
西陣呼称500年事業の実施
(前回のつづきです)
西武鉄道から格安で譲り受けた村雲御所跡地には、株式売り出しによる西陣産業振興㈱の資金調達と、西陣に店舗を置く12の都銀・地銀・信金の協調融資によって、昭和40年(1965)に無事、西陣産業会館が竣工しました。西陣産業会館は、西陣のランドマークとなる繊維センターとして建設されたものです。
その二年後、1967年は西陣呼称500年となります。「組合史」は、
西陣をなぜ愛すか――まずそれは、西陣の地域において、織物を生みだしていく有形、無形の恩恵への認識である。この恩恵は最終的に『西陣織』の商標の有利性で具体化される。我々西陣業界人はこの恩恵を、西陣業界の先祖、先輩方が遺してくれた遺産によって亨受している。今日に生きる西陣業界人は、この立派な遺産を認識するとともに、これを食いつぶすことなく、今こそ決意を新たにして、次ぎの世代へより大きな価値として残していかなければならない―――これが西陣五百年の理念であった。
として、西陣呼称500年記念事業の意義を説明しています。
具体的な西陣呼称500周年記念事業としては、大きく分けて4つがありました。
・第一事業 記念顕彰事業(記念式典とその関連大会・法要、京都国立博物館における「西陣の歴史展」の開催など。「幻の機」空引機の実演はこの「西陣の歴史展」の一環で行われた)
・第二事業 西陣織の歴史的資料の発掘・収集事業(「西陣 美と伝統」の企画・立案・出版、空引機の復元はこの事業の一環)
・第三事業 西陣織の啓蒙PR宣伝事業(テレビ、雑誌、新聞での西陣のPRのほか、記録映画の作成、記念西陣織物大会(於京都市勧業館)の開催)
・第四事業 将来への継続事業(新西陣織物館の建設母体やその内容についての計画立案)
先年の西陣呼称555周年記念事業で、西陣織会館地下の技術開発センターに眠っていた空引機がもう一度組み立てられ、現在は会館1階にて展示されています。500周年の時は、復元に右往左往、織手や空引の確保に右往左往し、大変な苦労があったようですが、現在は西陣織大会などのイベントごとに実演がされています。

さて、下線を引きましたが「新西陣織物館の建設母体」とは何ぞや?と思われるでしょう。この時の西陣には地域を代表しうる団体が複数あり、それが大きな懸案としてのしかかっていました。

旧西陣織物館の所有権について
この項の経緯については、財団法人西陣織物館著「財団法人 西陣織物館史」を参照していただければ幸いですが、いきさつを概略すると、
・戦時中、西陣織物館その他の所有権は「西陣織物統制組合」が担っていたが、
・戦後、日本の全産業を統制するために公布された法令である統制組合法が廃止となり、新たに公布された商工協同組合法を根拠法とする新組合に移行する必要が出てきた。
・新たに西陣織物工業協同組合が発足したが、昭和25年に織物消費税が廃止されるに伴い、長年組合の主要財源となっていた徴収手数料が消滅することとなった。
・昭和24年、中小企業等協同組合法が制定公布され、商工協同組合法を根拠法としていた西陣織物工業協同組合はさらなる後継団体として、西陣織物商工協同組合連合会を設立することとした。その際、西陣織物館をはじめ西陣織物工業協同組合が所有する一切の全財産と、その権利義務ともすべてを新連合会に譲渡することとした。
・しかしながらこれまでと異なり、織物消費税納付の必要がなくなったこと等が原因で、組合に納付された賦課金は当初想定の半額程度に落ち込んだ。結果として大幅な赤字決算となり、第二事業年度には脱退や解散するものが続出し、連合会は機能を停止した。(昭和26年(1951年))
・西陣が無政府状態に陥っている状況は、財産保全の観点において問題ありと西陣織物工業協同組合(以下清算組合、前田達三代表清算人)は判断した。前田氏は新連合会に寄付する旨の決議を取り消し、昭和13年に設立を決議されていた財団法人にすべてを寄贈し、財産の保全を図ろうとした。(昭和27年(1952年))
・昭和45年(1970年)、紆余曲折の末、連合会とは異なる新たな西陣の代表組織として結成されていた西陣織物工業組合に、清算組合の全財産を寄付することに決まった。
・昭和49年4月、その他、清算にあたりネックになっていた訴訟が終結を見て、ようやく清算が結了した。
戦後25年を要したこの泥沼の清算劇は、他人事として見る分にはなかなか面白いところがあります(?)

