江戸時代から昭和前期にかけて、京都の製造業の中心は西陣を中心とする染織工業でした。枢軸たるにはそれに応じた需要と供給が必要です。作ったものはどこかで売りさばかなくてはいけません。
京都において、西陣で生産した繊維製品は、室町商人と呼ばれる商人集団により流通に乗り、全国に販売されてきました。今回は、京都の商業を長年にわたり支えてきた室町商人の足跡を見ます。
室町商人のおこりと祇園祭

平安時代のはじめ、商業の中心は西市・東市と呼ばれる官営の卸売市場でした。律令制が崩れ、平安京が衰微するにつれて、両市場に代わって三条町・四条町・七条町が、次いで町尻通・室町通が商業の中心となります。この町尻通・室町通が、現在の新町通・室町通です。
室町時代に入り律令制が解体されても、京都には依然として荘園領主が住み、全国に末寺を持つ自社の本山が置かれました。貢租により全国から流れこむ富と、律令制時代から受け継がれてきた高度な技術、公貴族をはじめとする荘園領主たちの高級な需要がそろった京都では、前代に引き続き、全国の商品流通の中心地になりました。
鎌倉時代より、独立専門の手工業者および商人は、朝廷・貴族・社寺を本所と仰ぎ、その特許を得て、「座」を結び、その保護下に営業を行いました。とくに経済力にすぐれた祇園社に属する諸座が、主に三条・四条周辺にかたまっていたので、当時の繁華街の中核は、それらと室町の交差点にあたる室町三条・室町四条等でした。
この時代の室町の富を示すものの第一が、現在も毎年盛夏に行われている「祇園祭」です。現在の山鉾は全部で34基ですが、応仁の乱前までは48基あり、それぞれの街が山鉾を出していました。その範囲も、現在は蛸薬師通~松原通、油小路通~東洞院通ですが、当時は万里小路(現柳馬場通)~大宮小路(現大宮通)、二条通~五条通(現松原通)に広がっていました。

なお、大宮小路は堀川通よりもっと西
今でも山鉾所在地は室町通・新町通に集中しています。この分布からも、往時の室町商人の繁栄の影をうかがい知ることができます。
室町の荒廃と繁栄

京都の過半を灰燼に帰した「応仁の乱」では、経済交通の関門が軍事上の要衝となって封鎖され、一般の経済活動に支障を来したのみならず、町域も大きな損害を被りました。市中での自由な売買は一向に叶わず、祇園祭も当然中断し、室町の繁栄は終わりかと思われました。
しかし応仁の乱によって自衛の大切さを学んだ町人諸兄は、共同して町組を作り、その町組はさらに連合して惣町を作りました。そして応仁の乱後における京都の町は既に鎌倉時代より大まかに分かれていた上京・下京の二つに分かれて結集し、上京惣・下京惣の大きな自治組織を作りました。
応仁の乱後、約30年の歳月をかけて、祇園祭の山鉾が復興したのは、新町・室町を中心とする山鉾町の復興の速さを物語っています。一方でこの時に復興した範囲は、現在と同じく、三条以北・東洞院以東・油小路以西は廃されています。新町・室町に富が集中していたのは、この範囲からも窺い知れるでしょう。
近世になって、幕府が江戸に去り、政治の中心は京都から江戸に移りました。この時代になると、町人の繁栄はより明らかになっていきます。江戸時代の京都の文化について、足立政男立命館大元教授はこのように述べています。
近世になって、幕府が江戸に去った後の京都は(中略)京都を代表するものは、武士でもなく、公家でもなく、また僧侶でもなく、それは町人であった。その町人を中心とする京都の文化は接木の文化であり、伝統の文化であるといわれているように、一千年にわたる伝統に培われた公家文化の影響を受けて、雅やかな貴族的風格をそなえた町人文化であった。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)
京都を代表する文化の担い手が町人であったのは、町人のもつ圧倒的な経済力を背景にするところが大きいといえます。政治の中心から離れて財政基盤が脆弱になった公家も、幕府の政策によって富が抑えられている武家も、京都の文化の担い手として主導権を握れませんでした。

町人のこの地位は、扱った商品の質とブランド力も要因でした。この時代から、「京都は日本における諸技芸・製造・貿易の本場であって、京都の製品は全国に著名にして、京都にて作れりしと云へば、人はさあらぬものよりは優越なりと認るなり」と言われるようになり(ケンプエル)、織物・染物・刺繍・陶磁器等の工芸都市として、あるいは学問・宗教・芸術等の都として、日本における総本山的な地位を占めるようになりました。
そしてこの商人たちを代表するのが、京呉服織物問屋商人であり、その同業者が集まって同業者街を形成していた室町通でした。室町通が最も富裕であった時代こそが、次に紹介する元禄時代です。
元禄の室町

17世紀の後半になって、今でも西陣では全盛期として語り継がれる元禄の時代(1688~1703)、華麗絢爛を競う時代背景を反映して、京都は伝統工芸の黄金時代を迎えました。特に染織工業においては、幕府・諸大名・各寺院が大いにこれを賞美し、それぞれ京都の呉服師を召し抱え、西陣と京染でなければ着用しないほどになりました。
それに応じて町人の潜在的勢力もまた増大し、士農工商として身分的制約を受けていた町人は、その勢力を表現するためにまた京呉服を珍重して、西陣・室町を中心とする京都の染織工業界は、未曽有の活気を呈しました。
この結果、「かつての京都のように、政治・経済・文化を集中し、独占した首都ではなくなったが、服飾・器物はみな優美、染織業の名声と信用は日本第一となり、染織呉服における京都の地位は牢固として抜くべからざるものとなった」のです。(足立政男「室町の歴史と室町商人」)

こうして致富商人となった室町商人は、次第に呉服だけでなく金融業も営むようになりました。そうした室町商人の最も代表的な人々が、千治・千總・千吉を始めとする千切屋一門であり、松坂より京都に上り、現在も財閥として名をはせる三井組、三井とともに幕末に京都の三大金融機関の役割を果たした島田組、小野組などです。
さて、染織産業の全盛期であった元禄時代を越え、室町は再び受難の時代を迎えるのです。
(つづく)
(なお、本稿は京都織物卸商業組合編、足立政男著「室町の歴史と室町商人」を参考にした)



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