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西陣織物同業組合沿革史(1)

西陣織物同業組合沿革史成る。

榮光ある千古の傳統と由緒とに培はれたる西陣が、同業組合の名に於て大同團結したる明治三十一年より、輝く凱歌をあけて解散したる昭和十三年に至る三聖代四十有一年の事歴を編述するは、これを既往に温ねて先人の功業に謝し、これを後尾に傳へて、將來の指針たらしむべく、本組合の解散記念として最も有意義なる事業たり。

即ち組合解散後清算人會の意を承けてこれが編纂を志し、多年操觚者として本組合に最も馴染み深き大槻喬氏に嘱したりしが、春風秋雨四十有一の短からざる歳月に針し、諸種の都合上甚しく編纂の時日及び紙数の制限を爲したるを以て、單に組合四十年の略譜たるに止まりしは編者と共に洵(まこと)に遺憾とするところなり。

然りと雖も尙編者の熱誠と努力とは、よく縟を省き簡に纏めて要を盡くし、且つ編中隨所に機業報國の烈々たる西陣精神の躍動を見、同業組合は解散するとも、此の精神は永遠に西陣の生命として遺さるべきを確信し、欣喜措く能はざるものあり。

茲に編者の労を謝し、一言を識して以て序と為す。

昭和十四年卯月

小西弁次郎

凡例

一、本書は西陣織物同業組合解散記念として、その存立四十一年間の事歴を略述したものである。

一、編者もとより梭杼の間に生を享けたるものにあらず、たゞ僅かに十有六年を操觚に従ふ中、前後通じて十年を組合に出入し、門前の小僧漸く經文の第一巻を誦し得るのみ。

一、しかも尙編纂の期限と紙数とに著しき制限があり、遺憾ながらこれを古老先輩に叩くの遑を有し得なかつたのである。

一、よつて第一章は主として佐々木信三郎氏の著『西陣史』並に西陣小學校發行『郷土の錦』等に負ふところ多く、第二章以下は資料を組合の書庫に求めたが、此の間四旬を超ゆるを得ず、只お座なりに纏めあけたのみ、組合の期待に背いた罪は甚だ大である。

一、文章は原則として極めて平易なる口語體に據り、編中の氏名は明治以前の分はその敬称を略し、以後はこれを附した。蓋し多くの慣例に従ったのみである。

一、題辭は組合最終の組長長谷川市三氏、序文は最終の理事小西弁次郎氏を煩した。

一 、最後に上記『西陣史』及『郷土の錦』と共に、第二章以下の編纂に封し、公私多端の時間を割愛して各殿の便宜を附與せられた左記諸賢にし、茲に満腔の感謝を捧ぐるものである。

長谷川市三氏
加藤宗三郎氏
小西弁次郎氏
竹村直太郎氏
竹村武夫氏
久井健造氏
馬家原隆人氏
野村信三氏
川端政吉氏
舊西陣織物同業組合職員諸氏
西陣織物工業組合職員諸氏

昭和十四年四月
如意山麓の寓居に於て

編者 大槻 喬識

西陣織物同業組合沿革史

第一章 西陣織物同業組合設立以前の西陣

一、京都に於ける機織の濫觴と西陣の發祥

西陣織物同業組合の誕生は明治三十一年である。それはしかし單にその前年四月を以て發布された重要輸出品同業組合法の附則に準據し、常時既に存立した二三の申合せ團體を改めて法人組織に變更したもので、成るは成るの日に成るにあらす、もとより西陣の淵源は深く且つ遠い。いま西陣織物同業組合沿革史の名のもとに、明治三十一年以降昭和十三年に至る輝く四十有一年の略語を経るに當り、まづ以て組合設立以前の西陣を概説してその第一章に充てた。温古知新の理に従ふと共に、併せて幾多先人の努力と犠牲とに対し、感謝の微意を捧けんが爲めに外ならぬ。

天照皇大神が齋服殿に於て神衣を織りたまふたことは古事記の諭すところであり、天市千魂姫命は天豊岡に蠶を養ひ、天日鷲命、津咋見命はともに楮(こうぞ)より探つて木綿を作り、長白羽命は麻を栽培したまふたことも夫々古書に見えているので、これら各種の繊維による機能の道は遠く神代に開けていたことを知られるのであるが、京都に於ける機織の濫觴は應神天皇の御代に歸化して支那風絹帛の織法を齎らした秦の融通王の率ゐる勝部の族が、山背に移住したに初まり、雄略天皇の御代には、現在の太秦地方は、既に當時に於ける国内有数の機業地として自他共に許すところであつた。

