
第五節 西陣困窮に対する匡救の方策と其の成敗
京都府より借受金三万両と共同仕入支払
西陣窮境打開の方策は、此際滞貨を一掃して、将来の需要に向く新製品に着手せしめることが、焦眉の急である。と共に、此機会に、仲買問屋の搾取から脱し、公正なる取引制度を、確立しようとする考えが起ったのも、時勢の赴く所であつた。其れが即ち、前記会社の仕様書となつて、実行せんとしたものである。
右仕法書に基いて集荷するとなると、小額の資金では事足らないから、矢張りお上に、まとまつた金の貸出しを、願上げるより外に分別は出ない。
京都府は、右申請の趣を聞届けても、責任を負う者が無くてはならない。因て全西陣織物業者の、公認と云うより公設団体を創設せしめ、勧業資金の内から、大枚三万両を貸出して呉れたのである。
此三万両貸付け方法は、諸説に分れ、二万両と一万両の二度とか、或は一万五千両ずつ二度とか、伝えられるが、其間にも、別口八千両の借入があり、其外にも、時々泣訴してお助けを願い、寛大に聞届けられたようである。尤も別口分は、総て正直に完済した事になつている。
此三万両を以て、後記入札売捌所兼会社事務所を設置して、共同販売事業を行なった。而て此事業による収入を以て、借入金三万両を返済する計画であつた。
京都府の御命令により、会社の組織が確定して、会社が一本で集荷し、一手入札販売することに、御許しがあつたので、製品は漏なく、会社へ持込むよう触れた。待ちに待った織屋は、先を争って代物を運んだであろう。 中には永く土蔵で埃に埋れた品に、陽の目を拝ました物もあるのは人情である。
一手販売取引改善の成果
会社の一本集荷が現金取引である限り、製品の持込成績は極めて良好である。次 に一手販売となって、入札により旧弊潸実を排し、明朗な取引の理想が顕現したかと云うと、そううまくは問屋は卸さなかつた。
持込品に対しては、夫々優算払をしたと思われるが。扱て此価格の査定方法を如何にしたか、文献記録が無い。借入金三万両は、またたく間に、残らず織屋に支払われた。
文献には、当時未だ織屋の自覚が足らなかつたから、失敗を招いた。と記されてある。之れは余程ひいき目に見たのであつて、実は成功する筈のない、空想に近いものであった。仲買商間の談合、或は不買同盟、特別関係にある仲買商と織屋の抜け取引、は防止できない。会社には、殆ど売れぬ代呂物のみ持込まれ、会社は滞貨の山を抱える。会社の責任者たる世話役は、狼敗して、下京へ出張所を出したり、京都御政府に、市中御布告を願ったり、諸国商人及素人売りの駒札を、諸所に建てたり、四苦八苦の販売宣伝をした。其間にも世話方惣代が、泉州堺、摂津大阪へ売捌きに出張した。其又出たちが振っていたと云われる。京都府から御許しのあつた帯刀二木、羽織袴、手代、番頭に荷物を持たせて行つた。当人は士分を以て得意満面でも、買う方では阿呆らしくて尻込みする。大名相手に慣れた坂堺の豪商には歯が立たず、徒らに後の世語りとなつた。
斯様な有様であつたから、遂には一本集荷も、一手販売も、休止するより他なく、後仕末に、世話方役員は苦労を続けたが、個々の織屋自体は現金が這入つて、経営費が回り、蘇生の思いであつた。何と云つても、三万両の大金は西陣より外へは出て居ないのである。これにより新製品の考案研究の余裕も生じ、次々に優秀織物が生産せられ、西陣全体に活気を呈するようになり、立直ることが出来たのであると編者は断定する。西陣の今日あるは、此三万両の御影であり、又之れにより此物産会社が各種の大きな仕事に協力することを得て後記する偉大な功績を挙げ得たのである。※
- ※結果として失敗したとはいえ、これが西陣組合による販売・宣伝の取組の先駆けである。
第六節 京都府より借入金三万両返納経緯
同借入金返済延期歎願と京都府の指図
前節の通り借入金は、織物を持込んだ者に払渡し、代品物は一向に不捌けで、売得金が無いから、返済上納の目算が立たず、延期を嘆願するより外はなかつた。
乍恐以書付率願上侯
一 、従先般東洞院六角下ル物産引立所江旧冬従御政府奉拝借侯御金参万両御廻シニ相成故於同所借用被申付右者
