第六節 西陣織物会所の目的たる事業
製品検査 同織物会所規則第一条は、織物は検査をして、証紙を貼用し模擬贋製品との識別を明白にするよう命じている。
西陣織物の検査は、同会所取締役八人が諸製品を調査することを同規則第九条で定められた。即ち之れが検査員である。
全西陣年間織物生産数量二百万点に近いもの、然も品種銘柄を如何程圧縮大別しても、百三十余種に及ぶものの、正品、不合格品の鑑別を僅か七人の旦那で、年がら年中行われる訳のものではない。肝煎は勿論、仲買取締の番頭が補助代理を勤めさせたとすれば、妥協弊害を防止できない。況や単に織物を正品、綿緯、擬色に三別せねばならぬから事実上は甚だ困難であつて、絶えず紛議は免れなかつた。
検査開始当初は、京都府知事の厳命である。違背者は営業停止処分を受けると云うので、漏れなく検査を受けたが日を経るに従い検査を受けなく共、別状は無い様である事が段々知られるに至つて、急速に受検提出が減少した。

証紙の貼付 織物会所規則により検査済の織物には悉く証紙を貼付せねばならない。証紙の様式は同則第四条で定められた。
橋本伝蔵翁の話しに「槇村知事様御立腹非常にて金を返さねば織屋商買なす事相成らずと迄被仰種々と御心配の上西陣織物会所と改称せられ一枚一銭の証紙の収入を以て消却の途を立てられ」云々と記録したものがある。
此話だけであらんと、織物会所設立の第一義諦、濫製の悪弊を一洗し世人の信用を保全せんが為の目的は羊頭を掲げた事になる。
橋本翁は織物会所設立当初から、四年間に渉り取締を勤めた事からすると、会所役員の多くが斯様な偏見を以て居たのかも知れない。然すれば粗製濫造防止、産業興発の真諦を理解して居なかつたのであるから、織物の検査なぞ取締役からして既に熱意の有無が疑われる。
会所規則第四条は前掲通り証紙を三種類に定め、其内赤色正品は検査合格証であるから、一枚壱銭を納入して、原反に貼付する事を何人も納得する。又綿緯茶色証紙も、着尺御召、金襴の如き判然綿緯を使用せる事を表面せるものは異論が無いが、其中に正絹物として高値に捌かんとする者には之は都合が悪い。
擬色青色証紙は不合格不正品を証明するものであるから、之れに一銭を払つて、其上製造人の氏名標造して貼付し、市販に出す程の阿呆は一人も無い事は確実である。
次で綿ネル、綿反物即ち経緯糸共綿糸を使用した織物の良否鑑別問題が生じ、「綿織正品、黄色」「綿交、濃茶」「綿織擬色藍色」の証紙を追加した。
西陣織物の検査を励行するには、綿密なる細則を必要とするが、之を制定した様子はない。此点から見て、前記橋本翁の談話が真実となつて現れて来る事は避けられなかつたし、又最初から証紙を売る事ばかり考えて、織物検査を励行するなど考えなかつたのであれば、明治十四年を待たずして、一人の検査を申出るものもなく、会所の機能が有名無実となるのは当然であつた。
第七節 同会所員に対する違約罰則
一、違約金は製品検査を受けない者、証紙を貼用しない織物を売買する者に対し、売却高の全額を織主から会所へ出さしめる。
二、京都府の免許鑑札を所持せないで、西陣織物の販売する者があれば京都府庁へ上申する。
三、違約者を見聞した者は会所へ報告すべし。之れは密告の義務を負わしめたものである。
京都府へ上申すると云つても、御奉行様白洲の一言で入牢が決まる時代でないから、利目が無い。
密告も役員から一般織屋、仲買商押なべて違約しては効果が無い。又違約金を科しても徴収の方法がない。
鑑札の下渡しは、織屋及仲買商に対する西陣織物会所強制加入の手段でもあり、営業権に対する資格でもある。所が京都府の下級機関上京区役所(後述)は、地方税を納付すれば、何業に限らず営業免許鑑札を下附したから、新規開業の織物業者は、京都府勧業課発兌の免許鑑札を受けず共織屋を始めることができて、織物会所と関係なく自由に製造販売し得ることになり、京都府内部機関の不統一も会所の運営を無能力にした。
第八節 西陣織物会所の経理
同会所の収入 同会所規則第八条「手数料は会所に於て毎月二十五日限り計算取立其金高十分の二を会所の入費に備え残る八分は織工引立資本金として備置漸次盛大ならしむるの方法を設くるに備う」と規定した。其手数料とは証紙一枚金壱銭の収入である。其他に違約金の収入が規定せられてあるが、之れは一銭の収入も無い事は明瞭である。故に此会所は証紙の売上げによる外収入の根拠が無い。
