
第七節 会社の会所(事務所会館の草分け)
会社会所設置願と設置場所の選定 組合事務所である会所が、三度場所を桿えた。又出張所を設置した事もあり。其都度京都府へ願書を出した。
乍恐奉願上候口上書
一、今般西陣物産会社取建之儀奉順上候処御聞済被成下侯ニ付商社取組請後 品入札売捌場所上京拾弐番組油小路一条上ル二町目越後屋武助持家借り受右 入札定日モ取極度依之諸国商人及其外望之人々者右会所へ集り買取呉樣仕度 此段何卒市中一円江御布告被成下候機御聞済被成下候へバ莫大之御仁植如何
計ヵ難有仕合〻奉存候 以上
明治二已年十一月
西陣織職頭壱番より七番迄
惣代
京都御政府
上京六番組木下突抜町 伏見屋新助
同三番組突抜町 菊屋七右衛門
同十一番組横大宮町 鱗形屋利兵衛
同四番組今出川町 菊屋嘉兵衛
同四番組中年寄 吉田治郎兵衛
同五番組添年寄 武本治兵衛
同十一番組五辻町 日和田屋新七
右願書により京都府より「聞届候事」とあつて、油小路一条上ル所に事務所を構えた。
油小路通は、豊臣秀吉が洛中洛外の境界御土堰を築造し、京都の都市計画を定めるに、油小路を中央に東は京極、西朱雀迄の条里を立てたから、油小路通は上は寺之内から下は十条迄、途中切断の箇所が無い、京都唯一の通りであつた。故に新参の丁稚でも、油小路へ出て猫車でも曳いて北向けば、寝呆けつつ歩いても西陣に行ける。最も交通便利な街道である。此通りに会所を設置したことは最も賢明であつた。然し織屋が技然と構えて仲買が頭を下げて、集つて来ると思つたのは、余りにも甘過ぎた考え方であつた。
会所移転願と其理由
乍恐以書付奉伺上候
一、先般物産会社御許容被為皮下奉御蔭載物產之道日日広大二相成候二付而者当時之仮宅間逼ニ而如何様仕侯共捌方不都合ニ御座候ニ付今出川大宮西ニ入町二貸家七八軒計在之右借り受各社相分ヶ売捌方仕候は至極弁理宜敷候間近々転宅仕度何卒此段御聞届被為成下侯は如何計か難有仕合二奉存侯 以上
明治三庚午正月
京都御政府
聞届候事
西陣物産会社惣代
鱗形屋治兵衛
日和田屋 新七
右願書中「仮宅間過二而如何様仕侯共捌方不都合」とあるは、三万両に近い織物が持込まれ、余り捌けなかつたとすれば、普通民家では狭隘を告げるのは当然である、と共に西陣産業の特殊性は、各級屋の専門製品が、多岐に別れ、夫々需要面が異り、自然販売先も変っているのに、会社一本集荷の際、各社毎に分担させてなかったように思われる。各社毎に集荷販売の自主権を持たしめねば、不平不満が生ずる。そうなると各社毎に部屋が入るから七八軒も借らねばならない。
各社出張所を下京四条烏丸西に設置
明治三年四月「各社一体殊之外代呂物不捌二付此度四条烏丸西へ入町沢屋政七宅各社一体出張仕諸織物諸方登り客素人ニテモ附ヶ札ヲ以正路明白二現銀売捌仕度」と十七社と会社連名で京都府へ願出「聞届候事」とあつて出張所を設置した。之れは即観光客、当時御登りさん相手の、直売も考えたのであろうが、成績不良間もなく閉鎖した。
会所再度の移転
乍恐御伺奉申上口上書
一、当会社義是迄上京第八区今出川通大宮西江入町仮宅罷在候処間逼不都合御座候二付今度同区五辻通大宮西入町江転宅仕度候間此段御伺奉申上候御聞済被為成下候へば難有仕合二奉存侯 以上
明治五年壬申七月
京都府御庁
西陣織物総会社
世話役
武本治兵衛
竹内作兵衛
伊達弥兵衛
永嶋九郎兵衛
右移転の度毎に間逼が理由になつて、腑に落ちぬが、機別出銭により借入金三万両の内上納も少々は出来た。 会社経費も些少の融通が付き、折柄京都博覧会の開催等による西陣出品の受賞も多く、殊更、御買上品もあり、会社世話人も気を好くし、交際面も広くなり仕事も増加したと思われ、事務所の構えに対する必要性を覚るに至つたのであろうか。之れが西陣織物業者の会館の草分けと見てよい。
第八節西陣物産会社の功績と功労者
同社世話役の信望