旧冬西陣織屋共必至困窮之折柄事実奉言上候処格別之御仁恕を以種々御手お被為尽御金御貸下被為成下右御蔭奉載二而旧冬必至之困苦を相遁候然ル処何分代呂物不捌ニ付種々損失利損等出来仕其上此頃に至り一般之不景 気二而不捌弥增相成不融通二而一統心痛仕候已後屹度尽力仕規則相立追々代呂物売捌来ル七月晦日限元利上納可仕候右ニ付何とも恐多御願事二御座候得共当分之所月壱歩之利足二而貸下ヶ候様同所江御沙汰被為成下候樣
只管奉願上侯此段何卒格別之御仁恤を以右之通御聞届被為成下候ハバ莫大之御仁恕如何計數難有仕合ニ奉存侯
以上
明治三午年四月
西陣物産会社
世話役惣代
日和田屋新七
井筒屋弥助
蔦屋善兵衛
丹波屋長右衛門
同 利右衛門御政府
右願書に対し、京都府より願書の上欄付箋に、次の通り指図があつた。
本書東洞院物產引立所より改而借用するニ不及其儘当府より其引立所へ貸渡候都合二而可然候条申出之通返上日限無相違相納可申候事
但返上日限無相違相納候上ハ其節利足等之儀も尚精々詮儀之都合も可有之候事。
此奉願書に「旧冬物産引立所へ御回し」とあるが旧冬とは十二月であつて、物産引立所の出来たのは明治三年一月即ち春である。所が此物産会社が貸下げを受けた金は、京都府勧業方直接取扱いであつて、借入金は、商法司と称した日本銀行の前身の如きものから交付せられた。然るに、此願書も全々嘘と思えぬから、三万両の貸下げの内残金一万円或一万五千両があつて其れは物産引立所から回わされたものと思える。扱て此物産引立所の内容が此願書の狙い所であつたと思われるのは、京都府は、明治三年一月京都市の産業崩壊の危機を防止すると共に旧弊刷新を企て、之を指導する目的を以て、東洞院通六角下ル所に之れを設置し、京都市内の豪商十数名を京都府御用掛物産引立世話役に任命し、主として勧業資金の貸付と、経営の指導をして、商工業者の企業の立直しに、助力せしめることにした。何しろ民間人の寄せ集めと、大まかな旦那衆のみであるから、貸出しが放漫で、好意的偏頗な処置に流れ易く、借り方も顔が利けば気楽に融通して呉れて、督促も呑気であつたから、何かと窮窟な京都府の取扱金より、此引立会所から借りた方がよい。さすれば、返済上納延期も話が解りよく、一つ一つ恐れ入らなくて済むと考え、西陣物産会社も早い話が借金の肩代りを願ったものであるが、京都府は余計な手数を踏まなくてもよい。七月末日に返済出来るなら、相違なく持って来いと命令したので、藪をつついて蛇を出した。
借入金返済延期願い再度―京都府の不承知
前項の三万両七月末日返済額は、当初から実行不可能であつて、 一時逃れの手段であつたから、泣訴哀願、期日を同年十月末日迄、延期して貰ったものの、之れとても、返済上納金を調達し得る目算が、立たなかったから、次の願書を提出した。
乍恐奉願上候口上書
一、先般物産会社御許容被為成下職業情実盛大之為め御金三万両御拝借奉願上侯処格別之御仁植を以御 貸下被為成下御蔭奉載ニテ必至之困苦を相通難有奉 恐縮侯然る処有御金当十月御返納可奉仕等之処一般 之不景気二而不捌ヶ弥增不融通ニ付実以心痛仕侯間已後尽力仕法則相立代呂物売捌キ専一二可仕侯間何 卒格別之御憐愍を以来ル十二月廿九日迄御猶予被為成下候段御歎願奉申上侯間御聞届ヶ被為成下候ハバ莫大之御慈悲ト如何計難有仕合二奉存候 以上
明治三庚午年十月廿九日
西陣物産会社世話役
沢田新七
武本治兵衛
伊達弥助
渡辺善兵衛
広瀬利右衛門
中西長右衛門
京都府御政府
此願書の署名は、明治三年九月十九日、庶民の氏を称するを許す、との布告により、旧来の何屋何兵衛の、屋号を姓氏に替えることになつたから、斯様に変った。
右口上書に対する京都府の意見は、「難聞届侯事」として願書に付箋返却せられた。
再三の延期願に立腹した京都府役人が、遂に強硬な態度を示した。然しながら物産会社は京都府が聞届け下さらぬからと云つても、無い袖は振り様が無いので、又長文の歎願書を差出した。
借入金返済延期御憐愍御聞届け歎願
一、願書
奉歡願候口上書