しかして京都の地が我国機業の中枢となつたのは桓武天皇の都を刻めさせられた延暦に發する。即ち平安奠都と共に織部司を移し置かれ皇城の長位、現在の上長者町新町西入附近に東西四十丈南北二十丈の織手町を設け、綾、羅、錦を初め旺んに絹絁布を織り、斯くて平安中期に入るに及んでは、権門を誇る藤原氏の一族を始め、朝臣は挙けて服飾の豪奢を競ひ、京都に於ける染織技術は、絢爛として平安文化の最高峰に位したのである。

然るに源頼朝覇府を鎌倉に開き、兵馬の權は全く東に移つてより、京都の地は著しくその繁盛を奪はれたが、しかも尙優美典雅なる傳統の文化はよく京都に遺され、且つ民業としての京都機能の端は実にこの頃に開かれて、當時貴紳の好尙に投じ盛んに渡来した宋の綾なども大に模倣されたと共に、一面には武家好むところの素朴掬すべき文様をも產出せしめたのであつた。

しかも源平北條相次で潰え室町時代に入るや、將軍金銀閣を造営して奢侈風流に恥溺すれば、諸侯及士分も王朝文化の艶麗を慕ひ、藤原の雅趣は復古して美術工藝、就中織物の發達著しく、所謂名物裂の逸品は相踵いで渡来し、再び平安の盛時に復するの観があつた。

然るに應仁元年足利將軍の相積問題を導火線とする幕府内部の軋轢より、細川勝元、山名宗全兩者の戦端は開始せられ、勝元の東陣、宗全の西陣相對峙して兩者下らざること實に十有一年、京洛は修羅の巷となって荒廃甚だしく、文明九年戦雲は漸くおさまったのであるが、職工の多くは兵燹を避けて地方に流浪し、常時機業地として京都と並び称せられた泉州堺に逃るる者多く、京都の後業は一時全く潰滅に願したのである。 

しかしながらその由緒と傳統とを誇る京都の授業が、かかる一時的戰亂のみによつて滅亡し去るべきわけはなかつた。軈て亂終るや離散した織工も漸く復帰して機業は逐次復興の氣運を迎へ、東陣の跡には新在家が開かれて清白の絹を織出し、羽二重、練貫等を主要織物として次第に發達すれば、一方西陣の跡には大舍人座と称する座が開かれて綾織物が再興し、天文十七年には大舍人座中三十一人は足利家の被官人となつて特別の保護を受け、軍勢の寄宿や賦役負擔の免除といふ特典を与へられ、將軍直属の技術者として甚だしく重きを加へ、茲に搖きなき基礎を築いて、後年世界に於ける有数の機業地たる西陣は、力强き機杼の音と共に發祥したのであつた。當時の西陣とは堀川以西、一條以北を謂ひ、大舍人座自體は足利末期の擾亂に際して全く座としての実効を失ったものの如くであるが、西陣機業そのものは、座の衰退とは無關係の裡によく傳統に生きてその躍動を休めなかつたのである。

間もなく所謂戰國時代に入ったが、織田信長の剛勇の前には、地方に割據した群雄の向背も自ら定まり、一旦廃絶に瀕していた京都の儀式典禮も復興せられ、落魄流離の公卿も相次で歸京して京畿の秩序は急速に回復し、再び文化の中心となつた。

殊に信長の後を承けた豊臣秀吉は皇居の造営を盛んにし、京師の區劃整理を断行して大に王城の地を経営し、桃山城大土功の如きは不羈奔放、まさに天下の耳目を眩惑せしむるに足るべきもので、美術工藝界を刺激啓発したること甚だ多く、茲に桃山式の豪華壯麗を現出し、西陣機業また捲土重來の意氣目ざましく發達して、能楽の流行に伴ふ能衣裳の豪華、茶道の愛好に培はれた名物裂の優雅、等二つの異なる文様は相競つて飛躍跳躍を重ね、或は唐織、或は金欄の創始となり、繻子、緞子が渡來すれば直ちによくこれに倣ひ、他の如何なる機業地も最早その技巧に於て、西陣に追随することは絕對不可能の域に到達したのである。ただ安土桃山時代は甚だ短かく、足利末期の極亂に失はれた座組織は未だ充分なる復興を見ずして、この時代を終ったのであるが、現在の乾隆、西陣、嘉樂、桃園等の諸學區に跨る区域は、機業家軒を並べて機杼の音を競ひ、茲に室町時代に發祥した西陣は、桃山時代に入って全く完成さるるに至ったのであつた。