全西陣織屋の製品全点数に証紙が確実正直に貼付せられたならば、証紙の発兌数と生産数量が一致し、収入額も自ら明瞭に算出できる理窟である。
右証紙の交付は京都府の睨みの利いた、明治十一年度は金壱万〇百九十八円三十一銭に達し、之を生産数量に換算すれば、壱百万九千八百三十一点となり、生産統計表に比較すると、大体正確に近い数となるから、全西陣織業が殆ど漏なく、製品検査を受けた事になり、好成績であつた。
次に明治十二年の生産数量は、同織物会所記録により算出すると、壱百六万四千八百二十四点となる、之に対する証紙収入は金壱万六百四十八円二十四銭となることは自明の理であるが、恐らくは、此年度中は検査を受け、証紙を貼付した者は大いに減じたであろうと思われる。
明治十三年度の西陣織物は、過去に無い好況を呈したが、織物会所の収入は殆ど無くなり、明治十四年一月槇村知事転任と共に、一枚の証紙も出なくなつた。
同織物会所支出経費 同織物会所規則第八条は証紙収入の十分の二を、会所入費に使用する旨規定して居る。明治十一年度の会所経費を右により算出すると、金二千三十九円となり、人件費、事務費、家屋費、会議費、交際費、京都博覧会協力費、河原町織工場負担費を右金額で賄うとすれば、資力の薄い者では役員が勤まらない。尚此所に注意を要することは証紙代は織屋のみの負担であつて仲買商側は何等の支出責任が無く然も三倍の数の役員が選任せられた事である。
証紙収入の内織工引立金として積立てるべきものは、明治十一年度分金八千五十九円となる。此金は総て、前章西陣物産会社時代の借入金の償却に充当し、毎月京都府に上納返戻した。此年内の支払額元利合計金七千八十六円〇三銭四厘であつた。
翌年も引続き上納して、明治十四年三月迄に上納返還の成績は後節で詳細記述する。故に規定せられた織工引立には右証紙収納金は一銭も使用せられて居ない。悉く京都府に吸上げられたのであつた。明治十二年同十三年も、会所規則に遵い、検査を励行すれば、前記上納金を完済して、尚多額の右引立金が蓄積せられた理窟であるが、窮極の責任は織屋の自覚心が足らず、若干仲買商に依存した他力根性にあるものと謂われても致方が無い。
第九節 西陣織物会所(事務所、織物検査所)
京都府令は、上京区智恵光院一条上ル橘町に、織物会所を開設すると謂つて、組合とか団体とかを創設するとは謂つて居ないので。西陣織物会所規則を執行する、京都府の下働き機関とも解せられる。一面会員の総会を開催し経理を報告し、役員を選挙するのであるから、之れからすれば西陣織物業者と同仲買商との団体に相違ない。此怪物の正体を決定するのに頭を悩ますより、吾等は之れも西陣織物業の団体即ち組合の一種と決めて本章を編纂したのである。故に斯の橘町七番戸ノ内一号元大観楼は同織物会所の事務所であり織物の検査所と、謂わねばならぬ。
是大観楼は本書編纂の時は京都市設橘児童小公園となって旧時の建物は無い。同会所当時は西陣最大の席貸料亭で、広い見事な庭園を構えた、木造二階建、総ゆる、多人数の集会に使用せられたが、経営困難休業の際を幸に、此会所に借入れられたものであった。此建物は明治十八年迄次の西陣織物業組合も使用した。
第十節 西陣織物会所の功績
一、日本産業界最初の製品検査と証紙の発行
生産者の団体が、其団体員の生産品の正否を検査鑑別して、其結果を証明する為、一定形容の印章を以て表示し、或は生産者の氏名迄も明示せしめたのは、我国に於て西陣が最初である。
此発案者が、京都府顧問山本覚馬か、或は明石博高か槇村知事自らであるかは、判然せないが誠に賞讃に価する。其れは爾後全国総ゆる産業組合に範を示し、九十年来同工業屈曲の検査と証紙の発行或は証印によつて、生産品の信用を保持し、他面組合団体の財源たらしめる看板事業となった。
二、西陣織物の信用回復と生産額の上昇
イ、明治十年より同十五年迄の西陣織物生産及設備並織物業者数表
(一)統計表
| 年 度 | 生産数量 | 生産金額 | 設備織機台数 | 織物業者数 |
| 明治十年 | 七、四八六、八三七円 | 七、八三九台 | 四、八一二人(戸) | |
| 同十一年 | 一、〇一九、八三一点 | 九、六六三、〇一七円 | 八、〇八一台 | 四、九九五人(戸) |
| 同十二年 | 一、〇六四、八二一点 | 一〇、一九四、九六四円 | 八、三三七台 | 五、〇一九人(戸) |
| 同十三年 | 一三、〇三一、三六三円 | 九、二四四台 | 五、二七一人(戸) | |
