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で、西陣織のなにがすごいの?(2)

前回は西陣産地の原材料等についてお話しました。本記事では西陣織の魅力について、「手間がかかっている」以外の魅力を書くこととします。

なお、今週金曜~日曜(2025-2-14~16)は東京・銀座の時事通信ホールにて、「染と織の展覧会」なる西陣・友禅・丹後の合同展示販売会があります。

西陣織会館に展示されている空引機

3.機械がすごい

織機を使っている以上、どこの産地も同じものが織れるのだろうと思われるかもしれません。ある意味では間違いありませんが、西陣は紋織の産地として、糸を上げ下げする装置が他と異なります。

経糸を上げ下げする装置は綜絖と呼ばれます。西陣では、地組織を織る組織・模様を織る組織の二つで、綜絖が分かれています。このために、同じ織物の中に異なる風合いの組織が共存できるのです。

西陣の織屋さん「田中伝」の商品棚(西陣織工業組合 西陣織屋紹介「田中伝」より)

4.自由度がすごい

西陣でもっとも上等な織機は人間の手であると言われています。機械では都度設定が必要なところ、人間は臨機応変な対応が可能で、創意工夫を発揮する余地があるからです。

力織機であっても、織りながら都度織機を止めて、絵緯(柄を出すための色糸)や箔を挿入するやり方もあります。箔のような繊細な素材でなければ、機械を止めずにそのまま織ることもできます。表に何色の糸を出すかで柄が決まるからです。

しかしながら、すべて機械で織ると、柄にならない部分にも糸が使われ、必要以上に製品が重くなってしまいます。これを避けるために特殊な織り方をして、必要な部分だけ糸を通し、他の部分はカットすることもあります。これはすべて機械任せではできません。西陣織の工芸要素と言えるでしょう。

京都府の工芸のページ。染織・諸工芸・食品・その他と項目が立てられており、染織分野がいかに大きな地位を占めているかが分かります

西陣織に限らず京都の工芸というのは、概して多品種少量生産が特徴とされています。
ここまで見てきたのは素材と織法ですが、これらもより分解すれば、
・図案(どのような柄の織物を作るか)
・素材(箔か、絹か、麻か、木綿か、絹でも紬糸にするか、等々……)
・撚り方(糸を組み合わせて撚り合わせ、素材として使えるようにすること。いわゆる紡績)
・染め方
・織り方

と、いわゆる「変数」は無数にあることがわかります。この変数の多さこそが、多品種・少量生産の理由です。

これについては、江戸時代の機業家である井関政因も、著書「天狗筆記」にて、

織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき(…)たわいも無そうさなものじゃというは、糸は糸屋にまかし織は織手にまかし、紋はもん屋にまかし色は染物やにまかし、紋付る事は空引にまかし、みなそれぞれなんと無そうさなものじゃ。

予織物之道つきしより今年三十八年ヶ間、是にてよろしきと安心致さぬ訳は、元来蚕は天作なり、糸は人作なり、是絹の元也。其糸に其国の水土有、寒暖有、年々都而順気不同有(年によって同じでないものがある)。其年の寒暖依、而糸の生不生有、固く和く有、艶ありまた艶なく、是を考る染草、紅に出生の白上品下品 紫根其外何れも草類天作のものにて、今年は明年不同有、織人に織物々の得手あり不得手あり、紋に模様にさまざまの好有て、工匠も及ばぬ縫合如何。過急の御用に手廻しの次第あり、御装束類色目差別格別に有右等々事、口説述がたし。其時其品を以て勘弁尽ル事なし(天狗筆記 下巻より)

と述べています。同じものは一つとしてできない西陣織の性格は、江戸時代より変わっていません。

西陣は昔より上流階級の需要を満たし続けてきたのは、注文に合わせて、不可能でさえなければどのような織物でも実現してきたからであるといえます。「西陣に織れない織物はない」と昔から言われていたのは、この自由度の裏返しであるといえます。

高機の図。高機とは空引機のことで、明治中期まで使われたよく使われた織機。人間が上に上がり、手で経糸を上げ下げして絵模様を織り出す

5.歴史がすごい

西陣呼称500年の記事を出しましたが、京都の伝統産業の1として、西陣織は当然、歴史もすごいです。ちなみに、昭和中期より以後、伝統産業の業界でリーダーシップをとってきたのは西陣です。

詳しいことはまた追々まとめましょう。一言でいえば、西陣は日本繊維産業の大宗であり、日本のほぼ全ての紋織産地の起源に関わっているのです。

西陣の北西、丹後のホームページを見てみましょう。

丹後は1300年以上前から絹織物の産地であった歴史をもちます。
 江戸時代に京都西陣で「お召ちりめん」が誕生した後、丹後の織物は「田舎絹」と呼ばれ、売れ行きが低迷。農業の凶作と重なり、人々の生活は極めて困窮しました。その危機を乗り越えようと京都西陣に赴き、ちりめん織りの技術を持ち帰った数名の先人たちがいました。帰郷後、 独特の「シボ(生地の凹凸)」を持ったちりめんの生産に成功し、これが丹後ちりめんの始まりとなったのです。彼らはその技術を人々に惜しみなく教え、 瞬く間に丹後一円に広まりました。

西陣産地としては迷惑千万であったでしょうが(実際、この時代の西陣は技術流出に悩んでいたようです。丹後の類似事例として、西陣の紋織技術は群馬・桐生に対して流出しました)、とにかく、西陣は紋織産地として第一の歴史を誇ります。

「西陣」ブランドの創めを挙げるなら、朝廷・大蔵省付の官製織物工場、織部司が最初になるでしょう。西陣は初めから、宮廷貴族の需要を満たすために始まりました

平安時代の終わりになると経済的に立ち行かなくなり、周りの貴族お抱えの職人になった方が実入りがいいという状況になっていきました。こうして、官営であった機業地は民営となっていきます。

鎌倉幕府が成立し、貴族が政権から離れても、なお武士を顧客としました。貴族・武士・豪商などといった上流階級を相手に、よりよいものを高く受注し収める構造は、明治まで続きます。ちなみに「西陣織」の名前が付いたのは応仁の乱の後ですが、それより前は「大宮の絹」「大舎人の綾」などと呼ばれ、この時点でも一種のブランドであったことが分かっています。

かくして西陣は最高級の織物を生産する産地となっていきます。衣・食・住の「衣」を占める繊維産業であり、「京の着倒れ」と呼ばれる絢爛豪華な織物の数々。需要に応じて産地が大きくなるのは当然であり、江戸時代の長い平和の中で西陣の織屋も増えました。前出の井関政因が「織屋というものは無造作なものじゃと思えば他愛もない無造作なものなり、また難しきものと思えばいかふ難しき…」と言ったように、極めればとことん極められる分野である織物なので、生産の工程は年を経るごとにどんどん細分化し、同時に各々が技を極める土壌ができていきます。最高級品のさらに良いものを求めてきた歴史的経緯は、ある意味で長い実績の証明であるのみならず、その実績を継続する土台となっているといえるでしょう。

「布だぜ!」と言いたくなる気持ち、正直わかります。でもその布に、こだわりのお洒落を詰め込みたくないですか?「外見は内面の一番外側」といいます。身に着けるものにこだわろうと考えると、なるほど、多品種少量生産の西陣が役に立てる場面は多くなってくるでしょう。

東京・銀座・時事通信ホールで開催する「染と織の展覧会」、当日入場・前売り券入場ともに可能なので、ご予定が合えばぜひ、行ってみてはいかがでしょうか!

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