二、徳川時代の西陣

徳川三百年は泰平であつた。特に西陣が恵まれたことは、従前はただ貴族階級にのみ限定された奢侈風流が、一般民衆にまで深く浸透したことで、永く社會の下積みとなつてゐた町人階級は、この生活様式の奢侈によつてその優越性を誇るの風潮を招来した。勿論かかる長期に互る昌平の裡には、當然奢侈の抑壓、その他種々なる變化はあつたのであるが、これにはまた一面これと全く矛盾する徳川幕府の手厚い保護があつた。萬治二年に於ける唐糸の騰貴に際しては、一旦幕府が唐人より買上け、更めてその儘の價格を以て西陣機業者に拂下けて居り、斯くの如き例は元祿年間にも二度を数へ、また延寶、元祿、享保年間に於ける再三の米價騰貴に際しては、幕府は救助米をも支給したことが文献に遺されている。

さりながら、享保前後より本格化した幕府の殖產獎勵政策は、單り西陣のみを潤ほしたものではなく、地方機業の台頭もまた大に顕著となり、特に桐生の如きは、元文三年西陣の織工彌兵衛、 吉兵衛等によつて紗綾、縮緬その他の製法を傳習して割期的發展を遂け、また享保の大火による西陣の災禍に乗じて、安價第一を標榜する丹後縮緬が著しく京阪に進出し、西陣機業は茲に腹背に脅威を受け、辛ふじて京都へ移入する桐生の紗綾を九千端、丹後の縮緬を三萬六千場に制限した幕府の消極的保護政策によつて一息ついたのである。

かかる保護政策の裏には、些か神史小説の類ではあるが、三代將軍家光の寵を恋にした桂昌院を脱却することが出来ない。桂昌院は大宮北小路町の青物屋の娘として生を享け、九歳にして西陣に織屋奉公に上つたのであるが、後轉向して二條家の下婢となり、寶永三年家光の入洛に際し、二條家より二條城の御湯殿詰に廻されたのが運命の轉機となつたものと伝へられ、江戸の大奥に入つての後も愛郷の念頗る厚く、西陣機業の隆替には常に説き配慮を加へ、西陣製品を大量買上けて機業家を潤ほし、五代綱吉將軍の生母としては、常時の西陣保護政策にしばしば發言したと稱せられる。

斯くて元祿時代百六十餘ヶ町を敷へた西陣は、享保に至つて二百七十ヶ町に及び、享保十五年六月の大火には、織機七千餘中質に三千十二機を失ふの奇禍に遭遇したが、しかも尙よくこの試練に勝へて復興し、いよいよ堅実なる發達を遂げ、西陣機業の中樞たる紋織業者は、高機屋七組の組合を設けて他業者からの轉業を斥け、たとへ高機屋の娘を娶った者と雖も、元来の高機屋にあらざる限りその緣故を以て機業を営むを許さず、次男以下の宿這入りを以てしても、十五歳以下ではこれを認めないといふが如き厳重なる資格制限を勵行し、また生產過剰に陥ることを極力回避して、高機屋の信用を維持すると共に、一面機業家の流浪による西陣織法の地方傳播を警戒し、或は雇人及賃機の争奪を取締る等、統制の強化擴大によつて、よく西陣紋織の聲價維持に邁進したのであつた。

一方千本以西には高機以外の機屋、即ち手織の製織業者が、天鵞絨、熨斗機、練貫、絵絹、琥珀、博多、小帶、選絲羽二重、練絹片色熨斗目、島縮緬、茶宇、新在家熨斗目、丹後島、木綿等、等各種の織物を産出し、斯くて寶曆以後近江縮緬(長濱)が彦根井伊家の権勢に庇護を仰いで京都に進出したり、天明の大火には享保に劣らざる災厄を蒙むつて仲ヶ間定法が紊れたり、次で天保四年、同七年兩度の飢饉、同十三年の所謂天保改革による高級織物にする彈壓、 幕末の風雲急なるところへ、萬延の絲高、慶應の米高、絲高と幾度かの試練にその躍動を脅威されながら、しかもよく洗練されたる千年傳統の技巧は、難に臨んでその本領を失はず、頑として本邦機業界の王座を確保しつ、、明治文化の上に展開するの實力を堅持したのであった。

