けた西陣は、物産会社の設立や3万両の貸付、ジャカード導入など、京都府の資金面・制度面での援助により、無事に立ち直りを見せました。

    しかしながら西陣物産会社は、もともと一致団結して不景気を乗り切る目的で設立されたものだったので、織屋各社がそれぞれ単独で行動できる以上、だんだんと有名無実化していきます。

    明治8年ごろになって、庶民の服装が自由となり、さらに女性の活動範囲が広がったことで西陣織物の需要も活発化し、織屋各社の活動が旺盛になってきました。それに伴って西陣物産会社の役割も小さくなっていき、組合員各社は時々名前を利用するのみとなります。

    とはいえ業界団体たる組合は、西陣機業家全体を対象にするとき必要になります。行政からの命令もそうです。次に組合組織が新たに設立されるのも、京都府令が下った時でした。

    (つづく)

    以上、前田達三編「西陣織物館記」北村哲郎「技術と製品の歴史」ほかを参考にした。

  • で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    で、西陣織のなにがすごいの?(2)

    前回は西陣産地の原材料等についてお話しました。本記事では西陣織の魅力について、「手間がかかっている」以外の魅力を書くこととします。

    なお、今週金曜~日曜(2025-2-14~16)は東京・銀座の時事通信ホールにて、「染と織の展覧会」なる西陣・友禅・丹後の合同展示販売会があります。

    西陣織会館に展示されている空引機

    3.機械がすごい

    織機を使っている以上、どこの産地も同じものが織れるのだろうと思われるかもしれません。ある意味では間違いありませんが、西陣は紋織の産地として、糸を上げ下げする装置が他と異なります。

    経糸を上げ下げする装置は綜絖と呼ばれます。西陣では、地組織を織る組織・模様を織る組織の二つで、綜絖が分かれています。このために、同じ織物の中に異なる風合いの組織が共存できるのです。

    西陣の織屋さん「田中伝」の商品棚(西陣織工業組合 西陣織屋紹介「田中伝」より)

    4.自由度がすごい

    西陣でもっとも上等な織機は人間の手であると言われています。機械では都度設定が必要なところ、人間は臨機応変な対応が可能で、創意工夫を発揮する余地があるからです。

    力織機であっても、織りながら都度織機を止めて、絵緯(柄を出すための色糸)や箔を挿入するやり方もあります。箔のような繊細な素材でなければ、機械を止めずにそのまま織ることもできます。表に何色の糸を出すかで柄が決まるからです。

    しかしながら、すべて機械で織ると、柄にならない部分にも糸が使われ、必要以上に製品が重くなってしまいます。これを避けるために特殊な織り方をして、必要な部分だけ糸を通し、他の部分はカットすることもあります。これはすべて機械任せではできません。西陣織の工芸要素と言えるでしょう。

    京都府の工芸のページ。染織・諸工芸・食品・その他と項目が立てられており、染織分野がいかに大きな地位を占めているかが分かります

    西陣織に限らず京都の工芸というのは、概して多品種少量生産が特徴とされています。
    ここまで見てきたのは素材と織法ですが、これらもより分解すれば、
    ・図案(どのような柄の織物を作るか)
    ・素材(箔か、絹か、麻か、木綿か、絹でも紬糸にするか、等々……)
    ・撚り方(糸を組み合わせて撚り合わせ、素材として使えるようにすること。いわゆる紡績)
    ・染め方
    ・織り方

    と、いわゆる「変数」は無数にあることがわかります。この変数の多さこそが、多品種・少量生産の理由です。

    これについては、江戸時代の機業家である井関政因も、著書「天狗筆記」にて、

    織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき(…)たわいも無そうさなものじゃというは、糸は糸屋にまかし織は織手にまかし、紋はもん屋にまかし色は染物やにまかし、紋付る事は空引にまかし、みなそれぞれなんと無そうさなものじゃ。

    予織物之道つきしより今年三十八年ヶ間、是にてよろしきと安心致さぬ訳は、元来蚕は天作なり、糸は人作なり、是絹の元也。其糸に其国の水土有、寒暖有、年々都而順気不同有(年によって同じでないものがある)。其年の寒暖依、而糸の生不生有、固く和く有、艶ありまた艶なく、是を考る染草、紅に出生の白上品下品 紫根其外何れも草類天作のものにて、今年は明年不同有、織人に織物々の得手あり不得手あり、紋に模様にさまざまの好有て、工匠も及ばぬ縫合如何。過急の御用に手廻しの次第あり、御装束類色目差別格別に有右等々事、口説述がたし。其時其品を以て勘弁尽ル事なし(天狗筆記 下巻より)

