はじめに
2年半前に「西陣555年記念事業」が行われたように、西陣には長い歴史があるが、そのうち過去を詳述した資料はまれである。
織物の歴史はどこでも古い。衣食住の「衣」を司っている以上、編み物や不織布(フェルト)と比べて圧倒的に単純な織物の自足が促されるのは当然だ。西陣しかり、博多しかり、桐生しかり、八王子しかり、織物産地はどこでも上古からの歴史を主張できるのだ。

中でも西陣は官機の流れをくむ。官機とは官営の織物工場のことで、律令制の時代は大蔵省の織部司と称する専門工場があったのである。やがて律令制は崩壊し、貴族が直接、織手を抱えるようになった。室町時代には「大宮の絹」「大舎人の綾」と呼ばれるブランド産品が製造されていたらしい。
応仁の乱に由来する「西陣」発生以前に、こうした一見由緒正しい歴史があるにもかかわらず、西陣が555周年などと控えめな数字を主張するのはなぜか。丁度いい明確な区切りが他にないこともあるが、応仁の乱で、技術に断絶が生まれているからである。今の西陣の技術の系譜をたどるとすれば、応仁の乱以降は直系だが、それ以前はいわば血のつながりはなくて、養子に入ったようなものだ。
そして今の西陣の高度な技術は、江戸時代に培われたものだ。元禄時代、消費生活の奢侈化と衣料需要の増加に牽引されて、日本は未曽有の好景気に沸き、町人を中心とする元禄文化のもと、産地である西陣と販売を手掛ける室町はこの世の春を謳歌した。今でも西陣の全盛期は元禄時代と言われている。ここから西陣はまた浮沈交代を繰り返し、明治時代に至る。

さて、ざっと江戸時代までの西陣の歴史を追ったが、この後、明治時代以降の西陣の過去を知るのに、使える資料は多くない。そのうち最も読みやすく、読みごたえがあるのが「西陣織物館記」だ。西陣組合の先輩である前田達三氏が著したもので、今、西陣が明治時代の組合史を辿れるのは、この本のおかげである。
せっかくなので公開する。前提知識が要るから、所々で僕の補足も入れることにする。なお著作権は切れているので、安心してほしい
序日
本記は西陣織物館の履歴書であり、生立ちの記である。夫れが、其の母体である、西陣織物産業人の組合団体を管理する人物の、器量の大小、才能の深浅、誠実心の厚薄、エゴイズムの強弱と、ほんのちょっぴりの仁侠心の存否が、組合の成敗浮沈を決し。引いて此の織物館の隆替興廃を醸成せしめた明治元年以降九十年の歴程を記述したものである。乍然、本記は小説でもなけれ ば、物語り伝説でもない。唯事務上の書類の内容を、綴合せたに過ぎないようなものであって。 謂おうなら、事実調査書であり、事件の陳述書であり又証拠書類でもある。
本記を年代により三編に別け、財産目録を附録とした。
第一編は、明治元年から、明治二十六年迄に、幾度も西陣織屋の本山が、建立しかかっては出来ず。建立せられたと思ったら、忽ち消失してしまった陣痛時代※1が過ぎて。明治二十七年、同二十八年の組合主悩者達が傑物揃いで、一般に信望があり、卒先範を示したから。西陣織屋一人残らず、最低十銭から、最高百円に至る迄快く寄附金を拠出して、黒門通元誓願寺角に、組合事務所(会館)を建設した迄の事績※2を記述し。其後は明治三十年迄の運営状況を略記した。
- ※1 明治時代、「西陣物産会社」「西陣織物会所」「西陣織物業組合」といった組合組織のようなものができたが、いずれも長続きせず、消滅した。
- ※2 この時代にできた「西陣織物製造業組合」のとき、黒門通元誓願寺東入に西陣織物館の前身ができた。(ちなみに今の組合の丸西マークは、この頃すでにあったらしい)

