loader image

西陣織物館記(明治元年~二年)

明治元年より同三十年迄の西陣織屋団体の隆替と其の事務所(会館)の変遷

第一編

第一章 明治元年西陣織屋仲ヶ間と仲買商仲ヶ間との議定一札

第一節 議定取交わし由来

此の議定とは、申合せ書であるが、西陣織屋と仲買商が、組合を仲ヶ間と云つた時代、団体交渉により申合せた、最後の文書である。

徳川幕府が、大政を奉還して、王政に復古し、帝都が江戸に遷つたので、京都の街も、やがて古都奈良のようになりはせんかと心配した。別して西陣織屋と下京の仲買問屋は、失望落胆と共に、此上は商工業者互に結束して助け合い、難局を突破すべきであると、両仲ヶ間の肝煎、取締役が、各々思案の末、取替え一札とはなつたのであろうが。明治大革新の嵐の際、付焼刃の気休めでは物に成らず、早くも翌明治二年には、次章の西陣物産会社の設立により、此議定書二巻は、屑紙同様となつて、文献としても、史実としても価値なきものとせられ、何人の目にも留めて貰えなかった。

此議定書二巻は、西陣織物館の筐底に、うずもれて居た。署名者中には、其後裔が現存して、同業を続営し発展している店もある。

茲に全文を掲げて本記の起筆とする。

第二節議定書

一、西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札

議定為取替一札之事

西陣高機織物之儀、京都第一之産物ニテ往古ヨリ諸国江普通二付而へ其御仲買方江売渡来候儀ニ付互二水魚之交リヲ結ヒ相続仕来候処今般御大政御一新二付総而旧弊御廃止二相成商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成壱番組織屋仲ヶ間並壱番組仲買ヨリ御鑑札被下置難有依之商法速二相立候放新二双方立合実意ヲ以熟談致候而確定之上自今壱番屋方二而織出シ侯品へ従来共御仲ヶ間中二限り売渡シ来候儀二付猶又相改メ壱番組諸織物限リ以来決而他売致間軸候仍而不相変其御仲ヶ間江売渡侯間已後不実成取引等無之樣西陣壱番組織屋小前之者二至迄引立方相続二相成候而土地衰微二不相成樣実直之取引致永世商法相建テ双方申合役中之者調印確定之上へ無異変為取替一札依而如件

明治元辰年十二月

壱番織屋
高機八組

肝煎

鱗形屋治兵衛 
伏見屋新助

取締役 

永組 檜皮屋利兵衛
亀組 緞子屋治郎兵衛
梅組 近江屋久兵衛
松組 伏見屋織兵衛
紗組 紗屋利右衛門
本地組 房屋喜兵衛
鶴組 錦屋平兵衛
竹組 堺屋九郎兵衛

壱 番

西陣織物仲買
御肝煎中
御組御一同衆中

  • ※高機八組とは江戸時代の仲ヶ間組織のことで、西陣の営業権を独占した。なお当時は御寮織物司と呼ばれる織物業者がおり、織物業者としては、この御寮織物司の方が格が高く、大名や皇室等の注文を受けた。御寮織物司としては井関家や三上家などが知られている。

二、西陣織物仲買より高機八組へ議定一札

議定為取替一札之事

当仲買之儀者往古ヨリ西陣高機織物限り買請来リ侯儀ニ付互ニ水魚之交リヲ結ビ相続仕来候処今般御大政御一新二付商法御会所御取建仲ヶ間江夫々御鑑札御下ケニ相成候処西陣壱番組二而顧立候諸織物当仲ヶ間江買請 侯儀二付旧弊相除キ商法之大意ヲ旨トシ自然織物不捌ヶ之節者実意ヲ以談事方致双方納得之上買請不実之取引 等決而不仕尚小前之衆中二至迄相続専一二仕決而不当之直組等致間敷候依テ不相変壱番組織屋仲ヶ間ヨリ被織立候品々手広二買請実直二取引仕土地衰徵不相成機今般双方確定之上永世之商法相立候上者後世二至り侯而モ異変無之樣相互二役中之者連印為取替一札依而如件

明治元戊辰年十二月

壱番

西陣織物仲買

肝 煎

誉田屋庄兵衛
千切屋治兵衛

取締役

雁金屋半兵衛
誉田屋正五郎
井筒屋半兵衛
鍵屋源兵衛
藤屋長兵衛
菱屋治郎右衛門
雁金屋吉兵衛
菱屋治三郎

一番織屋
高機八組
御肝煎中
御取締中
御組一同衆中

第三節 商法会所と京都財閥三家の勢力

京都府商法会所、後の勧業方前節議定書に、「商法御会所御取建仲ヶ間江夫々鑑札御下げに相成」と謂つて感謝している。此会所とは京都府の一分課であつて、明治二年四月七日、之れを廃して、勧業方と称する課を設 けた。

