
長谷川市三の名前を知る人はそう多くないと思います。西陣でも完全に歴史の人だからです。戦後に西陣を離れ、兵庫に引っ越したそうです。
先日、西陣の織屋さんに会社の沿革を聞く機会がありました。そこは長谷市の会社の系譜をいくらか引く会社だといいます。同様に、長谷市のところで修行した番頭さんによる店がいくつかあり、その流れを引く店が、西陣にも未だ多いとのことでした。
せっかくなのでこの機会に、長谷市氏について調べてみました。西陣の歴史に興味のある人はぜひお読みください。
聞いた話
長谷市には三つの事業部があり、長谷市、泰成、丸三といったそうです。それぞれ番頭がいて、その下にもたくさん機業家がおり、番頭がいたといいます。おそらく、当時御召で結成されていた矢代トラスト※と同じようなものなのでしょう。
- ※ 矢代仁兵衛工場を中心に、時岡利七や巽文蔵など西陣の有力機業家が連合し、トラストを組んでいた。矢代仁は問屋が主だが、工場も併営している、当時の西陣屈指の大企業。今も室町二条に会社がある。
そうした番頭の面々は、長谷市氏が織屋を廃業して兵庫に引っ越したのち、一斉に独立した。その流れを引く会社として、三陽織物(廃業)、泰生織物、北尾織物匠(廃業)、まこと織物等があるそうです。聞いた感じだと、多分まだまだあると思います。
三陽織物は長谷市の番頭が独立した会社で、まこと織物は現社長の義父が番頭を務めていたとかいないとか。もう一代あったかもしれないので悪しからず。ちなみに三陽織物の流れの中には、今の梅垣織物があるそうです。
そのほか、本ブログでよく紹介している「西陣織物館記」の筆者前田達三氏は、長谷市氏の勧めで組合に入職したと書かれていいます。「次の時代に処してほしい」と、京都府警出身の元公務員をスカウトしているから、行政とのパイプはもともとある程度あったと思っていいでしょう。

紳士録を見てみる
当時、西陣組合の組長選挙は苛烈を極めたとされます。長谷市はそこで何期も組長を務めるほどの人物だとわかっています。そして昭和10年前後の西陣組合なら、相当の勢力もあります。とすれば、たいてい紳士録を見れば載っているでしょう。
長谷川市三氏
明治21年7月23日生
【営業または職名】紋織業
京都市大宮上立売上ル西入伊佐町(電話西陣2093番)
【住所】 同上
【本籍】 同上
【略歴】 氏は京都長谷川市太郎氏の長男に生れ、明治44年12月家督を相続す。西陣織物同業組合長及び京都商工会議所常議員に挙げられ、家業のほか、泰成織物株式会社専務取締役に就任す。(昭和11年刊、東京信用交換所京都支局の「京都織物界紳士録」より)
こういう史料は基礎的な情報は載っていますが、エピソードがあるわけではないですから、特に面白みがないのが常です。
一方で大事な手掛かりが出てきました。長谷市は明治21年生まれ、親は西陣の長谷川市太郎なる人、本籍も西陣。京都商工会議所の常議員もやっているそうです。
となれば当たれる史料は、商工会議所の所史を見るか、「西陣機業家勉強鑑」が本筋です。
京都商工会議所史
まずは商工会議所の記録を見てみましょう。該当箇所がそこそこ多いので、引用はこちらを見ていただきたいです(https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1124850?keyword=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%B8%82%E4%B8%89)。1944年の商工会議所史です。
これによると、長谷市氏は、昭和12年に常議員当選、昭和14年副会頭当選、同16年に辞任とあります。そのほか委員も歴任していることがわかります。
西陣機業家勉強鑑
さて、次に見てみるのが「西陣機業家勉強鑑」です。これは組合が以前公開を始めたもので、明治45年や昭和4年時点の西陣の勢力が分かるもので、昔の西陣の勢力図を調べるには、なかなか参考になります。


さて、この二つを見比べてみると、明治45年の西陣機業家勉強鑑の方に、長谷市トラストの面々の名前は全く見えないことに疑問を覚えます。長谷市の親である長谷川市太郎の名前もないから驚きです。
昭和4年(1929年)と明治45年(1912年)の間には20年も差がないのに、この結果があるとすれば、長谷市の手腕が素晴らしかったからでしょうか?それとも、長谷市はどこかしらで番頭か何かをやっていたのでしょうか?
西陣たより