    と述べています。同じものは一つとしてできない西陣織の性格は、江戸時代より変わっていません。

    西陣は昔より上流階級の需要を満たし続けてきたのは、注文に合わせて、不可能でさえなければどのような織物でも実現してきたからであるといえます。「西陣に織れない織物はない」と昔から言われていたのは、この自由度の裏返しであるといえます。

    高機の図。高機とは空引機のことで、明治中期まで使われたよく使われた織機。人間が上に上がり、手で経糸を上げ下げして絵模様を織り出す

    5.歴史がすごい

    西陣呼称500年の記事を出しましたが、京都の伝統産業の1として、西陣織は当然、歴史もすごいです。ちなみに、昭和中期より以後、伝統産業の業界でリーダーシップをとってきたのは西陣です。

    詳しいことはまた追々まとめましょう。一言でいえば、西陣は日本繊維産業の大宗であり、日本のほぼ全ての紋織産地の起源に関わっているのです。

    西陣の北西、丹後のホームページを見てみましょう。

    丹後は1300年以上前から絹織物の産地であった歴史をもちます。
     江戸時代に京都西陣で「お召ちりめん」が誕生した後、丹後の織物は「田舎絹」と呼ばれ、売れ行きが低迷。農業の凶作と重なり、人々の生活は極めて困窮しました。その危機を乗り越えようと京都西陣に赴き、ちりめん織りの技術を持ち帰った数名の先人たちがいました。帰郷後、 独特の「シボ(生地の凹凸)」を持ったちりめんの生産に成功し、これが丹後ちりめんの始まりとなったのです。彼らはその技術を人々に惜しみなく教え、 瞬く間に丹後一円に広まりました。

    西陣産地としては迷惑千万であったでしょうが(実際、この時代の西陣は技術流出に悩んでいたようです。丹後の類似事例として、西陣の紋織技術は群馬・桐生に対して流出しました)、とにかく、西陣は紋織産地として第一の歴史を誇ります。

    「西陣」ブランドの創めを挙げるなら、朝廷・大蔵省付の官製織物工場、織部司が最初になるでしょう。西陣は初めから、宮廷貴族の需要を満たすために始まりました

    平安時代の終わりになると経済的に立ち行かなくなり、周りの貴族お抱えの職人になった方が実入りがいいという状況になっていきました。こうして、官営であった機業地は民営となっていきます。

    鎌倉幕府が成立し、貴族が政権から離れても、なお武士を顧客としました。貴族・武士・豪商などといった上流階級を相手に、よりよいものを高く受注し収める構造は、明治まで続きます。ちなみに「西陣織」の名前が付いたのは応仁の乱の後ですが、それより前は「大宮の絹」「大舎人の綾」などと呼ばれ、この時点でも一種のブランドであったことが分かっています。

    かくして西陣は最高級の織物を生産する産地となっていきます。衣・食・住の「衣」を占める繊維産業であり、「京の着倒れ」と呼ばれる絢爛豪華な織物の数々。需要に応じて産地が大きくなるのは当然であり、江戸時代の長い平和の中で西陣の織屋も増えました。前出の井関政因が「織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき…」と言ったように、極めればとことん極められる分野である織物なので、生産の工程は年を経るごとにどんどん細分化し、同時に各々が技を極める土壌ができていきます。最高級品のさらに良いものを求めてきた歴史的経緯は、ある意味で長い実績の証明であるのみならず、その実績を継続する土台となっているといえるでしょう。

    「布だぜ!」と言いたくなる気持ち、正直わかります。でもその布に、こだわりのお洒落を詰め込みたくないですか?「外見は内面の一番外側」といいます。身に着けるものにこだわろうと考えると、なるほど、多品種少量生産の西陣が役に立てる場面は多くなってくるでしょう。

    東京・銀座・時事通信ホールで開催する「染と織の展覧会」、当日入場・前売り券入場ともに可能なので、ご予定が合えばぜひ、行ってみてはいかがでしょうか!