右会所は、明治元年四月二十五日京都知府事長谷信篤が任命せられ(京都府知事と改称したのは明治二年七月十七日)謂わば応急措置に設けたものであつて、存続期間は、永くても十ヵ月には満たなかったらしく、従って著しい仕事も出来そうなこともなく、史録にも残されるような事績も見当らない。故に夫々に鑑札を下附すると 云つても、京都市の商工業者全員個人別に下附したとすれば、当時の役所仕事の状態からして、一年や其所等では到底渡し切れるものではなく、恐らくは旧仲ヵ間の、名前帖により、旧慣に従い、夫々の仲間即ち組合に、 取扱わしめたものと思われる。

此鑑札の下附は、即ち営業の許可制であつて、若し其取扱いが事実上仲ヶ間に委任されたのであれば、新規業者に対する牽制策となり、旧業者の既得権を保護したものであるから、旧来の商工業者は感謝して当然である。然し、之れを単に封建的保守反動的行り方であると、見てしまう事も当らないのであつて、当時は諸政御一新の革命思想が澎湃として、四民平等から、営業の自由を唱え、就中、職工、徒弟制度の、人権を無視した、旧来の仲ヶ間団体破壊の論議が、盛になつて来たから、自然大棚の旦那は、商買に嫌気が生じ、生産及取引の熱意が無くなった。是れでは京都市の経済界は崩壊し、衰微することは、火を見る如く明かである。此際之等の人々を 其緒に安んぜしめ、革新政治を、平穏に進行せしめようと、計つた策であると謂うても、そう間違っては居ない と思う。

此意味に於て、御会所の設置は、短期間ではあつたにしても、其効果は大きく、京都府知事に建言した、其道の有力者があつたからと思われる。

三井、小野、島田三家の勢力

当時京都の大財閥は、三井八郎右衛門、小野善助、島田八郎右衛門の三家であ つた。其他に富豪はあつても、此三家とは、比較にならぬ少資力であつたし、京都府知事も、此三家には厚く礼を尽した。王政復古と称した、政争の禁裏諸費用は、此三家から貢がれ、影の大きな功績者であるとも云われ、 宮庭内裏の勢力は、薩長土藩閥も及ばなかつたとの、語り草もある。三井家は説明の要はなかろう。小野家は、烏丸通押小路から二条通間の大邸宅を構え、皇室に親近して、金融用達を勤めた。遷都と共に東京へ移住し、明治六年には小野組一門挙げて、東京府移籍届を、京都府に提出した。槇村京都府大参事は、此様な大金持が、次々と東京へ移つては、京都は益々寂れるのみであると、其届書を握った儘で、京都裁判所へ送付せないので、裁判所は司法省へ其旨を報告し、槇村大参事は、其為に拘置せられた程の、有名な事件がある。小野組の勢力の一端を物語るものであろう。又島田家は金融業と呉服商を兼営して、京都市の経済界を左右する力を持つたから、 此三家を差し置いては、荒廃せんとする、当時の京都の産業を立直すことは不可能である。故に此人々が、長谷知事の枢機に参劃して、漸進方策を以て行つたと想像する。

  • ※1 この三井は現在の三井財閥につながる。小野・島田家は、ともに明治年間に破産。

前記物業方設置の翌年正月、東洞院通六角下ル東側に開設した、物産引立会所御用掛は、此三家と下村正太郎 が任命せられ、所謂京都府市の殖産興築に貢献したものであることからも窺えるものである。

第四節 仲買仲ヵ間より高機八組宛一札

右勧業方が設置せられた時、仲買商より西庫高機八組宛の一札を次に記す。

一、先般本文之通為取置侯多商法御会所御廃止相成今般京都政府於勧業方御取被遊都而諸仲ヶ聞是迄之通御建置相成則名前帳面右勧業方へ奉差上置侯付本文為取之条目双方相互二堅相守第一土地之資發 不相成檬実直取引致小前,者引立方之御趣意相守永続相成樣心掛聊異変有之開敷設仍而尚又連印為取容置

一礼如件

明治二已年六月

壱番

西陣織物仲買

肝煎
誉田屋庄兵衛
千切屋治兵衛

同取締役惣代
菱屋治郎右衛門
鍵屋源兵衛

一番織屋高機八組
御肝煎中
御取締中

右一札に対する、高機八組からの取替書は保存せられていないから、織屋仲ガ間から返書を発送したか否かは判然せない。畏らくは発送して居ないのが真実と思われるのは、此時には既に織屋側には、次章の会社設立に関 し、京都府の指示を受けて居たので、空文に等しい取替書の一札なぞ出すに及ばなかった状態にあつた。