西陣の組合は、戦前は「西陣」なる機関紙が、戦後の同業会より連なる諸組合では「西陣たより」「西陣織たより」がそれぞれ発行されていました。この機関紙を確認してみます。
(…)織屋さんでは明治二十年頃稲田卯八さんという大人物が出た。この人の家は今の鳥原さん、辻梅さんの家とかつて長谷川市三さんの家で現在京都プロダクションがつかっている家の半分を合わせた大きなものであつた。この人は当時流行していた昼夜帯の裏地に使う大黒朱子を織つて大きな財産を残したが当時上京ではこの人に並ぶものはないといわれた大きな織屋さんであつたという。この稲田卯八さんの弟さん市太郎さんの長男が名組合長の呼び声高かった長谷川市三氏である。
この人は宮津中学を卒業後これも西陣織物同業組合第七代組長をつとめた池田有蔵氏の店に入って見習い、二十五歳で独立、現在京都プロダクションのあるところに店を持った。これが長谷市織物商でこの他に二つの店を経営、一時は機も1200台を越したというから如何に大きな織屋さんであったかがわかる。
昭和6年10月細井恒次郎氏に替わって西陣織物同業組合第十代組合長に選ばれたがこの時組合長になるのをきらつて有馬温泉に逃げていたのを皆に希望されてやむなく組合長に就任したのだという。
昭和13年西陣織物同業組合が解散、西陣織物工業組合が設立されたが長谷川氏は引続いて組合長に留任、戦争が激しくなった昭和18年の織屋廃業まで13年間にわたって組合長をつとめた。この間昭和11年には現在の西陣織物工業組合の建物を建てているが(略)
この長谷川氏はまた伊佐町の北側を全部買い取り三階建ての工場を建て地階では染、1階では関連、2階では織るというような西陣織の一貫作業も計画していたそうである。この計画の一部であったのか長谷川氏の家は間口14,5間もある立派な建物である。
長谷川市三氏は戦後も織屋に復帰せず宝塚の方に住んでいたというが今からちょうど八年ほど前に六十九歳で亡くなった。(西陣たより第146号(昭和39年6月)より)
さすがに同業組合の遺鉢を継ぐ組合の機関誌だけあって、なかなか詳しく書いてあります。先の西陣機業家勉強鑑にあった稲田卯八氏は、長谷市氏の祖父であるとのこと。「勉強鑑」には長谷川の名前がよく見えるし、そのどれかに婿入りして、生まれたのが長谷川市三氏なのでしょう。
直接全部を相続したわけではないようですから、池田有蔵氏のところで修行した市三氏を見込んで一部を譲ったのでしょう。よく見ると昭和4年の「西陣機業家大鑑」に、繻子部部長として稲田秀蔵の名前がある。同じ繻子屋であることを踏まえると、彼が稲田卯八氏の跡取りだと思います。
まとめ
さて、またしてもとりとめもないものになってしまいましたが、長谷市氏のことはあらかたわかったような気がします。まとめると、
- 長谷市氏は西陣織物同業組合の第十代組長を務めた名士で、ほかに京都商工会議所副会頭、常議員、ほか委員などを歴任した。
- 稲田卯八という大織屋の血縁で、父の長谷川市太郎氏も織屋をやっていた。宮津中学卒業後名組合長としても名高い池田有蔵氏の店で修行し、25歳で独立。長谷市織物商のほか泰成織物・丸三機業店の二社を経営した。長谷市・泰成・丸三のいずれも大織屋で、西陣機業家番付を見ても、三社ともトップレベルに位置している。
- 戦争中、昭和18年に織屋を廃業。戦後は宝塚の方に引っ越し、織屋に復帰しなかった。ただし同時の番頭はそれぞれ独立し、系列の多くの織屋が現在も残っている。
長谷市氏のことを調べると、稲田氏や池田有蔵という別の大織屋の名前も出てきて、壮観といわざるを得ません。西陣の歴史の面白さには感服するばかりである。(終)




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