明治年間西陣界隈、此会社に対する批判は、必ずしも好評でなかった。理由は「金三万両の借入れが上納できず、遂に全織屋の機別出錢によつて、明治十年迄に、漸く三分一を納め、残額は借倒しとなつたのは、世話役の不仕陀羅によるもの」との非難からであつた。然し之れは後年歴史の真相を極めずして、組合機構を弄する者が論議の材料に使ったものであつて、寧ろ盾の半面を知らぬ者である。
抑も三万両とあれば、当時莫大な金額であるから、たとえ、全西陣の結社でも、京都府は其れのみでは貸下げるものではなく、世話役の信望があつたからである。京都府は、此会社の世話役、肝煎共に西陣織屋としての筋目も良く、識見人格共にある人々を選抜し、其人達の社会的地位に対して貸下げたものである。新規の織屋が儲うけて売出した顔だけでは、百両も貸出さなかったであろう。当時四民平等に御一新と云われても、其様なものであつた。而して此三万両の貸下げがなかつたら、其後西陣機業が時世に適合した織物の研究により、立直った上に急激な発達を見る事を得なかつた。勿論此会社の取引改善は失敗に終つた。古組、天神講、今宮講、上下両仲買等百五十余軒の、強力な問屋資力と巧妙な商魂商策には、西陣織屋の敵する所でない事は、初から判つて居なければならない。寧ろ之れは京都府役人の権勢過信独善の責任にあると言ってよい。乍然此会社存続八年間に於ける西陣機業の興隆革新は、一つに京都府当局の指導誘抜によるものであり、同時に全社世話役の功績によるものでもある。以下事績を略記する。
京都府初代知事長谷信篤の庇護
長谷信篤は、明治元年四月京都府知事に任命せられた。旧堂上家、門地は新家外様と云う格。家禄も少なく、下位公卿であつたが、代々俊英が出て三位以上に昇って居た。此人も明治維新の王政復古に功績あり、壬生基修、東久世通禧などと比肩せられ、明治八年元老院議官。後に貴族院議員となつた。
永代京都に培われた人であるから、京都を愛することが深いのも当然で、又京都人の気風を知悉したればこそ、皇后宮東行阻止運動をば平穏に治め得たのである。謂わば殆と西陣の地域内に育つたようなものであるから、幼少から織屋の生活も見て知つて居たし、西陣織屋の盛衰が、京都市経済界消長の鍵となることも、熟知して居たので、其窮状と救済策をよく理解して、三万両の大金を容易に貸与して呉れたものであろう。
明治の改革に順応する京都府の行政、財政、教育、産業対策は、権大参事槇村正直によつて断行せられ、長谷知事は偶像に過ぎなかった、と謂う者もあるが、これは槇村親近者の偏見である。徳大寺、久我、西園寺等と共に明治帝の側近に奉仕して、宮中との縁故も厚く、時世の推移を明察し得る能力を有し、年齢五十歳、人格円熟、応揚な襟度を持して、槇村の履足を延ばし、駻馬を京都に馴れしめたのである。
明治八年元老院に転ずる迄に、西陣が此人から受けた恩恵庇護は莫大である。物産会社が西陣の代表として面目を維持し得たことは、此人の御蔭によるものと断言してよい。然し今日迄も西陣の人々で此人の恩義を顕彰した人があった事を聞かない。
二代目京都府知事植村正直の指導
明治の元勲木戸孝允の推鹸により、旧長州藩士槇村正直が京都府椒大参事に任ぜられたのが、明治二年七月である。
木戸は、第二の故郷として最も愛する京都へ、自分の盟友槇村を置いた。公務の余暇には必ず土手町の別邸に住み、槇村は影の如く付添って、日常の世話に尽し、其れが又京都府政に大きな利益を得た。明治八年七月長谷知事の後任に、異例の昇進をして知事に任ぜられたのも木戸の庇護によつてである。明治十四年一月元老院議官に転ずる迄の長い在任中、自ら牛肉を喰い、牛乳を飲んで、角も生えねば、身体に毛も生えぬ事を市民に示した如き、天馬空を行く施政振りで、京都市を単なる文化財保有の旧都たる事を免れしめて、産業に、学芸に、活潑なる活動力を与え、我国六大都の一としての繁栄を保持し得ることができたのは、此人の恩恵によるものである。而て西陣産業を革命時の崩壊から救上げ、鞭撻指導し復活せしめて呉れた恩人である。