三、明治中葉までの西陣

山紫水明に剣戟の響が谺(こだま)した幕末、そしてその最後が元治の兵燹であつた。京都にとつては實に應仁以後に於ける最大記録の惨禍であつただけ、西陣機業にとっても良からう筈はあり得なかつた。しかしその鉄砲焼けが庶政一新の烽火として、軈て輝かしい明治新政府は樹立され、元年二月には建礼門前有栖川宮御殿の御址に京都裁判所が設けられ、四月には府と改稱して、初代の府知事長谷信篤氏が任に就いた。市民は抃舞した。西陣また脈々たる復興の意気に燃えたのは當然である。

然るに揣(はか)らざりき、半歳後の九月には車駕の東幸を拝するの一大衝動に直面したのである。

そもそも京都市民が既往千有餘年に亘り、その胸底を去来した唯一の矜持は禁裡の在します帝都の市民たることであつた。その矜持を一朝にして失ふと共に、更に明治維新の政治的、社會的一大變革に含面したことは、應仁の乱、元治の乱以上の耐へ難い痛苦であり打撃であつた。京都に於けるあらゆる産業は、この明治維新に随伴した大變革によつて、まさに徹底的に打ちのめされたのであるが、就中、その最も痛烈を極めたのは、実に西陣であつたのである。せめてもの希ひとて皇太后宮の東啓御見合せを哀祈するの聲高く、西陣の男女織工數百名は、 連日大宮御所の周囲を千度したといふのもまた無理からすとされたのであつた。

御東遷遊ばされたとはいへ、尙昔ながらの制度が存置されたならば、御後を慕ひまつつて御用を拜することも出来たであらう。しかしながら朝廷の儀式式典、貴神の服制、一般庶民の服飾、すべて古事は更改せられ、舊物は打破せられ、好むと好まざるとに拘らず、最早流離の一逢あるのみの深淵に臨んだのであつた。

救世主は、しかるに新政府に現はれた。時の知事長谷信篤氏は西陣のこの窮状にいたく同情して、これが保護に少なからざる努力を致した。まづ明治二年の春、機業家中より小前引立掛三名を選出して、貧窮織工の保護救濟の任に當らしめ、次で明治大帝が京都に對せられた無疆(むきょう)の恩龍による、御下賜金十五萬圓を基本とした勧業資金中より、金三萬圓を西陣に貸與して、 同年十一月西陣物產會社を創立し、全機業者をして

模樣社、金欄社、博多社、繻子社、夏衣社、新古帶社、綸子社、縮緬社、紗織社、羽二重社、古帯社、練絹社、精好社、繪絹社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社

の十八社に分屬せしめ、これら各社より選出した七十二名を肝入とし、これを京都通商司より任命した、頭取、取締の補助員に任じて、大に業務を督励し、只管西陣機業の甦生、就中取引の改善につき力を致したのであつた。一、三、六、八の日に市場を開き、仲買はもとより諸國商人及素人に至るまで、すべて入札を以て販賣することとし、翌年には東京、大阪に支社を設け、各肝入達は一切無報酬を以て犠牲的奉仕を吝ます、更に一面長谷知事は西陣機業の發展が當然機械力に俟たざるべからざることを熱心に唱導して、明治五年十一月、佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七諸氏を佛国のリヨンに留學せしめ、滞佛八ヶ月、新に新織法及新織機を齎らして明治六年十二月佐倉、井上両氏は故郷西陣に錦を飾り、後年紋織物に画期的大發展を齎らしたジャカード機を初め十種の機械を輸入した。朝延期を請願して更に研究を重ねた吉田忠七氏は、七年三月二十日、眼前に故国を眺めながら、その乗船の遭難に殉じて空しく伊豆沖に歿したが、一方には明治六年墺国維府(ウィーン)の万國博覧会に出張する、時の政府大官佐野常民氏に隨行して、伊達彌助、早川忠七兩氏等が渡欧し、これまたジャカード其他各種の織機を齎らし、西陣機業として技術的には置に萬丈の氣を吐くに至らしめたのであるが、惜しむべし依然として多くの機業者は舊弊に囚はれて、西陣物産会社育成の念に欠け、且つ局に當るものも経験足らす、明治十年西南役の世相不安によつて、西陣物產會社は遂に全く行詰まりを来したのは是非もない成行であつた。

二代の知事槇村正直氏は大にこれを憂慮し、西陣物産会社を廢止すると共に、十年六月更て西陣織物會社なる機構に改組して、製品検査と証紙貼用の兩制度を断行し、且つ曩(さき)の十八社を改革して