  • 西陣呼称500周年事業と西陣織会館の建設

    西陣呼称500周年事業と西陣織会館の建設

    西陣500年記念式典の様子(於・京都国際会館、S42/9/10。「組合史」より)

    西陣呼称500年事業の実施

    (前回のつづきです)

    西武鉄道から格安で譲り受けた村雲御所跡地には、株式売り出しによる西陣産業振興㈱の資金調達と、西陣に店舗を置く12の都銀・地銀・信金の協調融資によって、昭和40年(1965)に無事、西陣産業会館が竣工しました。西陣産業会館は、西陣のランドマークとなる繊維センターとして建設されたものです。

    その二年後、1967年は西陣呼称500年となります。「組合史」は、

    西陣をなぜ愛すか――まずそれは、西陣の地域において、織物を生みだしていく有形、無形の恩恵への認識である。この恩恵は最終的に『西陣織』の商標の有利性で具体化される。我々西陣業界人はこの恩恵を、西陣業界の先祖、先輩方が遺してくれた遺産によって亨受している。今日に生きる西陣業界人は、この立派な遺産を認識するとともに、これを食いつぶすことなく、今こそ決意を新たにして、次ぎの世代へより大きな価値として残していかなければならない―――これが西陣五百年の理念であった。

    として、西陣呼称500年記念事業の意義を説明しています。

    具体的な西陣呼称500周年記念事業としては、大きく分けて4つがありました。

    ・第一事業 記念顕彰事業(記念式典とその関連大会・法要、京都国立博物館における「西陣の歴史展」の開催など。「幻の機」空引機の実演はこの「西陣の歴史展」の一環で行われた)
    ・第二事業 西陣織の歴史的資料の発掘・収集事業(「西陣 美と伝統」の企画・立案・出版、空引機の復元はこの事業の一環)
    ・第三事業 西陣織の啓蒙PR宣伝事業(テレビ、雑誌、新聞での西陣のPRのほか、記録映画の作成、記念西陣織物大会(於京都市勧業館)の開催)
    ・第四事業 将来への継続事業(新西陣織物館の建設母体やその内容についての計画立案)

    先年の西陣呼称555周年記念事業で、西陣織会館地下の技術開発センターに眠っていた空引機がもう一度組み立てられ、現在は会館1階にて展示されています。500周年の時は、復元に右往左往、織手や空引の確保に右往左往し、大変な苦労があったようですが、現在は西陣織大会などのイベントごとに実演がされています。

    西陣500年記念事業で作成されたポスター(「組合史」より)

    さて、下線を引きましたが「新西陣織物館の建設母体」とは何ぞや?と思われるでしょう。この時の西陣には地域を代表しうる団体が複数あり、それが大きな懸案としてのしかかっていました。

    大正14年(1925年)の西陣織物館の写真(前田達三著「西陣織物館記」より)

    旧西陣織物館の所有権について

    この項の経緯については、財団法人西陣織物館著「財団法人 西陣織物館史」を参照していただければ幸いですが、いきさつを概略すると、

    戦時中、西陣織物館その他の所有権は「西陣織物統制組合」が担っていたが、
    ・戦後、日本の全産業を統制するために公布された法令である統制組合法が廃止となり、新たに公布された商工協同組合法を根拠法とする新組合に移行する必要が出てきた。


    ・新たに西陣織物工業協同組合が発足したが、昭和25年に織物消費税が廃止されるに伴い、長年組合の主要財源となっていた徴収手数料が消滅することとなった。
    ・昭和24年、中小企業等協同組合法が制定公布され、商工協同組合法を根拠法としていた西陣織物工業協同組合はさらなる後継団体として、西陣織物商工協同組合連合会を設立することとした。その際、西陣織物館をはじめ西陣織物工業協同組合が所有する一切の全財産と、その権利義務ともすべてを新連合会に譲渡することとした。


    ・しかしながらこれまでと異なり、織物消費税納付の必要がなくなったこと等が原因で、組合に納付された賦課金は当初想定の半額程度に落ち込んだ。結果として大幅な赤字決算となり、第二事業年度には脱退や解散するものが続出し、連合会は機能を停止した。(昭和26年(1951年))
    ・西陣が無政府状態に陥っている状況は、財産保全の観点において問題ありと西陣織物工業協同組合(以下清算組合、前田達三代表清算人)は判断した。前田氏は新連合会に寄付する旨の決議を取り消し、昭和13年に設立を決議されていた財団法人にすべてを寄贈し、財産の保全を図ろうとした。(昭和27年(1952年))
    ・昭和45年(1970年)、紆余曲折の末、連合会とは異なる新たな西陣の代表組織として結成されていた西陣織物工業組合に、清算組合の全財産を寄付することに決まった。
    ・昭和49年4月、その他、清算にあたりネックになっていた訴訟が終結を見て、ようやく清算が結了した。

    戦後25年を要したこの泥沼の清算劇は、他人事として見る分にはなかなか面白いところがあります(?)

