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西陣織物館前史─西陣組合の黎明

西陣織物1000年の歴史といえど、現在の組合組織ができたのはそう昔のことではありません。

現在、西陣を代表する業界団体は西陣織工業組合(1973~)ですが、西陣では明治以降、業界団体がいくつか現れ、そして消えていきました。

明治維新により、日本社会は前代未聞の変化を見ることとなった

明治維新と西陣、室町

江戸時代の西陣では、朝廷や幕府、諸大名といった大口の注文を請ける「御寮織物司」を頂点として、高級な紋織物を織りだす「高機八組」があり、そのほか「西機」と呼ばれる大衆織物部があるなど、ヒエラルキーが形成されていました。

しかるに明治時代に入ると、四民平等や営業の自由の論議が盛んとなり、近世日本で支配的だった徒弟制度や人権無視の仲ヶ間団体は、急速に破壊に向かいました。徒弟制度によって生産体制を維持してきた西陣の大店も大きな打撃を受け、さらに東京奠都と明治維新、政府の欧化政策で、公家や有力諸侯の需要が消失し、西陣は大きな打撃を受けました。

※.有職織物など。明治政府はフォーマル着を洋装と指定した

江戸時代の組合組織ともいえる「仲ヶ間」の制度は、営業の自由を制限し、新規参入のハードルとなるものでした。いくら明治維新といえど、旧商人がすべて営業をやめてしまっては京都の経済は立ち行かなくなるでしょう。
そこで京都府は「鑑札」なる営業の許可証を制定・公布することで、旧商人に寄り添う姿勢を見せることにしました。そのときの文献が残っています。

今般御大政御一新に付き、総て旧弊御廃止に相成り、商法御会所御取建仲ヶ間へ夫々御鑑札御下けに相成る。壱番組織屋仲ヶ間並びに壱番組仲買より御鑑札を下し置かれたのはありがたきにより、この商法速かに相立候故、新たに双方立合実意を以て熱談致し候。而して確定の上、今より壱番屋方に而織出し候品は、従来共御仲ヶ間中に限り売渡し来たる候儀に付き、猶又相改め、壱番組諸織物限り以来決して他に売致さまじく候。仍ち而不相変其御仲ヶ間へ売渡侯間、已後不実成取引等無之樣、西陣壱番組織屋小前之者に至る迄引き立て…(西陣高機八組より、西陣織物仲買へ議定一札 明治元年)

これまでの商慣行を続行できると喜びの声を上げていることが読み取れます。同様の議定書が仲買側にも残っています。生産者と流通業者が手を取り合ってこの難局を打破しようとの空気が伝わってきます。

東京奠都による京都荒廃に対する危機感は、行政も共有していました。これが、後述する西陣物産会社の設立に繋がります。

西陣物産会社の設立

明治二年、京都府知事の長谷信篤は、西陣織物産業を保護奨励するため、有力者を招致して、織物業者の新団体を結成させました。当時、京都府の大参事に就任した槇村正直は、維新政府の中心人物である木戸孝允を動かして、産業基立金10万両を天皇の御下付金として受け取り、京都の産業育成につぎ込もうとしていました。

この一部を西陣に振り分けるにあたり、封建時代の遺物である仲ヶ間制度を廃止し、新産業組織による団体を結成し、それを基盤として、西陣産業の育成と全西陣統合体に貸付金の責任を持たせようとしたのです。

槇村正直の掛け軸。「業は勤(はげむ)により精(くわし)く嬉(たのしむ)により荒む」

「西陣織物館記」の編者前田達三は、京都府が西陣物産会社設立を命じたことについて、旧来の西陣織屋仲ヶ間の構成員は、明治維新により平等になったため、この際西陣織屋のヒエラルキーも解消し、全く新しい出発点に立脚した組合組織を結成しなければならないと考えたからであろう、と分析しています。

古来より品種が多様な西陣織物は、各専門によって織屋の利害関係も変わります。そこで専門別に18の社に分け、西陣物産会社は各社を統括する役目を負いました。各社にはそれぞれ自主性を持たせましたが、実質的には西陣物産会社の下働きが主であったようです。現在は廃止されましたが、最近まで西陣の組合にあった部会制と近い制度と思われます。

※.模様社、金欄社、紗織社、博多社、繻子社、夏衣社、真古帯社、綸子社、縮緬社、羽二重社、古帯社、綟子社、木綿社、天鵞絨社、真田社、精好社、絵絹社、練絹社の18社。数年後に精好社、絵絹社、練絹社は合併して三品社に、天鵞絨社から絹天社が独立して17社となった。

西陣物産会社の役員は、18各社から選挙で3名、肝煎として選ばれた人の中から、京都府が適当と思うものを任命しました。なお、各社から選挙で選ばれた18×3=72名は公任役人の資格となり、会社役員は世話役、その主任者は世話役惣代と呼ばれました。世話役惣代も京都府が任命しました。