西陣物産会社、京都第一回博覧会へ協力
明治五年四月十七日より六月三日迄京都博覧会が開催せられた。会主三井八郎右衛門、小野善助、熊谷直孝の大財閥から、大年寄、御用達、物産引立御用掛、と京都財界有力者挙げて参加、長谷京都府知事、槇村大参事以下官員が、京都の浮沈を賭しての大事業であつた。
会場は西本願寺、建仁寺、智恩院を充てた。
京都府は布告を発して一般に出品を勧誘し、又政府に要請して外国人の観覧を求めた。出品種目は、京都古来の物産を始とし、全国各地の名産。甲冑刀剣、所謂骨薰品迄二千四百八十五点を陳列し、其内には英、仏、独各国の物も出品せられた。
西陣物産会社は、世話役、肝煎が総勢協力、織屋業者を勧誘して、智恩院会場に陳列した。
同年六月二日明治天皇が、地行巡幸の途次、博覧会場に臨幸せられ、西陣織物の新発明品に付て、特に御下問あり、光栄に感激した。
御買上品は、西陣織物と陶器のみであつて、西陣織物は次の通りである。
新発明、両面繻子二丈八尺、価二十二両
織元 繻子社 小谷孫兵衛
同、長毛底金級一丈一尺五寸、価拾壱両
織元 物産会社 竹内作兵衛
同、両面天鵞絨衿巻一筋、価三両
織元 三上孫市 武内治兵衛 喜多川平八 中西長右衛門
陶器は、茶碗、平皿数点に過ぎず、此御買上によつて、西陣織屋一同無上の栄誉なりとして感奮すると共に、気風を一新した。
会期中、英、米、仏、普国人の入場者は、七百七十名であつて当時京都では大異変である。
是れに対しては政府派遣訳官十五名が出張通弁に当った。
観覧の外国人は、西陣織物の精巧に驚嘆した後、産地工場を見るに及んで、原始的生産と非能率労働に、胆をつぶした事も明かである。此年代はフランスにジャガード紋織機が発明せられて既に七十年を経、其後の進歩改良により、同時に生産機械化による、産業革命が達成せられ、高能率時代の黎明期にある欧米人から見れば、憐れな後進国の正体を暴露したものであった。従って京都府役人にも、物産会社世話役にも、機械化の必要を説いた事と思われる。其れがやがて、西陣織屋の外国留学となつたものである。
佐倉常七等の渡仏
事の起りは、前記博覧会期中、物産会社世話役惣代竹内作兵衛が、フランス共他の先進国には、空引の要らぬ織機があるそうな。京都府の御斡旋により、輸入して貰えぬものか、と願出たのが序りであつた。
京都府は、智恩院内仏語学校教師、レオン・ジュリーに相談した処、ジュリーは洋式機械を輸入したからとて、直に運転できるものではない。渡仏してよく研究し、技術を習得せねば駄目であると云われ、之を聞いた長谷知事は諾いて、竹内に貴様行けと命じた。
竹内は自分老齢其任に堪えず代人を差遣わしますと、別家の佐倉常七(天保六年一月七日生当年二十八歳)を推薦し、独りでは心元ないから、同家級工井上伊兵衛を同伴せしめる事にした。
洋行の旅費、学習費、諸機械購入費、 を京都府から支出する事に決定した。
此事を聞いた、上京区三十一組(後の中京区銅駝学区) 河原町通二条下ル一三船入町吉田忠七が、熱心に同行を懇請した。此人は学識もあり、機械に関する研究もして居たので、物産会社世話役及十八社肝煎連署で、此者の諸費用は、帰国後会社機別出銭の内から京都府に、返却するとの条件で願出、三人同行が許された。
明治五年十一月十三日物產会社関係者より次の銭別が三人に贈られた。
一金十二円 博多社、一金十円廿五錢 金欄社、一金七円五十銭模様社、一金六円 繻子社、一金三円八十七銭五厘 夏衣社、一金三円七十五銭 縮緬社 一金三円 天鵞絨社、一金三円 古帯端袴社、一金二円五十錢真古帯社、一金二円木綿社、一金二円精好社、一金二円 紗織社、一金一円十五錢真田社、一金壱円 練絹社、一金壱円五十鈴 画絹社、一金三円五十銭羽二重社、一金壱円繻子社