    現在の西陣織物館(京都市考古資料館)

    とにかく紆余曲折の末、暦年の西陣各組合の資産──主に土地と建物、織物類──を手に入れ、名実ともに西陣組合史の正統となった西陣織物工業組合は、満を持して新西陣織物館の建設に取り掛かることとなりました。

    3組合の合併と西陣織会館の建設

    西陣呼称500年記念事業が終了した後も、西陣織物工業組合、西陣着尺織物工業組合、西陣毛織工業組合の3組合が合同委員会を結成して、長期的・継続的に検討を進めてきました。

    500年記念事業が終了して6年が経過した昭和48年(1973年)、ついに合併条件が整い、西陣織物工業組合を存続組合として、3組合の合併契約書が交わされました。この合併に際して3組合の理事長は、

    「三組合の資産内容はまちまちであり、 また組合員一人当りの出資持口数も各組合ごと異なっており、更には組合の出資一口当りの含み資産も組合によってまちまちであるにかかわらず、細かいことを言わずに、帳簿価額そのままで合同することができたことは、素晴らしいことである。おそらく細かいことでお互いが主張を繰返していたならこの合併は不可能であったろう。これは、西工であれ、着尺、毛工であれ、各組合の財産が個々の組合のものでなく、オール西陣共通の財産であるという認識を皆が納得してくれたからである。今回新館を建設するについて財団法人も参画して頂くことになったが、合同した新組合の財産とも一体となって、西陣共通の財産として子々孫々にまで引き継いで行かねばならない。西陣五百年にわたって先祖先輩が引継ぎ発展してこられた遺産を享受しているわれわれにとって、これをより大きくして次代に引き継ぐことは、残された義務である。

    と述べています。

    現在の西陣織会館

    500年記念事業以来、西陣業界では一本化した業界振興業務を推進する「場」が必要であるとして、西陣業界の統合・3組合合併・新会館建設は一繋ぎのものとされてきました。各組合にて合併と同時に承認された新館建設は、昭和48年中に地鎮祭が挙行され、名称が「西陣織会館」と決定、3年後の昭和51年に竣工しました。当時の様子を、「財団法人西陣織物館史」では以下のように記されています。

     昭和51年3月22日、竣工式はまことに盛大におこなわれた。 午前9時10分、正面玄関前において西陣織会館の繁栄と業界発展を祈願する神事ではじまった。続いて10時植木光教総理府総務長官、蜷川虎三京都府知事、舟橋求巳京都市長、滋賀辰雄西工組理事長、山口伊太郎(財)西陣織物館理事長が紅白のテープに鋏を入れるとホール中央のオブジェ”糸・機·人” が天井の光を受けて静かに回り、西陣織会館の歴史を動かしはじめた。 510名の列席者から一斉に拍手が湧き起った。 1階、2階、3階と参列者の波が続き、10時20分西陣ホールへと舞台は移った。一瞬の暗転の後格調高く四季を織り込んだ綴の緞張にスポットが当ると緞張は静かに上昇、入れ替わりに鮮やかな紫地の組合旗が降りて、滋賀理事長の式辞がはじまった。 続いて川島西工組建設委員長が当日の竣工式に至るまでの10年に及ぶ足跡を感慨も新たに報告。次いで今回の建設に援助、協力をした京都織物卸商業組合始め西陣関連団体を代表して西田忠次原糸商協組理事長に、更に建設の設計、管理を行なった彦谷邦一氏、工事を担当したフジタ工業(株)、三機工業 (株)、近畿電気工事(株)にそれぞれ感謝状が贈呈された。 続いて来賓を代表して植木総務長官、通産大臣代理大阪通産局村田文男総務部長、蜷川知事、船橋市長、森下弘京都商工会議所会頭、西村大治郎京都織商理事長、木村卯兵衛西陣産地問屋協組代表理事が祝辞を述べた。当日はまた地元選出の衆参議員、田中伊三次氏、小川半次氏、永末英一氏、竹村幸 雄氏、河田賢治氏も出席、紹介を受けた。 11時式典は終了。引続いて京舞井上流家元が檜の白木造りの舞台で祝いの舞を披露、盛んな拍手を受けた。この後参列者は、4、5階に展開している西陣織特別展を見学、6階研修室でのパーティーで祝杯を上げた。この後更に7階から地階へ、技術開発センター等の見学をして、午後1時30分盛大な竣工式を終えた。 なお当日は引続き午後0時30分と2時30分の2班に分れての西工組合員による竣工式も行なわれた。また翌23日には一般従業員、近隣住民に対する特別見学会が催された。