第二編は、明治三十一年以後、昭和十三年迄の西陣織物館全盛時の要項を、摘記したものである。
其間大正四年七月、現存西陣織物館が建設せられる際は、組長及役員に俊英があり、姉なる事務長を抱えながら、西陣織物業界に多数の反対者があつた。※3其内文書に、会合に反対を唱えたのが、当時の西陣織屋の学歴─大部分中等学校程度ではあるが─のある者であつたから。昔から雷同性のある西陣の事とて、全般的に悪影響を与え。建築設計が萎縮して、ギャラリー程度のものとなり、芸術味が欠けてしまった。其れでさえ宏壮大廈無用の長物だと罵しつた。眼孔狭短見浅慮、が今に災を残して居る。其れにも拘わらず、西陣織物館が京都新名所として有名になったのは。之れが運営に人物を得て、熱意と誠実により、着々効果を上げたからである事を大略記述した。又昭和十年には附属事務所の改築を断行した。此度は賛成者のみで、一人の反対者も無かった代りに。其費用は組合剰余金等を以て賄い、一切経費の増徴をしない、条件を以てしたから。寄附金の募集も行わなかった。建築設計及規模に関して議論百出。其為組合組長の原案と全々異るものとなり。頗る使用効率の悪い建物が出来てしまった。去りながら鉄筋コンクリート三階建は、其れなりに、爾後の組合事業に大きな効果を与えたことを記し。西陣織物同業組合解散に至る迄を以て本編を結んだ。
- ※3 「現存西陣織物館」とは、いま京都市考古資料館として活用されている、今出川通大宮東入にある建物。大正4年竣工。
第三編は。昭和十三年西陣織物工業組合設立から統制経済の概略。及び戦時転廃業の様相、西陣織物産地の荒廃、続いて敗戦被占領下の類落による、西陣織物館の危機と、之が保全に対する編者の施策、及昭和二十五年西陣織物工業協同組合解散前後の様相を、若干記述して擱筆した。
編者が、長谷川西陣織物工業組合理事長数度の懇請により、同組合に就任したのが、此第三編起筆の昭和十三年七月である。編者前職の関係から、西陣の風紀はよく知つて居ても。其他の産業機構に付ては素人であるから。先ず「西陣研究」を読み。次で、「西陣史」と「織物常識」を昼夜通しての試験勉強。次に「西陣天狗筆記」と「西陣誌」の合本を精読した。最少限度之れだけの物の梗概を頭に入れて置かねば、諸官庁其他系統機関の諸会合に出席しても、口が利けないから、否応なしの勉強であつた。其上物価統制に基く公定価格の設定による、格付見本として、各級物業者が原価計算と共に提出した、全西陣織物の品種銘柄は、実物教育となつて。現時西陣織物の智織を、最大限にまでに、豊富ならしめると共に。西陣織物業者誰彼無しに逢うて、嫌でも其性格を知らねばならなかったが故に、織物業者も企及し得ざる普偏的な、西陣の土の匂いを身に付ける事が出来た。
折も折、昭和十三年九月に、同工業組合理事会が、西陣織物館其他の財産を以て、公益財団法人設立の決議を為した際、列席して、織物館建設者達の真意を明確に把握することを得た。
又、西陣織屋は昔から、時代と共に新陳代謝する。早よう謂えば、西陣の大機屋は三代と続かないとの諺がある。諸行無常は、あえて西陣織屋のみではない、他の産地も同様である。然るに、前線の負け戦さを挽回せんとする国策とやらで、西陣織屋は新陳共に軍工場に強制転業を命ぜられ。西陣地域杼校の音も、絶えだえとなつてしまった。誠に心細い事限りなかったが。織屋は亡びても、産地は亡びない。西陣織物産業は軈(やが)て復活し。往年の隆盛を見る時期の来ることを、確信した。そうなっても、西陣産地は中小企業工業者の集合地である事だけは、絶対に変らないから。是れが拠点、西陣織物館を失っては、早期復興は至難である。仮令(たとい)権道を用いても、 保全を計らねばならないと考え、之を実行したのであつた。
一敗地に塗れて、山河国民総て虜囚となった。昔人は、「古来征食幾人か回る」と詠じたが、 西陣は終戦と共に旧業者がどつと帰来したり、新規の開業者で。一挙に戦前の倍数に昇る織物業者で溢れた。嬉ばしき現象ではあるが其処に数々のトラブルが発生した事を、本編に記述してある。
昭和二十五年十一月十一日京都市会議長に、西陣織物館開館助成の請願をし、翌年二月十三日京都市会で之を採択し。高山京都市長からは、京都市の観光施設として同館の再開を希望し、経済局、観光局と協議の上実地踏査をして助成する旨の誠に好意ある通達を受けた。其以前三月二日、大林組から織物館全館の改装工事仕様書と同工事費見積額金三百六十六万六千七百三十円を提出し。万端の手筈良好に運び、経費調達方途も万全の策を施したに拘わらず。主脳者の頭の切り替えが出来ず、訳の判らぬ現象が生ずると共に。果ては法人格も無い同業会に、事務所と什器を占拠せしめ※4、清算を阻害し。明治初年からの西陣織物組合功労者、組長、理事長の肖像額全部を会議室鴨居から、引降し、之を破壊するの暴挙を為すに至らしめた。言語道断の不埒とは云え、西陣織物工業協同組合清算と織物館資産との微妙な関係から、事を荒立てるの不利を思うて、静観するより外はなかった。
- ※4 今の西陣織工業組合の前身の一つ「西陣織物同業会」は、当初西陣織物館を事務所や展示等で使用したが、旧組合(西陣織物工業協同組合)理事等との意思疎通が十分でなかったため、大きな騒動を引き起こした。これについては過去ブログで少し言及がある。
昭和三十二年六月に至り、西陣織物館及附属建物並諸財産に対する法律上の障害が除かれ。是等を建設した、功労者先輩の遺志を、達成し得るの時期に到達したことを認め、本記を編集するに至ったものである。
編纂の当初の目次計画は、西陣織物館其他の資産中。特に織物参考品、古文書等は、詳細なる説明と、寄贈者の名及蒐集記録を掲げて、第四編とする積りであつたが、其れでは本記が浩瀚になり過ぎるので。昭和二十六年十一月一日既成の目録を其儘に、附録として掲げるに留めた。実は本記編纂の目的は此附録財産の保全にあつて前三編は其説明に過ぎないものである。 之等所蔵品の中には、天保以来の西陣織物史上、金銭に更え難い貴重な古文書がある。戦時被爆により編者が斃れたら、仮令焼夷を逸れても。一括の反故紙として廃棄せられることを憂いたが、幸に共に今日あるを得た。
以上を本記編纂の序日とし。尚編纂の経緯若干を凡例に於て補述することにした。
昭和三十四年十月二十五日
於西陣織物館
編者述
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