| 同十四年 | 一〇、八九九、一〇九円 | 八、七〇九台 | 五、〇一三人(戸) | |
| 同十五年 | 七、六三九、五〇二円 | 七、九四三台 | 四、〇三三人(戸) |
[略説]
- 生産数量は明治十一年及同十二年度の点数を辛うじて算出し得た、大体実数に近いものと思う。
- 生産金額は明治十三年度は明治初年以来の最高額である。翌年から急降下した、理由は後述する。
- 設備機台数は、手織機のみで近年使用し出した、バッタン、ハジキ框も区別していない、機合計数は生産額に比例して上下して居る。
- 織物業者数は自前、賃業両者の合計である。好景気に向うと先ず賃業者から増加し始めるのが、西陣機業の生態である、本表の時代は賃業者数は自前業者の倍であると見れば間違いなかろう。
ロ、西陣織物の信用回復
京都府指令第二百三十号布達は西陣織物業者に対し訓戒を与え、粗製品濫造を矯正し、品質検査を励行して、正否を証明したから、西陣織物の信用が高まった。前述の通り厳正なる検査を行つたとは思えぬが、西陣織屋の精神面に反省を与え、粗製品の防止と進んで品質の改善に貢献したことは間違いなかつた。
明治十年及同十一年は全織物の検査を受け証紙を貼付した事実を見れば、目に余る不良粗悪品の製造を差控えるのは当然である。又仲買商を役員中に入れて検査の権限を与えた事も良策であつて、織屋が仲買商連中に不良品屋の定評を受けたら生命取りであるから自粛自戒することになつた。而て此傾向を仲買商が噂でなくして、直接実見するから信用回復も早く、自然仮需要も活発になつて来たものであつた。
西陣織物会所設立の効果は頗る顕著なものがあり、京都府知事に対し大に感謝すべきである。
ハ、生産額の上昇
西陣織物生産額は前項統計表の示す通り上昇好成績である。織物会所が検査に着手したのが明治十年十一月一日からであつて翌十一年の生産額は前年度金額より、二百二十万円の巨額を増加し、其翌十二年度は更に金五十余万円の増加を示した。明治十三年度の生産金額は明治九年度の倍額を尚超過するに至つた。尤も明治十四年以後は追年惨胆たる不況が襲来したが、一時的にもせよ好景気を得たことは、織物会所の製品検査による功績も大きな原因である。とは謂え薬の利き目が早過ぎ効験が煇かすぎたには国内の経済情勢が手伝つたからでもあつた。
二、西陣織物生産額上昇期の国内経済情勢悪化
明治十年二月十五日西郷隆盛を首領とする薩摩隼人が九州に蜂起して反乱を起した。所謂西南戦争である。同年九月二十四日叛軍鎮定に至る迄七ヵ月全国から軍隊を動員して戦地に輸送した。
明治維新改革後政府財政基礎も定まらぬ時、莫大な戦争資材調達の為、政府は不換紙幣を発行して、其支払いに充当したから、物価は漸次昂騰を来すに至り、悪性インフレイションの徴候が現れた。
仲買商は西陣織物の先高を予想して、織物業者に対し注文買付を争うたから、生産数量も増加し、販売価格も騰貴し前表の如き著しい生産増額を示したものであつた。
要之西南戦争による経済恐慌が西陣織物産額の上昇を現わしたのであるが、何と云つても信用は商買の基礎であるから、西陣織物の粗製濫造品が減少した事実を、仲買商が認めなかつたら、安心して取引せなかつたであろう。されば矢張り信用回復による生産額の上昇に対する西陣織物会所の功績は大に認めねばなるまい。
明治初年西陣物産会社借入金三万二千両、京都府へ上納金
イ、上納簿保存―上納額 前章西陣物産会社が京都府より勧業資金の内から借入れた、合計金三万二千両の内、未納残金元利を、西陣織物会所が、前記証紙売立金の内、織工引立金から月々返納した。其記録は「明治十年七月起、上納簿」に明細記帳し保存せられている。
明治十一年九月から同十四年三月迄月々滞りなく、宜くぞ納めたものである。茲に上納簿全記を掲げたいのであるが、そうもならぬから要点のみを記述する。
上 納 簿
元西陣物産会社拝借金残り高
明治十年十二月改
一金三百九拾円九拾五銭
但明治八年十二月別借元高利子月六朱
右者明治八年十二月ヨリ明治拾拾年拾二月中廿五ヶ月分
利子金五拾八円六拾四銭弐厘五毛也
元利合金四百四拾九円五拾九銭弐厘五毛也
此別口拝借口
明治十一年一月ヨリ無利足約定之事
右同断拝借金残り高
一金弐万四千六拾四円七銭三厘八毛 元高
但元金三万弐千円明治拾拾年三月迄機別金差引残り金
「註」以下年額合計要約記載