第二章 西陣物産会社

第一節西陣物産会社創設事情

京都府知事よりの申渡

明治二年十一月、京都府知事三位長谷信篤は、西陣織物産業の窮境を救い、之を保護奨励の為に、織物業者の新団体を結成せしめ、製品の取引制度を改革せしめる目的で、其有力者を招致して、西陣物産会社を設立せしめた。

此史実に付ては、明治四十二年十二月十四日、西陣繻子織新織法案出等の功績により、藍綬褒章を下授せられた橋本伝蔵が、八十一後の高齢の時の談中に、

明治二年十月京都府より自分等御差紙有之侯ニヨリ府庁へ出頭シタルニ知事申渡へ西陣ノ織物大ニナラシムペシ其方法トシテへ織物ノ取引所設クペシ云々ト御熱心奨励被下

とある。当時京都府庁は下立売通新町西入目守護職邱、即ち現府庁の地※2にあつて、出頭したのは其所であ る。右に付ては、もつと考察して見る必要があると 思う。

  • ※2 京都府庁は旧京都守護職屋敷を活用して設置されたことが知られているが、明治4年から明治18年までの府庁は二条城に置かれた。現在の本庁舎(旧本館)の竣工は明治37年。

勤王討幕内乱による西陣の打撃文久、元治、慶応、から明治二年迄、凡十年に渉る歳月は、勤王攘夷佐幕開国の政争に全国が沸騰して、皇居京都は、権謀術数、剣撃闘争の日々が繰返えされた。殊に元治元年七月十九日から、同月二十日夜に至る迄、燃え続けた所謂甲子禁門の戦による兵燹(へいせん)は、河原町通三条上ル東側、長州藩下屋敷から火を発して、市内八百十一町、戸数二万七千五百十三戸が焼亡したと伝えられている。

次で明治元年(慶応四年) 正月五日「菊は咲く咲く葵は枯れる」の俗語で名高い、伏見鳥羽の合戦から、同年 四月十一日江戸城の明渡しとなり、錦旗東征、函館五稜郭の一戦を最終として、戊辰の役と称せられた、朝幕の葛藤は一応終息し、王政復古とはなつた。

此永年に造る国内の擾乱が、西陣織物の消化力に甚大な打撃を与えたことは古から戦争の度毎に受ける、平和産業西陣織物の宿命に例外はなかった。況(ま)して、明治二年三月二十八日、明治天皇が、東京へ都を遷された時には、徳川幕政三百年、商工業の繁盛を江戸に奪われた悔しさも、今度こそ吾世の春となつて、見返す時節到来と、喜びの期待が大きかつただけに、京都市民の落胆は見るも憐れであつたと云う。中でも西陣織物業者の前途は真闇で、忘然自失の有様となったのは尤もである。

京都御政府へ西陣織屋匡救歎願

抑も、徳川が天下の覇権を握った慶長此方、泰平の時世が続いたと謂っても、西陣屋街は幾度も、全滅に近い大火に通い、飢饉による災厄に襲われ、商買上では他産地の侵攻あり、糸屋の思惑買〆による暴騰あり、その度毎に、公方様、所司代御奉行様に願上奉つて、お助けを乞うたり、他産地を抑付けて貰ったりした。即ち極端なる特権階級の保護政策による、温床に安住して来たのであつた。

明治の大改革により、諸政卿一新と云つても、未だチョン幅は其の儘であり。侍は二本帯刀して居た時代故、西陣織屋も昔からの習性は抜け切れなく、京都御政府様にお授けを乞うたし、又此際そうするより他はなかつたの でもあつた。第一行く先々の事は何とあろうと、今日の織屋が立行かなくなって来たので、先般明治政府から、 京都府へ、勧業資金として貸下げた、金十五万円から、此危機を脱する為の資金を、御貸下げ賜わるよう、織屋仲ガ間肝煎から願出たものと、謂っても間違いあるまいと思う。

此時京都府には、長谷知事を補佐する為、槇村大参事が任命せられ、満々たる野心を抱いて、革新政策を断行せんと意気込んでいる際であり、京都市重要産業の興隆の為、資金を貸付けると共に、封建時代の遺物、仲ヶ間制度を廃止せしめ、新産業組織による団体を結成し、其れを基盤として、西陣産業を育成しようと計画し、同時に此全西陣統合体に貸付金に対する責任を持たしめることにしたのである。

Visited 14 times, 1 visit(s) today

[nishijin_nav]

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です