    西陣織会館建設とその後

    かくして昭和51年(1976年)、竣工相成った西陣織会館は、敷地面積1350坪、延床面積4339坪、高さ約40メートルの大建築となり、建築費約32億に上りました。この西陣織会館は、今なお西陣の統合の象徴として堀川今出川に鎮座しています。

    なお、竣工当時西陣織会館は西陣織工業組合の所有でしたが、平成元年より財団法人西陣織物館の所有となっています。

  • で、西陣織の何がすごいの?(1)

    で、西陣織の何がすごいの?(1)

    以前、「西陣織の取材に行きましたが正直、何がすごいのかわかりませんでした」と全国メディアの記者さんが言っていたと耳にしました。思わず笑ってしまいましたが、知らない人から見れば、無理からぬことだと思います。

    そこで今週は、経験不足の身ながら恥を忍んで、西陣織の何が実際すごいのか?をいくつかご紹介することとします!(追加、訂正等あればご連絡ください)

    1.使用している糸(など)がすごい

    「糸がすごい……?ただの糸でしょ?」との声が聞こえてきそうですね。Non, Non, Non,西陣は糸がすごいんです。最高級品は素材にこだわります。グルメと一緒です。

    西陣産地は絹(シルク)が主流の産地ですが、絹は摩擦に弱く、湿度に弱く、紫外線に弱く、虫にも弱い、非常に繊細な素材です。その代わりに合繊(合成繊維)や化繊(化学繊維)には出せない風合いや光沢、肌触りの柔らかさが出せるのですが。

    歴史的な機業地である西陣では、歴史的に多くの糸染め技法が編み出されてきたため、多くの染屋さんがありました。普段は使われない色での糸染めなどがされ、西陣の織屋さんでは、大きな糸棚を持っているところが多いです。

    奥が糸棚。数えきれないほどの種類の色糸があります。(おおばさんのFacebookより

    西陣は先染織物の産地です。すなわち先に糸を染めて、後で織る産地ですが、糸だけを染めるために使える手法というのがあります。代表的なものが絣(かすり)で、絣は糸染めに出す前に一部のみを防染(染まらないようにすること)し、独特な絣糸と呼ばれるものを作り、それを使う織物です。絣糸を使った織物としては、西陣ではあまり聞きませんが、他産地の「銘仙」(めいせん。絣の織物の一種で、くず繭などから作られる。大正から昭和にかけて、普段着として流行)が有名です。

    絣糸を使えば平織でこの表現ができます(画像はhttps://kyotolove.kyoto/I0000556/より拝借)

    特殊な糸染め技法西陣ではそのほか、「お召緯(おめしぬき)」と呼ばれる強い撚りをかけた糸を使用した、西陣お召という特殊な糸を使用した織物が生産されています。(参考:織屋紹介「今河織物」)

    そのほか、西陣では「金銀糸」「箔」の二種もよく使われます。金銀糸とは、金箔を紙に蒸着させて薄く切り、糸のようにして、芯となる糸に巻き付けたもの。箔は糸のようにした金箔紙・銀箔紙をそのまま使用するものです。

    どれも西陣を支える大切な技術ですが、現在職人の高齢化などが進み、産地の持続化が危ぶまれているのもこの部分が中心です。技術は一朝一夕で身につくものではありませんし、精密な作業で注文内容も毎回違いますから、機械化は容易ではありません。

    2.織る技術がすごい

    ジャカード織機。(京都府ホームページより)