項目 金額 明治十一年中納高 金四千二百三十一円七十五銭三厘三毛 元金入 金弐千八百五十四円弐拾八銭七毛 利子 明治十二年中納高 金四千九百六十五円八拾三銭三厘 元金入 金壱千弐百六拾円五拾壱銭九厘 利子 明治十三年中納高 金四千九百六拾九円四拾六銭五厘 元金入 金九百拾五円三拾六銭 利子 明治十四年中納高 金九百六拾弐円拾三銭八厘 元金入 金百七拾弐円五拾六銭壱厘 利子 元利引金八千九百三拾四円八拾八銭五厘残り高
外ニ別拝借分
一金三百九拾円九拾五銭
右残り高
合計金九千三百弐拾五円八拾三銭五厘
明治十四年四月改
一金九千三百弐拾五円八拾三銭五厘也
右拝借金残額自今十ヶ年賦上納願済
右ハ明治十四年後半季分年賦並ニ端金上納
上納簿の記載は是迄で終つている。
ロ、京都府より借入金返済上納結末 前項上納簿によれば明治十四年末の借入金残額は金八千八百三十五円也となる。

京都府へ西陣から納付した元利合計は金弐万八百六拾三円七拾四銭也であるから、利息をも元金に繰入れた場合は残金は三千六百四拾八円九拾弐銭六厘三毛となるから、遂には八千八百三十五円を借倒したのだとの非難は酷である。
利子は年六朱であるが此時代勧業資金の性質上利息は免除せられてよいと思われる。
明治十五年以降残金を幾許上納したか不明であるが、恐らくは納付しては居ないようである。同十五年一月七日写真の督促状が発せられ現に保存せられて居る。
此通知によつて直ちに納付したか、どうかは記録が無い。
京都府織物伝習所増築、織殿名称復活と西陣の啓発
前章第八節第八に記述した、河原町二条下ル、角倉屋敷跡に、京都府勧業課が開設した、織物伝習所は、全国各地から伝習生の入所申込相次いで好評嘖々。特に明治天皇の行幸を辱うし、佐倉、井上が仏国より持帰つた織機実演を天覧に供して嘉賞あり。成績頗る良好なるで、新に織工場を増築して明治十一年三月竣工し。平安京の古称を復活して、伝習所を京都府織殿と改称した。
当時織殿の機械設備は、
輸入紋揚器一、糸繰機二、緯巻機十二、綾織機十二、平織機二十三、縫取機八、計総設備九十五台
伝習生、男子二十三人、女子十三人
雇員織工、男子二十四人、女子二十八人
全国唯一無比の大規模官設模範工場と称せられた。
元来京都府織物伝習所の設置は、西陣産業の近代化即ち西洋先進国の機械化を目的とし、之を指導開発せんとしたものであるが故に、以前の西陣物産会社から引続いて、西陣各社肝煎等が交代世話方を命ぜられ。是れにより西陣織屋が、産業の機械化及能率増進の智識を啓発せられた。
明治十五年林源助等が設立した西陣共進織物会社が、中立売通智恵光院東入元京都府窮民授産所跡に、蒸気動力による織機を据付けて、苦心経営した事も、織殿からの教育によるものであつた。
織殿は官営により形式にこだわり経費の支出が放漫となり、収支つぐなわぬ為、明治十四年二月、中井三郎兵衛、磯野小右衛門等の申請により、設備一切を払下げ民営としたので西陣織物会所との関係も無くなり、其際織殿教師佐倉常七は佐々木清七工場へ、同井上伊兵衛は伊達弥助工場に招聘せられた。
国産ジャガード紋織機の普及
イ、佐倉常七等輸入ジャガード紋織機の模造完成 国産ジャガード紋織機の完成は西陣織物会所の功績ではない。会所役員たる取締役の大部分が仲買商であつて、西陣織物仲買商は取引策には力を入れても、生産設備育成には外方を向く特質があるから、西陣織物会所が積極的に西陣機業の育成事業を行う事などあり得なかつた。

元来西陣産業革新の目的はジャガード機即空引きの要らぬ機械に夢があつた。故に京都府伝習所の開設も織殿への発展も、ジャガード機の経糸自動開口装置に魅力があつたからである。而て此会所時代に其の模造品が完成し、之れを使用するに至つて西陣の産業機械化の黎明が来たのであるから、事蹟の一つとして記述してよいと思う。
明治九年春、福井県から伝習生として入所した、村野文治郎が、川端通二条下ル差物大工、荒木小平方に寄宿中、荒木に対し、日本でジャガード機の模造品を拵える事が織物産業上の最大急務である、と話したのが発端であつた。
荒木は此れを聞いて、試作を希望したものの、現品に就ての智識が無いので、京都府に申請して、伝習所の雇員にして貰い、日々機械の運転操作及構造を研究し、傍ら製作を試みた。機械中木製の部分は自身多年の熟練で、同型品を製作し得たが、金属部分品は鑿と鉋と曲尺のみの差物職の手に負へるものでなく。当時の精密工業であるから川端通りの鋤鍬造りの鍛冶屋では物にならず、工作に頓挫を来した。之を見た村野は福井県庁の山岡次郎に照会して、福井市の機械工場に見本を示して、製造せしめたものを以て、再三失敗の後漸く明治十年九月初て、ジャガード機二百の口及び百の口各壱台を完成し、遂に国産ジャガード紋織機第一号が登場した。