とにかく紆余曲折の末、暦年の西陣各組合の資産──主に土地と建物、織物類──を手に入れ、名実ともに西陣組合史の正統となった西陣織物工業組合は、満を持して新西陣織物館の建設に取り掛かることとなりました。
3組合の合併と西陣織会館の建設
西陣呼称500年記念事業が終了した後も、西陣織物工業組合、西陣着尺織物工業組合、西陣毛織工業組合の3組合が合同委員会を結成して、長期的・継続的に検討を進めてきました。
500年記念事業が終了して6年が経過した昭和48年(1973年)、ついに合併条件が整い、西陣織物工業組合を存続組合として、3組合の合併契約書が交わされました。この合併に際して3組合の理事長は、
「三組合の資産内容はまちまちであり、 また組合員一人当りの出資持口数も各組合ごと異なっており、更には組合の出資一口当りの含み資産も組合によってまちまちであるにかかわらず、細かいことを言わずに、帳簿価額そのままで合同することができたことは、素晴らしいことである。おそらく細かいことでお互いが主張を繰返していたならこの合併は不可能であったろう。これは、西工であれ、着尺、毛工であれ、各組合の財産が個々の組合のものでなく、オール西陣共通の財産であるという認識を皆が納得してくれたからである。今回新館を建設するについて財団法人も参画して頂くことになったが、合同した新組合の財産とも一体となって、西陣共通の財産として子々孫々にまで引き継いで行かねばならない。西陣五百年にわたって先祖先輩が引継ぎ発展してこられた遺産を享受しているわれわれにとって、これをより大きくして次代に引き継ぐことは、残された義務である。」
と述べています。

500年記念事業以来、西陣業界では一本化した業界振興業務を推進する「場」が必要であるとして、西陣業界の統合・3組合合併・新会館建設は一繋ぎのものとされてきました。各組合にて合併と同時に承認された新館建設は、昭和48年中に地鎮祭が挙行され、名称が「西陣織会館」と決定、3年後の昭和51年に竣工しました。当時の様子を、「財団法人西陣織物館史」では以下のように記されています。
昭和51年3月22日、竣工式はまことに盛大におこなわれた。 午前9時10分、正面玄関前において西陣織会館の繁栄と業界発展を祈願する神事ではじまった。続いて10時植木光教総理府総務長官、蜷川虎三京都府知事、舟橋求巳京都市長、滋賀辰雄西工組理事長、山口伊太郎(財)西陣織物館理事長が紅白のテープに鋏を入れるとホール中央のオブジェ”糸・機·人” が天井の光を受けて静かに回り、西陣織会館の歴史を動かしはじめた。 510名の列席者から一斉に拍手が湧き起った。 1階、2階、3階と参列者の波が続き、10時20分西陣ホールへと舞台は移った。一瞬の暗転の後格調高く四季を織り込んだ綴の緞張にスポットが当ると緞張は静かに上昇、入れ替わりに鮮やかな紫地の組合旗が降りて、滋賀理事長の式辞がはじまった。 続いて川島西工組建設委員長が当日の竣工式に至るまでの10年に及ぶ足跡を感慨も新たに報告。次いで今回の建設に援助、協力をした京都織物卸商業組合始め西陣関連団体を代表して西田忠次原糸商協組理事長に、更に建設の設計、管理を行なった彦谷邦一氏、工事を担当したフジタ工業(株)、三機工業 (株)、近畿電気工事(株)にそれぞれ感謝状が贈呈された。 続いて来賓を代表して植木総務長官、通産大臣代理大阪通産局村田文男総務部長、蜷川知事、船橋市長、森下弘京都商工会議所会頭、西村大治郎京都織商理事長、木村卯兵衛西陣産地問屋協組代表理事が祝辞を述べた。当日はまた地元選出の衆参議員、田中伊三次氏、小川半次氏、永末英一氏、竹村幸 雄氏、河田賢治氏も出席、紹介を受けた。 11時式典は終了。引続いて京舞井上流家元が檜の白木造りの舞台で祝いの舞を披露、盛んな拍手を受けた。この後参列者は、4、5階に展開している西陣織特別展を見学、6階研修室でのパーティーで祝杯を上げた。この後更に7階から地階へ、技術開発センター等の見学をして、午後1時30分盛大な竣工式を終えた。 なお当日は引続き午後0時30分と2時30分の2班に分れての西工組合員による竣工式も行なわれた。また翌23日には一般従業員、近隣住民に対する特別見学会が催された。
西陣織会館建設とその後
かくして昭和51年(1976年)、竣工相成った西陣織会館は、敷地面積1350坪、延床面積4339坪、高さ約40メートルの大建築となり、建築費約32億に上りました。この西陣織会館は、今なお西陣の統合の象徴として堀川今出川に鎮座しています。
なお、竣工当時西陣織会館は西陣織工業組合の所有でしたが、平成元年より財団法人西陣織物館の所有となっています。



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