一扇子百本、一団扇百本、一キセル百本、一織物チョキ三枚、取締中洋行の三名は明治五年十一月十七日神戸港出帆、香港経由無事仏国リオン着、勉学等の記録は省略する。
明治六年十二月二十八日佐倉常七と井上伊兵衛が、ジャガード紋織機其他の洋式機械を購入帰国し。専ら機械の研究に努力し最も嘱望せられた、吉田忠七は、明治七年三月二十日帰国乘船が、故国目前伊豆沖に来り難波沈没し、乗船者九十四名中値に三人が救助せられたのみで他は不明、吉田は惜しくも其研究資材と共に沈んで帰らなかった。
伊達弥助、早川忠七、填国万国博覧会政府派遣大隈総裁一行に随行
西紀一八七三年(明治六年) 墺国維納市で、万国大博覧会が開催せられるので。東洋の大日本帝国の、美術工芸物産を陳列して、国威を海外に輝かすことに決定せられた。名古屋城の金鯱を天主閣から降して、持って行つたのも此時である。
政府は同博覧会に参加派遣使として参議大隈重信を総裁に任じ、独壞人顧問六名、副総裁外随行員四十九名、全国各府県物産製造関係技術者及商人合計二十九名を同行せしめ、同年一月二十八日出発せしめた。
京都府からは織物工伊達弥助、早川忠七と陶工舟山六郎が派遣せられた。伊達弥助は井筒屋四世であつて、西陣物産会社設立以来の世話役惣代である。
之等墺国派遣団一行の年齢は大隈総裁は別として、副総裁佐野常民五二 歳、其他の随員四十歳代が八名、悉く三十歳以下の青年が多く十二歳の少年もあった。其内京都の早川忠七が二十四歳、伊達弥助のみが高齢六十歳であつた。
伊達は初めの万国博覧会出品物を、物産会社に撰沢仰付けられ、会社を代表して手代早川を同伴東上出張中洋行を命ぜられたものである。前項佐倉等の貧乏啞旅行と異り、日本政府の費用により、通訳其他万般漏なき準備の下に渡欧したのであるから、最高の待遇を受け、顔る便利を得た洋行であつた。故に随行員の多くは此機会を利用して、欧羅巴各国を視察研究した。伊達・早川両名も仏蘭西其他各国を廻り、染織技術を視察して、織機其外千二百余点の器械器具を購入し、帰国したのが明治八年初春であつた。
第二回京都博覧会以後各回協力
第二回博覧会は、明治六年三月十六日より同六月十日迄明治天皇が、京都産業振興の御思召で、京都御所を会場とする事を許され、旧内待所、御花御殿、対之屋、御馬場、仙洞御所を使用したので、此会期の入場者数内国人、四十万六千人。外国人、六百三十四人。明治、大正、昭和年代、敗戦迄の京都の同種会中最大の入場者であつた。
西陣物産会社は御花御殿に陳列所が割当られ、高機(空引)を設備して製織実演を行った。世話役、肝煎が毎日出務して来観者に説明する等各般の斡旋尽力した。
同第三回は明治七年四月一日より同六月八日迄京都御所に開催。西陣織物は前年同様御花御殿に陳列した。
此年は特に佐倉常七がフランスより持帰った洋式織機を蒸気力により運転公開して、観覧者を驚かせたと謂う。
同第四回は明治八年三月一日より百日間開催。同五回は、明治九年三月十五日より是れも百日間、何れも京都御所及大宮御所を会場として開催し、西陣物産会社は毎回織物製織を実演公開した。陳列場には常に世話役肝煎出張尽力したが、第五回は三上復一、中西昌作、喜多川平八等が、品評方に推挙せられ、西陣織物の褒賞受領は、数に於ても抜群であつて、西陣授業の時代に適応した進歩が認められた。
同第六回は、明治十年三月十日より、会期百五日間開催した。此博覧会協賛は物産会社としては最後であった。
同年一月二十五日孝明天皇十年祭に付、皇陵参拝の為久々で京都御所に行幸啓あり。同年二月十五日西郷隆盛西南戦争の勃発により、明治天皇のみ引続いて京都御所に御駐輩になつたので、博覧会場は、仙洞御所、大宮御所のみを拝借使用した。同六月十日会場天覧を得、西陣織物は益好評を拍し多くの褒賞を授けられた。
京都府洋式機械織工場への協力