試験の結果は輸入品に劣らぬ性能を認められたので、荒木は進んで研究改善に努力し、明治十一年春、京都博覧会に出品褒賞を授与せられた。
当時ジャガード機の輸入は困難であり、従つて、国内では高価でもあつたが、国産機が誕生するに及んで、安価に入手出来るようになつた。
我国織物産業発達の根本の開拓者は、佐倉、井上の渡仏の功績と荒木の国産ジャガードの模造成功にある。此三人の晩年は必ずしも幸運でなかつた。日本政府も京都府も市も此人々を褒賞し、功績を表彰した事を聞かない。
ロ、西陣に於けるジャガード紋織機の普及 ジャガード紋織機は、此会所時代には全々普及せなかつた。明治十一年佐々木清七が、国産ジャガード機第一号を購入(現西陣織物館蔵)。同十四年国産ジャガード三百の口を、自家工場に使用し、空引高機より遙かに、優秀性のある事を一般に知らしめる事に努力した為、ぼつぼつ使用し始めた程度である。
明治六年佐倉常七等から、持帰つた織機の内、バッタン筬框の装置は、西陣従来の機大工でも製作し得たので、織物伝習所の織機を模して製作し、改造設備も容易であつて安価に出来るから、早く普及した。ジャガード機は、設備に相当の資金を要するので、佐々木清七級の資力ある者は別として、弱少業者が大部分を占める西陣では、即時に之を購入し設備するだけの資力が無い。故に西陣織物業者が旧套を脱し得ないのてなくして、資力が早急に切替えする事を拒むのである。然し西陣にも西陣なりに産業革命の波が寄せて来る。機械生産によれば、空引機では対抗し得ない現実が迫つて来るに従い、ジャガード機普及の速度を加え、遂に西陣から空引機の姿が消滅したのは此時から未だ十数年先のであつた。
第十一節 西陣織物会所の解消
明治十四年九月から、同十五年一月にかけて、織物会所取締役中、仲買商は全員、病気と称して退役し、後任者を選任せなかつた。
仲買商は既に織物検査も、証紙貼用も実行せなくなつたのであるから、織物会所存在の意義が無く、仲買商が役員たる必要性を認めないとの考えからであると謂う訳で、無理の無い事である。故に明治十五年一月には、会所の役員組織が崩壊したのであつて、此時から形式上織物会所は機能を停止した。
然し明治十四年十二月には、京都府へ年賦上納金をして居るし、織屋である取締役は退職して居なく、京都府は依然西陣織物会所の解消を認めて居なかつた。従つて会所の事務所たる旧大観楼は其儘使用して看板も外されなかつたと言い。
第四章 京都西陣織物業組合
証紙発兌による収入の残金の有無は不明である。
西陣織物業者が、新に強力な、全西陣統合団体の結成を、強く要望して行動した件は次章に記述する。
要するに西陣織物会所は、次章の西陣織物業組合の設立と共に解消し、大観楼事務所も、又金銭その他の什器も共に新組合に引継いだ。
西陣織物会所は、特別に解散の披露等を行わず、謂うなら風の如く散つたのである。然し其事蹟は偉大であつた。
第一節 西陣織物業組合設立に至る迄の情勢
明治十三年より同二十三年迄の西陣織物生産及設備並織物業者数表
一、統計表
| 年度 | 生産数量 | 生産金額 | 設備織機台数 | 織物業者数 |
| 明治十三年 | 一三、〇三一、三六三円 | 九、二四四台 | 五、二七一人(戸) | |
| 同十四年 | 一〇、八九九、一〇九円 | 八、七〇九台 | 五、〇一三人(戸) | |
| 同十五年 | 七、六三九、五〇二円 | 七、九四三台 | 四、〇三三人(戸) | |
| 同十六年 | 四、八〇一、九三四円 | 六、九九六台 | 三、一六四人(戸) | |
| 同十七年 | 四、八六六、九三七円 | 三、四六七台 | 一、七四九人(戸) | |
| 同十八年 | 二、三一八、八四二円 | 三、三三六台 | 一、六四八人(戸) | |
| 同十九年 | 七一〇、四五〇点 | 二、八九七、八八七円 | 三、六一五台 | 一、六二五人(戸) |
| 同二十年 | 一、〇四〇、五一一点 | 四、六九七、六二一円 | 五、七四七台 | 二、八六八人(戸) |
| 同二十一年 | 一、一九三、一九四点 | 四、〇七六、一三〇円 | 五、七七三台 | 二、一五八人(戸) |
| 同二十二年 | 一、二四四、五八八点 | 四、〇一六、〇四八円 | 五、九一二台 | 二、一七五人(戸) |