    「織る技術って言ったって……手で織るならわかるけど、機械で織るんじゃないの?」ですって?上に挙げたような一癖も二癖もある素材を織るわけですから、当然、織機も調整が必要になります。早くすれば早くするだけ早く織れるというものでもなく、織機に不具合が出た際には直す必要もありますし、そうでなくとも、スピードが一定でなくては織りキズ(完成した際の不具合)になります。特殊な素材を使っている以上、機械だからといって誰でも簡単に織れるというものでもないのです。

    手機での製織。
    西陣では「手機に勝る織機はない」といわれる(織屋紹介「泰生織物」より)

    最初の疑問にもありましたが、もちろん、手で織るものの方がすごいです。製織技術がすごいといえば、手機で製織する「綴織(つづれおり)」や「スクイ織」などが代表的です。

    今年の西陣織大会の内閣総理大臣賞も「スクイ織」の作品でしたが、手機なら細かい表現も可能で、隙間を開けるといった機械では不可能な技法も使えます。まさに西陣の真骨頂、「多品種少量生産」の極みといった具合です。その分、値も貼ることになるわけですが……。

    (ちなみに普通の平織(上げ下げが2種類しかない織り方。最も単純)でも、織手の力加減や糸を入れる角度等でも巧拙が出ますので、平織なら簡単というわけでもありません。筆者も昔少しやりましたが、織りキズが出てしまって難しかったです。。。)

    3.機械がすごい

    柄のついていない無地の織物であれば、経糸(たていと)と緯糸(よこいと、ぬきいと)に上げ下げにそれほど気を使う必要もありません。間を少し開けて、空気なり水なりでできるだけ速く糸を飛ばし、ガーっと織ればいいだけです。(変な表現になりましたが、現在の繊維業界の主流はエアージェットやウォータージェットなのです)

    西陣は紋織の産地なので、そう簡単にはいきません。経糸を上げ下げするにも、上げる糸と上げない糸をしっかり区別し、ちゃんと柄が出るようにしなければなりません。

    ジャカード織機の画像(https://www.ren-web.net/feature/vol1.phpより。)

    経糸一本一本を制御する必要があるわけですが、そのために西陣が現在使っているのが「ジャカード」という経糸の上げ下げを制御する機械で、これを使った織機をジャカード織機といいます。ちなみに、ジャカードは現在のコンピュータの原型とされています。

    西陣が紋織の産地として他の追随を許さず、「西陣・西陣織」としてブランドを確立できるのは、ジャカードという制御装置だけではありません。その周辺装置にも秘密があるのです。

    では、次回はこの「ジャカード織機」をはじめとして、

    3.機械がすごい2

    4.自由度がすごい

    5.歴史がすごい

    この三本立てでお送りするとします。今回書き損ねた、買い手目線での強みについてもご説明しましょう。

    それでは!

  • 西陣織会館はなぜ堀川今出川にあるのか?

    西陣織会館はなぜ堀川今出川にあるのか?

    はじめに

    堀川今出川に立つ西陣織会館は、地域で一番大きな建物と言ってよい巨大な建物で、西陣のランドマークでもあります。本当は奥にある西陣産業会館の方が大きいですが、奥にあってあまり目立ちません。

    その西陣織会館の前身である西陣織物館が、今出川大宮東入の京都市考古資料館になっていることは、西陣に詳しい人ならご存じかもしれません。近くの今出川大宮バス停の裏に大きな「西陣」碑があるのが目印です。

    京都市考古資料館(今出川大宮東入る)前の西陣碑

    現在の西陣織会館は、この旧西陣織物館からすこし南東の、堀川今出川南入にあります。西陣織会館だけにとどまらず、その奥の西陣産業会館も、西陣織工業組合の関係団体の敷地です。西陣産業会館も西陣織会館と同じく、西陣の発展のために使用されています。(住宅や手織り体験の開催地、修学旅行生の食堂などとして)

    それにしても旧西陣織物館、古色蒼然としているものの、立派な建物です。移転したからには何か経緯がありそうです。現在の西陣織会館・西陣産業会館は、どのような経緯で建てられたのでしょうか?