紋織社、生紋織社、羽二重社、繻子社、縮緬社、博多社、天鵞絨社、木綿社

の八社とし、各社の自治的取締を行はしめ、粗製濫造の防止に鞭撻大に努めたに拘らず、業者の多数は尚未だこれが運用に関して自覚するところ少なく、これまた龍頭蛇尾に終るの余儀なきに陷入った。実に如何なる發展策、振興策を講ずるとも、業者自体が精神的、道徳的な地盤に立つて鞏固なる一致團結を缺く限り、何等の實効を挙け得ないことを雄弁に物語つたもので、當時の西陣に於ては他の如何なる改革にも先立つて、遺憾ながらその團結を官に於て強要するの最も緊切なることが、既に心ある業者によつて、明治十四五年代より大に強調さるるに至つたのであつた。

茲に於て府當局も亦見るところあり、明治十六年末には、京都府達によつて織物工業組合法が公布せられ、十八年四月には組合準則の布達あり、更めてこれに準據せる西陣織物組合が組織せられ、粗製濫造の宿弊矯正には特に力を致し

「製織物品は物産の名誉を毀損せざることに注意し、売価の如き濫りに低価を競ふ等、賣買上不当のことを為すべからず」

と、西陣本来の使命と長所とを強調して、証紙の貼用と製造者の捺印を強制し、優秀品には褒賞を授け、褒賞受領者には、これを模寫して他の製品にも貼附するの特権をも得せしむると共に、一面市場設置による取引の改善を強化し、明治十八年十二月四日を初日として、爾後二、 四、七、九の毎月十二回開市し、一定の買次人を經、諸国の商人及一般需要者に販売するの方法を採り、販賣能率の増進に資したのであるが、しかも尚市場に収容洩れとなった買次人の不滿や、一方機業者に於ても証紙の貼用、販賣高に応じて納入する歩銭等の煩を厭ふ違反者績出して、茲に三度び西陣人の團結は葬むられ、違反者に対し厳重なる刑罰を以て臨まざる統制は、 結局ひとり西陣のみならす、本邦商工業者には適合せざることを思はしめるものがあつた。

ただしかしこの頃よりして、初めて従来の如く唯々として問屋仲買の指令に甘んするを訳しとせず、自ら進んで時流を調査し、自家の識見を以てこれに適格する織物を製作せんとするもの漸次多きを加へ、これを轉機として、逐次問屋仲買隷属の相から脱却し、獨步の職分に活きるの風を馴致したことは、最大の收獲とせられるところであつた。

斯く西陣機業が稍本格に向つて一歩を踏み出した際、たまたま明治二十五年七月、府令を以て同業組合取締規則の布達を見たので、西陣は同年十月、新にこれに基いて、機業家のみならず、 紋様業者、整理業者をも加へた九部を以て西陣織物製造業組合を組織し、地域も亦市内一間を更に擴大して、愛宕、葛野、久世、紀伊の四郡をも包含し、組合取締所を五辻通大宮西入に設けて事務を處理し、総括者頭取のもとに九名の取締役を置き、更に各部に部長、副部長及幹事の職制を設け、組合會の定員を四十名として、協力よく内容の改善更新に努めたので、組合の基礎は漸く鞏固となり、更に撚絲業及撚絲下繰業をも加へ、機構の強化擴大に伴ひ、事務所の如きも智恵光院今出川上ル、元誓願寺黒門東入ルと神々したが、機業家に場する賃業者及職工をも組合員に準じて附屬せしめ、迄に明治初年以来始めて見る大規模なる團體を結成し、輸入にかかる機械器具の運用も全く一般に了得されて、粗製濫造の積弊漸くその跡を絶たんとするの氣運を醸成するに至った。

たまたま明治二十八年は、京都にとつて維新以來未會有の殷盛に際会した年であつた。平安遷都一千百年記念として桓武天皇を奉祀する平安神宮鎮座の盛典を舉行せられ、これを機として政府は四十五萬圓の巨費を投じ、東京以外最初の第四回内国勧業博覽會を京都に開催したるのみならず、他方日清戦役の捷報織るが如く、翌二十九年には、戦捷の結果康平銀二億両を獲得して償金インフレを招來し、全國的に市況大に活発を呈したので、西陣また多年に亘る沈滞から脱却し、従来為政者が幾度か吹いた團結の笛にも踊らなかつた西陣機業者も、茲に漸く確固たる信念を把持し、同時に統制の利をも了解するに至り、斯くて明治三十年四月發布された重要輸出品同業組合法にも、全西陣はよく小異を捨てて大同に就き、よりよき統制と向上とのために、同業総親和に一歩を進めることが出来たのであつた。

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