| 同二十三年 | 一、五八六、五五九点 | 五、五二六、四七七円 | 五、六三一台 | 二、〇七二人(戸) |
二、略説
一、前章に明治十五年迄の統計表を掲げたが、都合上再録する。
一、生産数量中昭和十八年以前の生産点数を表わしたものを発見しない。
一、生産金額は明治十八年の生産額が明治十三年の数の五分の一に減少して居る。不況の擂鉢底に当る。
一、織物業者数は賃業を含めた数であるから、明治十七、十八、十九年の同業者減少数は不況を物語るにしても極端過ぎる現象である。
一、設備機台数は手織機のみの表である。蒸気力による動力織機も設備せられて居たが極少数である。此時代はジャガード機を使用する者は稀であるから、紋織紋襦子は空引機である。
西陣織物史上最大の不景気と、其原因及新製品の研究熱 明治十年以降、西陣織物の景気が上昇して、秋眉を開いたのも束の間。同十五年からの景気は、地滑りにも似た暴落であつて、明治十八年は、明治、大正年代を通じて最悪の不況であつた。 斯の不景気は、西陣のみでなく、全国経済界の恐慌によるものであつて、西南戦争後悪性インフレイションが、遂に之を、瀕死の症状に、陥らしめたものである。 西南戦争後、政府の、財政政策が根本的に誤まつた。例えば輸入超過による、正貨の流出から来る、金利の昂騰を阻止する為には、産業の振興より外なしとして、国内の事業熱を煽り、其為に要する資金の供給に対し、紙幣を無制限に濫発し、国庫準備金も放出したから、経済界の不安が遂に爆発して、紙幣の価値は半減し、公債は下落し、銀行の倒産が続出した。京都市経済界も例外であろう筈なく、深刻な打撃を被り、遂には西陣織物仲買商の取引停止、分産、倒産、閉店などが相次いで生じた。例により、其皺寄せは悉く、西陣織物業に被さり、売渡先は潰れる、製品は捌けぬとなつて、日頃蓄財資力なき西陣の小企業者は、忽ちに息の根を止められるに至つた。 斯様な悲惨な、西陣織業の衰弱期にあつても、有名、有力織物業者は、一歩も退かなかつた。永井喜七、神供源助、小谷利兵衛、服部六左衛門、永尾徳兵衛、吉田音吉、長谷川李次郎、佐々木清七、伊達弥助、鳥居喜兵衛等は洋式機械の研究、時代の変遷による需要に適合する製品の考案、綿ネル織物の研究等、着々成功を齎して、西陣産業の復興に専念した。
京都西陣織物八社聯合協議会 前章西陣織物会所取締役中の仲買商は、明治十五年一月二十四日全員病気と称して悉く退役した。原因は、有史以来の不景気襲来によるものであつて、後任者選任どころの騒ぎではなかつた。織物会所は設立の根本たる役員組織が崩壊し、事実上解散したも同様であるが、織屋は全西陣統合の団体として同会所存続の意向を持ち、旧大観楼の組合事務所(会館)は、織物会所の名と共に存続せしめて居た。又織屋方の取締役は退役して居なく、八社の肝煎は、天鵞絨社の吉田善助が代表して、西陣織物会所の名称で織屋のみの新団体結成を企図し、八社肝煎が集会協議の結果、京都西陣織物八社聯合盟約協議会綱領を作成した。此協議会を開催して、綱領案の印刷が出来たのは、翌十六年の三、四月頃かと思われる。 右綱領は即ち、新西陣織物会規則とする積りのものであつて、全文百二十カ条に及び、頗る新珍語を以て表現して居る。例えば、右会所役員の長を管長、其他を主幹と云い、八社の肝煎は新しく社長、副社長と呼ぶ。即紋織社長となる如き改革を為して居て、大いに興味をそそるものがある。左に綱領の緒言と第一編大意と題するものを記載して全般を伺つて貰うことにする。尤も此計画は、次の第四項の京都府達により、不発に終つた。
京都西陣織物八社聯合協議会案
緒言
物産ハ国家ノ基礎方今ノ急務ナリ若シ其衰頽スレバ何ヲ以テカ民財国貨共ニ富強ヲ致サン哉夫レ我カ京都ノ如キ古来連綿西陣織物ノ一大物産有リ以為レバ、車駕東行ヨリ以来京都人民猶依然トシテ栄富ヲ保スルガ如キ西陣物産ノ有レハナリ而モ我日本ノ域内ニシテ物産ノ名誉ハ独リ我ガ西陣織物ニ止マルカ然ルニ大政維新ノ後日ニ月ニ蕃殖シ稍濫粗ノ物品ヲ製織シ奸ヲ恣ニシ一己ノ利ヲ貪リ織産工業ノ情質ヲ一変シ物産ノ盛路ヲ塞ケリ該弊害ヲ洗浄シ流転ヲ担保セン為メ夙ニ織物会所ヲ設ケ聯合一般盟約以テ検査取締ノ方法ヲ施行セシニ方法ノ不充分ナル力将タ時勢ノ然ラシムル処カ殆ト解網ノ弊徴ヲ顕出セリ方今ノ有志者夫レ之ヲ慨セザラン哉果シテ府庁長官ノ親シク懇諭アルニ相遇フテ甫メテ此弊習ヲ今日ニ矯正セスンハ非サルヿヲ覚知シ既ニ己ニ織工八社聯合会ヲ開キ協同商議シテー大沿革以テ良結果ヲ為サント欲ス請フ吾人志操ヲ之ニ傾ケ強テ一己ノ為メニ公衆ノ栄富ヲ遮リ妄リニ小利ニ惑フヿヲ息メテ栄富ヲ共等ニ悠久ニ維持センヿヲ楽フト云爾。