    村雲御所時代

    昭和25年の地図。竪門前町とある部分が現在の西陣織会館・西陣産業会館

    この場所にはもともと、日蓮宗の瑞龍寺というお寺がありました。瑞龍寺のホームページを見ると、このような記述があります。

    村雲瑞龍寺は、日蓮宗唯一の門跡由緒寺院でございます。
     開基されたのは、太閤豊臣秀吉の実姉、羽柴智(とも)の方でございました。羽柴智(とも)の方のご子息であられる関白豊臣秀次、秀勝、秀保は、非業の死を遂げ、さらに、秀次の一門は処刑されてしまいました。その菩提を弔うために出家し、瑞龍院日秀尼(にっしゅうに)と称しました。慶長元年(1596)、日秀尼は、後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領千石・菊花御紋・紫衣を賜り、寺を創建されました。
     代々、有栖川宮、伏見宮、そのほか皇族、華族などの女子息たちが九条家より入寺し、住職に就かれました。のちに、三代将軍徳川家光公から京都二条城内の殿舎を寄進され、嵯峨から堀川今出川に移転されました。天明の大火で焼失し再建するも、昭和36年に豊臣秀次の居城跡、八幡山城址に京都より移築されました。
     本尊は、一塔二尊四菩薩(釈迦牟尼如来)でございます。他に、天拝妙見大菩薩、聖観世音菩薩、天拝鬼子母尊神、
    大黒天神、金生稲荷が祀られております。

    西陣の織屋(織物製造業者)は伝統的に日蓮宗ですが、その背景にはこの瑞龍寺の影響があったでしょう。西陣は江戸時代より、幕府や朝廷の需要を取り込んできた産地だからです。主要な取引先である幕府・朝廷ゆかりの寺が西陣の真ん中にあったわけです。門跡寺院(皇室ゆかりの子女が代々入寺するお寺のこと)だったことは今の呼称からもわかり、現在も西陣織会館の南東入り口には「村雲御所跡」の石柱が立っています。

    西武鉄道株式会社と村雲御所の買収

    西武鉄道買収前の村雲御所の様子

    西陣の宗教的中心地でもあった村雲瑞龍寺(村雲御所)は昭和36年(1961年)に移転しました。これについて、西陣織物工業組合刊「組合史」では、

    昭和35年末、西武鉄道株式会社が、村雲御所(日蓮宗瑞龍寺・上京区堀川通今出川下る)を買収し、建物を近江八幡に移転して土地は売却したい意思を持っているとの情報を組合田島理事が理事会にもちこんだ。自動車時代をむかえ、西陣産地も狭隘さを痛感していただけに、この広大な土地、約二千七百坪を得られることは、まことに時宜を得たことであった。

    と記述があります。

    西武鉄道としては、村雲瑞龍寺の上物だけ近江八幡(西武創始者・堤康次郎の出身地)に持って行って、西陣業界の発展に資するためなら売却してもよいとの考えだったそうです。

    この提案は西陣にとって大変魅力的でした。これに応じるため設立されたのが「西陣産業振興株式会社」であり、当時の定款の第一が「西陣繊維センター建設のための土地の貸与または売却」とあることからもその設立経緯がうかがえます。

    西陣産業振興株式会社の発足で多額の株式払い込みを受けたものの、西武側が売却金額として提示した金額には足らなかったようです。その差額については、西陣業界発展の大義名分の意味から、当時西陣に本支店を持っていた12銀行(三菱銀行、三和銀行、東海銀行(以上3行は現在の三菱UFJ銀行)第一銀行、富士銀行(以上2行は現在のみずほ銀行)、三井銀行、住友銀行(以上2行は現在の三井住友銀行)、協和銀行、大和銀行(以上2行は現在のりそな銀行)、西陣信用金庫(現在の京都中央信用金庫の一部)、京都銀行、滋賀銀行)の協調融資によって賄われました。

    西陣産業会館と西陣織会館の建設

    西陣織会館建設前の西陣産業会館の様子。手前が堀川通

    このようにして手に入れた土地の上に、まず建てられたのが西陣産業会館です。1,2階を西陣関連業界の店舗として3階から10階までをアパートとして利用するもので、38年(1963年)に地鎮祭、2年後に竣工式が行われました。かくして地下1階、地上10階、塔屋3階、延床面積5,700坪を誇る大ビルディングが西陣に誕生し、現在に至るまで存続しています。

    一方の西陣織会館の完成については、西陣呼称500周年の周年事業として進められました。次回のブログでは、西陣呼称500周年事業と西陣織会館についてお伝えしましょう。

    それでは!

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