一、当職之面々商業非法ニ募罷居候処既ニ昨己年一般之不景気二付商先ヲ失と中秋之頃ニ至テ休職ニモ可及候様成行其上中宮様御発興被為在侯テ相歎己が怠ヲモ忘却致当職続小前之者共モ携御騰ヶ間敷儀奉惜候段言語同断之至卜奉恐縮侯処其後当職内之者共区々御愁訴奉言上候処逐一御利解被為遊候其上元仲ヶ間之肝煎之者共御召出二相成職業向之形勢悉ク御尋之上会社一途二組立可申様御許容被為成下夫而己莫大之御金拝借奉願上候処格別之御に慎ヲ以テ御貸下ヶ被為成下體有本感伏会社法則申合ヲ以テ物産興隆成立,主トシ去ル十一月廿六日 初会社致一同持合セシ品々尚小前三至迄集会仕候処商人家中追々二集リ現金人札等致以之外繁昌之法ヲ設ヶ切 何二職業盛大相成候へバ弊習去り勉励精業可仕様、前条御愁訴奉言上侯者共速二必至ノ窮態ヲ助リ御恩沢 之程如何計難有率感載侯就テへ追々二御金御拝借奉顧上侯処都合三万両御貨下ヶ被為成下雞有奉恐縮侯尚亦当 社基本トシテ身元相応之積立金ヲ持寄出産之品追々買入致潤沢=仕入凡代金高拾万両余之品々閒置当地四条 並東京大阪右ヶ所商業出張所を御許容被為皮下益々盛大二相成世話役之面々共奉拝悦候処其以来济会社二於テ モ御趣意柄精実貫徹仕自ラ物価一般二下落仕元品莫大之安直相成当時社中之有代呂物夫々買入之節ノ直合= 引競べ明白二勘定相立侯得共当時平均二直段ニテ急速=売払候時へ多分之損失二立至り且又一般ノ人気ニそ物 り候哉ト当十七社の肝煎役之者共深心痛仕自然之損失卜乍中御拝借之御金御返納並御利足御上納等二不都合二 成行候得者第一奉対御上樣重々離相済奉恐入候御儀ニ付今般世話役一同決談之上各社更二一洗仕法則相改別紙之仕法相立テ御貸下ヶ金御返納方へ一ヶ年二三千両宛月賦ヲ以御上納奉中上度侯且亦御利是之儀へ御元金皆 上納後二吃度相納可申段一同莫大之奉豪御恩沢愈物産広隆基愚昧之面々投身命尽力可仕候実=以右厚ヶ間敷儀 奉言上侯テへ昨年已来必至之窮羅御救助被為成下御趣意ヲ忘却等で可仕様下被思召侯下奉心痛候得共実二 以会社従御許容一ヶ年ノ間世話役面々抽丹精御書下ヶ之御趣意基諸世話致居候得共自然之形勢二成行候段變重 ニモ御記申可奉言上侯間何卒御憐愍ヲ以テ願之通御聞届ヶ被為成下候へバ広大之御慈悲,如何計難有仕合可奉存侯以上
明治三庚午閏十月
物産世話役
惣代
沢田新七
武本治兵衛
竹之内 作兵衛
伊達弥助
渡辺善兵衛
中西長右衛門
京都御政府
願書文言の説明
前項願書の内容は泣訴の一言に尽きる。其内「中宮様御発輿被為在候テ相歎己が怠ヲモ忘却」云々に付ては、若干の説明を加える要があると思う。
明治元年十二月十八日一条忠香の三女美子寿栄君御入内、即日立后被仰出、次で中宮の称を廃して皇后宮と称し奉る事になった。願書中の中宮様は西陣永年の呼び慣わしを其儘に使用したものである。
明治二年三月七日明治天皇、京都を発し、東京に遷られるや、諸官省悉く東京に移ったから、京都は津浪の引いた後の如く、寂寥たる感があつた。次で皇后宮が同年十月五日御発輿、東京へ向われる旨発表せられた。
内静的と見られた京都市民が、俄然騒ぎ出し、「天子様の御東行は時世の移変り是非もないが、中宮様は永久に京都に住ませられたい」と、市内諸所に行啓反対の貼紙をする、九月二十四日には数千人が行啓反対或は中止嘆願の旗幟を押立てて、寺町通を北へ石薬師門から京都御所朔平門から常御殿の皇后宮御住まいの方へ押寄せ、東京行啓中止の直訴を企てた。
――――後年のデモンストレイション示威運動も京都が先端であろうか――京都府は狼敗して、兵部省の兵隊を繰り出して群集を阻止し、追い払ったと伝えられる。
此時皇宮堂上衆悉く東遷した為、大影響を被つて居る西陣織屋も、黙って居られないと、禁裏様とは深い縁由もあり地の利も近く、毎日数百名が湖平門前広場から東猿ヶ辻辺り迄坐り込んだ。(座り込戦術は西陣の発明であり、これが又第一号であつたかも知れない)又多勢が、御所の周囲をぐるぐる回って、千度詣りの祈禱をする。当時の有様をば、何とかして、西京に留まらせ給うみちはなきかと、嘆き訴え申せしこそ道理なれ。と書いたものがあるが、ことわり所ではない新婚夫婦に、百数十里別居生活を要求するなぞ、無茶な話であるが、之れを又自慢にして右願書に書いた。