佐倉常七、井上伊兵衛が仏国から購入した機械類は、上京区五辻通大宮西入ル物産会社事務所へ荷着し、世話役肝煎等が、右両人指導の下に開梱して、組立準備に尽力したのが、明治七年 一月であつた。元々之等の機械は、京都府の経費を以て購入したものであるから、京都府勧業場は、河原町二条下ル一ノ舟入町旧角倉屋敷跡に、織工場を建築し、同年五月には諸機械の据付を終り、六月から右両人を教師と して運転公開し一般の指導を開始した。両名に対する給料の支給願は印刷の都合上前頁に掲げた。
織物伝習所を物産会社役員で世話する事
明治八年一月京都府は、洋式機械運転技術を全国に普及し、織布の機械化を計る為、京都府勧業場から全国各地に対し、伝習生を募集した。各府県から多くの派遣申込があつて、 習学せしめることとなつたので、物産会社の世話役肝煎等に、伝習所の世話及見廻役を命じたが、其費用は物産会社負担であつたから、左の敵願書を差出した。
奉願上口上書
当物産会社之儀去る明治已己十一月物産保全広隆ノ為メ会社取結奉願上候処御許容被為成下其上私共始メ七十八人之者共へ諸世話心配可蒙侯様御書下ヶ頂載仕追々御趣意柄二基会社創法ヨリ六箇年三ヶ月ニ至り社続之為メ乍未熟諸世話致来候処追々同職業盛大二相成其上当今元角倉御用邸ニ於テ織工御場御取設二相成洋来之機 械運動旅為成危機職業御引立之段奉恐入侯依之右織工御場為見廻り総会社世話役順番ヲ立テ日動可致旨御書下ヶ頂載仕難有奉承伏候依テ迅速御請可差上之処何分五人之者愚昧之面々故
六ヶ年以上で勤役罷在候処何等之所 詮モ無之不法則二打過際限で無之ト奉献息恐縮致候不興之私共自今退役仕度旨ヲ以後役人選之儀ヲ各社肝煎中ヘ及頼談候処早速集会相設評議仕候処何分於元社日費之手当無之候故各社重立侯者ョリ割賦ヲ以テ積立出金相 成候様申聞ヶ候得共今般機別出金之儀相満候迄へ聊カタリ共出金不致旨申立候ニ付差当而当感仕候放期限之後 へ追テ奉申上候間法則取極候迄之処何卒有機別御上納金之内別紙金高之通日費為手当月々御貸下ヶ被成下度為 然之上者各社肝煎俱々一層相励御用之廉々並織工御場見廻り等二至迄無懈怠相勤元社再興方法相談侯上者日費 償方そ相立自ラ日費金御返納を出来候様集議一決仕候上へ後役更二人選ヲ以テ奉伺御採用之上へ私共二毛先役 ト相唱精々世話可仕候間何卒前頭之日費金月々拝借之儀且者私共退役之儀右両様トを奉願上侯間出格御仁恤を以テ右之段御聞届被成下候ハバ難有仕合二奉存侯
明治八年二月
西陣物産会社世話役
竹内作兵衛
伊達弥助
渡辺善兵衛
中西長右衛門
武本治兵衛
会社
前書之通相違無之候間於私共で俱々奉願上候
明治八年二月
十八社肝煎総代
吉川久右衛門
吉田甚兵衛
平野卯八
松田庄八荒木武兵衛
宅間佐助
山田甚助
京都府知事 長谷信篤殿
日費金壱ヶ月分計算書
一金五円 筆紙墨從焚灯油其他共
一金三円五拾銭 宿料並二町入費共
一金拾五円
筆生一人、会社留守一人
用使二人雇賃
総計高金弐拾三円五拾銭
右之通御座候
右願書に対して京都府は、願の通り機別出錢上納金との相殺を承認すると共に、世話役には暫く留任を求めた。
此伝習所の成績は良好であつて、此所に学んだ者達によつて全国の織物生産地が、洋式化し急激な発達を為した。又、同年二月二日明治天皇が、伝習所に行幸せられ、佐倉、井上等の操作する、洋式機械を御覧になった。
会社の終末
明治八年頃となつて、西陣物産会社内部結束が弛緩し、各織屋単独個人の活動が、旺盛になつて、会社は時々に名を利用するに過ぎなくなつた。当時の役員には会社の基本財産を蓄積するなどの智識はなかつた。当初三万両もの金が這入ったのであるから、会所建物等を買い、或は建築すれば会社の活躍に便利であり、上納金の成績も良好であつたと思われるが、要するに未だ其処迄の考えは出なかったものと見える。



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