京都府が西陣物産会社へ3万両貸付

さて、明治維新による政情不安、生活の欧化による需要の大幅な変化、かつてのお得意様であった各藩の指導層、朝廷の公卿といった上流階級が、その存続基盤をそろって脅かされたことにより、高級織物産地である西陣は需要先を失い、深刻な経済不安に陥りました。

当時の西陣織屋は資力に乏しいものが多く、製品の滞留はそのまま倒産につながる状況です。売れ残りを安売りする者も出て、結果的に相場が崩れることにもなりました。

この状況を見た京都府は、西陣に3万両を貸し付け、機業振興に使わせるようにしました。問屋による買いたたきを問題視していた物産会社は、取引改善を目的として、この3万両で織屋の滞留品を買い取り、代わりに適正価格で販売することとしました。

仲買商が取引で重要な役割を果たしている時代にもかかわらず、組合が仲買商の真似事をしたことで、仲買商がそろって不買運動を行う結果になりました。結局、商人でない織屋が売りさばかなくてはいけなくなり、結局ほとんど売れ残って3万両の借金が西陣にできました。

京都府からの借入金を西陣に流したことにより、西陣の織屋資力に余裕ができた側面もあるでしょう。ただし、幕末の貨幣価値から言って(だいたい1両=3000円くらいと言われています)、3万両のお金は広い西陣には少なすぎ、特に大きな効果を挙げられたとは思えません。

また、京都府からの度重なる督促に、物産会社は仕方なく機別出銭を行い、西陣全体からお金を集めることになり、返済の目途を付けましたが、西陣の組合員からは不満をためることとなりました。

※.各社の機台数によってお金を集める仕組み。誤解を恐れずに言えば、固定資産税や法人税に近い

西陣のジャカード導入と博覧会

西陣物産会社にはもちろん大きな功績もありました。最も大きなものはジャカードの導入で、次に漸次回復してきた西陣の生産能力を、博覧会への協力により世間にアピールしたことです。いくつか挙げましょう。

第1回京都博覧会の写真。西本願寺

・第1回京都博覧会
明治5年、長谷京都府知事や槇村大参事を中心に、京都の官民を挙げて大々的に行った博覧会。会場は西本願寺、建仁寺、知恩院。京都古来の物産をはじめ、全国各地の名産、骨董品等2,485点を出品。明治天皇のご臨幸もあり、皇室の御買上品は西陣織物と陶器のみでした。この事実は西陣の自信となり、気風も一新されたようです。一方でこのとき、西陣機業の後進性に気づかされ、欧式の織機具であるジャカード導入のきっかけとなったことに注意が必要です。

・オーストリア万国博覧会
ウィーンでの万国博覧会に参加。日本の国威を諸外国に見せつけるために明治政府が行った事業で、日本の美術工芸物産を陳列。西陣から派遣された4世伊達弥助・早川忠七は、日本からの他の随行員同様、欧州各国を視察研究し、織機そのほか1200余点の機械器具を購入しました。

・第2回以降の京都博覧会
明治6年からも、西陣物産会社は京都博覧会に協力。第3回は当時フランスから持ち帰ったジャカード織機を運転公開し、第4回以降も物産会社が製織実演を行いました。第5回は三上復一、中西昌作、喜多川平八らが品評方(審査員)に推挙されました。西陣織物の褒章受領も抜群で、西陣機業の発展が認められた博覧会です。

・京都府洋式機械工場(織殿)への協力
京都府の事業により、欧州の先進的技術を会得した西陣は、京都府の設置した織物伝習所に協力することになりました。伝習所に派遣する物産会社の世話役等の経費は物産会社持ちであったため、京都府に嘆願書を出して、この経費は前述の借金を相殺することで賄うこととしました。

このように功績もあげた西陣物産会社ですが、次第に存在意義は薄れていきます。

西陣物産会社の自然消滅

以上見てきたように、明治維新の動乱で大打撃を受けた西陣は、物産会社の設立や3万両の貸付、ジャカード導入など、京都府の資金面・制度面での援助により、無事に立ち直りを見せました。

しかしながら西陣物産会社は、もともと一致団結して不景気を乗り切る目的で設立されたものだったので、織屋各社がそれぞれ単独で行動できる以上、だんだんと有名無実化していきます。

明治8年ごろになって、庶民の服装が自由となり、さらに女性の活動範囲が広がったことで西陣織物の需要も活発化し、織屋各社の活動が旺盛になってきました。それに伴って西陣物産会社の役割も小さくなっていき、組合員各社は時々名前を利用するのみとなります。

とはいえ業界団体たる組合は、西陣機業家全体を対象にするとき必要になります。行政からの命令もそうです。次に組合組織が新たに設立されるのも、京都府令が下った時でした。

(つづく)

以上、前田達三編「西陣織物館記」北村哲郎「技術と製品の歴史」ほかを参考にした。

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