長谷京都府知事は、群衆心理からの事故発生、例ば御門前で割腹するなぞ、男子の本懐と思うていた時代故、 非常に心配して、京都市内の有力者を総動員し市民の説得と慰撫に努めた。結果は事なく東京へ御出発あらせられたものの、此様な京都市民の不満を緩和する為にも役立つからと、政府は勧業資金十五万両を、京都府に交付して呉れたのである。(明治五年十二月明治天皇が京都市へ下賜せられた十万両とは別である)是れに付ては、 西陣織屋の熱意と苦境の有様が、上聞にも達した事も、有力な原因である。其れを思えば、京都府がそう喧ましく謂わんでも、暫く待つてもらいたいと、皇室を担ぎ出して頼んだと見られる。
又暫く待つて貰っても、所詮は借りた金であるから、払わぬとは調えず、色々と泣き事を並べても、要は金が集つていないのみでなく、調達の思案が付かぬので、此際延期願の筋を通す為、年賦毎月払いの計画を申出た。 而て願文中に「別紙の仕法相立」とあるが、仕法書は未だ発見せない。実際には何等実行して居ないのであるから、発見せなくてもよい訳である。
又「当十七社の肝煎役ノ者共」とあるは、会社設立当初の十八社の内練絹、精好、絵絹が合併して三品社と称し、別に天驚該社から、綿天社が分離して、十七社となった。
京都府の問責上納命令
明治三年十月借入金三万両上納延期教願書は、仕法書迄付けて、支払方法を陳弁した に拘わらず、其後少しも実行する気配もないので、翌四年夏、京都府から、西陣物産会社に対し、上納申度書が発せられた。
西陣物産会社世話役
同 各社肝煎
同 各社中
去己己之冬両度に貸下侯金三万両返上方之義段々及遅引候右は西陣之儀者御国内之織物之最上外国迄を致貴誉侯物産二付方今之世態益勉強可為致ため若干之金高茂貸下候事二候処兎角返金怠惰に相流れ去頃巳来催促之節ニ近来織物不人気又た各社相続難義申立斯三ヶ年之今日至迄不納二罷過候条以之外之次第二有之最前他二無之 格別二救遺侯仁恕之所置をも忘却さしめ候心得世話役之者は不及申各社一同不束至極憐助之途も無之候就而は 皆金三万両一時上納可申渡之処突然大金取揃方彼此離たるへくに付猶分段々評議を以三ヶ度済ニ成遺候条難有相心得各社之者へも篤と申渡銘々尽力之上当七月十三日同晦日八月廿九日都合三ヶ度二割合セ壱度壱万両宛無 相違勧業場へ返納可致候就而は此往各社ニ於て屹度見込有之事柄二而融通方差湊候節へ仕法書を以て願出候はゞ時々僉議之上引立可遺候事
辛未
京都府
右の如く至極尤もな、文切形の借金免れも、よい加減にして置けと、謂つた愉快な而も名文の上納申渡書が降って、会社一同一言も無い。特に各社の者を対象にして居るので、全織屋に対して責任を負わしめたことになる。とは言え、僅か半月余りの間に、壱万両は愚か千両の調達も、会社のみでは不可能であるから、必然各社が各個人の織屋を対象として苦面の方法を協議の結果、遂に機別出銭となった。
機別出銭と上納額機別出銭とは、織屋戸別に設備機台数により、分担金を出すのであつて、
一、広巾織機壱台二付月廿五銭
二、逼幅織機壱台二付月十二銭五厘
三、木綿織機は其半額
と定めて、毎月各社の肝煎が集金して会社に納め、会社は京都府へ之を上納することにした。此負担は時代の物価から見て相当重いものである。
機別出銭はお上の御命令との触込みに、止むなく承知はしたものの、社により不腹不満があつた。
元来元金三万両の支途は、製品持込者に、概算払したのであつて、其為会社に損失が生じたとすれば、当然製品持込者が責任を負担せねばならぬのに、西陣全般に機別出銭せしめる事は、甚不公平であると考えられ、予定通りの出銭が得られなかったものの、明治十年三月迄には金七千九百参拾六円を、支払上納し、残金は二万二千〇六十四円と、明治四年七月盆の入費に困窮した、小前織屋救済の為に、京都府から別途に借入れた金弐千円が未払となり、合計金弐万四千六十四門七錢三厘八毛が、次の西陣織物会所に引続がれた。



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