京都西陣織物八社聯合協議会案
第一編
大意 三章
第一章 我カ西陣織工八社聯合協力ヲ以テ大ニ工ヲ起シ業ヲ振ヒ物産ヲ拡充シ地方ヲ繁栄ナラシメ相互ノ栄富ヲ共保セントス
第二章 我カ聯合織工栄富ヲ共保セン為メ盟約ヲ定メ規程ヲ設ケ其精功美善ハ以テ之ヲ顕挙シ我ヵ聯合社会ノ亀鑑ニ備ヘ其放惰奸醜ハ以テ之ヲ屏収シ我カ聯合社会ノ業務風俗ヲ矯正ス
第三章 我が聯合社会ニ於ケルモ流転盛衰ニ於テハ克ク一人ノ力ヲ以テ衛保スルニ止ル可カラサルヿヲ覚知ス然リ而シテ之ニ一大協力ヲ団結シ巨万ノ資本金ヲ蓄積シ之ヲ興業ノ基立ニ充テ之レヲ共救ノ資ニ備フ。
京都府布達第十九号
イ、同布達全文
明治十六年四月十日京都府布達第十九号
商工業者組合設立ノ件
上下京区内ニ住居又ハ寄留シ別紙種目ノ商工業ヲ営ムモノハ申合セ左ノ各項ニ随ヒ組合ヲ設ケ便宜規約ヲ定メ本年六月三十日限リ開申当庁ノ認可ヲ受クベシ
爾後之ヲ変換加除スルトキハ其都度開申認可ヲ受クヘシ
此旨上下京区一般ヘ布達候事
但組合名称及ビ役員ノ変換組合人員増減ニ限リ名称並ニ役員ノ変換ハ其都度人員ノ増減ハ毎年一月中前年分届出ベシ一、組合名称
一、組合役員並ニ選挙法及其職務権限
一、組合役員及組合員姓名居所
一、組合ニ係ル経費収支方法
一、組合集議方法別紙
一、商業
西陣織物商、丹後縮緬類、関東織物商(瓦商、雇入請宿旅館等四十九種商を列挙す)一、工業
織物工業、藍染工業(以下大工、左官、画工迄二十五種工ヲ列記)
ロ、同布達に基く西陣織物業者組合設立の動向と、組合設立発起人 京都府は初めて布達公文に「組合」と云う名称を使用して、各業者団体の設立を命じたことは、賞讃に価するものであるが、京都市商工業の実情をば顧慮することなく、机上の短見によつて、唯一片の御布令で、一斉に、組合が創立せられるものと思つたのは間違いであつた。 此時代、大工、屋根屋、手伝職人に、組合を結成せよと謂つても容易に出来るものでなく、画家を職工扱いにしても承知するものではない。僅か二ヵ月の間に、組合を設立せよと命じても、組合其ものの必要を感じて居ないのであるから、設立されよう筈がない。故に同年六月二十七日、「京都府達甲第六十三号、商工業組合設立延期の件」により「本年七月三十一日迄延期」の旨を達したが、其れでも中々まとまらぬので。翌十七年九月三十日甲第九十四号京都府布達は、前記京都府布達第十九号により設立した組合へは、其同業者は必ず加入すべき旨の、強制組合加入を命令し、換言せば同組合の特権を認めた。其れでも尚組合を創立する商工業者は極く少数であつて、右布達の成果は上らなかつた。 其中に在つて、西陣織物業者は組合の重要性を認識し、過去の経験もあり、組合に対する智識も、他の業者より遙かに進歩して居て、既に前記八社協議会綱領の如き、難文規約の草案迄作成して居たことであり、全西陣業者中、新組合結成に異議を唱える者は無かつた。 明治十六年七月、山田泰造、時岡利七、鳥居喜兵衛、小林伊之助、大木長七郎等が、京都府勧業課から、前項布達による組合設立勧奨を受け、即時西陣織物同業組合を設立したと、伝えられている。此組合の規約も、設立経緯も記録に残されていない。唯旧大観楼を事務所として使用し、集合協議した事のみが残されて居るのは、此組合を設立したと云つても、翌年の十一月には農商務省令同業組合準則が公布せられたから、直ちに組合規則を改正し、同時に組合名も変更して、殆ど新組合設立と同様の姿となつたものであると思われる。唯茲に特筆すべきは前記発起人中の山田泰蔵は三十九歳、大木長七郎、三十五歳、時岡利七、二十九歳等、西陣企業界にも、壮年気鋭の者が此組合設立に於て頭角を現して来たことである。
農商務省令第三十七号同業組合準則に基く京都府布達
イ、省令同業組合準則の沿革
明治三年頃より、品川弥二郎、平田東助等が、フランスの産業組合を調査研究し、明治十五年には独逸に於ける、産業組合の研究も遂げるに至り、此制度を我国にも採用育成する事が必要であると共に、之に関する法律を制定し、早急に公布すべきである旨を、政府に建言力説した。 中央政府も亦、産業開発上、同業者団体結成の必要性を認めるに至り、先ず同業組合準則を発布して、其原則を定め、各地方庁を指導した次第であつた。
ロ、農商務省令同業組合準則
明治十七年十一月農商務省令第三十七号
同業組合準則
同業者組合ヲ結ビ規約ヲ定メ営業上福利ヲ増進シ濫悪ノ弊害ヲ矯正スルヲ図ル者不勘候処往々其目的ヲ達スルコト能ハサル趣ニ付今般同業組合準則相定候条向後組合ヲ設ケ規約ヲ作り認可ヲ請フ者アルトキハ此準則ニ基ツキ可取扱此旨相達候事
準則本文は、次に記する、京都府布達本文と、一句一語の相違も無いから、省略する。
ハ、京都府布達同業組合準則 明治十八年四月十三日京都府布達第五十号を以て、同業組合準則を発布した。
同業組合準則左ノ通相定候条此旨布達候事
但明治十六年四月当庁甲第十九号布達上下京区一般ニ基ツキ組合ノ認可ヲ受ケシ分ニテ此準則ニ抵触スルモノハ来ル六月三十日限更正又ハ追加規約ヲ作リ更ニ開申認可ヲ請フヘシ同業組合準則
第一条 農工商ノ業ニ従事スル者ニシテ同業者或ハ其営業上ノ利害ヲ共ニスル者組合ヲ設ケントスルトキハ適宜ニ地区ヲ定メ其地区内同業者四分ノ三以上ノ同意ヲ以て規約ヲ作リ当庁ノ認可ヲ請フヘシ
第二条 同業組合ハ同盟中営業上ノ弊害ヲ矯メ其利益ヲ図ルヲ以テ目的ト為スヘシ
第三条 同業組合ノ規約ニ掲クヘキ事項ハ左ノ如シ
第一項 組合ヲ組織スル業名及組合ノ名称
第二項 組合ノ地区及事務所ノ位置
第三項 目的及方法
第四項 役員ノ選挙法及権限
第五項 会議ニ関スル規程
第六項 加入者及退去者ニ関スル規程
第七項 費用ノ徴収及賦課法
第八項 違約者処分ノ方法
右ノ外組合ニ於テ必要トナス事項第四条 組合ノ設ケアル地区内ニ於テ組合員ト同業ヲ営ム者ハ其組合ニ加入スヘシ
但事業ノ規模及趣向ヲ異ニスルカ為メ加盟シ難キカ或ハ加盟ヲ拒ムヘキ事由アルトキハ当庁ヘ申出其認定ヲ請フヘシ第五条 同業組合ハ同業組合ノ資格ヲ以テ営利事業ヲ為スコトヲ得ス
第六条 同業組合ハ其一年間ニ経費予算ヲ立テ後クモ三ケ月前ニ当庁ニ報告スヘシ
第七条 同業組合ハ総テ其事蹟及費用決算表ヲ毎年一月中当庁ニ報告スヘシ
第八条 同業組合役員ノ苗名及住所ハ当庁ヘ報告スヘシ、其変換アル時モ亦同シ
第九条 規約ヲ改正スルトキハ更ニ当庁ノ認可ヲ請フヘシ
第十条 分立又ハ合併スル時ハ更ニ規約ヲ作リ当庁ノ認可ヲ請フヘシ
第十一条 同業組合ニ於テ聯合会ヲ設ケ其規約ヲ作ルトキハ当庁ノ認可ヲ請フヘシ 但其聯合他府県ニ渉ルトキハ開会地管轄庁ヲ経由シテ農商務省ノ認可ヲ請フヘシ
二、京都府布達第十九号と省令第三十七号との矛盾調整
前記農商務省令の発布が、明治十七年十一月であつて、京都府布達同業組合準則の公布が、翌年四月であるから、其間に五カ月を要して居る。然も省令と京都府布達は全文、そつくり同一である。如何に官僚式、繁文縟礼時代でも、余りにも悠長すぎる。其理由は、京都府布達第十九号と此農商務省令との、理想と現実の矛盾を、調整せねばならなかつたに因るものであると思われる。
京都府布達は遮二無二、組合を結成せしめんとする強権命令であつた。省令は之と反対に地区内同業者四分ノ三の同意を要する。即ち仏独の産業組合の歴史と、組合設立の精神を参酌し、民主的、自由思想を基調として居る。京都府布達実施の実情から見れば、強制組合設立命令を出しても中々設立出来ぬものが、同業者四分ノ三の同意を得ねば、設立を認められないような組合が、出来よう筈が無いと思われるが、省令同業組合準則は、当時としては、民衆の意見を尊重した進歩的な規定であつて、即ちイデオロギーが新しいと謂つた具合である。兎も角既に省令が公布せられたのであるから京都府布達第十九号の強制組合設立命令は、其効力を失つたのである。故に再三期日を延期して迄組合の設立を奨励した京都府は鼻先を折られた形となり、役所の威厳を損ずる事夥しく、此間の調整に時日を要したものと思われる。推理を逞しくするようであるが、そうとしか思われないし、事実、京都府布達準則は、曩の布達第十九号を廃止せぬ儘で公布した如き体裁にして居る。
明治以来、西陣織物業者は会社と称し、会所と称して、産業団体を結成した。其れは京都府知事様の御声がかりにより仰せ出されたものであつた、とは云え、其れにより西陣機業の指導者達も一般織物業者も、組合結成に対する、訓練は出来ている。殊に政府の法律を基本としての組合設立とあれば、頗る有難いものと考え、従来の組合内部機構の組織に立脚して、同業者四分ノ三の同意を求める事は至極容易であつた。



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